3.ロイヤルファミリー・ストーム!
説明回です。
ランヴァルト達が住まうフロード王国は、東大陸西部を約四百年に渡って支配する強国だ。
元々は小国であったが、英傑や運に恵まれ支配域を順調に拡大。曾祖父の代には非常任とは云え、【四大陸大同盟】の理事国家を任ぜられるほどの大国となった。そして今や、世界一の大富豪エルヴィーラを擁する事で財政面での不安もほぼ無くなったと云ってよい。【聖地】も認める優良国家の一つである。
その興りは、かつてこの地を荒らしていた魔物を駆逐し、人々を導いた英雄であった。その為か、個人の武勇を大切にするお国柄である。強さこそ正義、力こそパワー。そう云う脳筋な所があった。
その点で行くとランヴァルトなど、男扱いどころか貴族扱いも微妙な感じになってしまう。顔が良いだけの小心者なんて、この国では貴族男子として認められない。鼻で嗤われ、箸にも棒にもかからない、そう云う扱いだ。
血統の良さ故にあからさまな排斥にまでは行かなかったが、貴族令嬢の結婚相手として当主から「無し」判定されていた。「どうしようか?」なんて考慮もされない。最初から「こいつは駄目だ」「絶対無い」と判断されていた。
武勇もなければ金もない、明るい未来もない、ナイナイ尽くしの男なのだから当然ある。顔がいい事だけが救いか。それとも悲惨さに磨きがかかったと云うべきか。
とにもかくにも、それが現実だった。
「――そんな孫にこれほど良い縁談が来るなんて……。余、もう死んでもいいわ」
「止めて下さい父上。ランが引いてます」
おいおいと泣く国王陛下こと祖父を前に、ランヴァルトは遠い目をする。現実逃避だ。祖父を宥めてくれている王太子――伯父の言葉に全力で同意する。内心で。
(陛下がそこまで泣くような事かな……)
今ランヴァルトが居るのは、フロード王国の王城。国王所有の部屋の中でも格式高い「青林の茶室」だ。国王が個人的ながら大切な客人を招く部屋である。
ランヴァルトはいつも国王が血縁を招く「紅葉の間」に通されていたので、この部屋には初めて入った。入った時は喉がヒュゥと細くなった。
人間国宝と呼ばれるような技術者達が、丹精込めて作ったであろう家具の数々。魔導シャンデリアは特級結晶を使用している。大きな窓は当然のように透明度が高く、衝撃にも強い魔導ガラス。その向こうには王都を一望出来る絶景。
警備の関係上、複雑な道を案内されたので王城のどの辺りに「青林の茶室」があるのか明確には分からないが、相当良い場所にある事は間違いない。あらゆる意味で一級どころか特級の部屋だ。もう怖い。国王、王太子の前に座った時から、ランヴァルトは震えっぱなしだ。心の中で。
用意されていたティーセットも、淹れられた紅茶も、皿に盛られた菓子類も、エルヴィーラが用意させるものと遜色が無かった。つまり相当金をかけている。孫が来るだけなのに。気合いの入りようが以前とは全く違った。
前――エルヴィーラと婚約する前とて、国王から粗雑に扱われていた訳ではない。むしろ、力の無い、役に立たない公爵相手に、それは気を遣ってくれていた。他の公爵と同等ではなかったが、それこそ些細な差だった。こちらが申し訳なくなるくらい、国王も王太子も真っ当に接してくれていたのだ。
そこに来て、この対応。国王がランヴァルトとエルヴィーラの婚約を、どれだけ重要視しているか分かると云う物だ。「絶対にしくじるな」と云う圧を感じた。胃痛がする。
「はぁ……。すまぬな、ラン。つい取り乱してしまった」
「いえ……」
「いやはや、これでマティルダにも顔向け出来ると云う物だ。あの子の喜ぶ顔が目に浮かぶのぅ」
「はぁ……」
泣き止んだ――泣き真似だったかも知れない――国王が、絹のハンカチ片手にニッコリ笑う。その笑顔はやはり母・マティルダと似ていて、血の繋がりを感じた。
フロード王国国王オスヴァルド三世=トーレス。ランヴァルトの祖父である。
御年七十六となられるが、長命種の血が入っているのでまだ五十代くらいに見える。フロード王族に多い金の髪は豊かに艶めき、ランヴァルトにも受け継がれた瑠璃色の目は生命力に輝いていた。顔立ちは凜々しく、蓄えられた髭は威厳を醸し出し、体格も良く、フロード王国の男らしい壮健さである。
後三十年は現役だろうな、と云うのが臣下たちの考えだが、本人は家族の前でしょっちゅう「退位したい、隠居したい、楽したい」などと云って、息子である王太子から尻へ蹴りを食らっているらしい。遠慮の無い親子である。
「マティもそうだけれど、当然我々も嬉しく思っているよ、ラン。本当におめでとう」
「ありがとうございます、殿下」
トーレスの隣りで同じくニッコリと笑い祝福してくれたのは、王太子のトールヴァルド=ヨエルだ。
御年五十一のヨエルもまた、見た目は三十半ばと云った所。長い金髪を一つにくくり、王妃似の切れ長な銀の目は英知を感じさせる。背は高く体はガッシリしていて、両親とも人間なのに熊っぽく見えた。ただ浮かべる表情は柔和なものが多いので、威圧感はあまりない。
国王が飄々としている事を反面教師にしたのか、真面目で理性的、突っ込みは厳しめ。だがランヴァルト相手でも優しい、情に厚い方だ。
「ここでは王太子より伯父だよ。そんなに緊張しなくていいからね」
「……はい、伯父上」
「はいはい! 余も前みたいに「おじいちゃま♡」って呼んで良いからの!」
「………………はい、陛下」
「なにゆえ?!」
「前って何年前ですか父上。ランがよちよち歩きしていた頃の話でしょうに」
「そんなのちょっと前じゃろ!」
「……」
長命種らしい時間感覚の雑さが出ている。
とは云え、フロード王室に長命種――森の人の血が入ったのはかなり前なので、祖父は厳密には長命種ではないが。それでも普通の人より寿命は長いし、最盛期の姿でいる時間も多い。
人間、獣人、虫人、石人、花人などなど、人と名のつく種族をひっくるめて人類、または人族と呼ぶ。この世界で最も多く、一定の文明を保つ生物だ。
その人類の上には、長命種、もしくは上位種と呼ばれる生命が存在する。その中の一つが森の人で、他の長命種と違い生活形態が人類に近いので、たまに婚姻などで人に混ざってくるのだ。その血筋は【長命種血統】と呼ばれる。
先に云ったように【長命種血統】は、通常の人類より寿命や最盛期が長い。故に王侯貴族は森の人を見かけると、こぞって口説くのだ。ただ、無理矢理連れ去ったり、強引に婚姻へ及ぼうものなら、【聖地】が黙っていない。世界宗教の頂点【聖地】はみんな怖いので――本当に怖いので、森の人の意思が無視される事はない。そもそも森の人自体、魔力が高く肉体も頑丈。普通に戦えば人類を圧倒出来るので、人は下手に出るしかないのだが。
「ランもエルもベリーも、みんなあっちゅーまに大きゅうなって……。余の両手にすっぽり収まってた時期短くない? 短くない?!」
「赤ん坊から幼児期の成長は著しいですからね」
「そんな正論、余は聞きたくないの! ……それで、ラン? ランヴァルト!」
「はい、…………お祖父様」
「まぁよし! ……そなた、エルとの間に子が生まれるのはいつだ?!」
「ごっほ!」
「異世界の高名な画家がどうした?」
「父上……。子より先に結婚式と披露宴でしょう……」
「おっとそうじゃった。それで、エルが云うように半年後か? 長くない? だいぶ先じゃない? もう三ヶ月後でよくない? いっそ来週とか」
「よくないです……」
むちゃくちゃ云う祖父である。
貴族の婚姻はとにかく金と時間と手間が掛かる。式場の手配、ドレスなど衣装、宝飾品の準備、必要な人員の雇用と教育、招待状の準備などなど。式場は貴族の家格によってある程度絞れるが、他の家と被った場合はどちらが先に行うか否かで交渉の必要が出てくるし、ドレスやタキシードなどは当然オーダーメイド、既製品などあり得ない。特別な式典なので普段より人手が必要になるが、例え使用人でもある程度の血筋でなければならない為、「手を貸して欲しい」と他家へ協力を願わなくてはならない。招待状は誰に出すか、どの順番で出すか、紙の質は、焚きしめるお香の種類は、と一々面倒くさい。
正直なところ、婚約から半年で結婚は最速に入る部類だ。それもこれも、エルヴィーラの財力と人脈あっての事である。
小耳に挟んだ話だが、「式場にはうちを使ってくれ」と云う声が国内の各施設だけでなく、他国からまで来ているとか。どう云う事だ、と顔が世界の真理を知った猫になってしまう。新郎新婦どちらもフロード王国の貴族なのに、他国で式を挙げるとか常識的に云えば「無い」のだが。
――つまりそれだけ、エルヴィーラの影響力が凄まじい事の証明とも云える。
「まぁ冗談なんじゃが」
「冗談じゃなかったらタイキックですよ父上」
「異世界から伝わった格闘技止めてくれ。あれ、絶妙に凄く痛いんじゃが!」
「笑ってはいけない時に笑った者への体罰用だそうですから、ことさら痛いのでは」
「え……。それであの威力の蹴りなの……? 異世界こわ……」
「異世界は不思議でいっぱいですね」
笑ってはいけない時に笑った者への体罰とか、凄く限定的だと思うのだが。どう云う状況なのだろう。式典中などで笑ったらその場で体罰を加えられるのだろうか、異世界は。怖い。
「あぁ、異世界と云えば……ランは知っておるか? エルの曾祖父殿が”記憶持ち”だった事を」
話が切り替わる。それと同時に、空気も切り替わった。
ランヴァルトは元から伸びていた背骨へ、さらにぐっと力を入れた。
「はい。噂程度ですが」
「うむ。では、”どの程度の記憶を持っていたか”はどうじゃ? 聞いた事あるかの?」
「いいえ……」
「エルから説明は?」
「特にはありませんでした」
「ふむ……」
それまでのお茶目な老人の雰囲気を引っ込めて、祖父――国王は真剣な顔になる。髭を軽く撫でて、手をつけずにいた紅茶を一口。それに倣って、ランヴァルトとヨエルも口を付けた。葡萄のような芳香が鼻を抜けて行く。余計な苦みもなく、砂糖が無くともするすると飲める良質の紅茶だった。
トーレスはカップをソーサーの上へ戻すと、静かに立ち上がり窓辺へ寄る。ヨエルが止めようとして、何かを感じ取ったのか上げた手を戻した。
「エル……エルヴィーラの曾祖父は、クラース殿と云った。前世――異世界で生きた記憶を全て持った上で、この世界へ転生されたお人だったよ」
「それは……”ご苦労をなさったでしょう”?」
失礼ながらランヴァルトは、会った事の無いエルヴィーラの曾祖父とその周囲の人々へ同情を寄せる。
この世界には、前世の記憶を持って生まれる人――”記憶持ち”と呼ばれる人々が居た。彼ら、彼女らは異世界の知識を持ち、時には人格すら生前のまま引き継ぐと云う。それを”記憶持ち”の間では、”転生者”とか、”強くてニューゲーム”とか云うそうだ。
前世の記憶は、生まれた時から持っている事もあれば、成長してから思い出したり、事故や大病などに見舞われて蘇る事もあるらしい。
一見すれば、学んでない知識、人生経験を手に入れられる事にはメリットしかないように思える。しかし実際のところ、苦労の方が多いらしかった。
「あぁ。どうにも、性格に難があってな。幼少期から自分は王になるのだとか、ハーレムを作るのだとか、最強になれるのだとか、大言壮語ばかりだったらしい。”記憶持ち”である事を隠そうとして、ご両親が教会へ無理矢理引っ張って行って証明させたとか」
「それはまた……」
よく聞く話と云うか、よくある事と云うか。
何故か”記憶持ち”の多くは、自分がそうである事を隠そうとするらしい。気持ちは分からないでもない。前世とは云え、突然他人の記憶が脳内に生えてくるようなものだ。本人も混乱するだろうし、周りから気味悪がられたり、排除される可能性に怯えても不思議ではない。
しかし、この世界において”記憶持ち”は”珍しくはあるが異端ではない”。【聖地】では積極的に保護、育成に力を入れているし、持っている知識如何によっては国から取り立てられる事もある。それは一般的な常識で、平民ですら”記憶持ち”を見つけたらとりあえず教会へ、が合い言葉らしい。自身の記憶を悪用される事を恐れるならば、それこそ【聖地】管理の教会へ行けば良いのだ。正しく保護してくれる。
しかし”記憶持ち”の多くは、知りもしないのに【聖地】を悪し様に罵ったり、「宗教なんて信じられない」と騒ぐらしい。
恐らく異世界では、聖地と呼ばれる場所は悪しき場所で、宗教は悪党たちの巣窟なのだろう。そうでなければあれほど否定的になるはずがない、とは知り合いの聖職者談だ。なるほど、異世界怖い。
魔導と似て異なる「科学」と云う学問によって進歩した世界らしいのだが、神秘や人類の上位種への畏敬の念が消えているのかも知れない。異世界怖い。【世界の管理者】がいないとか、地獄のような場所ではないのか。大丈夫か異世界。滅んだりしない?
「持っていた知識は、確かに秀でていたようだ。クラース殿のお陰で、ラーゲルフェルト家は子爵から伯爵へ陞爵したのだからな。――だが、そこまでだった。彼が望むように王族へ迎えられる事も、大勢の美女に傅かれる事も、最強とやらになれる事もなかった」
「でしょうね……」
知識は財産だが、知識だけで全てどうにかなる訳ではない。
例えば、ランヴァルトは玉葱のみじん切りについての知識がある。必要な道具は何か、どう云う切り方をすればいいのか、そう云う事は知っていた。しかしいざやってみても、料理長のように上手く出来なかった。ぎりぎり粗みじんな出来で、涙が溢れて止まらなかった。知識はあったのに、コツも教えて貰っていたのに、技術がどうしても追いつかなかったのだ。
まぁ全てにおいて当てはまる話ではないが、そう云う事だ。知識だけの頭でっかちのみで王になれるほど、この世界は甘くない。しかし何故か多くの”記憶持ち”は自分こそが世界の王で、最強になり、多くの異性に愛されると思っているらしい。
なんか凄い。ランヴァルトはどれだけ知識があっても、そんな自信は持てそうにない。
「まぁ、我々から見れば、一代の努力で陞爵しただけでも凄まじい事だがな。本人は満足せず、ずっと不満を口にし続けていたそうだ。美しい妻を貰っても、愛らしい娘が生まれても、真面目で優秀な孫に恵まれても、ずっと、ずっとな」
「……」
ランヴァルトは物悲しく感じた。
誰が聞いても、良い人生だろう。多くの人々が願う荒唐無稽な望みを、クラースは確かに叶えているのだ。
それでも彼は不満をずっと口にし続けたと云う。つまり、幸せではなかったと云う事だろうか。
贅沢な話だと、ランヴァルトは思ってしまう。陞爵し、美しい妻を貰い、娘が生まれ、優秀な孫まで得られたと云うのに。それでも、彼にとっては不足だったと云うのか。
(……無い物ねだりは、不幸にしかならないのにね)
今手の中にあるものを愛せず、手に入らないものを求めるのが不幸の始まりだと、ランヴァルトは思っている。そうして不幸になった男を知っているからだ。
「ラーゲルフェルト家や周囲の人々はクラース殿を持て余し、彼から目を逸らした。クラース殿は部屋にこもりきりになり、世話をする使用人は何度も入れ替わった。クラース殿のお陰で財産には恵まれていたが、鬱屈とした空気がラーゲルフェルト家には常に漂っていたよ。――そのような中で生まれたのが、エルヴィーラだった」
「エルヴィーラ様……」
彼女は。
(――不幸では、無かったのだろうか)
見た事のない、幼い頃のエルヴィーラを想う。
今のように自信に溢れた傲慢で優しい少女だったのだろうか。それとも、家の雰囲気に飲まれた哀れな童女だったのだろうか。知らない。ランヴァルトは、何も知らなかった。
「エルヴィーラのご両親は、クラース殿から逃げるように離れへと入り、エルヴィーラを育て始めた。鬱々とした曾祖父に会わせたくなかったのだろう。しかし不思議な事にな。エルヴィーラは三歳になる頃からしょっちゅう離れを飛び出して、曾祖父であるクラース殿の元へ通っていたそうだ」
「……クラース殿は、エルヴィーラ様を可愛がっていらしたのですか?」
両親がわざわざ引き離したのに、それに逆らってまで曾祖父の元へ行くと云う事は、エルヴィーラはクラースに懐いていたのだとランヴァルトは解釈した。いかに偏屈な老人と云えど、曾孫にまで悪態はつけなかったのだろうと。
しかしトーレスは首を横へと振った。
「いいや。会う度にエルヴィーラを罵倒していたそうな。やれ「化け物」だ【怪物】だ、気味が悪いと酷い云い様だったらしい。……だが、不思議とエルヴィーラを遠ざけるような事はせず、【怪物】と罵りながら、自分の持つ知識を教えてやってたそうだ」
「――いくらなんでも、【怪物】は云い過ぎでは?」
ランヴァルトはつい眉間へ力を入れて云った。恐らく、とても濃いシワが眉間に谷山を作っているはずだ。
化け物までは、一応、少しは、許容範囲だ。強すぎる人や賢すぎる人など、他者より特別優れた人を「化け物」と呼ぶ事はままある。
だが、あの強く美しく優しい人を、【怪物】呼ばわりはいただけなかった。
【怪物】とは、この世界の異物。天の網から外れ、世界の摂理からも弾かれた、災厄の具現。
普段は大人しく、地域の守主として信仰される事もあるが、一度怒りに触れれば、その地から全ての生命が姿を消すほどに荒れ狂うと伝わっていた。魔剣、聖剣、妖刀ですら傷一つつかず、過去に挑んだ勇者や英雄も這う這うの体で逃げ出したと云う。天使や悪魔、森の人などの上位種とて、決して【怪物】とは事を構えない。異世界風に云うなら、「触らぬ神に祟りなし」を地で行く存在だ。
そして、現在確認されている六体の【怪物】は全て魔物の突然変異種。人類とは根本から異なった存在だ。まかり間違っても、人に使って良い言葉ではない。
拳に力を入れるランヴァルトに何を思ったか、トーレスはふ、と軽い笑みを浮かべた。それは決して莫迦にするものではなく、優しく見守る慈愛の微笑みだ。
「そうか。ランにとってエルは、善き伴侶なのじゃな」
「ま、まだ伴侶には……!」
「ふはは。あやつが結婚すると云い切った以上、そうなる。照れるな照れるな」
もう一度笑ってから、トーレスは笑みを消した。瞳に、悲しみと後悔の色が混じる。
「余はな、その通りだと思ったよ」
「え……」
「あれはな。エルヴィーラは、【怪物】だ。財貨を司る、【怪物】だよ」
祖父の云い様が信じられず、ランヴァルトはその顔を凝視してしまった。
国王トーレスは、エルヴィーラから様々な恩恵を受けている。献上される金銭は当然の事、彼女の開発した魔導具、取り扱う様々な物品、網のように広がる人脈に、トーレスは、我が国はどれだけ救われ、発展して来た事だろう。
それを一番分かっているはずの国王が、エルヴィーラを【怪物】だと云った。
「エルヴィーラ・クラース・フォン・ラーゲルフェルト――その名から分かる通り、あの子はクラース殿の遺産を受け継いだ。直接受け継がなかったのは、爵位と領地くらいだ。その他の全て、彼の名前、個人資産、知識、経験、全てをエルヴィーラは継承した。クラース殿が亡くなったのはあの子が五歳の時、六歳の時には起業して、ものの数年で国一番の資産家になった。あの時は我らも、クラース殿の遺産のお陰だとしか思わなかった。老いから来る不調であれ以上の高見を目指せなかっただけで、それを曾孫が引き継いだのだと。彼のやりたかった事をやっているのだろうと、それくらいしか思わなかった。違うと気付いたのは、それから三年後。エルヴィーラが十三歳の時。――彼女は、大陸で最高の資産家となった。我らは戦慄したよ。それと同時に、目が眩んだ。たった一人の少女が、国家を超えた財を抱えたのだからな。それも、自国の令嬢だ。余はすぐさま彼女の生家ラーゲルフェルト家を侯爵へと引き上げた。息子を、孫を紹介し、好きな者を選べと婚約を勧めた。結婚を機に公爵へ陞爵しようと云ってな。まぁ、断られたが。婿くらい自分で選ぶからいらん気を回すなと云われてしまったよ。国王の勧めを断ったからと、小国の国家予算に相当する金銭を献上された。そこでまた、目が眩んだ。頭がくるくると回った。あぁ、この娘がいれば、余は――大陸の覇者になれると」
「お祖父様ッ!」
悲鳴のような声でランヴァルトは祖父に呼びかけた。トーレスの独白が余りにも恐ろしかった。
この東大陸全てを巻き込んだ戦争をしようとしていたのだ、祖父は。当時、まだ少女だったエルヴィーラを財源にして。
思わず腰を浮かせたランヴァルトを押さえたのは、ヨエルだった。
「落ち着いて、ランヴァルト。……昔の話なんだ。陛下は、戦を起こさなかった」
「ははは。今思い出しても、あの時の余は頭がおかしかったな。……エルヴィーラが開発した様々な魔導具、確保している交易路、有している財産。必要なものは全て揃っていた。決起していたら、確かに余は大陸統一を果たしていたと自信を持って云える。しかしな、余に夢を見せたのはエルヴィーラだったが、目を覚まさせたのもエルヴィーラだったよ」
「……説教でもされましたか?」
「まさか」
ランヴァルトの予想を笑って否定し、トーレスは恐れを表情に乗せた。
「余が大陸統一の夢を語った時、あの子はこう云った。「それは宜しゅう御座いますね、陛下。人がたくさん死ねば、もっと人が増えます。生物は生命を脅かされた時、子孫を成しますから。商売相手が増えて喜ばしい事です。それでどこから始めますか。隣国ですか? マティルダ殿下が嫁ぐご予定の異国ですか? それとも仇敵から仕留めましょうか? あぁでも、戦っている時に余計な事をされては面倒です。国内の粛正から始めましょう」――とな」
ヒュッとランヴァルトの喉が鳴る。息を吸い込み損ね、吐き損ねた。
「その時、エルヴィーラが嗤っていたら善かった。怒っていても善かった。愚かな国王に失望し、悲しんでくれても善かった。けれど、あの子はなんの感情も浮かべていなかった。ただ、事実を述べただけ。大陸を統一する上で必要な道筋を語っただけだ。多くの人の死を、ただの現象のように云い切った。……あの時余を見ていた目。あれはな、観察していた目だった。下等な生物の生き様を見下ろす、観測者の眼差しだった。――いっぺんに心が冷えて、目が覚めたよ。氷水をぶちまけられた方がマシなくらい全身が冷え切って、震えが止まらなかった。自分は今、恐ろしいものの前に居る。人類から隔絶された【怪物】を前にしていたのだと、やっと気付いた」
トーレスは、かつて大陸統一と云う見果てぬ夢を描いた国王は、窓の外へ目を向ける。
今日もまた、城下には穏やかな人々の生活が広がっているのだろう。悲しい事もある、苦しい事も、辛い事も。それでも国民は懸命に日々を生きている。明日を信じて、毎日を生きているのだ。
「ふふ、情けない事にな、その時は「冗談だ」と云って話をうやむやにするだけで精一杯だった。震えた声と体、止まらない汗、血の気が引いて耳鳴りがした。けれどエルヴィーラはそれについて何も云わず、「左様で御座いますか」と云って話を終わらせた。あの子にとっては大陸統一の夢も、明日の天気の話も、何も変わらないのだと知ったよ」
そこでトーレスは目を閉じる。当時の事を思い出しているのか、それとも、エルヴィーラへ想いを馳せているのか。
瞼を開いた時、その目には真摯な光があった。ランヴァルトへ向ける眼差しには、孫を案ずる優しさが滲んでいる。
「ランヴァルト。エルヴィーラは恐ろしい娘だ。クラース殿は人の姿をした【怪物】をこの世へ解き放ったのだと、我らはそう思っている。――だが、お前に見せる優しさは、決して演技ではない。あの娘は己を偽る事などしないのだ。自分の真の姿を隠す、擬態する、それは強者の行いではない。【怪物】に己を偽る必要性などない。あるがまま、己が本性を剥き出しにして生きる事を、天すら咎められぬ。お前が、エルヴィーラを優しいと思うのならば、それは紛う事なき真実だ」
「真実……」
「エルヴィーラを疑うな、ランヴァルト。だが、覚えておいて欲しい。お前に対して湯水のように金を使い、慈しみ、守らんとするエルヴィーラも真ならば、人の死を些事と片付けて生命を塵と見下ろす恐ろしい【怪物】もまた、エルヴィーラの真だ。お前の英雄は、優しさと冷酷を併せ持つ【怪物】だとな」
「……」
「忘れてくれるな、愛しい孫よ。可愛い末娘の、宝物」
そう云って、祖父は優しく笑った。
ランヴァルトは、どう答えたらいいか分からない。
トーレスがわざわざランヴァルトに嘘を云う訳がない。エルヴィーラを国へ繋ぎ止めるメリットは計り知れず、正式な婚約を終えたランヴァルト達の間に亀裂を入れる意味などなかった。実はエルヴィーラを疎んでいて国から追い出したがっていると云うなら、このような迂遠な方法など取るまい。真正面から消えろと云われれば、エルヴィーラは何の未練もなくフロード王国から去るのだ。彼女を温かく迎える国は、幾らでもある。
だからこの話は、エルヴィーラの真実の一端を知る祖父が、孫を心配して話したと云うだけの事だ。結婚して一緒に暮らすようになれば、否が応でもエルヴィーラのあらゆる側面をランヴァルトは知る事になるだろう。その時に、エルヴィーラは嘘をついていた、ランヴァルトを欺いていたなどと思うなと、トーレスは云ってくれているのだ。彼女はいつだって、本当の姿しか見せていないのだと。そしてその本当の姿の一つは、ランヴァルトが思い描くような穏やかな物ではないのだと知り、心の準備をしておけと云っている。
礼を云うべきだ。忠告に感謝すべきだ。けれどランヴァルトはやはり、エルヴィーラを【怪物】と云われる事が厭だった。
あの優しい人が、災厄の化身であるなどと――
「――父上!」
唐突にヨエルが鋭く叫んだ。跳ね上がるようにソファから立ち上がり、トーレスへと走り寄る。
それと同時に、「青林の茶室」の扉が外から乱暴に開け放たれた。ギョッとしてソファの背もたれ越しに振り返れば、国王直々の人払いを受け、部屋の外へ出ていたヘイスとヴェルトが血相を変えて飛び込んで来る。
「どうし――」
「旦那様!」「頭守って!」
云われるままに両手で頭を抱えた。ヴェルトが覆い被さって来る。ヘイスが流麗な発音で呪文を唱える声が聞こえた。
「『散らせ、風よ』!」
その直後、激しい爆発音が響き、部屋が揺れる。廊下から多くの悲鳴が上がった。ヴェルトに覆い被されているランヴァルトは顔を上げる事も出来ず、状況の把握が出来ない。ただ、王城であってはならない事が起きたのだと云う事は分かった。
「……ヘイス、さっすがぁー」
「爆炎と衝撃波の合わせ技とはえげつない事です。この借りは十倍返しですね。――楽には死なせません」
「ぴえ」
今まで聞いた事のないヘイスの冷たい声に、間抜けな声を上げてしまう。物理的に室温を下げる冷徹な声だった。穏やかなヘイスが出した声だとは思いたくない。
しかし今はそれよりも、急いで確認しなくてはいけない事がある。
「お祖父様……陛下と王太子殿下はご無事ですか?!」
「おう、無事じゃ」
「大丈夫だよ……ヘイスのお陰で助かった……」
ヴェルトがどいてくれたので、ランヴァルトは這い出るようにして祖父と伯父の元へ向かう。トーレスはヨエルの下敷きになっていたが、それは国王を王太子が庇ったと云うだけの話だ。
また外が騒がしくなり、近衛騎士たちが雪崩れ込んで来る。
「陛下、殿下、ご無事で?!」
「おう、無事じゃ無事。ヘイスのお陰で助かったぞい」
「人払いは善いですけど、騎士まで追い払わないで下さい陛下。我らの仕事が増えます」
「そーだそーだ~。俺たちの仕事はだんなさまの警護なんだからさぁ~。そっちはそっちでちゃんとして?」
「な、この無礼者ども! いつもいつもお前らはぁ!」
「ヘイスもヴェルトも厳しいのう」
「立てますか父上?」
「えぇい、そこまで年くっとらんわい」
「えぇと……」
トーレス達と共に窓から離れ部屋の中央へ向かった。部屋の家具類には転倒防止の術が掛かって居るので、爆発の振動による被害はない。テーブル上のティーセットは被害を受けていたが、いつの間にか居た国王の筆頭執事が手早く片付け、新しいものをさっと用意してくれた。流石プロ中のプロ。手の動きに残像が見える。
三人がソファに座り直す中、不敬な文句を云ったヘイスとヴェルトに近衛騎士の一人が説教をしていた。顔見知りのようだが、説教で済むのだろうか、あの言動。
他の騎士達は窓に防護の呪文を重ね掛けしたり、魔導通信機を使って各所へ連絡などを行っている。部屋の外にはまだ出ない方が良いと、国王の筆頭執事が教えてくれた。
着々と事態が進行する中で、まだランヴァルトは状況把握が出来ていない。
「あの、何が起きたんでしょう……?」
「あぁはい。陛下を狙った暗殺ですね」
「暗殺?!」
ヴェルトを犠牲にして騎士を躱したヘイスが、事も何気に云った。
物騒過ぎる言葉に、ランヴァルトは飛び上がるほど驚く。慌ててトーレスの方へ身を乗り出し、改めて安否を確認した。
「お、お祖父様、本当に大丈夫ですか?! どこも痛くないですか?!」
「ははは、大丈夫じゃ。元気元気。それより、驚かせて悪かったの」
「いえ、僕はヘイス達が守ってくれたので……」
「窓に近付くからですよ、父上。狙ってくれと云っているようなものでしょう」
「この部屋の防衛魔術陣はエルヴィーラ謹製じゃし、窓には目くらましの術が掛かっておるんじゃがな。……まぁ、これで誰の仕業か特定しやすくはなったか。ヘイス、そなたの魔術、どう云った効果があった?」
「風で爆炎を押さえ、部屋に放たれるはずだった衝撃波を散らしました。それと一応、反射の要素も入れたので莫迦な暗殺者に一矢報いてるはずですよ」
「あの一節にそこまで効果込めるとか、ヤバヤバのヤバじゃな。やはりそなた、王室付き魔術師になるべきでは?」
「御前とヴェルトと離れるのは厭です」
そう云って何故かヘイスは、ランヴァルトの肩に手を置いた。
何故自分の肩に手を置くのかと不思議に思って見上げれば、いつものにっこり笑顔を貰う。美形の満面の笑み眩しい。
と云うか、さらっと王の誘いを断っているのだが。善いのか。そろそろヘイス達が不敬罪に問われないか怖くなって来た。
「むぅ。そう云われては無理強い出来んな」
大丈夫だった事に、ほっと胸を撫で下ろす。
しかし冷や汗が出る。彼らはエルヴィーラ直属の部下で信も寵も厚いとは云え、部下は部下。国王の前でも変わらない態度で居られるなど、不思議な事だ。いや、この感想はエルヴィーラを侮っている事になるのかも知れないが。それでも染み付いた王国貴族としての国王への忠心が、ランヴァルトの気持ちをハラハラさせるのだ。
「……のぉ、ランヴァルト。エルヴィーラに関わると、こう云う事も頻繁に起きる」
「頻繁に……?」
国王暗殺未遂なんて大事件、頻発して善い物ではない。しかもその理由が、エルヴィーラに関わったからだと。
「あの子の財は、人を狂わせるには充分過ぎるものだ。狂気は人を凶行へと駆り立て、まともな思考を奪う。余を殺せばエルヴィーラはフロード王国から出て自分の国へ来ると思い込む者、これまでの献上品や献金を我が物に出来ると勘違いする者、余の栄達を妬み逆恨みする者――此度のエルヴィーラの婚約を破談にする為には、余を殺すのが一番効果的などと逸る者」
「!」
云われ、ランヴァルトは息を飲む。そうして、己を恥じた。エルヴィーラから云われてた言葉を、軽く受け止めていた事を。
一国の王を殺そうとするような連中だ。ランヴァルトの命など、それこそ埃より軽く見ているだろう。害される事――それは嫌がらせや陰口、暴力程度では収まらないと云う現実を、ランヴァルトは今更実感したのだ。なんと云う日和見、いや平和ボケか。国の中枢からほど遠い公爵とは云え、楽観的にも程がある。
「世界一の大富豪エルヴィーラを――その財を我がものにしたい、出来ると盲信する者の多い事。夢は覚めるが幻は中々に消えぬ。人は自分にとって都合の良い事ばかり考えて、不都合を無理矢理にでも消そうとする。暗殺などと云う短絡思考がその表れよ。まったく嘆かわしい事じゃ」
そこまで聞いて、ランヴァルトはようやくトーレスの意図を察した。自分でも遅いと思う。
そうして気付いた事実に血の気が引いて、耳の奥でざぁざぁ音が響いた。
目眩が、する。
「……お祖父様」
「おん? なんじゃ、ラン」
「僕のせいですか」
トーレスが片眉を器用に上げた。ヨエルがきゅっと口を一文字に絞る。近衛騎士達がこちらを見た。国王筆頭執事が、すぅと目を細める。
「僕にそれを教えるために、わざと御身を危険にさらされたのですか」
驚くほど冷たく静かな声が出た。表情はどうだろうか。分からない。自分は今、どんな顔をしているのか。目の前に座る二人が驚いた顔をしているから、まったくランヴァルトらしくない表情をしているのだろう。
どんどん視線が下がり、目は自分の膝へ。完全に俯いて、ランヴァルトは震えた。
(我が国で最も貴きお方に、僕は、なんて事を)
エルヴィーラの婚約者と云う立場に、途方もない価値がある事は分かっている。けれどランヴァルト自身には何も無いのだ。血統が善いだけの、つまらない男。居ても居なくてもどうでもいい、爪弾きの公爵。
それに引き換え国王トーレスは、臣下達や国民に長期の在位を望まれる名君だ。どちらの命が重いかなど、聞くまでも無い。愚問と云うもの。
ランヴァルトの自覚の無さ、当事者意識の薄さを、祖父は感じ取ったのだ。人を見る事に長けた、聡明な王である。未だ地に足のつかない愚かな孫を案じての、愚行だった。そうでなくては、この人が安易に窓へ近寄るものか。ヨエルもそれが分かって、トーレスの行動を止めなかったのだ。
「ラン、ランヴァルト」
祖父の声は、凪いでいた。静かと云うより穏やか。耳の奥へ染み渡る音だ。
「泣かんでくれ。エルの奴に殺されるわい」
「……そんな訳」
「あるぞ。……なぁ、ラン。お前のその自信のなさ、自分の身を軽んじる性質、それは間違いなく我らのせいだ。お前を公爵として正しく扱わなかった。憐れみだけを注いだ。助けてやらなかった。……マティルダは結局、お前を置いて出て行った」
「それは……仕方の無い事で……」
「何も仕方なくないよ」
硬い声でヨエルが云った。顔を上げる事も出来ないランヴァルトの頭に、彼らは語りかける。
「仕方ない、なんて、そんな事はないんだ。あの碌でなしを私たちはさっさと見限って追い出すべきだった。一族の誰かを後見に立てて、ランが成長するまで見守らせて、正しく君に爵位を継がせなくてはいけなかった。でもしなかった。マティルダなら大丈夫だ、公爵家を支えられると信じて押しつけて、何もしなかった。その結果が今の君なんだ。ランヴァルト、君は私たちを怨んでいいんだよ。なんで助けてくれなかったんだって、怒っていいんだ。……もうマティルダはここに居ないのに、良い子にならなくて、いいんだよ」
ずいぶんと、今更な事を云われた。
くらくら、目眩がする。「良い子でいなさい」そう云って出て行った、母の後ろ姿を幻視した。耳鳴りがする。「良い子でいなさい」優しく慈しむ、母の声。「良い子でいなさい」それでも自分を置いて行った、美しい人。「あなたは、グランフェルト公爵になるのだから」穏やかで陽だまりのような、それでいて逃げる事を許さない、支配者の声。「わたくしの息子なのだから、出来るわ」脳を縛り付ける声音が、いつまでも響く。
(母上の、言いつけ、通りに)
――ランヴァルトは、良い子になれなかった。正しい公爵にもなれなかった。
臆病で、何の力も持てなかった、ただの人。他者から見下される、どうしようもない人間だ。
現状を打開出来る力もなかったから表では口を閉じて、己が立場に不満などない、当然の事だと云う態度を取っていたが、屋敷の寝室で一人泣いた日はどれほどあったか。
助けての一言すら云えなかったあの日々を、今更蒸し返された。頼っていい相手など一人もいないと孤独に震えた夜を、見透かされた気がした。自分の歩いて行く道にはなんの希望も無いのだと、嘆いた寂しい日々を。
母の理想を叶えられない、愚かな自分を詰った十年を、掘り返された。
それは、ランヴァルトにとって、間違いなく、“恥”だった。
「――っ」
息が詰まる。喉が締まる。首へ手をやった。“あの時”の痛みが蘇ったかのように、血管が収縮する。それでも声を上げなかったのは、ただの意地だった。矮小でくだらない、ランヴァルトにとって最後の矜持。
ゆっくりと、立ち上がる。これ以上ここには居られない。息が詰まる。喉が渇く。それでも、口を開いた。
「……本日は、これにて御前を辞する事をお許し下さい。貴重なお時間を使って頂き、感謝致します。国王陛下、王太子殿下」
まともに喋れないと思っていたが、声はすんなりと出る。何故か国王と王太子が傷ついたような顔をした。どうしてだろう。礼法は、守っているはずだ。
「ラン――」
「だんなさまぁ、ちょっとごめーん」
国王が腰を浮かせ、こちらへ呼びかけようとした声を遮って、ヴェルトが側にやって来た。そしてなんとも軽い動作で、ランヴァルトを肩へ担ぎ上げる。
え、となったのはランヴァルトだけではなかった。ヘイス以外の人は例外なく、呆気に取られて担がれたランヴァルトと担いだヴェルトを見ている。
「だんなさまの具合悪そうだから帰る」
「ヴェル、ト」
「俺はさぁ、姐さんの子飼いだし、ヘイスほど頭良くないけどさぁ。へーかが善くない事したのと、でんかが悪い事云ったのは分かるわ」
首を動かして、ヴェルトの方へ視線をやる。
ヴェルトは剣呑とした半眼になって、国王と王太子を見下ろしていた。
「――……善人ぶるなら徹底しろよ、くそじじい共。うちのだんなさま虐めんな」
「ひぇっ」
とんでもない暴言が飛び出して、ランヴァルトは胸の痛みも息苦しさも忘れて硬直した。その場で斬首レベルの不敬である。
「流石ヴェルト! あなたは優しいですね。そうですね、旦那様がお辛そうだから帰りましょうそうしましょう。あと御前に報告し(チクリ)ましょう!」
「ヘイス楽しそ~」
「御前がどれだけ怒り狂うか、今から楽しみです!」
「え、え、え?」
「ままままま待ったヘイス、ヴェルト! ちょっと待ってくれ!」
「待ちません」
「俺たち姐さんから、だんなさまの事を「例え《堕ちた竜》が相手でも守り切れ」って命令されてんの~。だから帰る。ここ居ても、だんなさま可哀想だし」
「お屋敷へ戻ったらお茶にしましょうね、旦那様。甘い物を食べたら、気持ちも楽になりますよ」
「え……?」
「文句があんなら姐さん通して。……じゃーね」
ヴェルトがどかどかと大股で歩き出す。ヘイスも大股で、けれど静かについて来た。二人とも足が長いので、大股の一歩がとても大きい。走っているのとほぼ変わらない速度だ。
あっと云う間に「青林の茶室」が遠のいて行く。茶室から出てきた国王と王太子、執事達の顔色が一等悪かった。近衛騎士達ですらヴェルトらの不敬を咎める様子もなく、顔色を真っ青にしている。
廊下に居た使用人達が慌てて端へ寄り、貴族達も家格の別なくランヴァルト達から目を逸らし存在感を消していた。中にはヴェルトとヘイスを見据えながら、ゆっくり後退している者もいる。
猛獣に遭遇した時の対応だ。二人は熊の獣人なので、あながち間違いではないかも知れない。
「ひきょーじゃんね、へーかもでんかも」
「そうですねぇ。善人ぶるのは人の性ですが、ちょっとアレはいけませんね」
「あの……」
「だんなさまを祝福するなら祝福する、姐さんの事話すなら話す、それでいいじゃん。そこで終わらせればいいのに、欲張りやがってあのじじい共。だんなさまに恩着せたいのが見え見えで腹立つぅ」
「え」
「今まで適当に相手してた孫が、国一番どころか世界最重要人物の一人と婚約したから焦ったんでしょうね。点数稼ぎですよ、旦那様。祖父と孫、国王と公爵だけじゃ飽き足らず、道を指し示した恩人と感謝されたかったんでしょうね」
「そう、なの……?」
「そーだよー」「そうですよ」
二人はそう云って、同時に舌打ちした。なんだかんだ、二人ともランヴァルトの前で雑な行動はしてもは下品な事はしなかったので、少し驚いてしまう。
「旦那様は――そう、ご自分の評価が低いのが問題ですね。これまでの公爵としての自分と、御前の婚約者としての自分とのバランスが取れていません」
「確かにさー、へーかはこの国にとって大事な方だけどさぁ。今は旦那様の方がよっぽど国にとっても世界にとっても大事なんだよ。だって姐さんの“最推し”だからー」
「最推し……」
「そー。だからさー、ぶっちゃけた話、王族はもう旦那様を下に見れねーの。上に置かなきゃいけないわけ。上座も譲んなきゃいけないし、旦那様の身に危険が迫ったら、王族の方が旦那様を守んないとダメってやつ」
「えっ」
「それはそうでしょう。あなたは、エルヴィーラ・クラース・フォン・ラーゲルフェルト様の婚約者で、未来の夫なのですから。……あなたに何かあって、その原因がフロード王族だった場合、この国、吹き飛びますよ。経済的にも、物理的にも」
「んぇ?」
変な声が出た。
ランヴァルトのせいで大国一つ吹き飛ぶなんてそんな莫迦なと思ったが、ヴェルトの肩上から見るヘイスは至極まじめな顔だった。
「俺らもさぁ、最初はへーか何してんだろ、って思ってたけど。だんなさまの態度とでんかの言葉で分かったわ。“それが厭だった”の、あいつらはさー」
「え……」
「今まで下に下に見てただんなさまがぁ、自分たちの上に来るのがヤダったわけ。でもどうしようもないじゃん? 何かしたら、姐さんがバチクソぶち切れるし。あの人ら、姐さんの恐ろしさは身に染みて分かってっから。だからぁ、恩着せて精神面だけでいいから優位に立ちたかったって話ー」
「そんな……」
あの慈しみに溢れた姿も演技だったのかと思うと、ランヴァルトの心身が急速に冷え込んだ。
王侯貴族にとって駆け引きや騙し合い、二枚舌など日常茶飯事だとは云っても、祖父と伯父にそれをされたのかと思うと気が滅入る。
「旦那様。我々から見ても、国王陛下と王太子殿下は“王族にしては”優しい方です。旦那様を親戚として大切にしているのも、嘘ではないと思います。その証拠に、旦那様から徹底的に他人扱いされたら傷ついてましたからね。可愛い孫、大切な甥、そう思っている事は本当でしょう。けれど彼らは王族です。悪党な面もしっかり持ち合わせています。この場合、自分達の権威を守るために、個人的な関係だけでも貴方より上に立っていたかったのでしょう」
「……それで、ご自分の身を危険に?」
「あの部屋はへーかが云ってた通り、姐さん特性の防衛魔導陣があるから並大抵の奴じゃ突破出来ないってー。ヘイスが相殺させてなかったとしても、鼓膜が破れるくらいだったんじゃね。だんなさまの位置だったら、多少三半規管に影響が出て目眩がするかな、ってくらい」
「ローリスクハイリターンです。鼓膜の損傷くらいなら、治癒術ですぐ治せますからなんら痛手になりません。むしろ怪我をした事で、より一層旦那様へ恩を売れたでしょうね」
「あの部屋で今日だんなさま達が会うって噂流したのも、へーかかもね」
「それ位はおやりになるでしょうねぇ」
「……」
ランヴァルトはだらっと体の力を抜いた。へちょりとヴェルトの背中へくっつく。
「なぁに、だんなさま。ワカメの真似ー?」
「生まれ変わったら南の海のワカメになります……」
「善い目標ですね。でも人類の方が楽しいですよ、きっと」
「……せめて、普通の身分の人になりたいです……」
「それはそれで大変でしょ~。そりゃぁだんなさまのイイ人精神で貴族やんのは大変だと思うけどぉ、平民だってみんな毎日苦労して頑張ってんだよぉ」
「頑張ってない人は居ませんからね、我らの世界には」
「頑張んないと死ぬからさー」
「……」
一々ごもっともな二人の言葉を聞きながら、ランヴァルトはぼんやりスーツの背中を見つめる。
胸の辺りに何かが詰まったようにモヤモヤした。胃がきゅぅと引きつって食欲がどんどん消えて行く。頭を下へ向けているせいで、血の巡りまで悪くなった気がした。
(……エルヴィーラ様に、会いたいなぁ)
エルヴィーラの帰国は明後日の夕方。
もうすぐのはずなのに、ランヴァルトには随分と先の事に思えた。
双子は不敬罪に問われないのかと聞かれたら、元凶のエルヴィーラに文句云える奴はいない、とだけ。
云ったところで、札束で顔面打たれるか、金貨の入った袋で殴られるかのどっちかって云うお話です。(財力と云う名の暴力)
(この世界の貨幣は紙幣と硬貨。ただし紙幣は、一部の富裕層でのみ流通していて、庶民は見た事も使った事も無い、都市伝説みたいな扱いです。そのうちこの辺の話もやりたいですね)