film noir.
「……お前は友だちに何もしてやることはできないぞ。友だちのたのしみを邪魔せず、友だちと一緒になってたのしむことによってその幸福を増やしてやる以外は。」
──『若きウェルテルの悩み』
・
地球の中は空洞だとシックは言った。
地球の中身は空洞で、核もマントルもペロブスカイトもブリッジマナイトも無い。人々が立っているのが地殻の表面だということ以外は、地理学者の嘘だと彼は言った。
「じゃあマグマは?」
「マグマはもう無いんだ。」
午前十一時の、小さなレストランの中に、ローとシックは向かい合って座っていた。
朝食なのか昼食なのかわからない、半端な時間にシックはローを呼び出した。
ダイヤル式の赤い電話が鳴った時、ローは安いアパートの一室で微睡んでいた。ひどい悪夢に揺さぶり起されたばかりがったが、彼の感覚は既に麻痺していて、ただ大木にしがみついて大雨が過ぎるのを待つ芋虫のように、身体に染み込んだ毒素のような悪夢の余韻が引くことをじっとして待っていた。
囁くようにして取り付けられた約束が、夢の出来事だったのか、現実のことなのか、ローはしばらく判断がつかなかった。ここ最近は、いつもそうだった。まるで妄想と現実の区別がつかなくなっている。ベッドに寝転がっていた体を起こすと、背骨が軋んだ音を立てた。通話が切れた受話器を耳に当てたままシーツの中に座り込み、ローは少しぼうっとしていた。十年間を、何も考えないようにして過ごしてきた脳が、錆びた歯車のようにゆっくり噛み合い、探るように慎重に稼働するのがわかった。鼻を鳴らした。粘膜が傷ついている。
この十年で、ローはすっかり憔悴していた。かつては烏の羽根のように艶やかだった巻き毛はすっかり乾き、煤のような睫毛は眠っている間に零れ落ちた涙でもつれあっている。人々のキスを好きなだけ受け入れてきた唇はひび割れていて、口の周りの肌は荒れていた。ようやく受話器をフックに戻した指の先の爪は、ローが噛むので短くなっている。彼はもう若くなかった。かつてほどは。まだ気怠い灰色の目をしていて、痩せた頬には幼さが残っていたし、所々が荒れた肌には皺ひとつなかったが、それでも彼の魂は老け込んでいた。奔放に振舞ってきた肉体の中で、ローの魂は長い間昏睡していた。
受話器をぼんやり見つめる瞳に、不安とも困惑ともつかない翳りがほんの一瞬だけ浮かんだ。そしてやがて、小さな光が宿った。星空のような目、とよくたとえられた、その片鱗がわずかに覗いた。
すぐにローは自身を奮い立たせるように素早く身支度を始めた。花を象った繊細な刺繍が胸辺りに施されたシャツをクローゼットの奥から引っ張り出すと、形式程度に手で皺を伸ばしてやった後にそれを羽織った。走り出そうとした足を止めて、努めていつも通りに、待ち合わせには少し遅れるだろう時間に家を出たのだった。
窓の外では小雨が降っている。酸性雨に異常な恐怖を抱くシックに反して、ローは酸性雨の恐ろしさをよく理解していないので、彼は悠長に歩いて待ち合わせ場所のレストランにやってきた。若いウェイトレスはずぶ濡れになったローを一瞥しただけで、特に嫌悪も驚きも恍惚も示さずに淡々とローをシックの席に案内した。彼女は感性が死んでいた。
ローは手で乱暴に髪や服についた水滴を払った。内はガランとしていて、シックとローと、ウェイトレスと、奥で調理をするのに僅かな物音しか立てない店長以外には誰もいなかった。
やぁ、ロー、とシックは言った。ローは小さく息をのんだ。
「シック。」
「朝ごはんは食べた?」
「いや、昨日の夜から何も。」
「そうか。それは良かった。」シックは青白い顔に優しい笑みを浮かべていた。「キノコスパゲティを頼んであるんだ。食べるだろう?」
キノコは嫌いだ、とローは声を上げかけたが、それは久々の再会にとてもふさわしい挨拶には思えず、口を閉じた。それにシックは、ローの好みを誰より心得ていたはずなのだ。座って、とシックに促され、ローは頷き、シックの向かいに腰かけた。背もたれが直角に作られた椅子は固く、座り心地も悪かった。
シックは最後に会った時よりずっとやつれていた。と言っても、最後というのは──これを認めるのはローにとって簡単ではなかったが──十年前のことだ。細い身体は深緑のジャージの中で泳いでいた。神経質に組まれた指は骨ばっていて、手の甲には幾つも血管が浮いていた。窪んだ目の周りを黒い隈が囲っていて、シックはひどく疲れているようだった。自分もそう変わらないんだろう、とローは思った。しかしそれ以外には、やはり、シックに違いなかった。シックはローより六つ年上で、茶色い髪は顎あたりまで伸びていたが、温厚そうな分厚い瞼も、半開きの大きな口も、そこから覗く不自然なほどそろった歯列も、ローの記憶と寸分変わらなかった。
ローは話をしようと口を開いたが、口は何も話したがらず、すぐに閉じてしまった。ローは何も言わずに濡れた前髪を手で撫で付けた。シックはそんな様子を黙って見ていた。まるで墓石に彫られた故人の名前や死因を見るような目つきをしていた。
やがてシックは、「こんな話があるんだ」と聞き馴染んだ口上から始め、彼なりの新しい地理学の考えを話した。話を始めると、シックは別段変わりないように見えた。ローは雨に濡れたシャツが背中に張り付くのを感じながら、従順な生徒のように大人しく頷いた。以前は、シックが論文を提出する時期になるとよくこんなことがあった。ローはそれを懐かしく思った。シックが熱心に語り、ローはその一つ一つに丁寧に相槌を打った。今度も同じだったが、二人の間には以前と比べて致命的な何かが欠けているようだった。
レストランは、僅かに聴こえる雨音も相まってかどうにも陰気な感じがした。内装も質素だった。両面に座席がついた板張りのソファーと、ニスがよく塗られて艶々と光るマホガニーのテーブルがいくつか並べられているだけの人気も味気も無い店内は、照明がいくつか切れているのか薄暗く、ローは身を乗り出せばキスができそうなシックの表情さえよくわからなかった。
「……以前は彼らの言う通り、地殻の裏を這うようにしてマグマが流れていたけれど、最近はもう消滅してしまったんだ。地球温暖化の影響で水位が上昇しているだろう?それでついにマグマがほとんど固められてしまった……もちろんそんなことは公にはされていない。彼らはいつもそうだ──誇れる新発見は大々的に取り上げても、自らの説が覆されるような新事実は、ボソボソと小声でしか報告しない。都合の悪いことには、見ないふりをするんだ。」
なるほどね、とローは返事をした。少し掠れた声が出たので、咳払いをした。久しぶりの再会に見合った話題には思えなかったが、ローはそれを遮るつもりはなかった。よくあったことなのだ。シックに呼び出されて──いや、呼び出す必要すらなかった。当時、二人は一緒に暮らしていた。そしてシックがなんの脈略もなく、地理学の話を始めて、シックの言う「彼ら」がいかに学者としてなっていないかなど、それがどんなに他人には退屈な内容になるだろうと思われても、ローは興味深く聞いていた。
遠いことのように感じられる話を口にするときだけは、自分が直面する身近な問題から意識をそらすことができる。シックはそれが得意だったし、ローもそれに倣った。
それきりローとシックは黙っていた。ローはシックが本題を切り出すことを待っていたし、シックもまた、自分の口が上手い具合に話の続きを喋り出すのを待っていた。或いは、彼の中のほんの少しの理性が、彼を押し黙らせていた。ただ雨の音ばかりが時折思い出したようにポツポツと鳴り、ローはレストランの内装を観察した。
クリーム色の壁には、20センチほど間隔を空けて縦長のステンドグラスが嵌めてあった。鳩や花やマドンナの絵柄も無い、単調なデザインだった。店長はそれをゴシック調への病的な信仰心として周囲に上手く説明を付けていた。日曜日の礼拝中、彼はステンドグラスの向こうは、外からはまるで見えないのだと、手を合わせて牧師の言葉を聞き流している時に気づいた。不思議な色合いのガラスは陽当たりに煌きながら、その裏で起こる目も陽も当てられない不祥事を誤魔化すことに長けていた。更に付け加えるなら、ガラスの光に惹かれて、天敵のカラスが投身自殺を図ってくれないとも限らない。幾つか納得のいく理由を挙げて、店長は礼拝を終えたある日曜日の午後に、ステンドグラスを店中の壁に取り付けたのだった。
その内の一つが、シックの背後にもあった。太陽が雨雲に覆われているので、ステンドグラスはくすんでいて、ただの滑らかな壁画とそう変わらないように見えた。ローは一瞬、シックがクリムトの絵画に溶け込んだように錯覚した。
「お待たせいたしました。クリームソーダです。」
まるで起伏の無い、印象にも残らない声とともに、ウェイトレスが仏頂面のまま背の高いコップに入ったクリームソーダを持って席にやって来た。冷えたコップは汗をかいていて、遠慮なくそれを鷲掴んだウェイトレスの手には、涙のように水滴が伝っていた。
コップには毒々しい緑色をしたソーダと、底に真っ赤な実が幾つか沈んでいるだけで、アイスクリームは載っていないことにローは気づいた。シックは昔から、糖分の過剰摂取をよく思っていなかった。
ウェイトレスに控えめな会釈をすると、シックはクリームの載っていないクリームソーダを受け取り、緑色の海に突き刺さったストローを咥えた。コップに添えた手の袖口から、細い手首が覗いた。輪ゴムがかかっている。それはローに、昔のことを思い起こさせた。ぼんやりとそれを見ていると、シックは一口ソーダを飲んだ後で、慎重に輪ゴムで手首を弾いた。パチン、と輪ゴムが皮膚を打つ乾いた音がして、ローは懐かしいことを思い出した。
シックは糖尿病にかかることを何より恐れていた。彼は糖尿病の前兆として痛覚が鈍くなるという話を信じていて、だからいつも手首を輪ゴムで弾いて、痛みを感じることに安心するのだった。
決して自傷などではない──そんな馬鹿な真似はしない。これは簡易的な実験と証明で、糖尿病をいち早く発覚するための、ひどく合理的な行動なんだ。シックはローにそう説明をした。二人は借りたばかりの狭いフラットの一室にいて、だらしなくカウチに広げられたシャツの上に、ローは身を横たえていた。クッションの隙間に落ちたライターを手で探りながら、ローはシックに煙草をねだった。シックは首を振り、話し続けた。
「ロー、君は砂糖だ。とても甘いし、それに痛覚を和らげる。わかるかい、脳の神経を麻痺させる作用があるということだよ──でも、それは病気の兆候ではない。砂糖には鎮痛作用があるんだ。君は糖分過多の懸念を抱えずに済むお菓子そのもので──」
「いつまでそのポエムを聞かせるつもりなんだ?」ようやくライターを探り当て、ローはげんなりしてシックを遮った。カウチの前に棒立ちするシックのジーンズの側面に手をやり、ポケットからシガレットケースを引っ張り出した。皮でできていて、留め具の周りを囲うように黄色い刺繍が施してある。ローに物の値打ちはわからないが、どうせ高価なものなんだろうとローは思った。シックはただされるがままに、もどかしげにローの様子を見ていた。
「僕の考えていることが、ほんの少しでも君に伝わればいいのにとよく思うんだ。」
「俺は別に詩人にはなりたくないんだけど。」煙草に素早く火を点けると、ローは大きく吸い込んだ。その時のローは、シックをよく知らなかった。シックの存在がその後の自分の人生の大半を埋めるだろうとは考えてもいなかった。それゆえにシックがほとんど大げさとすら思えるような語彙で懸命に説明しようとする感情について、ローはただ不思議に思っていた。
「きっと君は泣くよ。」
シックはぽつりと呟いた。彼は抱えきれないほどに水分を吸って膨れ上がった感情を、ただ言葉以外で伝える方法を知らないことが、同じように孤独を膨らませるのだと知った。彼の心は、情熱的に燃え上がったかと思うと、時に奇妙な氷塊に変わってしまうことがあり、そんな時、シックは一人で氷に縋り付いて凍えるしかなかった。
煙草を咥えたまま、ローはすっかり黙り込んでしまったシックの顔を見上げた。ローの星空のような両目が、不思議そうに瞬いた。シックは目をそらした。狭い部屋の中で、彼らは皮膚の隔たりが、まるで銀河を一つ挟むのと変わらない距離なのだと知った。シックはカウチの古い布から飛び出た糸くずをじっと見ていて、ローは何も言えないまま、静かにタバコを吸い続けていた。
パチン、ともう一度輪ゴムが鳴った。
シックは俯いたまま小さな声で「ひどい雨だ」と呻いた。その声で、確かに急に雨脚が強くなったように感じられた。ローは何か返事をしなければいけないと思っていた。何か会話をしなければと思った。それと同時に、何を言っても無駄だろうという気もしていた。
「こうも雨が強いと、危険なんだ。……地球温暖化がもたらした数々の災害で、地表には幾つも亀裂が入っている。今こうしている間にも、その亀裂から雨水が染み込んで、地球の空洞を満たしていて……溢れた時、どうなると思う?」シックは顔を上げて、初めてローの目を見つめた。
「地球が破裂する。」
ローは脊髄反射のように素早く答えた。彼は何かに急かされていた。彼が話したいのはそんなことではなかった。目を合わせられなくなり、今度はローが俯く番だった。シックは相変わらずおっとりと優しく微笑みを浮かべ、「その通りだよ」と言った。
「その通りなんだ。いずれ地球は雨水が溢れて破裂し、人類は成すすべもなく滅ぶ。マグマが消滅したというのも、雨水がついに地殻に埋まるマグマの源を鎮火してしまったからなんだ。地球が破裂して、人類が滅亡するのは時間の問題だ──しかしそれ自体は特に悲観することじゃないんだ。何事も始まりがあれば終わりがあるからね」
「終わらないことの方がずっと恐ろしい。」ローは小さい声で呟いた。
「そう。本当にそうだ。そして僕が思うのは──人類の一員として、僕たちは常に人類の存続に力を尽くすべきだということだ。その時が、つまり、いずれ地球が破裂する日が来るまではね。だから地球温暖化なんてものは極悪だと僕はいつも言っているんだ」
いつも言っていた、だろ、とローは訂正したかった。しかしそうは言わなかった。かつてシックは地球温暖化の抑止力や、それに伴い予想される食糧難のより効率的な解決法について研究していた。そして口癖のように、「僕たちが世界を救うしかないんだ。」と大それたことを言ってもいた。ローはそれをほとんど他人事のように聞いていて、時にはあからさまに面倒くさそうな相槌を打ってもいたが、シックはそれを自分より六つ年下の青年が抱える若さゆえの無関心だろうと捉えていて、腹を立てる様子もなかった。それどころか、無関心なりに知識だけは確かに蓄えていくローをよく可愛がってもいた。
ローは人差し指と親指で乾燥した唇の皮を摘んだ。緊張しているときや、考え事をしているときの彼の癖だった。そうするとシックはいつも、荒れるよ、と優しく窘めて止めさせたのだった。
「地球温暖化は人類滅亡を加速させている。そうだろう」
その日のシックはローを止めなかった。代わりにソーダを一口啜って、尚も優しい教師のように話した。ローは唇の甘皮を引き剥がした。小さな痛みが走った。シックは何も言わなかった。目はローを見つめていたが、気づいてすらいないようだった。
「そして近頃、地球が破裂する以外に人類が滅亡する可能性を高める新たな問題が発生しているんだ。」
「なに?」ローは聞いた。
「蜂群崩壊症候群を知っているかい?」
「蜂群崩壊症候群?」
「ある時、突然蜂の量が急激に減ってしまうことだ。」
シックは大きな両手を組み、肩をすくめてその上に顎を乗せた。背後のステンドグラスと相まって、祈りを捧げている風にも見えた。へぇ、とローは呟いた。暫くそうしてシックは目を閉じていたが、やがて姿勢を正し、深淵のような目を開けた。その瞳の奥にある考えを、昔は覗き込むだけでおもしろいほど正確に読み取れたものなのに、今のローにはまるでシックのことがわからなかった。
「蜂の数が急激に減ると、人類は四年と待たずに滅亡するという予言がある。どうしてかわかるかい」
「花粉を運ぶ蜂の数が減るとまずその花が自力では繁殖できずに滅んで、次にその花を主食とする生物が食糧難に遭い滅ぶ。生態系が崩壊して、最後に食物連鎖の端にいる人間が死ぬ。」
少し考えてから、ローは短く答えた。ローには、時にシックが不親切に説明を省いても、即座に話を理解できる聡明さがあり、それはローの誇りでもあった。シックが嬉しそうに目を細めて微笑むので、ほんの一瞬だけ、ローは陰気な店内に明かりが灯ったように錯覚した。無論、それはただの錯覚であった。
「そうだ!──アインシュタインが言ったとされているが、出典は未だ謎のままだ。しかし誰が言ったことなのかはさして重要じゃない。誰が言ったにしても──蜂の量が減ることが、人類の滅亡、いや、地球上の全生物の滅亡に至ることは事実だ。」
「その、蜂の数が最近になって急激に減っているって話か?」
「あぁ。そしてこれが、最初の話と繋がっているんだ。マグマの消滅が、蜂の繁殖の危機に大きく関わっている。ひいては、僕たち人類の滅亡にね。」
シックは少し声を高くしてそう言った。妙に明るい調子だった。ローの華奢な背中が寒気に震えた。何故シックがそんな話をするのかわからなかった。この長い前置きはひょっとして本題と一切関係はなくて、彼はただ「話し合い」を始める勇気がなかなか出ないので、昔のように地理学の話を持ち出しているだけではないだろうか。ローはそう思った。そう期待してもいた。
一方でローは話の着地点が見えないことに僅かな不安と、そしてスリルを感じていた。シックといるといつもそうだった。不安、期待、さらなる不安、それを上回るスリル。ペーパードライバーのキャデラックに乗ってるみたいだ、とローは喩えたことがあった。シックは、「ロールスロイスが良かったかい?」と澄まし顔でいた。「そもそもキャデラックなんて見たこともないくせに」と言うシックは、確かに高級車に乗り慣れていただろうし、そんな軽口を言ったということはそれはようやくシックが自分の地位を自覚し始めた頃だったのだろう。
ローに出会うまで、シックはどうやら自分が恵まれているらしいということにすら気づいていなかった。分厚い本や膨大な知識だけを抱えた彼は本当に、世間知らずだった。自分の地位を、ローに言わせればただ「それっぽく」聞こえるように形式的に鼻にかける程度には純粋で、無知だった。ローはそんなシックの振る舞いに気づくたびに、どこかもの悲しさを感じた。ずしりと重い拳銃を構える屈強な強盗たちの前に、小さな子供がおもちゃの鉄砲を状況もよくわからずに、ただ相手もそうしているからという理由だけで突き出しているようだった。銃口から弾が飛び出るだの、引き金を引くとどうなるかだの、そんなことも知らないのだ。ローは傍で、強盗を追い払うこともできず、ただ彼らが発砲しないことと、そしていつか子供が発砲を試みないことを願うでもなく見つめていた。
その時もローはほんの少し逡巡したあと、ただ「言いたいことはわかるだろ」とそっけなく言い返したのだった。
雨に降られたので、ローの身体は冷え切っていた。シックの声はますます彼を凍えさせた。背中に張り付いたシャツを剥がそうと、ローはシャツの裾を引っ張った。花の刺繍が目についた。シックもローも、花が好きだった。二人が暮らしたフラットにはよく花が飾られていた。シックは今も、夏の間はコートハンガーにコートの代わりにドライフラワーを引っかけているのだろうか、とローはふと思った。
ローは両腕をさすった。風邪を引きそうな予感がした。しかしローは、なんとかシックに集中しようと務めた。シックは再び何か長い話を始めるつもりらしく、喉を湿らせることだけが目的だろうとよくわかるぞんざいさでソーダを啜った。そしてついでのように、左手がもう一方の袖口をまさぐった。
パチン、と輪ゴムが手首を弾いた。シックの手首にもう一つ赤い跡が残った。何の前触れもなく、ローの視界に写る景色が渦巻くようにおぼろげになった。
灰皿代わりの潰れたミルク缶と、ベーシストを求めるインディーズバンドの貼り紙があるだけの暗い路地裏は、葉巻の煙と排気ガスが辺りに充満して、月さえ曇って見えた。二人は、どこかのアパートの角部屋で子供が弾くノクターンを聴いていた。その子供は母親に高い期待をかけられていて、その夜も無心で、母親に言いつけられるままピアノを弾いていた。ローとシックはそんなことは知らなかった。二人にとって、ショパンはスモッグで曇った夜を思い起こさせる童謡のような旋律だった。彼らは紙に記されることを除いては全く世の中に対して無関心だったし、その二十年後に彼らがそれぞれ落雷と喘息で死んだ時も、世の中は彼らに対して無関心だった。ローはシックの胸に顔を埋めた。どうにか鼓動を聞こうとしていたが、自分の呼吸の音ばかりが耳を塞いだ。靄がかかったような聴覚の向こうで、シックは何度も、ロー、と名前を呼んだ。幾ら呼んでも、一つも苦しい現実の息継ぎに貢献することは無いとシックの理性的な脳はよく心得ていた。しかし脳の心得は、心の心得と並べると、どうも分が悪かった。呼ばれる度に、ローは、うん、とくぐもった返事をした。ふいにシックが優しくローの肩を押して体を離し、二人は見つめあった。逆光で影のようになったシックの顔を、ローは覗き込んだ。
そして、二人は初めてキスをした。何かの偶然のような、僅かな触れ合いだった。チーズケーキの味がした。唇が離れたあと、シックはしばらく呆然としたように立ち尽くしていた。ローの方からはシックの表情はよくわからなかったので、ローはその時、シックが自分を見つめているのだろうと思っていたが、シックはその時、思いつめたように割れたガラスの破片が飛び散る地面を見つめていた。そこに反射する月明りを見ていた。誤魔化すように何か理由を口走ったあと、シックは、おやすみ、と言ってよろけるように立ち去った。ローは路地に佇んだまま、今しがたしたキスを不思議に思っていた。シックは帰ってしまった。ホーム・スイート・ホームに。
今、ローは何故あのキスがチーズケーキの味がしたのかを思い出した。壁が黄ばんだ喫茶店で、シックとローはチーズケーキを、細やかな祝いの言葉と分け合って食べたのだった。あれは誕生日ケーキだった。あの日はローの誕生日だった。
「マグマの消滅と、蜂の数が減ることに、何か関連があるのか?」
ローは背中を丸めて、頭の鋭い痛みに耐えた。痛みはすぐに波のように引いていったが、また波のように戻って来るだろうとローはわかっていた。この頭痛は彼への警鐘だった。しかし彼は、都合の悪い勘には気づかないふりをする節があった。そして気づかないふりをするうちに、本当に気づかなくなってしまうこともあった。シックばかりがいつもあらゆる前兆に敏感だった。彼は堕落の香りには誰より鼻がきいたはずだった。
「それにはまず、蜂の生態について話す必要がある。僕は別に昆虫学者ではないからあまり信憑性が無いだろうけど」シックは神経質に手を擦り合わせた。「長くなりそうだね。すまない」
平気、とローは返した。シックは唇を引き伸ばして不器用に微笑んだ。目の方は、不気味なほどつやつやと輝いていた。シックはストローを咥えた。蚊が人の肌にへばりついて吸血する様子と重なった。
ローは炭酸が苦手だった。それを過剰に気遣ってシックもまた、滅多に炭酸を飲まないようになっていた。今こうして自分の目の前で、自然な具合で美味そうにクリームソーダを啜るシックを、ローはやはり、いつかと同じように不思議な気持ちで見ていた。
「蜂の群には女王蜂、働き蜂、そして雄蜂と三種類の蜂がいるんだ。働き蜂は全て雌で、いつもせっせと餌を集めていたり巣を掃除したりと健気に暮らしていて、あまり今回の話には関係が無い。問題は女王蜂と雄蜂の方でね。一匹の女王蜂に対して、雄蜂は一つの季節に数百匹から数千匹は羽化するそうだ。そうすると、当たり前だが雄蜂同士で女王蜂の争奪戦が始まる。」
ローは静かに相槌を打った。何故シックが唐突に蜂の話をし始めたのか、それがマグマの消滅とどういった関連があるのかまるで想像がつかなかった。またキャデラックが走り出したように感じた。ペーパードライバーが運転するキャデラックが。その高揚感は随分と懐かしく思えた。もし今キャデラックの話をしたら、シックは憶えているだろうか。背中を押されたようにローはふいに、シックの名前を呼んだ。
「何かな、ロー。」
シックは話の腰を折られたことに大した反応も見せず、穏やかな口調だった。
「会えて嬉しいよ。」
ローは静かにそう言った。ますます強くなった雨音に紛れてその声は掻き消された。シックはやはり聞こえなかったようだった。しかし彼は聞き返さなかった。ローも、もう一度言おうとは思わなかった。シックはローが話に着いていけなかっただけだろうと思ったのか、ちょっと微笑んで、また話を続けた。
「雄蜂は繁殖のためだけに存在している。繁殖期を過ぎても女王蜂を射止められなかった場合、雄蜂がどうなるかわかるかい」
ローは肩をすくめた。シックは微笑み、「例えばね」と言った。
「ある少年が短い人生の全てをたった一度の大学入試に賭けていたとする。家族も大いに応援し、勉強に励む彼を優しく甘やかした。そして彼は試験を受けた。結果発表の日になった。現実は無情で、彼の結果は不合格だった。」
「ありがちだ。」ローは頷いた。
「そう。どこにでもある話だ。さて、ロー。君が仮にこの不運な少年だとしたら君はどうする?」
「難しい質問だな。」ローは背もたれに寄りかかり、腕を組んだ。彼は勉強に励んだ経験も無ければ、ましてや失敗に打ちひしがれたことも無かった。暫く考える素振りを見せた後、ローは「とりあえず、家族に報告するかな」と言った。「応援してくれたわけだし」シックは「そうだね」と微笑んだ。
「少年はとりあえず家に帰った。落胆されるだろうか、慰めてくれるだろうか、と色々考えながら家に帰った。しかしその心配は全て杞憂だった。何故なら帰った時、彼の家族はもういなかったからだ。玄関の扉を開けた、少年の母親だった女は怪訝そうに眉をひそめてこう言った。「あなた誰ですか」と。少年は困惑した。自分はあなたの息子だと説明した。しかし女はわからないようだった。そこに今度は少年の姉だった女が現れた。少年は必死に訴えた。僕はあなたの弟だ。一緒によく公園で遊んだじゃないか。日曜日にはよくケーキを焼いてくれたじゃないか、と。だが女は全く聞いていなかった。「あなたのことは知らない。これ以上ここにいるなら警察を呼びますよ。」と女は言った。その時、少年は悟った。あれだけ期待をかけられた試験に受からなかった自分は、もはや家族の一員ですらないのだと。」
「ひどい家族だ。」ローはとりあえずそう言ってみたが、いまいち実感は湧かなかった。テーブルに突っ伏すと、シックの前に置かれたコップに伝う水滴を押しつぶすように指で撫でた。指先に冷たさ刺さり、それは頭痛と、そして空腹を優しく刺激したが、どうにも飲む気にはならなかった。
「そんなわけで、少年は家族に家を追い出されたわけだ。少年は大変落ち込んだ。だけどいつか、しょうがないさ、と立ち直った。自分一人で生きていこうと思ったわけだ。」
「いいな。ポジティブで。」
「しかし、彼は一人では生きていけなかった。」シックは感情の籠らない瞳をローに向けた。その目はローではなく、どこか遠くの、例えば地球の空洞でも覗き込んでいるかのようだった。
「何故なら彼はほとんど生活の術というものを知らなかったからだ。有名校に受かることだけを目標に生きた人生。その代わり、家族に思う存分甘やかされた人生。彼は自宅だったはずの家から離れて、ふと足元を見下ろした。ブランド物のスニーカーの靴紐が解けていた。彼は屈んで靴紐を結ぼうとはしなかった。結び方を知らないからだ。それどころか、食事のしかたもわからなかった。咀嚼の方法さえ知らなかった。食事は家族に文字通り口移しで渡されていたからだ。やがてその少年は何もできずに死んで、物語は終わりだ。」
シックは手を伸ばすと、ローからクリームソーダが入ったコップを取り上げた。シックの手は震えていた。しかし表情だけは実に無感情で冷静だった。
厨房の方で、金属質な物音がした。そういえば、シックはキノコスパゲティも頼んでいたんだったとローは思い出した。あまり食に関心がある方では無かったが、二食抜いていると、いい加減空腹を覚え始めていた。それと同時に、ローは、幾ら雨が強くても、こうも客が来ないものだろうかと疑問に思った。彼は何も知らなかった。昨日の夜から何も食べていないと言った時、どうしてシックが「それは良かった」と返したのかもわからなかった。そもそもこのレストランが、自身の幻覚ではないだろうかとさえ思った。ここ数年、ローはあまり意識がはっきりしていないことが多かった。何故だろうとは考えるまでもなかった。アルコールと薬のせいだ。
「雄蜂にも、全く同じことが起きる。」
わかるかい、ロー、とシックは呟いた。
「雄蜂は幼虫のうちから、繁殖のみを目的に大事に働き蜂に育てられる。食事も身の回りの世話も働き蜂がやってくれる。それが繁殖期を過ぎても女王蜂を孕ませられずに巣にのこのこ帰って来ると、一も二もなく追い返されるんだ。そんなことはひどく残酷だと思わないか」
「だけど生き物なんてみんなそうだろ。そういう本能なんだ。生き物はみんな、繁殖を中心にしたシステムの中にある…」
ローはかろうじてそう呟いたが、シックは聞いていなかった。シックはテーブルに身を乗り出し、ローの手首をきつく握った。血液が脈打つのがシックの手に伝わった。
「想像したことがあるかい。繁殖に失敗した雄蜂たちのことを。可哀想だと思わないか?ロー?できることなら彼らを助けたいと思わないか?巣での幸せな暮らしが走馬灯となって、息を引き取る寸前まで彼らの脳裏に甦るんだ。あの優しさも、あの献身もすべて嘘だったのだろうかと地に落ち力尽きるその瞬間まで嘆くでもなくただ不思議に思っている彼らを救ってやりたいと思わないか?」
囁くようにそう言うと、シックはゆっくり手を離し、席に座りなおした。手を引っ込めることもせずにいるローを眺め、シックはクリームソーダに刺さったストローを咥えた。
息を吹くと、緑色の海に沈んだストローの先から大きな泡が幾つも滑り出た。蟹の呼吸のように上へと漂い、水面で泡立つ様子から、ローは目を逸らせずにいた。ストローから口を離すと、パチンとシックは輪ゴムを弾いた──
ローとシックは借りて間もない狭いフラットにいた。シックはアームチェアで脚を組み、険しい顔をして本を読んでいた。右手には青いボールペンを持ったままで、小さな机には乱雑に書き込まれたノートが開かれていた。「人口増加により懸念される食糧危機の可能な解決策──遺伝子組み替え作物の持続可能性」と題した論文の執筆がどうにも上手くいかず、シックは苛立ち混じりの休憩に読書で気を紛らわせようとしているところだった。つい先ほどシャワーを終えたばかりのローは湿った髪を乱暴に手で梳きながらしげしげとシックを観察した後、ふいにおどけた声を出した。
「“ごめん、まだ仕事が残ってるから、今日は帰れない”?」
シックは本から顔を上げた。バツが悪そうに肩をすくめた後で、堪え切れないようにニヤリと笑った。ローはその表情に気を良くして、今度は「“私、あなたが心配よ!”」と甲高い声を上げた。クスクスとシックが肩を揺らした。
「そんな言い方じゃなかったな。」
「“お義父さまに言いつけるわ!”とかだった?」
「まさか──“あなた、最近変だわ”……」
「“僕は大丈夫だよ。君も早く寝るんだよ。”」
ローは今度は、大げさに眉をひそめてシックの声を真似た。そう似ているわけでもないだろうに、シックは目尻に皺を寄せて笑った。それから二人はしばらく下手な芝居を続けた。「“もう奥さまのことは愛してないんですね?”」ローは言った。──これはある小説の一文だった。「“かけらもね”」シックが返した。──これは嘘だった。
背もたれに肘を置き、後ろから覗き込むようにして、ローはシックの読む本を確認した。
「本を読む合間に本を読むなんて、なかなかいかれてるよな」
冗談まじりにそう言うと、シックは長時間の作業で僅かに強張っていた表情を緩ませた。少し顔を傾けると、シックは側にあったローの頰にキスを落とした。漸く自分に本当の小休止を許す気になったらしかった。
「こうじゃいけないとは思うんだけどね。本は娯楽であるべきなのに、今じゃまるで義務だ。」
「ジークムント・フロイト。」本の作者を確認すると、ローは眉を吊り上げた。「フロイトなんて、娯楽にならないだろ。せめてフィクションにしろよ。」
ローは呆れてシックの手から本を取り上げた。角が潰れていて、一度破れたらしい表紙には粗末にセロハンテープが貼られていた。背表紙に達筆で書かれた「N.S.」というイニシャルもインクが滲んでいた。大事なものに限って、シックは丁寧に扱わない癖があった。そもそも彼は、生涯をかけても、大事なものというものがわからなかっただろう。シックは一度もそうと認めたがらなかったが、何かを大事に思うことすら、彼にとっては理解しがたい演技の一種にすぎなかった。
「フィクションが作り話という意味ならね、ノンフィクションというジャンルは僕は無いと思うよ。全ては君が信じ、受け入れるまではただの作り話と変わらない。真実ではない。」シックは観念したように肩をすくめた。口が回るままに任せると、彼はよく屁理屈を述べる癖があった。
「そんなことを言っていた哲学者がいたな。心理学者だっけ?」ローは濡れた髪を後ろに撫でつけてから、本をパラパラと捲った。彼は髪を乾かす習慣が無かった。
「君が読んでくれ。声に出して」
「こんなクソつまんない本を?」
「つまらなくないさ。つまらない本は無い。君だって知っているだろう、本は他人の人生を読んでいるようなものだ。」
シックは目を閉じようとしたが、右手には未だペンが握られていた。ようやくそれに気付くと、自分自身に呆れるように口を歪め、ため息と共にペンを机に放った。ペンはノートの上に着地し、小さな音が紙に吸い込まれた。
「売れば?」
ローは何気ない口調で顎でしゃくった。何を、とシックは聞いたが、ローは返事をしなかった。シックは振り返り、背もたれに頬杖をつくローの方を向いた。ローの目を覗き込んだ。丸い瞳孔は、泣いているわけでもないのに、眼球に溶けていきそうなほど濡れていた。そしてその目は、抛物線を空中に描いたペンでもなく、ペンを投げ出した骨ばった指でもなく、シックのもう一方の手の上で光るリングを見つめていた。シックはローの視線を辿り、ゆっくりと自分の左手を確認した。ほんの一瞬、二人は探り合うように沈黙した。そして、やがてシックが「売れないよ。名前が彫ってあるからね」と静かな口調で答えた。
嘘だろうとはすぐにわかったが、ローはそれ以上追求しなかった。
「それに、大事な物なんだ。」
ポツリとそう呟くと、シックは前に向き直り、今度こそ瞼を閉じて椅子に深く沈み込んだ。
「寝んの?」
「いや、君が読むのを聞くことにするよ。知識として内容を知りたいだけだからね。目を休ませたいんだ。」
「さっきは本は娯楽だとか言ってたくせに」
芝居かかった仕草で首を振ると、ローは栞代わりに紙切れが挟んであったページを開いた。よく見るとその紙切れは、百貨店のレシートだった。このフラットには無い銘柄のシャンプーや洗剤の商品名が印刷してあった。シックが果たして日用品の買い物を自らする必要があるわけもなく、それも恐らくは彼が思う良き夫の振舞いを「それっぽく」やっていただけなのだろう。それでもローは胸あたりが詰まる感覚がした。ローはレシートを見なかったことにした。開いたページから適当な文章を選び、ローはよく通る声で読み上げた。目を休ませたいだけ、と言っていたシックは、すぐに寝入ってしまった。
ローは──こんなことは決してシックには言わなかったが──地球温暖化については、懐疑派に属する意見を持っていた。
理由は実にシンプルで稚拙だ。
地球温暖化を主張する派閥はいつだっていやに神経質でヒステリックだという印象がどうにも強かった。少しでも懐疑的な意見を言ってみると、シックを筆頭にどんな紳士も過敏に反応し、数学的や統計学的根拠を論うに決まっているのだ。一方で懐疑派は、少数派として場をわきまえているかのように実に控えめで慎ましく、内容云々の前に好感が持てた。実際、ローは懐疑派に賛同しておきながらその主張については露と知らなかった。あえて知ろうとさえしなかった──深く知れば自分は必ず賛成派に鞍替えしざるを得ないだろうとローはうすうす感じていたのだ。ローも、ただ少数派というだけで擁護し手を貸す若者たちの一人だったというわけだ。
あの日読んだ本で、フロイトは人間の精神を氷山に喩えた。イド、自我、超自我、とそれぞれ事細かに説明されていたが、とにかく人の行動は自身の無意識に全て操られていて、意識的に行ったことでさえ、無意識によるものだというような内容だった。予想したほど、ローにとっては「クソつまんない本」とならなかった。ローは本を読むことが好きだった。シックがそうさせた。
それ以降、ローはシックが地球温暖化の最新情報について熱心に語る度に、水位上昇を懸念する度に、フロイトの言った氷山が熱で溶ける様子を想像した。そしてシックのことを考えた。精神が心か脳に宿るのかは定かではないが、頭からは汗のように、胸からは服の染みとなって、シックの深層心理やイドが溶け出していく様子を想像した。地球の空洞に、シックの溶けた意識が亀裂を縫って染みていくのだ。
もしその雫に吸い付いて舐めとったら、シックの全てをわかるだろうか、とローは思っている。
「とまぁ、今のはまだ話の半分なんだ。」
パチン、とシックの手首にかけた輪ゴムが鳴った。彼の手首には、すでに紫がかった鬱血痕ができている。それをしみじみと見つめて、シックは親指の腹で痕を撫でた。そして視線を上げてローと目を合わせると、柔らかく笑った。
「まさか蜂への感情移入の末に、君にこんなことを頼もうと思ったわけではないんだからね。」
でも、こんなこと、とは一体何なのか、ローは知らないのだ。
「さっきの話には続きがある。ナーフ・スリジエという地理学者を知っているかい。」
知らない。ローは短く答えた。実在するかさえ疑わしいと思った。しかしそんなことは重要ではなかった。敬愛なるナーフ・スリジエ氏がシックの脳裏に存在しているのであれば、それはローにとっても事実に等しかった。
ローとシックの耳には、雨の音がテレビの砂嵐のような調子で鳴っていた。雨が止まない。このまま永遠に止まないことをシックは恐れていた。早く手を打たなければいけないと彼はローに囁き続けた。
「少し前の話だ──スリジエ氏は地理学者だったが、思いがけず昆虫学に大きく貢献することとなった。それも全くの偶然でね。スリジエ氏は地熱エネルギーの更なる発展に関心を寄せていて、その日もある地域の火山付近で数名の学生と調査をしていたわけだ。」
ローの耳は敏感に周囲の音を拾った。ローが背を向けている10メートルほど離れた壁には、厨房へ続く両開きの鉄扉があった。二枚の扉に、それぞれ丸いステンドグラスが嵌め込まれている。ウェイトレスが、厨房の方を覗きに行く足音がした。扉が開き、そして閉まる音がした。厨房の方で、何か包丁を使っている音がした。包丁の音が止んだ。厨房から、誰かが僅かにこちらへ近づく音がした。誰かが、ステンドグラスを偏愛する店主が、こちらの様子を窺っている。
「その頃はもう、地球の空洞の影響でその地域のマグマの温度は下がっていた。スリジエ氏は勤勉な人だったが、学会が大っぴらにしなかった空洞の存在については知らなかったので、マグマの温度の変化に驚いた。彼は地熱エネルギーを研究しているのだから、もちろんこの発見には大いに戸惑ったが──それ以上に驚くべきことがあった。彼は火山の噴気孔の側に、大量の蜂を発見したんだ。」
「蜂?」ローは聞いた。「なんで?」
シックはローが関心を持ったことに安堵したような表情を見せ、「それも全くの偶然なんだけれどね、」と肩をすくめた。
「マグマの温度が下がったことによって、どうも火山付近が信じられないほど蜂の生息にぴったりな環境と化していたようなんだ。もちろん花なんかは咲いていないけれど、地形、気温、湿度、その他諸々が恐ろしいほど蜂の巣としてこの上ないほどの立地となっていた。案の定、スリジエ氏がしばらく辺りを散策すると、ほどなくして噴気孔にびっしりと蜂の卵があることが確認された。マグマの熱は、蜂の卵を孵化させるのに最適だったんだ。」
「それって、でも」ローは言いかけて、口をつぐんだ。彼は何を言いかけていたのだろう。それって、でも、ありえない。それって、でも、嘘だろ。いずれにしても、彼は口には出さなかった。シックはローをちらりと一瞥したが、特に興味を持ったようではなかった。
「何事にも始まりと終わりがある。」シックはソーダに口をつけた。何をしていようとも、その視線がローから外れることはもう無かった。それはローが長い間望んでいたことだった。今となっても彼は、その視線から逃れたいとは思わなかった。
「この場合の始まりとは、つまりどのようにして蜂のコロニーが火山に出現するに至ったかということだ。ロー、彼らはどこから来たと思う?」
「普通に地上に生息していた蜂が、道に迷って火山の近くに辿り着いた、とか」言いかけてから、ローは気づき、少し目を見開いた。「さっきお前が言ってた、巣から追い出された雄蜂?」
「そう。雄蜂はさっきの不幸な少年だね。」シックは頷いた。
「彼は家族に見放され、家を追い出されたが──やがて救いを見つけたんだ。彷徨っているうちに、火山に辿り着き、そこの住民たちは彼を歓迎した。より優秀な遺伝子を残す、という本能が欠けている蜂たちのコロニーでは、雄蜂は追い出されることはなかった。彼らは地上の蜂たちのように、わざわざ飛翔高度を競って女王蜂を争奪するなんてことはしていなかった。質より量を重視した繁殖を心がけていたわけだ。それ以外には、全く普通の蜂のコロニーと変わらない。働き蜂は餌を探して来るし、雄蜂と女王蜂はそれを食べる。ただ効率的になっただけだ。」
シックはコップの中に立ったストローを指でクルクルとなぞるように回した。ストローにまとわりついた小さな氷の粒が、一緒になって踊るように回った。氷は溶けかけている。ローにはそれがシックが抱える氷山のように見えてならなかった。
「それも、言ってたのか?」
「誰がだい?」
「ナーフ・スリジエが。」
「あぁ。ロー、」シックは小馬鹿にしたように鼻で笑った。「書いてあったんだよ。スリジエ氏が口をきく機会は無かった。発言力もまるで無かった。僕はスリジエ氏の論文を運良く読んだんだ。」
「──いつ?」
ローは今朝から水すら飲んでいなかった。体内に循環するのは、昨夜浴びるように飲んだアルコールだけだった。しかし口の中が乾いているのは、それだけが理由では無いように思えた。ローは唇を舐めた。ひび割れている。唾液が傷に染みた。
シックはまるで作り話をしているような様子ではなかった。彼は、彼の現実について話していた。
「彼は──全くの凡人だった。ただの勤勉な学者の一人だったんだ。何事に対してもね。たったそれだけだ。」
シックはローの問いかけには答えなかった。ほんの一瞬だけ、シックの目に僅かに、まるでかつてのように自分すら言い負かそうとする懐疑心を取り戻したような戸惑いが浮かんだように思えたが、しかしそれは瞬きの合間に消えた。彼は疲れていた。
「スリジエ氏によると、まず最初に火山へ向かったのは女王蜂だろうと予想された。彼女は本当の女王ではなかったようだけどね。蜂の世界では幾匹もの女王蜂候補が殺し合い、生き残った者が女王蜂となるわけだが──火山に向かった女王蜂は、どうもその戦いから逃げ出した者らしい。そこへ地上のコロニーから追い出された雄蜂が何匹もやって来て、増殖に至ったというわけだ。」
「戦いから逃げたり、繁殖から逃げたり、より良い種を残すという本能から逃げたり、とても逃げることに特化した品種なんだな。」ローは目を伏せると、少し笑って肩をすくめて見せた。
「そうだね。」シックも苦笑いを浮かべた。目尻のシワが一層、深くなった。
だけど逃げることは悪じゃない。そうだろ?ローはいつかシックにそんなことを言った。それが何か、口論に発展した気がするが、ローには思い出せなかった。
「でも、不幸な運命を辿っていた雄蜂にとっては素晴らしいオアシスだった。彼らは全員、優秀な遺伝子を残すという生物にして基本的な本能を無視するに十分な理性を持っていて、それが彼らを繁栄へと導いたんだ。一説によれば、そのマグマのオアシスに生息する蜂の数は、大陸上に生息する蜂の数を大きく上回っていたという話もある。何せ、地上の蜂たちのように戦ったり、巣から追い出されたりということが無いんだからね。精子と卵子が揃えば幾らでも繁殖が可能だ。効率がいい。蜂群崩壊症候群をどうにかしようと思うなら、まず彼らの保護が最優先だろうと僕は思うんだ。」
「ナーフ・スリジエ。」ローはポツリと、言葉を口の中で転がすように呟いた。「そんな大変な発見をしたのに、全く知らなかったな。」
ローは、自分を疑うような言い草にシックが多少は憤るだろうかと考えていた。それが果たしてどんな方向に転ぶのか、そしてロー自身、自分がどういった風に事態が転ぶことを望んでいるのかもよくわからなかった。しかし予想に反して、シックは至って真面目な調子で、ローを慰めるように、「仕方ないよ。」と言ったのだった。
「知らなかったのも無理はない。彼は全く、何のメディアにも取り上げられなかった。最初にも言ったが、学者というのは、一部の純粋な者たちを除いてほとんどが常識の転覆というものを嫌っているんだ。地球の構造は?地殻、マントル、核。謎は多いけれど、一先ずそういうことにしようじゃないかということで今まで研究は進んで来た。それがある日、実は地球の中身が全くの空洞で、しかも水が溜まっているとなると──とても面倒だ。無かったことにした方が早い。蜂だって同じことだ。新種の発見とは訳が違う。これはファーブルから通じる昆虫の生態への認識そのものを改める必要があるということだ。果たしてたった一人の無名の地理学教授とその数人の弟子たちの発見のために、歴史を書き換える必要があるのか?答えはノーだ。わかるかい、ロー。学会の出した答えは、一致団結のノーだ。今すぐ人の命がどうこうなるということでもない。もちろん、いつかは誰かが重い腰を上げて調査に踏み込む必要があるだろうとは彼らにも想像がついた。だけど、それは今じゃない。彼らはそう思った。信じられるかい、ロー?学者たちの惰性や悪意の無い先送りで発見や発明が遅れた事例なんてたくさんあるんだ。」
一息にそう言い終えると、シックはローの反応を窺うように黙り込んだ。滝のような言葉がローの全身にゆっくり染み込んでいくことを待っているようだった。ローは無意識に、頭痛の波がやって来ることを望んでいた。過去と現在の境目を曖昧にしていることが心地良かった。何より、意識を現実に保っていることがローには苦痛だった。いつもそうだった。昔と何一つ変わっていない、とローはそう思った。
程なくして、シックが手首を輪ゴムで弾いた。何度も弾いた。蛇のような赤い痣が腕に這っている。パチン、という音がする度に後頭部を殴られたかのような痛みを感じ、ローは目をきつく閉じた。過敏になった聴覚が、カラカラと氷がソーダの海の中でぶつかり合う音を捉えた。
ローとシックが過ごしたフラットの隣には小さな山がそびえていて、そこには粗末に掘られた川が山壁に沿って流れていた。ただ汚水を山の麓へ流す目的で作られた人工的な溝を、ローもシックも愛していた。せせらぎとは程遠い、濁った水と、恨み言さえ聞こえてきそうな粗野な轟音、段差に躓く度に癇癪を起こしたように泡立つ川の流れを、ローとシックは甘い口喧嘩の背景によく受け入れた。そういう時には決まって、ローのジーンズのポケットには小型のラジオが入っていた。キスにも皮肉にも飽きると、彼らは勝手がわからないまま引っ張り出したラジオのあちこちを押したり捻ったりして、何かの拍子に運良く流れた放送は、ニュースでも音楽でも、川のそばに腰掛けて静かに聴いた。
伝説のロックスターが死んだ時も、彼らは川辺でラジオを聴いていた。
唐突な報道に、ローもシックもただ呆然としていた。ローは手頃な石を枕に寝そべっていて、シックは胡座をかいてその辺の小さな光る虫を観察していたところだった。喧しかった川が急に黙り込んでしまい、二人は寒さすら覚える静けさの中で、ラジオが喋ることを何も聴き逃せなかった。操作がわからないので放送を変えることもできず、二人は小さな機械に翻弄された。話題があっという間に変わって、明け方の音楽番組が古いブルースを流し始めた頃、ようやくシックが妙に冷静な声を上げた。
「あの人は──どこへ行ったんだろう?」
ローは小さく口を動かして何か答えた。しかし、その頃にはすっかり調子を取り戻した川が、彼の言葉を掻き消してしまって、シックには何も聞こえなかった。ローも、今となっては当時の自分が言ったことなど忘れてしまっている。
「ロー、君は信じていないんだろ?だけど本当のことなんだ。マグマは存在していないし、地球の中には水が溜まる一方で、地球温暖化は今も進行している。蜂が絶滅すれば人類も滅びるし、誰かが手を打たなければいけないんだ……」
「わかってる。」
頭の痛みに息を切らしながら、それでもローはシックの目をしっかり見て、何とか口角を上げた。シックは相変わらずいつもとまるで変わらないようだったのに、ただ両目だけが何かの食べ物のようにきらきらと輝いていた。あぁ、卵の白身だ、と思い至る。シックの目頭に口付けて、唇をすぼめて吸ったら、ドロドロに溶けたシックの眼球が、喉を滑り落ちていく様子が想像できた。ローは無性に喉が渇いていて、そして空腹だった。自分はこのまま渇きと飢えで死ぬのではないだろうかとさえ思った。シックがストローを咥えた。透明な管の中で、緑色の液体が上下している。
「でも──それなら、俺に何をして欲しいんだ?地球の空洞に水が溜まることを防いで欲しいのか、可哀想な蜂を救って欲しいのか、」
「地球の空洞についてはどうしようもない。それに関しては人はまるで無力だ。」
「じゃあ、蜂?」ローは深く息を吸い込んだ。痛みがいくらか和らいだ。「マグマの方にそんなに蜂がいるなら、蜂群崩壊症候群が起きたとしても、そう深刻な問題にならないんじゃないのか。仮に大量の蜂が消失したとして、質より量を重視するマグマの蜂たちによって数なんてあっという間に元に戻るだろ。」
「マグマの蜂たちが永遠にいてくれたならよかったが──気候変動はこうしてる間にも深刻になるばかりで、同じ環境を長く維持することは極めて困難だ。」
シックは頭を振り、ふいにローの背後を見つめるようにした。ローも振り返った。
いつの間にか、ウェイトレスは厨房から戻っていた。厨房の鉄扉の脇に、貧弱な門番のようにして立っている。ローが振り向いても、ウェイトレスは何の反応も示さずに、まるで、指示があるまで動いてはいけないとでも言われているかのように、ただ無表情で前を向いて立っていた。
厨房のステンドグラスの向こうに、誰かがいる。
虹色のモザイクがかったガラスに、店主は分厚い唇と、丸い鼻の頭と、皺だらけの額を押し付けている。血走った両目が大きく見開かれて、ステンドグラスの向こうで起きている一部始終を覗こうとしている。
「キノコだ。」
「え?」
「やがて、火山付近にキノコが観測されるようになった。気候変動の影響だろう」シックはすっかりローの背後から視線を外していた。神経質に震える指で、手首にかかった輪ゴムを弄び始めた。「と、スリジエ氏は言っていた。」
「書いてたんだろ。」
「論文にね。」
「マグマの熱エネルギーにより窒素固定が発生したことで、亜硝酸塩などの窒素化合物が生成されたことが原因だろうと考えられる。これらは菌糸の栄養素になるからね。それで唐突に火山付近にキノコが生え始めたものだと思われる。」
シックは淡々と語った。時折、反応を窺うように言葉を切った。生物学についてまるで詳しくないローにとってはあまりに不十分な説明だったが、シック自身にとって筋が通っていれば、それは問題ではなかった。シックが何かについて語るとき、ローの意見を求めたことは無かった。ローはいつも黙って、シックの話を聞いていた。その時もローは何も言わなかった。
「キノコが生物に寄生できることは知っているかい?」
「聞いたことはあるけど、」ローは呟くように言った。「フィクションの話だと思ってた。」
「そうか。いや、僕は蟻に寄生するキノコの映像を観たことがあるんだけど、本当にまるでフィクションのようだったよ。」シックは音を立ててソーダを啜った。ソーダはおよそ三分の一ほどに減っていて、底に潰れた赤い実がへばりついていた。空腹でローの胃が痛んだ。
「僕が観たのは熱帯雨林のドキュメンタリー番組でね。わかるだろ、アマゾンに潜伏して、生き物の生態を撮影するようなヤツだ。最初は普通に蟻が歩いているだけだった。」
レストランの外では雨が強くなる一方だった。店主はようやくステンドグラスから顔を離した。調理を再開した。しかし視線はずっと、ガラスの向こうへ向けられている。ウェイトレスは前だけを見ている。
「いつも通り、食べ物を巣に運んだり、仲間と素早いコミュニケーションをとったりね。すると急に蟻の様子がおかしくなる。痙攣したり、身体を折り曲げて震え出したり、必死で自分の匂いを嗅ごうとでもするかのように身を捩り始める。僕はてっきり、それが蟻なりの身繕いなのかと思いながら観ていたんだが、違った。暫くすると、何か白いものが蟻の頭を突き破って出てきた。なんだろう、と思っていると、その様子が早送りになって、白いものがニョキニョキと伸びていく。それはキノコだった。蟻に寄生していたキノコが、ついに蟻の体を破って外に出てきたんだ。蟻に、キノコを繁殖に有利な場所に運ばせた後でね。それきり、蟻は動かなくなった。死体は他の生物に食われたり、他の蟻に運ばれたりして──残るのは、キノコ、ただのキノコだ。」
「それは気持ち悪いな。」ローは少し顔をしかめた。
「気持ち悪い?そうかな。」シックは頬杖をついた。「ただ、火山付近でもこういったことが起き始めたんだ。蜂の生息に適した環境からどんどんかけ離れていく一方で、キノコに寄生される危険性も高まっていった。あっという間に、火山の近くはキノコだらけになった。」
「散々だな。」
「全くだ。」シックはまるで感情を込めずにそう言った。喋りながら、彼の意識はどこか別の場所にあるように思えた。彼の脳内では今、様々な思考が渦巻いている。
「地上にいる時は繁殖に失敗して家を追い出され、辿り着いた先の新しい住処ではキノコに寄生されるなんて、なんとも、」ローはそこで小さく息を吐いた。
「それが本当の話なら──」
「本当の話だよ、ロー。スリジエ氏が発見したことだ。」
そこでローは初めて真っ直ぐにシックの目を見つめた。訝しむように、眉が寄せられた。キャデラックが急ブレーキをかけた。その反動で身体が前につんのめり、ようやくフロントガラスの向こうの景色に気づいたかのように、ローの美しい瞳には僅かな怯えが混じっていた。今度のドライブの目的地について、初めて疑問を持った。不安、期待、それを上回るスリル、そんな娯楽めいた起承転結を楽観的に享受することへの疑問について初めて彼は考慮した。考えることを考慮した。
「本当か嘘かという話より、信じるか信じないかの問題の方が遥かに深刻だ。現実を直視しないことは、破滅を招くものだよ。」シックの目は昆虫の硬い鎧のように艶めいていた。何か希少なお菓子のようにも見えた。いずれにしても、得体の知れないものだった。
「地球温暖化も、マグマが存在しないことも、蜂群崩壊症候群の懸念も……誰も認めようとしなかった。スリジエ氏はそれに抵抗し得る英雄を求めていた。いや、何をしようともいずれ終わりは、終わりにしなければいけない時は、訪れるものだ。」
最後の一言は、まるで自分に言い聞かせるようだった。
「そこまで深刻にとらえることじゃないだろ、それに──」ローは笑おうとした。しかしそれは失敗に終わった。「恐ろしい現実から逃れようとする人間や、蜂を、誰が責められるんだ?」
「誰も。」シックはクリームソーダのコップからストローを抜くと、テーブルの上に転がした。半透明の飛沫が木目に散った。
「責める人がいればよかったものだけどね。」
ローは上目遣いでシックを見やった。シックの指がテーブルに乗った小さな水の粒を突き刺した。丸い宝石のような雫が潰れて、きらきらと光る水たまりになった。シックの背後のステンドグラスが映っている。そして、それを見て無意識に唇を掻きむしっているローの様子も。
「さて、どこまで話したかな。」
「蜂がキノコに寄生されるって話。」
「あぁ、そうだ。スリジエ氏が……」
「俺はそのスリジエ氏が嫌いになりそうだ。」
「ロー、彼を知っていれば、誰でもきっと彼を嫌いになっただろうと僕は思うよ。」
せせら笑いを浮かべ、シックは長い指でテーブルに乗った水滴を引き伸ばすように擦り続けた。マホガニーの木材が色濃くなっていく。水が僅かな亀裂から染み込んでいく。ローはシックから目をそらせずにいた。
「君はスリジエ氏の話を信じていないな。」
テーブルに視線を落として、忙しなく指を動かしながらシックはポツリと呟いた。
その声は暗く、そして自嘲的でもあった。ローはそれに聞き覚えがあった。ほんの一瞬だけ、二人があの狭いフラットの、それぞれカウチとカーペットに座っていた頃に戻ったかのように感じた。ローはゆっくり瞬きをした。
「あぁ。信じてないよ。スリジエ氏の話は。」ローは言った。
シックはローを見た。ローにはシックが弱々しく見えてならなかった。
「でも、お前の話すことは信じてる。」
絞り出すようにローはそう言った。そして、今度こそ笑みを浮かべてみせた。上手くいったのかはわからない。小さく息を吐くと、シックは間を持たせるようにテーブルに放ってあった噛み跡だらけで平べったくなったストローを拾い上げ、クリームソーダのコップにさした。「ありがとう。」とシックは言った。
奇妙な既視感と共に、胸が詰まる居心地の悪い感覚があった。いつもそうだった。誠実さの固まりのようで、発言のすべてを暗に神に誓っているようなシックの前で、ローはいつも自分の言う一切のことが急に悪意のある嘘に成り下がったかのように感じるのだった。言葉の一つずつが、厚いカーテンに阻まれている。舞台の垂れ幕のような、赤いビロードで、しかし二人はどちらも舞台の上に立っていて、カーテンは二人を隔てるように舞台の真ん中に掛かっているのだ。
何より、ローはシックがあまり自分の言葉を当てにしていないことに気づいていた。誠実とは──一体なんなのだろう?シックが曖昧に「ありがとう」と言ってローが言いかけていた弁解や、言葉足らずの説明を遮るたびに、ローはそう思った。望まれている答えを口に出してやることが、孤独に打ち震える人に根拠のない約束を与えることが、そんなにも不誠実なのだろうか?
そうは思っていても、やはりローは見えないカーテンに、ひょっとしたら存外簡単に捲りあげられるかもしれないカーテンに向かって、空虚な独り言を囁き続けた。もしくは、その向こうで起きる一切の、まるで行方の知れない脚本に、常に付き添っていた。
それ以外、シックの気を引く方法を知らなかった。しかし、シックの方はカーテンの向こうでローが何をしていようが知るよしも無いのだ。
シックは何か言いたげに少し口を開きかけ、そして結局何も言わずに再びテーブルを観察し始めた。
「蜂が絶滅したら、人類に未来は無いんだ。」シックは視線を伏せたまま淡々と言った。「だけど僕はスリジエ氏の論文を読んで、ある希望が見えた。」
「希望?」
「スリジエ氏はこんなことも発見したんだ。キノコが蜂に寄生する時──蜂の卵も例に漏れず、寄生され、そしてキノコになった。これは生物学的な観点で見ればおかしい話だけどね。キノコが蜂に寄生するのは、繁殖に有利な場所への移動が主な理由と言われているのに、自分では動くことのできない蜂の卵に寄生したところで、何の意味がある?だけどこの矛盾を聞いた時、僕はチャンスだと思ったんだ。逆だったんだ、今までとは。」シックは呟いた。
「わかるかい、ロー。今度はキノコの方が、意図せず蜂の卵を孵化に有利な場所へ運ぼうとしている。」
「運ぶと言っても、キノコはそこに生えてるだけだろ。意思があるわけでも無いし、ましてや動けないんだから……」
真剣な表情で話すシックに少し怖気付きながら、ローはおずおずと反論した。
「その通りだよ。だけどキノコは一先ず、温度が下がって卵の孵化が不可能になったマグマから卵を運び出せるきっかけを作ったわけだ。あとは誰かが──誰かがその続きをやってやればいい。世界を救う蜂の卵を孵化させられる環境に、誰かが連れてってやれば。」
わかるかい、ロー。シックは囁くように言った。ブラシで頭の裏を軽く撫でられたように、その声はゆっくりとローの皮膚に染み込んだ。シックはいつも、執拗にローの名前を呼んだ。「ロー」という発音が何かの魔法であるかのように錯覚していた。その呼び名は、ともすれば他人には呪いのようだと思われた。ロー、という言葉が牙のようにローの肩に噛みつき、あっという間に毒が回って脳髄を溶かし、きっと彼を豹変させるのだと、側からはそんな風に見られた。
ローは深いため息をついた。シックに付き合っているべきではない、と脳内で確かに訴えているもう一人の自分が憎らしかった。「キノコに寄生されたら蜂は死ぬんだろ?」
「もちろん。キノコに寄生れた蜂は死ぬよ。身体を突き破られているからね。」シックは不器用な微笑みを浮かべた。強張った顔で、口角だけが不自然に吊り上がった。「だけど、蜂の卵に寄生した場合、奇跡的に卵は無事だということがわかったんだ。それどころか、水分量が高く、糖質が少ないキノコは、卵を非常に良い健康状態に保っていた。」
「そんな都合のいいことが……」
「自然界の構造は全てが都合の良すぎることばかりじゃないか。」物分かりの悪い生徒にでも言い聞かせるように、シックは冷静に続けた。「それにキノコの管孔に虫の卵が発見されること自体は、よくあることだよ。それこそ、蟻なんかもね。蟻の卵は水分を空気中から得るらしいけれど……キノコが蓄えている水分では多すぎるみたいで、管孔の中で腐った状態で発見されることが多い。だけど蜂の卵は──通常の地上の卵はどうなるかわからないが──マグマの蜂の卵は、母数を増やすことだけに特化された、蜂群崩壊症候群の阻止におあつらえ向きの生態をもったマグマの蜂だけが、キノコの器官によく適応した。それこそまるで、」
シックは語調を強め、ローが不安げに瞬きをした後で、言葉を続けた。
「それこそまるで、蜂の卵が救いを求めてキノコに寄生しているみたいに。」
すっかり水浸しになったテーブルは、打ち上げられた魚の鱗のように、あちこちの光を反射させて虹色に輝いていた。ローはそれが不気味に思えた。あの狭いフラットで、二人はこんな風にいつも外の雨から逃れていた。つまらない口喧嘩をしたり、宅配ピザを静かに食べたりしながら、少しの間だけ雨宿りをしていた。少しの間だけのつもりだったのだ。
「まさにチャンスなんだ。世界を救う、蜂の変種が滅ぼうという時に、キノコがその卵に寄生し、卵を守っている。それをチャンスと捉えず、どう捉えるんだ。あとは誰かが、誰かがそのキノコを孵化させれば、」
「キノコを孵化させる?」ローは思わず声を上げた。「シック、そんなのは無理だ。そんなのは──現実的じゃない。あり得ないだろ?キノコを温めたら蜂が産まれるって、本気でそう言ってるのか。」
「現実的じゃない?ロー、それは逃げているだけだ。」
「逃げている?何から?」
「現実からだよ。ひどい現実から逃げるというのは──逃げおおせることは無いんだ。」そして、冷たく細められていた目がふいに歪んだ。自嘲的な微笑みが浮かんだ。「よく知っているじゃないか。」
ローは押し黙った。
「貴重な蜂たちに寄生したキノコは、見た目も味も、普通のキノコ類とそう変わらないらしい。マッシュルームに似ている、とも言われている。」先ほどまでの会話がまるで無かったかのような調子で、シックは続けた。爬虫類のようなぎらぎらとした目が、何度も瞬きを繰り返した。「巷に出回っているキノコが、果たしてただのキノコなのか、菌が寄生した蜂の卵なのか──どうして判断がつくだろう。」
「それって、どういう」
「誰かがやらなきゃいけないんだよ、ロー。蜂の卵を、誰かが──孵化できるような環境に──」
「シック──」
ローは何かを言おうとした。何を言おうとしたのか、彼には分からなかった。開いた口から、あるいは、シックの心を動かすような言葉が飛び出たかも知れない。しかしそうはならなかった。
「お待たせ致しました。キノコスパゲティです。」
音を立てないように細心の注意を払って、ウェイトレスが白い皿に盛られたキノコスパゲティをテーブルに置いた。うっかりしていると聞き逃しそうな、聴覚をひと撫でするだけのようなまるで含蓄も体温も無い声に、ローはびくりと身体を揺らした。
ありがとう、とシックは言った。音をたてないように細心の注意を払って置かれたキノコスパゲティを、ローはしげしげと観察した。麦色の麺が好き勝手な方向に渦巻いている。ソースはかかってない。白い皿の縁に、塩胡椒混じりの緑がかった油が垂れていた。シックは人差し指でそれを拭うと、丁寧に舐めとった。
ありがとう、とシックがもう一度言った。ごゆっくりどうぞ、とウェイトレスが機械的に言った。
スパゲティに縫われるようにして、白い皿の上には白いキノコが麺に縋り付く毛虫のように細切れになって盛り付けられていた。
食事を前にしたことで、ローは急にひどい空腹感を覚えた。キノコの水っぽい、泥のような匂いが鼻腔を刺して、胃の絶え間ない収縮と相まってローは吐きそうになった。
「食べてくれ、ロー。」
鈍器のような重い音を立てて、シックは紙ナプキンに包まれたフォークをテーブルに置いた。
「今の、キノコは蜂の卵だって話の後に?」ローは乾いた笑い声を立てた。「無理だろ。──俺がキノコが大嫌いなの、知ってるくせに。」
「食べてくれ。」
「シック?」
「食べてくれ。」
「食べたくない。」
悲鳴を上げるように、胃の内壁がうねった。いい加減、何かを口に入れないと卒倒しそうだった。しかし、視覚は依然として目の前の料理に嫌悪を示すのだった。
ローにはシックの意図がわからず、それは初めてスリルではなく恐怖として現れた。何より、シックがこうも機械じみているほど頑なになることが今までなかった。ローが嫌だと言ってシックが止めない時はなかった。望めば何でも与え、拒めば何でも視界から追いやる、その全てをシックはさも当然のように行なっていた。
「ロー、」
ふいに視界が暗くなった。シックが身を乗り出して、ローの肩を掴んでいた。白いシャツに皺が寄り、息がかかる距離にシックの顔があった。
「君はこのスパゲティを食べるんだ。」
呪いのようだ。ローはそう思った。急に雨の音が強くなった。それはテレビの砂嵐のようにローの思考をかき混ぜ、雨の音と、キノコスパゲティの匂いと、シャツから伝わるシックの体温が、五感が一つになったように重なり、頭痛となってローを支配した。
ローは視線を動かして、自分の肩を掴むシックの細い手首を見つめた。かなり力を込めているのか、青っぽい静脈が浮いていた。痛々しい跡が幾つも残っている。皮膚から飛び出た血管のような色をした輪ゴムが、ぶら下がっている。
君は糖分過多の懸念を抱えずに済むお菓子そのもので──
それでもシックは、ローに触れる度に輪ゴムを弾いた。輪ゴムが無い時は、落ち着きなく手首を爪で神経質に引っ掻いていた。それをローは見ているしかなかった。
シック、とローは呟いた。
「これは──僕たちは──こんなことはもう──」
いやに歯切れが悪いシックの話を、ローはほとんど聞いていなかった。彼が何の話をしているのか、ローには大体の見当がついていた。家がどう、爵位がどう、それから──子供がどう、という話の断片をわざわざ繋げてみようとも思わなかった。
場所は──場所は、例のフラットだった。ローはカウチに座っていて、シックは暫く落ち着きなく狭い室内を歩き回っていたが、やがて壁に立てかけてあったパイプ椅子を開き、そこに収まった。
長い間、二人ともそこに足を踏み入れていなくて、狭い部屋には埃が舞っていた。ほんの14日後にこの部屋は色とりどりの花で満たされる。それから1100日間、二人はこの部屋で過ごす。そしてその3000日後、この部屋は無人となって発見され、さらに3日寝かされてから、改装される。
「僕は──想像していなかったんだ。」
シックは無理に言葉を喉から捻り出すように、掠れた声を上げた。
「ここまで俺にのめり込むことを?」
ローは聞いた。シックは面食らったように息を詰まらせ、目を彷徨わせた。シックは純粋だった。純粋で、実に世間知らずで、何事にも誠実だった。ローは今さらそんなことを思い出した。
「……僕は今まで、まるでわかっていなかったんだ。」
「不貞とか、誠実さとか、道徳観念ってものを?」
挑発的な反問に、シックは薄い唇を白くなるまで噛み締めた。
「僕はただ──逃げていただけだ。そんなことに今さら気づいたんだ。」
「何から逃げてるって言うんだよ。」
「全てだ。」シックは震える声で呟いた。「現実からも、責任からも……」
「だけど逃げることは悪じゃない。そうだろ?」
カウチの背もたれに片腕を載せ、ローは部屋を見渡してタバコを捜した。目につく場所には見当たらず、ローは仕方なく視線をシックに向けた。シックはそれを待っていたかのように、今まで黙り込んで必死に考えていたであろう台詞を口に出そうとしていた。
「僕は気づいたんだ。」
「何に?」
「僕は──愛しているんだ。」
その言葉はもちろん、ローに向けられたものではない。お互いの間に、その台詞が現れたことは、それまでも無かったし、それからも無かった。一度も。それでもほんの一瞬だけ、意図せずローの心は少し揺れた。
もちろんシックは、彼の家族を愛していただろう。そんなことはローもよくわかっていた。しかしローは、シックが自分の感情について何一つ確信を持てない質だとも知っていた。ローは恐ろしく機転が利き、優柔不断な男を言いくるめることにも長けていた。
「へぇ。」
鼻で笑うと、ローはカウチに座り直し、シックを見上げた。そして力なくぶら下がっていたシックの左手を掴むと、噛み付いた。シックが息をのむ気配があった。ローは薬指に歯を立てて、引っ掻くように器用に指輪を外した。その指輪はシックにとって、最後の現実の一片だった。ローは指輪を床に吐き捨てた。埃の積もったタイルで、指輪は乾いた音を立てた。唾液で濡れ、鈍く光っている。それを一瞥すると、ローは冷ややかに笑った。
「ダウト。」
「ロー、」
「愛してなんかないだろ。そう思ってただけで。」ローは美しい眼でシックの顔を覗き込んだ。「嘘つくなよ。」
催眠でもかけるように、ローはシックから目を逸らさずに言った。それは確かに催眠に違いなかった。
シックはしばらく言葉を失っていた。
「どちらも想像してみたんだ……君と縁を切って──それとも、君とここで……」
「シック。」わざと呆れたように笑い、ローは言った。「良き夫だったら、そこで悩んだりしないんだよ。迷ってる時点で、もう答え出てるだろ?」
「答え?」つられたようにシックも自嘲的な、弱々しく引きつった笑いを浮かべた。「答えなら最初から出ていた。そうでなかったら……僕はこの部屋に来たりしなかった。君と話をつけようだなんて、今さらそんな振りをする必要も無かった。」
「わかってるって。とりあえず俺に言ってみて、ちょっとそれらしく振舞ってみたかっただけだろ。」
そしたらなんだか、自分で自分を許せる気がするんだろ、と続いたはずの言葉をローは飲み込んだ。シックが自身を許したことなど無かった。ただいつも、「それっぽく」なれることを望んでいた。
シックは、そこで初めてローの存在に気づいたかのように、まじまじとローの顔を覗き込んだ。
「君は僕についてくる必要なんてなかったんだ。」
半開きになった唇からうっかり溢れ出たように、シックはポツリと呟いた。そしてそれがきっかけとなって、シックは堰を切ったように喋り出した。
「僕は君にとってただの他人だった。それなら君はどうして僕の人生に現れた?どうして親密になろうとする必要があったのだろう?どうしてあの時、僕を拒むことをしなかったんだ?……いや、そんなことはわかりきっている。君は僕に一縷の希望を掛けていた。僕も全くその通りだった。僕たちは二人とも、お互いが自分の探していた大切な人だと信じて疑わなかったんだ。だけど僕は失敗してしまった。僕はまるでわかっていなかった。僕ではないのだ。君が探しているのは!僕が探すのもきっと君ではない。だけど君が目障りなんだ!まるで前に進めやしない、行く手が阻まれている、君を押しのけて進むには、僕はあまりにも君を……」
何者かに口を唐突に塞がられたかのように、シックは黙った。怒涛のように吐き出されたシックの本音を受けて、ローはしばらく言葉に詰まったが、シックを前に沈黙は何もいい結果を招かないことを思い出し、飄々とした口調で「答えはそれだな。」と言って、わざとらしく肩をすくめた。
そもそも、シックが本当に何かを愛することなど無いのだ。彼はただ、愛するべきとされるものを「それっぽく」大切にするように振舞っていただけにすぎない。ローはよくわかっていた。その例に一人だけ免れると思うほどローは愚直でも純粋でもないつもりだったが、それでもどうしようもなく胸が痛んだ。
全く自分勝手なことを言う、と思っていた。だけど、そうわかっていたから、シックも今までは言わなかったのだろう。
そうだ。俺はお前に希望をかけていた。お前も俺に希望をかけていた。だけど俺たち二人はどちらもしくじった。決して言葉には出さず、ローは静かに心の中で訴えた。
「お前って、何回おれを傷つけたら気がすむんだよ。」
項垂れるように俯くシックが何かを言う前に、ローは抱きしめた。二人とも向かい合って座っていたので、あまり密着することは無かった。シックは何か返事をしようと、口を開いたり閉じたりしていたが、ローはそれを遮るように優しくシックの肩を撫でた。シックが冷静な思考を取り戻すより先に、ローはシックに言い訳を与えたかった。
「俺たちほど心を通わせられそうにない組み合わせもそう無いよなぁ。──なぁ?」
シックの頭を自分の肩に引き寄せて、ローは努めて優しい声で言った。あまり哀れな風に受け取られたくなかった。口に出す一言ずつが、ローの胸を刺した。シックはホッとしたようだった。短く、ごめん、と呟いた。ごめん。ローは目を閉じた。なんて腹が立つ響きだろう。
意外にもその時ローは──その時ローは、確かにシックと結ばれたと思っていた。それがどんな形であれ、二人はフラットに縫い止められた。シックは出て行かなかった。それからシックが指輪をつけることも無かった。ローが指輪の所在を聞いた時、シックが悪びれもせずに「売ったよ」と返した時、ローは紛れもない喜びを感じていた。事実、彼らはこのフラットであと1100日過ごすことになる。それが長いのか、短いのか、とにかくこの時、ローはまだ1101日目の朝に自分の隣からシックが消えることも、それから99日目に自分がこのフラットから消えることも、そしてさらに2450日経った朝、シックからたった一本の電話で呼び出されることも知らなかった。
とは言え、まるで勝算の無い逃亡がいつまでも続くと考えるほど、二人は楽観的でも馬鹿でもなかった。
謝罪代わりのキスを首筋に落とすシックを抱きしめたまま、ローの頭に、ふと聖書の一節が浮かんだ。
新約。ルカ23章。33節。
『父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。』
パチン、パチン、と小気味いい音を立てながら、シックは手首の輪ゴムを弾いていた。ローは虚ろになっていた焦点を合わせ、目の前のキノコスパゲティを観察した。油でぬめりと光っているスパゲティを巻いたフォークが、白い皿の縁に立てかけてあった。
ふとローは、背後に視線を感じた。しかしもう振り向くことはしなかった。店長が見ているのだ。汗の粒をたっぷり蓄えた髭から垂らしながら、獲物を見つけた猫のように大きく見開いた目で、二人の一切の挙動を覗いている。
雨の音が大きくなっている。それは徐々に激しさを増していっているようだった。
今朝、受話器を取った時、ローが何かを期待したとすれば──それは楽しい会話をすることだった。また昔のように。それもそう大昔のことではないのに、二人はお互いとは関係のないところで磨り減ってしまって、説明のつけられないまま距離ばかり離れていった。それがお互いの影響であったらまだ手の施しようがあったかもしれない。シックはローの人生に幸福を与えた。ローは何度も正直にそう打ち明けていたけれど、シックはきっと信じていなかった。
これも信じられないかもしれないけど、あんな口論でも、俺はああやって話している時が幸せだった。
ローがシックにそう伝える機会はついに失われた。言ったところで自分の気が済むだけだったろうと、ローは思っている。それに言ったとしても──シックはまた、わかりやすいほどの曖昧な笑いを浮かべて、「ありがとう」と言うに決まっている。
「僕は考えたんだ。いや、ずっと考えていたんだ……もし誰かが蜂の卵を孵化させるのに適した環境へ連れて行ければ、そこで蜂の孵化が可能になって、蜂群崩壊症候群をせき止められたら……その人は、この星を救う英雄になる。」
子供が親に何かをねだる時に、不器用なりに動機をつたない言葉で説明しようとするかのように、シックはローの反応を窺うように慎重に言った。
誰かに幸福を与えるというのを、シックは大それたことだと思っている。そういうことはもっと劇的に起こるものだと思い込んでいて、しかし現実ではあまりにあっけないものだから、彼は信じないのだ。
「俺は英雄になりたくて来たんじゃない。」
「なら、何に?」
ローは無意識のうちに唇を掻きむしっていた。シックはやはり何も言わなかった。
「食べてくれ、ロー。」
スパゲティを器用に絡めたフォークを手に取ると、シックはそれをローの前に掲げた。シックはこんな時でさえローの了承を得ずに何かを成し遂げようとは思わないようだった。こんな時でさえ?ローが今すぐにレストランを出てしまえば、その日はただの日曜日のままなのだ。
「君だけなんだ。」
そんな風に言わずとも、ローに逃げる気は無かった。逃げたければチャンスは幾らでもあった。朝の電話に応じなければよかった。曖昧な時間の食事を断ればよかった。刺繍が凝ったシャツを着て来なければよかった。嫌いなキノコスパゲティを前にした時、すぐに席を立って店を出ればよかった。
一方で、シックはローが逃げることを望んですらいたのかも知れない。
ローは小さく口を開けると、フォークに噛み付いた。あの日、シックの指に噛み付いた時と同じように、冷たい鉄の味がした。カラカラに乾いた口内が、異物を拒むように痺れた。唾が湧いた。舌で麺を押しつぶすと、よく染み込んだオリーブオイルがじわりと溢れた。味が良いとも悪いともわからないまま、口腔や上顎にまとわりついた油が乾いた体内に浸透していくのを感じた。
噛み砕いたキノコの破片が、食道を通っていくのが生々しく感じられた。ボトリ、と音を立てて、キノコが、蜂群崩壊症候群から地球を救う蜂の卵が、ローの胃に落ちた。何度かローはえずき、吐き出しそうになった。それでもシックは一心不乱にスパゲティを巻き続け、そしてキノコをローの胃に収めようとしていた。
しばらくの間、ローはそうやって無心に食事を続けていた。粘土のような食感だった。塩胡椒が効きすぎている。アルデンテの麺と相まって、ローはゴムを食べているような気になった。砕けた麺が奥歯の窪みに埋まる。シックはローの嫌いなキノコを、フォークに刺して彼の口元に運び続けた。頑なに開こうとしない唇を、生温い鉄のフォークがこじ開けた。
「孵化させられる場所って──心当たりはあるのか。」
「あるさ。もちろん。」
フォークが皿を引っ掻く度に、耳障りな音がした。キノコを刺すと、シックはそれをローの口もとへ差し出した。ちゃんと食べるから、落ち着けよ、とローが肩をすくめると、シックはのろのろとフォークを皿に戻した。今度は自分でそれを持ち、ローは機械的にキノコスパゲティを食べ続けた。空腹はすでに幾らか和らいでいる。味も、塩胡椒で舌が痺れたのか、よくわからなかった。ただキノコの食感だけが奥歯に残った。
その間中、シックはクリームソーダを飲んでいた。もしくは、飲む仕草を続けていた。もうほとんど中身は残っていない。ズズ、と空気を吸う音がする。溶けた氷の黄緑色をした浅い水たまりの中に、赤い実が沈んでいる。シックが息をする度に、ちぎれた実の破片が揺らめいた。
「それで、その孵化させる場所っていうのは?」
食器が立てる音の合間を縫って、ローはもう一度聞いた。それが何であれ、早く終わらせたいと思っていたのかもしれない。
「僕は人間の身体にマグマがあると思うんだ。かつての火山と同じように。」
シックはもったいぶるでもなく素直に答えた。ローが予想していた回答とそう違わなかった。シックの言うことを予想して、それが当たることが、ローはいつも誇らしかった。
「胃?」
片眉を上げて、ローは聞いた。その声にはほんの少しだけ期待が混じってすらいた。胃なら、それならひょっとして、このキノコスパゲティを平らげれば、シックはそれで納得するかもしれない。蜂の卵を胃に収めて、あとは孵化を待つだけだと言えば、シックは納得するだろう。
そしたら──ローが以前なら最も嫌った、「話し合い」ができるかもしれない。ローはそう思った。そして今度こそ、きっちりと整理して、泣くべきなら泣いて、殴り合うべきなら殴り合って、つまり、全てをあるべき場所に戻す、そういうことができるだろうかと、ローはそう思った。
もちろんそうはならなかった。
「いや、胃はだめだ。胃酸があるからね、溶かされてしまう。だがまぁ、流通経路だ。最終的あ目的地は別にある。」
それについては、シックはローに答えを当てさせようとしているらしかった。ローは考えるように目を伏せた。いつでもローが何かを真剣に考えることを、たとえそれがあからさまな小芝居であっても、シックは喜んだ。ローは目を伏せたまま、フォークでキノコを刺して口に運び続けた。ぬるりと油に浸されたキノコが喉を通って、食道を落ちていく感覚がありありとわかった。
そして唐突に、シックは信じられないことをした。あのフラットに二人で住んでいた頃なら何ら不思議ないことだったが、とにかくその時のローには想像がつかなかった。とても自然な動きで、急にシックは言われるがままスパゲティを食べていたローの両手を握りしめた。手首を掴むのではなく、お互いの指を絡ませあう、親密な手のつなぎ方だった。ローは思わず身を引きそうになったが、シックは手を離さなかった。フォークが大きな音を立てて、ビニールタイルの床に落ちた。
金属質な音に弾かれるように、店長が再び厨房のステンドグラスに顔を寄せた。彼は店内で起きる一切を見逃したくはなかった。
「わかるかい?人には体温があるんだ。」シックは握った手に力を込めた。意外なことに、冷血動物のような目をしたシックの手は暖かかった。もしくは、シックの低い体温を暖かく感じるほど、ローは冷え切っていた。シックの体温に慣れていないことが、ローは急に悲しくなった。ローはやっとの思いで、わずかにその手を握り返した。
「この熱の根源がマグマなんだ。僕はそう思う。」
その瞬間、何故かローはどうしようもなく泣きたくなった。今すぐにシックの手を振りほどきたかった。キノコスパゲティの皿を床に叩きつけて、驚くシックの顔にキスをしたい衝動に駆られた。実際、ローは握られた手に力を込めたところだった。しかし振りほどきはしなかった。
「熱いのは、なんだ?」ローはゆっくり息を吐いてから聞いた。「心臓、」
「それは核だ」
「皮膚は?」
「いや、皮膚は、地殻のようなものだ。熱自体がそこから発生しているわけじゃない」
あぁ、とローは呟いた。
「血液か……」
少し微笑むと、掴んだ時と同じように唐突にシックはローの手を離した。ローの答えは正解だったようだ。努めて自然に手を引き、ローは腕を組んだ。シックの熱が手に残っており、それがじわじわと広がっていっているようだった。腕を組んだまま、懐かしい熱を閉じ込めるように静かに拳を握った。手だけが暖かかった。
「それで、俺に誰かを殺して、できた血溜まりにキノコを入れて卵を孵化させてくれって頼むつもりか?」
ハ、と事も無げにローは笑いながら聞いた。強張った表情を浮かべながら、ローは今にもシックが同じように笑いながら「実はそうなんだよ」と言うのではないかと怯えていた。もし、シックが頷いたらどうしよう?幾つも考えが浮かんだ。ローは目を閉じた。
そして目をゆっくり開けると、あとのことは一瞬だった。ローは素早く身をかがめて、床に落ちたフォークを拾い上げた。何を拾ったのだろう、と覗き込もうとするシックの喉をめがけて、身を乗り出してフォークを刺した。プチッと皮膚が破れる音がする。骨に当たったのか、途中でフォークが止まった。そのままフォークを横に引いた。シックがうめき声を上げた。ローの手の間から血が溢れている。血の雫が皿にわずかに残ったキノコスパゲティに滴った。
驚いたように目を見開くシックの顔は、首から溢れた血で汚れていた。口の端から鮮明な赤い血が泡になって吹きこぼれている。口紅みたいだ、とローは場違いなことを思った。首元を押さえようと彷徨った手は、首にたどり着く前に手は力なく落ちていった。ローは左手を伸ばして、膝に置かれたシックの痣だらけの手首から輪ゴムを外した。すっかり伸びきっていた。それきりシックは動かなくなった。返り血がローの白いシャツに施された刺繍の周りで花のように咲いていた。ローは右手にフォークを持ったまま、左手で輪ゴムを握り込んだ。爪が手のひらに食い込んだ。ローはシックのわずかに開いた口から溢れる血を見ていた。そして、テーブルに手をつくと真っ赤な唇に吸い寄せられるようにキスをした。ローの乾燥した唇が赤く染まった。
パトカーのサイレンが聞こえる。それはローの幻聴だった。
「まさか」シックは可笑しそうに笑った。「人を殺せなんて頼まないよ──そしたら君にキノコを食べてもらった意味がないじゃないか。」
ローはゆっくりと目を開けた。薄暗いレストランの中だ。雨音が、今や自分の頭を打ち付けているかのようにはっきりと聞こえた。
マホガニーのテーブルを隔てて、シックが向かい側に座っている。傷ひとつ無い。二人でフラットに暮らしていた頃から少しだけやつれた、それ以外はまるで変わりないシックがいる。緑色のジャージの裾から見える輪ゴムは、伸びきっていたが、やはり手首にぶら下がっている。キノコスパゲティは今や乾いていて、お互いに貼りついていた。ローは横目で床を盗み見た。フォークは落ちたままだ。
「それに、体外に出た血液は温度が下がってしまう。」
「そもそもが人間の血液じゃ、本物のマグマに比べれば温度がずっと低いだろ。」
ローはシックから目をそらし、小さく息を吐いた。いよいよ妄想と現実の境目がわからなくなっている、とローは思った。一体どこからが妄想なのだろう、ひょっとしてレストランで起きた全ての会話が、地球空洞説が、蜂群崩壊症候群が、全て自分の想像であって、現実の自分はシックと会ってすらいないのでは無いだろうか?
店内は相変わらず薄暗く、ステンドグラスを背にしたシックだけが亡霊のように青白く浮かんで見えた。不気味に輝くばかりでまるで体温の感じられない瞳に見つめられて、ローはわずかな恐怖と、そして懐かしさを感じていた。今、シックは微笑んでいる。もう二度とこの微笑みを向けられる機会は無いだろうとローは思っていた。今朝、シックから電話がかかってくるまでは。
「そうだね。人間の血液の温度は低い。だけど覚えているかい、蜂の卵がどこに密集していたのか。」
ローが黙っていると、シックは肩をすくめた。
「噴気孔というところだ。まぁ、火山の構造はいちいち説明しないけれど──とにかく、直接マグマの根源に産み付けられていたわけじゃないんだ。そこだと温度が高すぎるからね。だから適温の噴気孔の方で卵が発見されたわけだ。」
ある朝起きて、シックが隣からいなくなっていた時、ローはシックが朝食でも買いに行ったのだろうと思っていた。ベランダから身を乗り出して往来を見下ろしながら、朝日に暖かく照らされていた頬がオレンジ色に染まるまで、ローはシックの帰りを待っていた。
ローは当時の自分がどんな気持ちでひとりフラットに残っていたか覚えていない。ぼんやりとしていることが多かった。というより、わざと意識を現実に保たないように努めていた。呪いから解けたようにシックが今までの生活への焦燥を感じて、それで自分のホーム・スイート・ホームに帰っていったのなら、自分はいずれシックか、彼の家族の誰かに刺されでもするのだろうかとふと思ったこともあったが、フラットを誰かが訪ねることはなかった。シックは何も持たずにフラットを出て行った。財布も残っていた。当面の生活費は賄えるだろうと思われたが、ローがその金に触れることはなかった。空腹になればふらりと外へ出て、声をかけてくれば誰にでも食事を奢らせた。そのうち、ローもフラットに戻ることはなくなった。
「人の血液は、血管を通っている分には岩脈に通るマグマと同じように、温度が低いだろう。だけどその熱の根源、火山に例えればマグマ溜りのような、人体にもそんな場所があるんだ。」
十年経った今でも、ローは当時のシックがどこへ行っていたのかわからなかった。この頃にはもう、問い質す気すら失せていた。ローはただシックの話をおとなしく聞いていた。
「……つまり、血液が溜まる場所?」
「そうだね。そこに卵を運べば、孵化させられるに違いない。」
足音が聞こえた。いつの間にか、感性が死んだウェイトレスが隣に立っていた。びくりとローの肩が跳ねた。慌てて振り返ると、彼女と目が合った。彼女は素早くしゃがむと、床のフォークを拾い上げた。その時、ローは初めてウェイトレスの姿をよく認めた。彼女は制服らしい緑と白のチェックシャツを、黒いタイトスカートに挟み込んでいた。タイツはほつれている。トマトスープの染みが、彼女の貧相な胸辺りについている。彼女はキッチンワゴンから新しいフォークと、筆立てのような筒から丸めたナプキンを抜き取ると、キノコスパゲティを置いた時と同じように慎重にナプキンで包んだフォークを置いた。ありがとうございます、とシックが何かのマニュアルに従うように言った。彼女は「ごゆっくりどうぞ」と返した。噛み合わない会話は、彼女の精一杯のサービスだった。それだけ言うと、彼女は必要最低限の歩幅だけで、きっちりと定位置に戻った。
シックはウェイトレスの姿をじっと見ていた。
シックはウェイトレスの腰辺りを凝視していた。しかし彼は、彼女の細い線に釘付けになっているわけではなかった。彼の目はいつも、地球の表面よりその裏を巡るマグマに興味を示したように、皮膚の柔らかさより、骨や内臓に見惚れていた。シックが見ているのは人間の身体ではなくて、世界を救うことに貢献できる環境にすぎなかった。
つられるように、ローも視線をウェイトレスの方へ寄越した。
「心当たりはあるかい?」
「え?」
「人体にあるマグマ溜まりについてだよ。」シックはウェイトレスの方を見たまま続けた。ウェイトレスは、視線に気づいていないわけがないだろうに、頑なに前だけを向いていた。瞬きさえしていないように思えた。
「どこにあると思う?」
どこって、とローは言葉に詰まった。十分にウェイトレスを舐めまわすように見た後で、シックはようやく視線をローに戻した。
シックの目は虹色の膜が張っているように艶めいていた。二人を囲むように取り付けられたステンドグラスの色が反射していた。雨上がりに、ローとシックがガソリンスタンドの近くを通ると、溢れたガソリンが混じった水溜りがよくそういう風に濁っていた。そのたびにローは大げさに脚を広げて、水溜りを跨いだ。時々、わざとシックを水溜りの方へ押してやることもあった。シックがそういう時どんな風に反応したか、ローには思い出せなかった。
しかしそのことをローはよく夢に見た。自分がおどけてシックの肩を押して、シックが躓いて水溜まりの中に落ちる様子がスローモーションで再生される夢だった。顔を縁取る柔らかい栗毛が揺れて、肝心のシックの顔はいつも見えない。シックが倒れこむまでのほんの一瞬のはずの時間が引き延ばされて、ローの目はその場面だけを隅々まで観察している。磨かれた革靴が水溜まりを踏み込んで、色濃くなっている。靴の側面のステッチは青。跳ね上がった水飛沫がシックの長いコートの裾に染みを作っている。シャボン玉のように奇妙な色を次々と反射させる小さな雫がシックの指先に触れ、変形した。そしてローがシックの手を掴もうとした途端、時間の流れが元に戻る。大きな音を立ててシックは虹色の水溜まりに落ちて、飛沫が散った瞬間、ローは目を覚ます。
不思議な夢だった。
シックは音を立ててクリームソーダを啜った。氷は溶けきっている。
「ロー、君は流通経路なんだよ。コウノトリさ。」
ぽつりとシックが呟いた。シックは、ローが笑うのを待つように、中途半端に口角を上げていた。
ローは急に、シックの頼みたかったことがわかった。そして、今日が終わった後にシックと「話し合い」をすることは不可能なのだということにも気づいた。ローは無意識に縋るようにシックの手首を見つめていた。
「もし誰かが彼女の中で蜂の卵の孵化を成功させられたら、その人は英雄だと思わないか?」
熱い身体にぴったり張り付いたまま、冷たいシーツに手を這わせることをシックは愛していた。体を起こすことが億劫で、腕を伸ばして押し開けた窓は古く、軋んだ音を立てながら吹き抜ける薄荷の風が月明かりの射さない部屋を満たした。そんな夜の傍にはいつもローがいた。ハラモフの絵画を思わせる少女のような顔立ちが、ブルネットの柔らかい髪に縁取られていて、シックはたまらなくなって、その髪にキスをした。その時、シックはローの大きな目の周りが赤らんでいることに気づいた。
「泣いているのかい。」シックは聞いた。
「目は乾いているんだ。」ローは寝惚けたようにゆっくりと返事をした。「砂漠みたいに。」
幼少期に目にした儚い星空を瞼の裏に閉じ込めたように、ローが重たげに開いた瞳はきらきらと輝いていた。長い睫毛の落とした影が青白い頰の上で震え、脈打つように星が瞬いた。それでも決して、目の淵から涙が溢れることはなかった。ローはシックの前で泣いたことが無かった。一度も。
シックはもう随分と長い間、自宅には戻っていなかった。最後にローがシックの家庭について話を聞いた時、彼はもうじき子供が産まれると話していた。二人ともそのことをよく覚えていた。しかし誰も話題には出さなかった。
何か間違った選択をしたのだ。二人には、その間違いに心当たりがあった。そして本能で確かに暗い未来を予見していた。それでも二人は必死にそんな想像から目をそらし続けた。
「ロー。僕がある日から変わってしまって、またある日に君をたった一本の電話で呼び出しても、君は来てくれるんだろう」
ふとシックはそう聞いた。ローは仰向けのままジッと天井を見上げていたが、やがて美しい目がゆっくり動いて、シックの方を見た。
「──“君のためなら、千回でも。”」
シックは微笑んだ。そして、そういえばあの本の中で、このセリフを言われた人物たちは誰一人返事をしなかったなと気づいた。シックも同じだった。何も言葉を返さなかった。何も言えなかった。
それからシックはもう何も言わずにローを抱きしめていた。煙草が吸いたい、と呟いたローを遮るように、シックは一度だけ冷たい唇にキスをした。重ねた身体は熱を持っていても、引っ張り上げたベッドスプレッドに覆われない部分は、額も、鼻も、瞼も、唇も、いつも冷えていた。
二人は隣人がベランダに植えた梨の木の、窮屈そうに伸びた枝の先になる実から漂う香りの中で、じっと夜が明けるのを待っていた。シックは暗闇の中で、そう遠くない未来よりも、自分の手の中に収まったローばかりに思いを馳せていた。
店長は丸い鼻を平たく潰すほど強くステンドグラスに顔を押し付けていた。厨房にこもった熱気で、たっぷり蓄えた口髭の先からは汗が滴っていた。
ステンドグラスは教会で用いられているだけあって──もしくはそのイメージがそうさせるのか──不思議な力があるように感じられた。内側から外の様子を観察できないので、まるでその壁より内の空間は俗世の全てから切り離されているかのように感じるのだ。だから教会で起きたことは、例えば大罪の告白であったり、愛の誓いであったり、それが何であるにしろ、外へは持ち出せないのだ。懺悔と贖罪、そして献身と承諾は、所詮ステンドグラスの魔法が生んだ優しい幻覚に過ぎず、ガラスに濾過された虹色の光にきらめく僅かななぐさめに過ぎず、その一切は一枚の壁を隔てた先ではまるで通用しない。罪は永遠に残り、愛に永遠は無く、傍観者は感慨を抱かない。ステンドグラスは教会に嘘を閉じ込めている。棺に固く打ち付けた釘のように、腐臭を華やかな葬列に紛らわせている。釘を引き抜き、重い蓋をこじ開け、真実を確認することに要求されるのは聡明さでも利口さでもなく、ただ一つ勇気だった。
あの夜のことを、果たしてシックは憶えているだろうか?今、彼はウェイトレスの体内を巡るマグマについて考えている。或いは論文にまとめる必要があるかもしれないと、そう思っていないとも限らない。彼はどの場所にも納まることができなかった自分に、最後の役を与えようとしていた。
雨は強くなるばかりで、ウェイトレスが「営業中」の札を裏返すのをローは横目に捉えた。ローとシックは豪雨のレストランに閉じ込められていた。ステンドグラスに薄く写った二つの影が見つめあった。
こんな雨脚なら悲鳴も聞こえないだろうとローは無意識に考えている。仮に彼女の喘ぎ声が顔に似つかわず、多少大きくても。
ローの胃にある蜂の卵を、ウェイトレスの(暖かい血液に包まれた)胎内へ運ぶ。そうすればマグマが循環するそこで卵が孵化されて、蜂群崩壊症候群を防げる。シックが言うのは、そういうことだった。
この時、ローには二つの選択肢があった。彼は今すぐ席を立ち、とても正気とは思えないシックのもとを離れ、霧のようにまとまらない思考をきちんと脳に閉じ込めて、レストランを去ることができた。そして地球の空洞と蜂群崩壊症候群、キノコ諸々の支離滅裂な話を鼻で笑い、明日からは健康的な生活を送ろうと決心することができた。もしくは、シックのもとに残って、キャデラックの事故に加担することもできた。
そしてローは残ることにした。
シックはローの答えを待っているようだった。決して強引な手段はとらないだろうとローはわかっている。断わって、レストランを出て行ったとしてもシックはきっと追いかけてこないだろう。仮に追いかけてきたとして、ローは逃げ切れる自信があった。それでもローは残ることにした。ローが残ることにしたのは、シック負い目があったからなのか、それとも自身の生活に疲れ切っていたからなのか、ローにはどちらとも言い難かった。どちらでもないかもしれない。ただ、シックが生涯をかけて唯一つ関心を持ったものを否定するには、シックの存在はあまりにもローにとって大きかった。彼にはシックを狂気の沙汰だと切り捨てることができなかった。
「俺に英雄になる器量があるかな。」ローはフォークを手に取り、皿に残っていたキノコを平らげた。喉の渇きが気にならなくなった。それを了承だと受け取ったシックは安堵したように優しく目を細めると、ロー、と嬉しそうに呟いた。その声は、まるで昔と変わりなく、ローは思わず目を閉じた。
「ロー、君は優秀だ……君が思っているよりずっと聡明だ。僕はここに来るまでの間、考えていたんだ。どちらが君をその気にさせるのに有効的なのか……雄蜂への同情を誘うか、人類の滅亡を救う英雄になれることを匂わせるか……」シックはまた無意識に手首の輪ゴムを弄び始めた。「どっちだったんだい?」
「それ、本気で言ってんのか?」ローは思わず呆れた声を上げた。「どっちも興味ない。」
「それじゃあ、どうして君はこの話に乗るんだ」
シックは驚いたように聞いた。ふと我に返ったような表情になったので、ローは思わず少し笑った。口論の時、どうしてあの時ついてきたんだ、と言ったシックを思い出した。あの時も呆れたが、シックは本当にわからないのだろうか。本当にわからないのだろう、とローは思った。だからシックはいつも孤独で、身勝手なのだ。
「シック。」
ローは睫毛を伏せて、ため息をついた。ゆっくりと閉じられた星空のような目の裏で、今までシックに勧められて読んだ本の様々な言葉が渦巻いた。そのどれもがまるで無力に感じられた。ゲーテの哲学、モームの創作、アーサー・ミラーの論文。そんなものは果たして何の役にも立たなかった。それでも二人はそんなものを愛していた。ローは目を開けた。テーブルに手をついて身を乗り出すと、尚も不思議そうな顔をするシックの額に子供のように唇を押し付けた。
「また会えてよかった。」
そしてローはシックから顔をそむけた。ローは身体の向きを変え、固いソファーの背もたれから身を乗り出した。長い間、姿勢を変えていなかったからか、関節がきしむ音がした。席から10歩ほど離れた、厨房の入り口付近に呆けて立っていたウェイトレスと目を合わせると、ローはまるで何かの話の続きでもするような自然な口調で、「こんにちは」と言った。ウェイトレスの、能面のようだった顔がびくりと引きつり、細い目がローを見つめ返した。その間も、ローはウェイトレスのまるで生気のない目をじっと見つめていた。
「どうも、こんにちは。」
爽やかな挨拶に怪訝そうに顎を引くと、彼女はローの着崩したシャツの襟元を素早く見やった。彼は首にネックスレスをかけていて、ちょうど鎖骨の窪みに合わせてチェーンがたわむ様子が魅力的だと知っていたので、わざとよく見えるようにシャツのボタンを二つ外していた。返事が無い事にも臆さず、ローは話し続けた。そもそも、何もかもが──現実的じゃないように思えたのだ。
「こっちがシックで、俺がロー。シックは、病気のシック。」
視線に気づかないふりをして、ローは親指で背後に座るシックを指した。
「ローは?」
平坦な声ではあったが、ローは返事があったことに口角を上げた。ウェイトレスは、とても危険な状況にあった。この時、彼女はローに応えるべきではなかった。
「ロー?ローは、"ドロレス・ヘイズ"のロー。」
微笑むと、ローはゆっくりと口を開いた。何かを言うように口を動かしたが、声は聞こえない。彼の唇が触れ合うたびに、小さな音がした。ローは親しげに話しかけるように、愛想よく笑ったまま口を動かし続けた。ウェイトレスは困惑したように眉をひそめた。描いたような両眉の間に、彫刻刀で彫ったような皺ができた。しかしやがて彼の言葉を捉えようと、ウェイトレスはローのもとへ歩き出した。
厨房のステンドグラスが、何かに当たったようにガタリと音を立てた。それでも気にせずにウェイトレスは歩き続けた。目はローに釘付けのままだった。ローは声を出さずに喋り続けた。シックはその様子を、まるで何かの神聖な儀式の目撃者にでもなったかのように、恍惚として見つめていた。ローはその視線に気が付いている。
ウェイトレスはローの目の前にやってきた。それでもローの声は聞こえなかった。彼女は身を屈めると、ローの唇に顔を寄せた。待っていたかのように、ローは両手でウェイトレスの顔を包んだ。そして薄い唇に触れるだけのキスをした。能面のように滑らかだと思われたウェイトレスの肌は、白粉が塗られていた。唇を離した時、ウェイトレスはローの首に腕を回していた。
彼女の瞼には肌色のテープが貼ってあった。それを親指の腹で優しく撫でると、それがいつの間に交わされた合図であったかのように彼女はうっとりと唇を突き出した。ローはもう一度彼女にキスをした。
ウェイトレスは熱に浮かされたような蕩けた目でローを見つめたまま、座った彼の膝の間に割り込んだ。貧相な胸をローの鎖骨に押し付けた。ローは静かな店内に、天井に取り付けたプロペラが回る音と、ステンドグラスを打ち付ける雨の音の合間に、蜂の鼓動を聞いた気がした。
ローはシックに目をやった。シックは微笑んでいた。視線に応えるように、シックが手首の輪ゴムに触れようとすると、ローは安堵したようにシックから目をそらした。
パチン、とシックが輪ゴムを弾いた。小さな音だった。現実が砕ける音だった。それきり、ローはもう何もわからなくなった。
ローとシックが初めて出会った日は、この日とはまるで正反対の、熱中症に罹りそうなひどい晴天で、ローは木造の果物屋の外に立てられたパラソルの下に、膝を抱えて座っていた。店内ではほとんど死にかけのような老婆が、ローの注文を受けて半分に切ったスイカの赤い果肉をミキサーにかけようとしていたが、どうもそのミキサーは持ち主と同じような状態にあるらしく、作業はなかなか進んでいないようだった。ローはまるで現金を持ち合わせていなかったので、ジュースの代金はどうしようかとぼうっと考えていた。
ちょうど汗がローのこめかみを伝って、綿毛のような産毛が生えた丸い頰の縁を滑っていった時、「暑いね」と言ってパラソルに逃げ込んできたのが、シックだった。服装ですぐに金持ちだとわかった。ローは顔を上げずにそれに応じた。シックはごく自然にローの隣に座った。
二人は暫く形式的に一通り天気について話し、それから顔を見合わせた。シックは自分で名乗った後に、「名前は?」と聞いた。ローも名前を言おうとしたが、そこでふと思い立って、シックに「金が無いんだ」と言った。金銭を要求するような言い草に腹を立てるだろうかと思ったが、意外にもシックは眉を吊り上げ、僅かに首を傾げただけだった。
だから?と心底不思議そうに思っているような仕草に、ローは思わず笑い、シックを上目遣いに見やった。
そこでようやく店内にいた死にかけの老婆が、その辺に躓きながらやって来た。手にスイカジュースが入ったプラスチックの容器を持っている。シックは紳士然とした態度で老婆に会釈し、その手に代金を握らせた。またひょこひょこと躓きながら店内に戻って行く老婆の皺だらけの顔に浮かんだ笑みを見るに、随分と贅沢にチップを頂いたようだった。
「どうぞ。美味しそうだね。」
シックはそう言いながら、スイカジュースをローに渡した。ローは礼を言おうか迷った後で、結局少し肩をすくめるだけにした。シックは特に意に介した様子も無かった。
「愛称が、ロー。」
一口スイカジュースを飲んだ後で、ローは俯いたままそう言った。
「へぇ。じゃあ本名は…」シックはそこで言葉を切った。ローが愛称を名乗った意図を汲み取り、「じゃあ本名は、ドロレス・ヘイズだ。」と微笑んだ。
「ドロレス・ヘイズ?」
「僕の好きな小説の登場人物なんだ。」
「女みたいな名前、」
「女の子だよ。」
ローは顔を上げて、シックの方を見た。シックはずっとローから視線を外していなかった。二人は探り合うように見つめあった。スイカジュースは、血のように赤く、汗をかいたカップに二人の姿がくっきりと映っていた。先に目をそらしたのは、ローの方だった。
「あ、そう。あー、初めて聞いたよ。」ローはどう返事したものかわからず、指で忙しなくストローを弄んだ。「本なんて、滅多に読まないし。」
「これから読めばいい。」
「まぁね。じゃあ手始めに、その──」
「ドロレス・ヘイズ?」
「あぁ、──そのドロレス・ヘイズの本でも読むとするよ。」
ぎこちなく笑い、ローはスイカジュースに口をつけた。甘い。ミキサーはやはり職務を全うすることが困難だったらしく、形の崩れていない果肉が赤い液体の底にたっぷり沈んでいた。「なかなか物議をかもす本だけど、僕は好きなんだ」と爽やかに笑うシックはあきらかに折れかけのパラソルの下で場違いな気がして、ローはシックの住まいを聞いた。シックは案の定、二人がいた果物屋からずっと離れた、豪邸が並ぶ通りの名前を答えた。ローも何度かそこの住人に招かれたことがある。ろくな人間がいなかった、とローは思った。父親は厳格な証券会社の社長、母親は必ず大粒のルビーが嵌められた指輪をしていて、笑うときに少し顎を引く。子供たちはどれも似たような利口そうな顔立ちで、ピアノかバイオリンを習っている。どの家に招かれようと、見せられる家族写真は大して変わらなかった。誰もが、いわゆる金持ちらしいとされる特徴を遵守していたが、いずれにしてもローを家に招く程度の不真面目さを持ち合わせていて、当事者たちはともすればそのわずかな粗相がより彼らの財力と品格を表していると思っていた。何より、彼らが個性と信じて止まないそんな馬鹿らしさすらどの家庭も似通っていて、それをローは忌々しく思っていた。
そしてシックは、薔薇の庭園がいくつも立ち並ぶその通りでさえも似合っていないように思えた。シックが結局、フロイトやアインシュタインや地理学の分厚い参考書に居場所を見つけられたのか、ローにはわからない。
「引っ越してきたばかりなんだ。君がいい人みたいでよかった。」
「それはどうも。」
「君の家はどこにあるの?」
適当に住所を言おうとしてから思いとどまり、ローは「無い。」と呟いた。「この辺の地主は、本を読んでないやつには家を貸さない主義だから。」
シックは明らかに驚いていた。しかし深追いするのは礼儀に反すると思ったのか、それ以上は何も聞かなかった。
「君さえよければ、」少しの沈黙の後で、シックが口を開いた。ローは星空のように輝く目を真っ直ぐ向けて、シックの言葉を待った。誰も彼の口を塞ごうとしなかった。彼は言ってしまった。言わなければ何か変わっていただろうか。
「君さえ良ければ──その本を読みに来るかい?うちに?」
パチン、という音は、ウェイトレスの腰を締め付けていたタイツのゴムが弾かれる音だった。
伝線した20デニールのタイツは、彼女を守るにはあまりに脆弱だった。長い脚がスカートの中で窮屈そうに伸び、テーブルに乗り上げると、タイツは雨に吸い込まれそうな小さな音を立てて破けた。そんなことは気にも留めずに、ウェイトレスはローの手を鷲掴み、それを露わになった自分の太ももに撫で付けた。ローはその手を這わせ、ウェイトレスの下着を引き下げた。ヴェールのような薄い布は、ドクドクと脈打つように暖かかった。目をそらしようのない、現実の鼓動がすぐそこにあるような薄気味悪さを誤魔化すように手首を掴むと、ローは彼女をテーブルに押し付けた。そのまま上に覆い被さり、ウェイトレスの血色の悪い顔を見ないように強引に唇を合わせた。歯が当たり、ローは頭の隅が殴られたように冷え冷えと意識が覚醒しようとするのを抑え込んだ。
ローは奇妙な幻覚を見ていた。レストランの外では大雨が降っているはずなのに、シックが背にした窓の向こうにはオレンジ色の眩しい夕陽が沈んでいるように見えた。雨音と、蜂の羽ばたきが鼓膜にひっそりと貼り付いているようだった。やがてそれすら、現実か定かではなくなった。
いつの間に地平線に隠れた燃える火が、反逆者を射抜くようにステンドガラスに歯を立てていた。七色に濾過された光が、マホガニーのテーブルに、シックの頰に、ウェイトレスの日に焼けた太ももに、割れたガラスのように散らばった。カメレオンのようになった店内の様子が、星を灯した瞳に映った。
震える唇を誤魔化すように、ローが口走った言葉を、彼が思っていたより随分小さくなった声を、ウェイトレスは塞ぐようにローの下唇に噛みつき、歯を立てた。その時、痛みに耐えられなかったように、睫毛に縁取られた大きな瞳から涙が落ちた。雫が青白い頰の上を滑り、ステンドグラスの色を反射させキラキラ輝いた。
昔のことを思い出していた。色々なことを思い出していた。
ローは彼女の剥き出しの肩を引き寄せた。ウェイトレスの肩越しにシックとローは見つめあった。パチン、とシックが手首の輪ゴムを弾いた。それを最後に、ぷつりと輪ゴムはちぎれてしまった。鞣した生皮のような気味の悪い肌がローの手に触れた。
雨の騒音と、蜂の羽音がひどく耳障りで、シックは軽い頭痛を覚えた。
ロー、とシックは呟いた。
「あぁ、ロー!──世界を救ってくれ!」
朝食の準備をしていると、狭いベッドの中でシックが何かを探すようにシーツに手を這わせる気配があった。紅茶が入った不揃いなマグカップを丁寧に机に置くと、ローはその手を躊躇なく掴んだ。寝ぼけた乱暴さで手を引かれた。地獄に引きずり落とされるようにベッドに引き込まれることがローは幸せだった。
「ロー、たくさん花を飾ろう。この部屋に足りないのは花だ。」手探りでローを捕まえると、シックは満足そうに微笑み、囁くように言った。
「俺で十分だろ?」
ローの軽口にシックは目を閉じたままクスクスと笑った。「十分に違いないよ」と優しく言った後で、ゆっくり目を開けるとローの頭を軽く撫でた。星空のようなローの瞳を覗き込んだ。
「だけど枯れる花が欲しいんだ。僕たちはこの部屋で花が枯れる様子を見よう。」
「暗いヤツ、」と顔をしかめてから、あ、でも、と得意げにローは顎を上げた。「それは間接的に俺が枯れることを知らない花だって言いたいんだな?なるほどね。」
シックは可笑しそうに肩を揺らし、「否定はしない」と思いのほか真面目な口調で言った。うえ、と気恥ずかしさを誤魔化すように、大げさにローは吐く真似をした。
その午後、彼らは揃って市場へ出かけた。組み立てた木材に、麻縄でビニールを張っただけの簡易な花屋で、シックとローはじっくり時間をかけて花を吟味した。会計を済ませた後で、おまけに、と言って、店番をしていた幼い少女が日焼けした小さな手で小さな青いプリムラをローの髪に挿した。背が低い子供のために、ローは少し身を屈めた。少女は似つかわしくないほど深々と、丁寧にお辞儀をした。
「花が枯れるのを見ることはなかなか幸せなことじゃないか。見届けられるのは本当に幸せなことだと僕は思うよ。多くの場合、事の顛末なんてあやふやになって、曖昧になって通り過ぎてしまうことばかりなんだから。」
帰る道すがら、黄ばんだ新聞紙に包まれた花束に鼻先を埋めるようにして、シックはくぐもった声でボソボソと呟いた。ローとシックは、夕日に照らされてオレンジ色に光る石畳の上を歩いていた。髪に飾られたプリムラを、ローは形を確かめるように慎重に撫でた。
「これ、帰ったら押し花にする。」ローは言った。
「押し花?」
「うん。」
「いいんじゃないか。」
「だから、これからはこれを栞に使えよ。」ローは前を向いたまま言った。「レシートとか、その辺の紙とかじゃなくてさ。わかったか?」
シックが自分を見つめていることに気づいていたが、ローは視線を返さなかった。ローとしては、何でもないことのようにして会話を済ませたかったのに、シックはいつもそれを許さなかった。シックはいつも誠実で、たとえどれほど価値の無いように思えても、その場で軽率に約束を交わすことはしないのだった。それがローには恨めしくも愛おしくもあった。裏切りの罰より、罪そのものにシックはいつも過敏に反応した。
シックはそういう男だった。
「ロー。」
シックがふいに足を止めた。
「なに?」ローが聞いた。
「約束するよ。」
結局、ローがシックに押し花を渡す機会は無かった。二人がフラットに帰ってすぐ、ローは押し花の作業に取り掛かった。花が乾燥するのをローは待ち遠しく思っていた。ゆっくり待てばいいよ、と笑っていたシックは、その数日後にフラットから姿を消した。覚えている限り、シックが約束を破ったのはそれが最初で最後だった。
シックがいなくなった後、ローがすっかり帰ることの少なくなったフラットでぼんやりとシックが置いていった聖書をめくっていると、ルカによる福音書の頁に、鮮やかな青だったプリムラが色褪せた藍色になって挟まっていた。紙に薄く青い染みがついていた。聖書を重石にしていたのだ。そのことをローはすっかり忘れていた。それを見た時にローは初めて泣いた。そしてシックが今も良き夫の証だとでも言いたげにレシートを栞に使っているのか、約束を破ったことにまた一人で罪悪感を背負っているのか、そんなことを考えた。やがてそんなことも考えなくなった。
ローの死後、無人となったあの狭いフラットで潰れて花びらも千切れたプリムラが皮製のシガレットケースに入った状態で発見されたが、引き取る者を探すまでもなく処分された。
End.