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後編

「うう、ここは……」


 清五郎が目を覚ますと辺りは暗く何も見えなかった。

 戸惑いながらも身を起こそうとするが手足が一向に動かない。

 どうやら手足を縛られ何処ぞに寝転ばされているらしい。

 事情は分からないが自分が危険な状態にあることを理解した清五郎は一瞬背筋が冷えるがすぐに落ち着きを取り戻し呼吸を整える。

 城戸を尾行している最中にそのヤサの前で意識が途絶えたところまでは覚えている。

 その時自分の目は城戸を捉えていたので気絶させたのは別の誰かだろう。

 ……つまり城戸には逃亡生活を手助けする何者かがいる、ということだ


 城戸1人でも手に余るのにますます厄介なことになってきた、と清五郎は頭を悩ませる。

 まずここはどこだろうか。

 光が一向に差さずうすぼんやりと見える景色から清五郎はここが土倉の中と判断した。

 自力では出られそうにないがいずれ清五郎をこの様な目に合わせた何者かがこの扉を開きに来るだろう。

 すぐに清五郎を殺さなかったのは何者かが自分に用があるからだろうと彼は推測する。

 やがて彼の推測通りに数刻ののち扉がガタガタと音を立てて開かれた。

 差し込む灯りに清五郎は眩しさを覚え目を瞑る。


「……おい、手荒に扱うなよ」


「ははっ、城戸先生はお優しいのう。

 あんたを斬りに来た刺客じゃぜ?」


「ふん、小僧ごときに不覚をとるかよ」


「なずなちゃんも連れてきて大丈夫でしょうか?」


「……1人にしておくわけにもいかんだろう」


 何やら近づいてくる足音と推定3名程の話し声が聞こえる。恐らく男2名と女1名……

 その内の1人は清五郎がよく見知った声であり更に清五郎の身が強張る。


「おい、大丈夫か?

 ……と訊くのも変だが、久しぶりだな野村よ」


 見知った声がはっきりと自分の名を口にした。

 清五郎はまだ眩しかったが堪えながら目を薄く開ける。

 彼の推測通り、そこには見知った顔が立っていた。


「城戸……道久……!」


 数ヶ月追い続けた憎っくき仇を前に眩しさを忘れ清五郎の眼光は自然に鋭くなる。

 と同時に清五郎は死を覚悟した。

 恐るべき剣客を前に自分は簀巻きの状態なのだ。


 無精髭を撫でながら城戸は感情の見えない目でじっと清五郎を見つめていた。


「……江戸くんだりから四国まで御苦労なことだな。

 大方、国より俺の討伐を命じられたのであろう。

 武士というのは難儀なものだな。

 主命とあらば列島の端から端まで駆け回らなければならぬ」


 やれやれ、とため息を吐き悠長に話す城戸のその様子に清五郎は苛立ちを覚え声を荒げる。


「なぜ……

 なぜ師と兄弟子たちを殺したのです!

 あなたは確かに師と高弟たちのことを嫌ってはいた。

 しかし暫く一緒に居た私にはわかる……殺害するなどという熱はあなたには決してなかったはずだ!

 私にはあなたのことがとんとわかりません!

 もしかすると濡れ衣ではないのですか⁈分かるように説明してください!」


 城戸は横に立つざんばら髪を伸ばした長髪の男と目を合わせると軽く溜息を吐く。


「青いのう、清五郎

 ちっとは成長したかと思ったが何も変わらぬ。

 どうせ何も考えず藩命だからと俺を斬りに来たんだろう?

 相変わらず愚直なことよ」


 城戸が話し終えるとざんばら髪の男が屈み込み清五郎の目線に顔を合わせ口を開いた。


「いい士じゃの。一介の剣士で終わらせるには実に惜しい。

 少し話がしたいのう」


「山本さんよ……こいつにはどうせあんたの話は理解できんよ。

 あんたのお仲間に引き込むのは無理筋だ」


 なんだ、何を言っている……?何の話だ?

 清五郎の疑問を余所に男たちは会話を続ける。


「いやあ、分からんぜよ。

 やってみないことにはのお」


「なんなんだ……何を話している⁉︎俺を簀巻きにして何がしたいんだ⁈あんたらは?いや、城戸!この男は誰なんだ⁈こんな所で何をしている?」


 清五郎は己を余所に続けられる会話に堪らず声を上げた。

 城戸が頭を軽く振りざんばら男を見遣り説明を始めた。


「この人は山本虎徹……仔細は申せぬが俺とあの娘の生活の世話を見てくれている方だ。……それと、見ただろう?」


「は⁈」


「山本さんによるとお前が俺のむすめ・・・と居る所を見たところで眠らせたと聞いているが」


 清五郎はごくり、と息を呑む。

 薄暗闇に城戸の目だけが光るがその表情はよく見えない。


 闇に慣れてきた目に先ほどから口を開いていない1人の女が男2人の後ろに控えていることに気がついた。

 よく見ると何か……

 清五郎はその女に背負われ眠っている小さな娘に気がつき目を見開く。


 ──そうであった


 清五郎が気を失う前、最後に見た記憶は城戸が長屋の戸を開けた瞬間彼に飛びつく幼い娘であった。

 ……それも金色の髪と白い肌の明らかに日本人ではない容貌であった。

 その娘が今目の前に居る。

 城戸の娘なのか?

 思えば先だって服屋で仕立ててもらっていた服はこの子のものなのだろう。

 しかしいったいどういうことなのか。

 清五郎は女の背の上で眠る娘を見遣り簀巻きのままで疑問を城戸にぶつける。


「……その子はあんたの娘なのか⁉︎いったいどうなっている⁉︎

 師を斬ったことと関係があるのか?

 答えろ!城戸道久!」


 自分でも思わず強めの口調になってしまったが、相も変わらず面倒なものを見る目で城戸は眉をひそめる。

 この辺は初めて会った時から変わっていない。


「相変わらずうるさいのう、お前は。落ち着け野村清五郎」


 そうして傍らのざんばら髪がにやけた笑い顔でまあまあ、と城戸に手を振りながら後を継いだ。


「そんなだから何の疑問も抱かず愚直な旅を続けられたんじゃないかのお。

 のお、清五郎。この人はどうしても斬らんといかんかのお」


「……何を、何を言ってる⁉︎城戸は師の仇だ!城戸!お前を斬ることは藩命でもある!」


 訳のわからない物言いに清五郎は声を荒げる。

 何しろこの数ヶ月、城戸を斬るために奔走してきたのだ。

 己の努力を軽く否定されるようなその発言に清五郎は憤る。

 しかし今度は城戸が嗜めるような口調で清五郎に目線を合わせると口を開いた。


「なあ、清五郎よ。よお考えてみよ。

 お前は師にどれくらい世話になった?それほど口をきいたか?

 好きな食い物を知ってるほど親しかったか?

 藩命が無くても数ヶ月もかけて俺を追い回したか?」


「……!」


 下級士族である清五郎は師津久井や高弟から直接の指導を受けた事はない。

 どれほど努力しようが功をたてようがこの泰平の世では恐らく清五郎の立ち位置は変わることはないだろう。

 それどころか言っては何だが理不尽な藩命を受け日本中を駆け回り、今こんなところに居てこんな目に遭っている。

 こんな命を下した家老渋沢や藩自体に些かも反発を覚えていないといえば嘘だ。

 清五郎の表情を読むように城戸は更に言葉を続ける。


「考えたことがあるか?そもそもお前の師は、藩主は命を賭して守るに値する存在か?

 ……考えてみよ。津久井が何をしてくれた?直接剣を教わったことはあるか?

 本当に師や兄弟子が亡くなったことをお前は悲しんでおるか?

 藩主や家老渋沢が何をしてくれた?

 奴らは普段は城の奥でふんぞり返り庶民より数段豪奢な生活を送り、更には我々下々に会ったと思えば無茶な命令を突きつけるばかりではないか。

 お前に無茶な命を飛ばした渋沢は今ごろ如何に江戸で寛いでおるだろうな」


 次々とぶつけられる思いもかけぬ質問に清五郎は己でも気づいていなかった胸中の疑問を見透かされ、まるで冷水をぶつけられたような思いに囚われた。

 それはまるで武士としての価値観をひっくり返されるような物言いであった。

 唖然とした思いで考えを巡らせている間も城戸はなにやら気遣わしげな目で清五郎の顔を見つめているようであった。

 それは清五郎を脅威とは見做していないようで更にその心を波立てる。

 ざんばら髪の男を見ると何やら口角を上げにやにやと笑みを浮かべているようだ。……どうやらこいつはこういう男らしい。

 やがて清五郎は考えをまとめると城戸の顔を見て口を開いた。


「……武士として、それは疑問に思ってはいけないことだ

 ましてや口にするなど」


 上意下達。それが封建社会の絶対の掟である。

 下級士族とはいえ生まれた時から叩き込まれた価値観はそう簡単には変えられない。

 ……例え正論を突きつけられようとも

 詭弁と断じ清五郎は城戸たちの考えを完全に否定したが城戸は床にどっかと腰を下ろすと尚も話を続けた。


「何故だ?幼い頃よりそう叩き込まれたからだろう?

 生まれの差で何故我々が奴らに顎で使われなければならぬ?

 理不尽な命令を聞かねばならぬ?

 ……お前も本当に一度でも考えたことはないか?」


 更に紡がれる正論に逡巡するが頭を振りつつ清五郎は声を絞り出す。


「城戸……!言っていることは理解できる。

 しかしお前は何をしようとしているんだ?

 俺を斬った後は藩主さまでも斬るつもりか⁉︎

 ……それにその子はいったい何なんだ?なんで南蛮人の娘なんだ?その子をどうする気だ!」


 状況が分からず清五郎は苛立つ。

 城戸は何やら南蛮の娘を連れてどうやら最近怪しげな動きを見せている維新志士らしい男の世話になっているようだ。

 清五郎にとって予想外の展開であった。

 城戸は煩わしげに眉間の皺を深めると更に深く腰を下ろして座り込む。


「うるさいのう……!本当にうるさい。

 お前にも理解できるよう順を追って説明してやろう。

 ……理解できたらお前も手伝え、野村清五郎」


 ……なんだというのだ

 維新とやらの手伝いをさせようとでもいうのだろうか。

 しかし清五郎のこの状況では否やもなかった。


「……話次第だ」


 渋々頷くと城戸は大きく溜息を吐きぽつりぽつりと話を始めた。








 ◇








「このような夜半に済まないな。城戸。何しろ時間がなくてな」


「……これはこれは

 このようなむさいところにご足労ですな、先生」


 幾分かの皮肉を込めながら城戸は久々にみるその眉間の皺の深い狷介な顔をじっと眺める。

 その夜、急な来客に不審を覚えながらも城戸はその客人の訪問を拒めなかった。

 何しろ剣の師である津久井が高弟を供に直々に道場に訪ねてきたのだ。

 流石に城戸と言えども師であり道場の元来の持ち主である津久井の来訪を無碍にはできない。

 幾人かの内弟子も供につけてきていたので狭い道場は更に小さく見える。

 それにしてもこんなことは初めてだ。

 思案しながら上座に座る師を見つめていると間も無く津久井は無表情のまま口を開いた。


「早速で悪いが話というのは他でもない、預かって欲しいものがあるのだ」


 そう言って連れてきた弟子の1人に目で合図を送るとその弟子は背負っていた籠を降ろし中から何やら取り出し始めた。

 城戸は何事かと訝しげな目を籠に向ける。

 そして予想もしなかったものが籠から取り出されたので城戸は思わず目を白黒させる。


「はっ……?これは?」


 籠から取り出され男の腕に抱かれていたのは金髪の幼な子であった。

 城戸も横浜に出かけた折に異国の者を目にしたことはある。

 明らかに南蛮人の娘だ。

 このような状況でも眠りこけているようで小さな寝息が聞こえる。

 呆気にとられる城戸を面白そうに眺める津久井の視線に気づき、城戸は内心で苛立ちを募らせる。

 やがて怒りを鎮め居住まいを正して師に向き合いじっと言葉の先を待つ。


「見ての通り、南蛮人の娘じゃ。漂流していたところを我が国で保護した女とやんごとないお方との娘だそうだ。薬で眠らせてあるので起きる心配もなくこの会話を聞かれることもないぞ」


 ……そのような問題ではない

 思わず喉の奥から出そうになる怒声を抑えながら、困惑の表情で城戸は津久井と高弟たちの顔を見比べる。

 どの男の顔にも軽く嘲るような表情が浮かんでおり城戸は殴りかかりたい衝動に駆られるが平静を繕い質問を重ねる。


「……この子をどうしろと

 まさか私に預かれ、と⁈」


 答えはわかっていたが尋ねるしかない。

 また厄介ごとをこの自分に押し付けに来たのだろうか。

 それにしても今回の厄介ごとはタチが悪いし意味が分からない。

 高弟の1人が口角を上げながら忌々しい笑みでその質問に答えた。


「その通りだ。城戸道久。その子の母親は先日亡くなった。

 今までは極秘裏にその娘の父親の屋敷で母子ともに面倒を見ていたがもうこれ以上は秘密にしておくことはできん。

 何しろ目立つのだ、その子の容姿は。

 よってこの人気のない道場を営むお前の元へと頼ってきたのだ」


 城戸の拳に力が入り思わず大きな声が出る。


「困ります!私などに子どもの面倒など見切れませぬ!」


 困惑する城戸を嘲るように津久井たちはまた薄く嗤い、宥めるような仕草で城戸に掌を見せる。


「何、適当でよい。

 飯を与えて雨露がしのげればそれでよいのだ。

 子どもだから我儘も言うだろうがそれも適当に叩いて黙らせておけ」


 まるで物を扱うかのようなその言い草に今度は城戸は違う怒りを覚えた。

 いったいこいつらは何を考えているのだろうか。


「……やんごとない・・・・・・方の娘ではないのですか?」


「南蛮人との娘がいる、などと知れればその方にとって失脚どころか切腹ものだ。

 今はまだその娘の受け入れ先の選定を迷っておられるだけだよその方は。

 それまでの辛抱だ、城戸」


 黒船が横浜や江戸湾に寄港するようになり一部の地区では南蛮の者が闊歩しているという。

 ここ日の本では形の上では未だに鎖国体制を取っており、異国の者がこの国を歩いていること自体に憤っている者さえ居る。

 そんな折に政務を担う者が異国の者と交わり子まで成したとなれば確かに失脚は免れないだろう。

 城戸は眉根を寄せながら暫く考え込む。


「……その子を預かるという命は承りました。夜の明けぬ内にお帰りを」


 根負けした城戸は師と高弟たちに了解の意を伝える。

 こんな任務は御免だったが今の発言からこいつらにこの娘を預けて置くわけにはいかない、と城戸は考えた。

 それにこのまま押し問答を続けていれば斬りかかってしまいそうだ。


「おお、やってくれるか城戸。感謝するぞ。

 これは必要経費と報酬だ。その子を迎えに来るときはさらなる報酬が出るはずだ。

 では頼んだぞ城戸よ」


 幾ばくかの包まれた金子を置くと津久井たちは晴れやかな笑顔で薄い月明かりの外へと退出した。


「クズどもめ……!」


 残された城戸は忌々しそうに津久井たちの背を睨みつけ、娘の寝顔を見つめ溜息を吐く。



 夜半過ぎ、布団へと寝かせつけた娘が目を覚ましたようで泣き声をあげたので城戸も目をさます。


「目が覚めたか?飯を食え」


「……ママ」


 ぐずつきながら碧い目を赤く腫らしながら娘はきょろきょろと辺りを見回す。

 母親を探しているのだろう。


「仔細は知らぬが其方の母御が亡くなったことは聞いておる。

 気の毒だがしっかり気を持てよ」


 しかし娘は一向に泣き止む様子はなく遂には屋敷の外へと出ようとするので城戸は慌てて抱き止める。

 暫く腕の中でもがいていた娘は城戸の頬を引っ掻き、髪を引きちぎるほどに暴れた。


「いたたたたた!これ!やめよ!やめてくれ‼︎」


 城戸はその痛さに悲鳴を上げながらも娘をおんぶしながらあやし続ける。


 やがて疲れたのか再び眠りへと落ちていった。

 城戸は寝静まった娘を再び布団へと寝かしつけ溜息を吐く。

 今更ながら思ったよりも厄介な仕事であることに気づいたのだ。


「……はあ。こんな時に恵那がいてくれればな。

 まあいい、好きなだけ泣くがよい」


 亡き妻の有り難さを思い出しながらやがて城戸も娘の横に布団を敷き眠りについた。





「おい、鞠を買うてきてやったぞほれ」


「べべを用意してやったぞ」


 城戸は娘の世話を焼くうちに徐々に彼女に情を移していった。

 高弟たちの不穏な物言いに出来る限り娘にはいらない感情を移入させる気はなかった。

 しかし城戸という男はぶっきらぼうだが根は冷たい男ではなかった。

 ……何より亡くなった妻の顔を思い出すと産まれるはずだった子のことを思い出し、この娘を見捨てることなどできなかった


 娘は来た当初感情を全く顕さず食事も碌に摂らず、夜中は母を想っているのかひっそりと泣いていることもあった。

 特に城戸には心を開こうとしなかった。

 ある日知らない男の元に連れてこられたのだ、当然だろう。

 しかしぎこちない笑みを浮かべながら食事や玩具を持ってくる城戸に初めは怯えていたが徐々にその表情は柔らかくなっていくようであった。

 ……そうして城戸が娘を迎えてからひと月ほどが経った







 ◇







 思いもよらなかった城戸の話に清五郎は聞き入るがやはり数時間の拘束は堪える。

 身に痛みと尿意を覚え顔を顰めながらここで話を遮った。


「……城戸、縄を解いてくれないか。この後に及んで逃げはせぬ。厠にも行きたい」


 城戸はざんばら男と目で会話しながら清五郎の方を見遣ると呟くように答えた。


「いいだろう。場所も移そう。ここは狭いし暗すぎる」


 縄を解かれ閉じ込められていた蔵から出されるとうっすらと東の空が茜色に染まり始めていた。


「間も無く明ける、か」


 城戸がじっと空を見上げながら独りごちるのを背で聞きながら清五郎は志士らしき女に厠まで案内される。

 それとなく清五郎は観察する。

 どうやら結構広めの屋敷内に居るらしい。

 女はそんな清五郎の仕草に気づいたのか振り返りややきつい目の声を出す。


「逃げないで下さいね。特にあなたが逃げたところでどうということはないですが」


「ああ、わかってる」


 用を足す間、清五郎は聞いた話の内容を反芻する。

 つまりはあの娘は城戸の実の娘ではない。

 津久井を動かし厄介ごとを押し付けられるほどの人物。

 おそらく藩の上層部のいずれかがあの子の父親なのだろう。

 では何故師と高弟を斬り殺したとされる城戸はあの子を連れてこんな四国くんだりまで逃げ回っているのか。


 この状況、清五郎には逃げ出そうと思えば厠の窓から逃げ出すという手もあった。

 しかしどうにも話の続きが気になる。

 この話は何やら嫌な顛末にしかならないような予感しかないが、しかし続きを聞いてみたいという欲求には抗えなかった。

 清五郎は手水で手を洗い終えると待っていた女に案内され城戸やざんばら男の待つ居間へと戻った。


「おお、戻ったのか。野村

 ……逃げればよいものを」


 城戸は清五郎の顔を見ると呆れたような声を発した。

 ……やはり自分を逃すつもりだったのか

 城戸はどうも清五郎という人間を苦手としているようであった。それは善意や情といったものではなく、「めんどくさい」といった感情から清五郎を逃がそうとしたのだろうと彼は推測した。

 自然と苦笑いが浮かぶ。

 ざんばら男が急須で湯のみに茶を注ぎ清五郎の方へと差し出す。


「茶でも呑むぜよ。酒というわけにはいかんがのう」


「仕方ない、続きを聞くか野村」


 居間の奥には布団の中ですやすやと寝息を立て娘が寝入っていた。







 ◇







「どうも久方ぶりです。このようなむさい所へようこそおいで下さいました」


 ひと月ぶりに再び津久井と高弟たちが城戸の自宅兼道場に現れた。

 草木も眠る丑三つ時。

 新月の夜のことだった。


「うむ。では早速。

 ひと月におけるあの娘の面倒御苦労だった。

 今夜をもって娘の保護の任を解く。

 お疲れ様だったな、城戸よ」


 橙の燭台の明かりに照らされた津久井は薄く笑みを浮かべながら話を続ける。


「慣れぬ子育てで大変だったそうだな。聞いておるぞ」


「そうですか。なれば肩の荷が降りた気分です」


 ……本当にこのひと月は大変だった。

 娘は泣きわめいたり、夜泣きするわ、外へと飛び出していくわ、心の擦切れるような毎日だった。

 しかし城戸は顔を引っ掻かれようが髪を引っ張られようが娘に対して声を荒げるようなことはしなかった。

 師の言っていたような扱い方は以ての外だ。

 娘を傷つければ妻が悲しむような気がしたからである。

 また、髪色から「なずな」という名まで付けた。


 しかしその任も今宵までである。

 内心でほっと胸を撫で下ろしながら城戸は今度はあることに気づく。

 この南蛮人の娘に行く当て・・・・などあるのか。

 こんな見知らぬ男の元に預けておきながら本当にこの娘の父親とやらは面倒を見る気があるのか。

 城戸はどうにも腑に落ちず津久井に尋ねる。


「しかしあの子の金の髪と碧い目はこの国では目立つ。

 いったいどちらで預かるので?」


「それはお主の知ったことではない。

 報酬は約束通り渡す故、このひと月のことは忘れよ。詮索も無用ぞ」


 師から表情が消え有無を言わせぬ答えが返ってくる。

 通常であれば士というものはそれで納得し引き下がらなければならない。

 しかしその答えは城戸には納得できるものではなく明かりに揺れる津久井の目を見ながら更に彼は詮索を入れる。


「そうですか。あの子が仕合わせに暮らせる土地があればよいのですが」


 それとなく探りを入れるつもりで発した一言であったが津久井を見ると全く身じろぎすることなくその表情も動かない。

 城戸の言葉に一瞬高弟たちも目を見合わせたようであった。

 そんなにこの自分が娘を気遣うことが物珍しく意外だったのだろうか?

 ──それとも


「……先生

 あの子は、本当に受け入れ先が決まったのですよね?

 やんごとない方の娘なのですよね?

 これから人並み、いや人並み以上の暮らしを送ることができるのですよね?」


 師や高弟の反応に嫌な予感がした城戸は問い掛け続ける。

 しかし高弟の幾人かが立ち上がり声を荒げた。


「おい、城戸。先生に失礼であろう」


「何を詮索しておる?あの子の行く先など貴様の知ったことではないわ」


 城戸は膝を叩き高弟たちに怒鳴り返す。


「先生に直接聞いておるのです!

 ……先生!

 私の目を見てお応えください!」


 その剣幕に憤っていた高弟たちは歯嚙みしながらも矛を収めたようで師の方をちらりと見遣る。

 津久井は目を閉じ、茶を一口飲むとしっかりとした口調で訥々と説明を始めた。


「あの子は江戸家老渋沢光胤さまの御子じゃ。伝手を頼り秘密裏にどこかのお家で養われるであろう」


 ……あの子は家老の娘だったのか

 道理で取り繕うはずである。

 しかし言質が取れたなら安心と城戸は胸を撫で下ろす。

 今宵こいつらはあの娘を始末・・するつもりではないかとすら勘繰っていたのだ。


「そうですか。なれば安心致しました」


「娘を連れて来てくれんか」


 城戸は立ち上がり津久井や高弟の表情を観察する。

 ──目には怪しい光を湛え男たちの顔からは表情が消えていた


「ではあの子を連れてきます」


 そう言って城戸が後ろを振り向いた瞬間であった。


 鈍く光る白刃が闇を飛び交い城戸の背へと奔った──


 ごっ……


 闇夜に喉元から血飛沫をあげ声にならぬ声を上げると男がどう、と倒れ込んだ。


「……やはり嘘か

 あんな年端の行かぬ娘を殺してまで出世したいか⁈

 あぁ⁈

 津久井明良‼︎応えよ!この耄碌ジジイめ!」


 城戸は抜いた刀を構え師や高弟に殺気を飛ばす。

 城戸の不意をつき襲いかかった高弟の1人が返り討ちに遭い絶命したのだった。


 思えば依頼主である家老の名を明かしたのは「面倒だから城戸を討て」という師による暗黙の命であったのだ……


 高弟の1人が激昂して城戸に怒号を発する。

 闇夜でも同胞の無惨な死に様はよく見えた。


「きさま!ようも同胞を!……先生に何という口を!」


「手向かうか!この不忠者が!!」


 居直り刃を向ける高弟たちを注視しながら城戸は奥の師の出方に気を配ることも忘れない。


「黙れ……!年端もゆかぬ幼子をその手に掛ける外道どもめ!」


「うあぁぁ!」


 怒った高弟の2人が二方向から同時に斬り込んでくる。

 城戸は斬撃を躱し一太刀で男たちの喉を斬り裂いた。


「……ぶぐぅ‼︎」


 赤い花を散らし2人の男が硬い床へと崩れ落ちた。

 城戸は師へと刃を向け自らの士道の終わりを決定的なものとする。


「津久井ぃ……!抜けぃ!貴様などもう師匠でもなんでもないわ‼︎

 今宵斬って捨ててくれる!」


 橙色に照らされた師のその容貌は表情を無くしまるで怪異のように映り津久井はゆっくりと腰のものを抜く。


「愚か者め、城戸道久。藩命に逆らうか。

 娘を始末せよ、という命は既に下っておるのだ。

 娘のことなど忘れておけばいいものを。

 もはやお前は終わりじゃ」


 彼らが娘を城戸に預けたのは渋沢が段取りを付けるまでの時間稼ぎであった。

 まさか渋沢の政敵もこんな田舎道場に渋沢の隠し子が居るとは夢にも思うまい。


 残った高弟2人が師を中心に扇で城戸を包囲するようにじりじりと距離を詰めてきた。

 城戸は相手の動きに合わせるように左右に弧を描きながら徐々に後退を余儀なくされる。


「数に頼むか、津久井明良!いいだろう。やってみるがいい!」


「やれい‼︎」


 津久井のその掛け声と共に高弟たちが懐より何かを取り出し城戸へと投げつけた。

 城戸は難なく飛んできたそれを斬り落とすがそれと同時に何か粉末のようなものが辺りに撒き散らされた。


「ぐっ‼︎」


 その刺激臭と痛みに城戸は思わず目を瞑り咳き込んでしまう。

 彼に投げ付けられたそれは予め城戸対策に用意されていた唐辛子や刺激性の食物油などを混ぜた特製の目潰しであった。

 視界を封じられた城戸に高弟2人が容赦なく斬りかかった。


「がぁっ‼︎」


「おぐっ!」


 しかし目を閉じたままの城戸に1人は頭を真っ二つに割られもう1人は心の臓を刺突されたちまちのうちに絶命する。

 見知った道場という場所感覚と風と気配が見えない城戸に高弟たちの動きを知らしめてくれたのであった。

 流石の津久井も尋常ではない程の城戸の剣技に思わず感嘆の声を発する。


「……なるほど、凄まじい剣技だな

 城戸よ。こんな田舎でやることもなく毎日稽古に励んでいたそうだな。

 褒めてつかわす」


「津久井ぃ……!」


 その呑気な口振りに城戸は目を抑えながらも正確に師へと向き合う。

 津久井は距離を保ちながらも足音を消しながら慎重に城戸の周りをぐるりと周った。


「最期は師である儂自らきさまの止めを刺してやろう。

 さらばだ……城戸道久」


 やがて話すのを止め息を潜めると津久井は足音を潜め城戸の背後へと回ると飛ぶ鳥のような疾さで城戸へと斬りかかった。


「……このっ!腐れ外道がぁ……!」


 ──キィン……!


 いち早く城戸は津久井の斬撃に反応すると目を閉じたままで刃で受け止める。

 それと同時に城戸は左手を柄から離し脇差を左腰から逆手で引き抜くと津久井の喉元へと突き立てた。


「ぐぅぅ……!おぉぉぉ……!」


 血の泡を吹いて津久井はどう、と倒れ込んだ。

 びくりびくり、と痙攣したように津久井の手足が上下に震える。


「はぁっ……!はぁっ……!

 俺個人への嫌がらせだけならまだしも……!

 津久井……!これが貴様の士道か?

 ならば俺は貴様の全てを否定する……!」


 痛みを堪え這々の態で甕まで辿り着くと城戸は目の刺激物を洗い流し、また水で喉を潤す。

 師を見ると薄闇に赤い血を流れるように吐き出し虚ろな目で今にも絶命せんとしていた。


「……ふ、ふふ

 これからどうする気、だ……?

 逃げた……ところで、追っ手がかかるぞ……

 逃げ惑うが、いい、き、どよ……」


「貴様の案ずるところではない」


 その言葉を最期に津久井はがくりと肩を落とし完全に息を引き取る。

 城戸は血に塗れた道場を後に娘の眠る部屋へと向かった。






 ◇






 凄絶な夜の話が終わり、清五郎は唖然とする。

 まさかそこまでの修羅場が繰り広げられていたとは……

 知らず上がっていた呼吸を整え、清五郎は湯のみの茶を一口飲む。


 野村の表情を確認しながら城戸は話を続ける。


「野村よ、何故師が俺に江戸に赴く前の有望な若手の指導に当たらせていたか解るか?」


「なんとなくは……」


 江戸藩邸や江戸の道場に送る有望な若手を敢えて出世の道から外れた城戸に当てることで嫌がらせをしている、という噂は聞いたことがある。

 地味で陰湿な嫌がらせだと思ったものだ。


「ふん、特に出世など興味のなかった俺にとっては屁でもなかったがな。

 しかしお前のような妙に張り切った小僧の相手は煩わしかったわ」


 くっくっ、と笑いながら城戸は思い出すように清五郎の顔を見つめた。

 そしてひとしきり笑い終えると真顔でこう言った。


「ある時から俺は師や兄弟子たちを超えた。それが疎ましがったのだろう。

 それでも上司たちにおもねることができる性格であればもっと楽な生き方が出来たであろうよ、ふん。

 だが、師たちを斬ったのはそのようなしょうもないしがらみが原因ではない」


 そして湯のみをぐいと飲み干すと語気を強める。


「わかるか、野村……

 上意下達のみが士道の本懐というなら……

 俺は士をやめる!

 この子の親である外道、渋沢光胤だろうと斬り捨ててくれる!」


「……まさか、江戸家老を斬るのか?

 国を滅ぼす気か?城戸!」


 清五郎は驚き、湯のみをがしりと握りしめる。

 そこまで考えていたとは……

 江戸家老が斬られたとあっては場合によっては館山藩は取り潰しの憂き目に遭うだろう。

 清五郎の激昂をよそに城戸は鼻で笑いながら話を続ける。


「ふん。異国の女を孕ませ娘を産ませた上で始末した外道が家老を務める国、それが俺とお前の祖国だ。滅んでも惜しくはないだろう」


 余りにもきっぱりとした割り切り方に清五郎は唖然とする。


「更には今度はご丁寧にこの子を始末しようとまで企んでおる。

 俺は旅の途中でこの人に会った。

 広い情報網で俺の事情も掴んでいたようで渋沢を斬ればあとは遠い地での悠々とした生活を保証してくれるという。

 だから俺は渋沢を斬る。……邪魔はしてくれるなよ」


 清五郎は少し考え込んだ後、城戸へと向き直る。


「なるほど、言ってることは筋が通ってる。

 渋沢は死ぬべき外道なのかもしれん。

 でもな、城戸さん」


 城戸の過去がどうであろうと、娘の命がかかっていようと清五郎は許せなかった。

 立ち上がり城戸と山本と名乗る志士を睨みつけた。


「あんたは間違ってる。そっちのあんたもだ。

 最近、天誅だとかいってあんたらみたいな連中が増えてるらしいな。

 そうやって腐敗した人間を廃していけば国を変えられると本気で思ってるのか?」


 清五郎も流行りの「封建社会の矛盾」といったような巷説は聞いたことがある。

 下級士族の自分には共感できる部分もあるし理屈は通っていた。

 しかし「君主や重臣たちの命を奪い革命を遂げる」といった過激な思想には激しい憤りを感じていた。

 清五郎は語気を荒げ山本を指差す。


「だいたい、怪しいんだよ。

 あんたも中途半端な条件付けてないで気前よく助けてやれよ」


「……いやいや一本とられたのお」


 山本はざんばら頭を掻きながら如何にも楽しそうに笑う。

 摑みどころのないその男に不審を抱きながら清五郎は城戸へと視線を戻した。


「城戸道久!その子を守るために外道とはいえその子の父親を斬ってその子を血塗れの手で抱き上げる気か?

 ……俺には理解できない」


「黙れ……お前に何がわかる……!」


 凍るような目で城戸は清五郎を見据えるが怯むことなく清五郎は続ける。


「俺なんかには思いもつかない体験をしたんだろう。でもあんたが間違ってるってことだけはわかる。

 どっちが正しいかは剣で決めようではないか」


 ……2人が斬り合う意味などない

 意味などないのだが清五郎の口から自然と言葉が紡がれた。


「……いざ尋常に勝負しろ、城戸道久

 いつかあんたとはやってみたかったんだ……!

 俺ももう藩命なんぞの為にあんたと斬り合うつもりはない」


 山本はふう、とため息を吐きながら心配そうに城戸を見遣る。


「おい、城戸さん

 彼奴の口車に乗る気か?意味なんか無いぜよ」


 じっと清五郎の目を見つめ城戸は立ち上がった。


「すまないな、山本さん。受けないわけにはいかない」


 清五郎の背に電流が奔った気がした。

 震えそうになる心を抑えながら清五郎は山本に向き合った。


「おい、山本とやら。条件が1つある。

 その子はこの勝負に関係ない。

 どちらが勝っても今後のその子の安全な生活を保証しろ」


 山本は大きくため息を吐きもう1人の女をみながら頷いた。


「……わかった、わかった。

 ワシがこの勝負の後見人となろう。よいな?2人とも。

 ただし条件があるぜよ。

 生命を懸けた勝負じゃあ。尋常な仕合をせねばならん。

 お天道様が昇るまであと半刻はある。

 その前におまんら2人とも飯は食え」







 ◇






 志士であり「しの」と名乗る女が握り飯と焼き魚を用意してくれた。

 清五郎は机に並べられた朝飯をがつがつとかきこみ、城戸はゆっくりと味わうように食べる。


「ふん、相変わらず食い方が下品だな野村」


「黙れ、偏屈者。そんなだから誰とも交わらず今そんな様に陥っているのだ」


 始まる小競り合いに山本は呆れたように宥めに入る。


「……おまんら、やめんかあ

 飯食ってる時くらい喧嘩はよせや」


「ふん、偏屈者」


「頭でっかちめ」


 尚もいがみ合いながら朝食を進める2人に山本は苦笑する。


 やがて2人が朝食を食べ終わったのを確認すると山本は黒い鞘に収まった打刀を清五郎へと手渡す。


「ほれ、おまんの刀じゃ。希望があればもっといい業物を貸し出すぞ」


「……構わん

 約束は守れよ、山本」


 清五郎は鞘から刀を抜くと刀身を確認する。

 無銘とはいえ手慣れた刀の方が扱いやすい。


「……やはり勝負せんといけんのか。勿体ないのう」


 城戸と清五郎を見比べながら山本は顔を顰める。

 どうやら飯を食わせて頭を冷やせば勝負の話は有耶無耶になると踏んでいたようだ。

 こすからい手を使う男だ──


 苦笑しながら清五郎は立ち上がる。


「さあ始めようか城戸。辞世は用意したか?」


「ふん、必要ないわ。相変わらず生意気なガキよ。貴様こそ今から詠んでおけ」


 城戸が応じるように腰の刀を確認し立ち上がった。







 ◇







 東の空から茜が差し清五郎と城戸が向き合った。

 2人は屋敷の広い庭を決戦の場に選び山本としのの2人がこの勝負に立ち会う。


 ぽりぽりと頭を掻きながら山本は口を開いた。


「……最後の警告じゃ。おまんら2人斬り合えば無事じゃ済まんぞ。

 考え直さんかのお」


 2人は山本には応えずゆっくりと抜刀する。

 朝風が2人の間を掠めるように飛び交い群青の春空が視界を明らかにする。

 山本は諦めたようにため息をつき、2人から距離を取った。


「……わかった。もう止めん。

 では……いざ尋常に

 はじめい」


 城戸は得意の八相の構えをとり、清五郎は姿勢を低く沈み込み相手に刀が見えないくらい振り被るような極端な構えを取る。


 2年前、城戸の凄まじい剣技を見て以来清五郎は彼を目標とし己の腕を磨いてきた。

 当然城戸の構えや太刀筋を真似もした。

 しかしいくら鍛錬を積もうとも真似ごとだけでは清五郎はあの日の城戸に追いつける気がしなかった。


 ……結果生み出した戦法がこの歪な構えである

 実戦で用いるのは初めてであるが対城戸戦の搦手と言えなくはない。

 しかし本当に城戸を相手に斬り結ぶこととなろうとは……


 清五郎は気持ちを整理しながらじりじりと城戸との距離を詰める。

 城戸と言えどもこの奇抜な構えは中々見たことはないであろう。

 両者とも容易に飛び込まず弧を描くように距離をじりじりと詰める。


 後二歩程で間合いに入ろうという時であった。


「……相当な鍛錬を重ねたな野村

 見違えるようだ」


 城戸が無表情のまま口を開いた。

 清五郎は応えずゆっくりと一歩を踏み出す。

 城戸は構わず話し続ける。


「そうだ、呑まれぬことだ。

 ……修羅場を幾つかは乗り越えたのであろうな。わかるぞ。

 しかし」


 城戸も一歩を踏み出すと共に清五郎に向かって駆け出した。


「まだまだ甘いな野村清五郎」


「ぐっ……」


 清五郎の右頬が斬りつけられ血飛沫が舞う。

 まるで飛鳥ひちょうのような城戸の迅さに清五郎は思わず仰け反り後ずさった。


 荒くなる呼吸を抑え構えを正眼に取る。

 ──やはり、強い


 清五郎は改めて城戸の底知れぬ剣力に身震いした。

 勝てない、と弱気になる心を鎮めながら城戸から目だけは離さない。


 無表情のまま八相の城戸は姿勢を下げ再びじりじりと迫ってくる。


「どうした、野村。さっきの構えはいい線いってたぞ」


 対戦相手に助言をする程に余裕がある、ということだろう。

 野村は城戸の殺気に呑まれそうになる──


「野村清五郎ぅぅぅ!お前の剣に懸けてきた日々はそんなものか⁉︎

 先ほど俺に挑んできた目は何処へいった⁉︎」


 身震いするような怒気が清五郎にぶつけられ、近場の木に止まっていた小鳥たちが一斉に飛び立つ。

 しかし、一瞬の静寂の後、清五郎は息を整え再びあの歪な構えを取った。


「……城戸

 舐めるなよ。俺はあんたに勝つ為に時間を費やしてきたんだ」


 清五郎は低い姿勢のままじりじりと城戸との距離を詰めていく。

 その目にもう迷いはない。

 無表情だった城戸の口角が一瞬上がった気がした。


「そうだ。その目だ。男とは、士とはそうでなくてはな」


 ──次の瞬間、男たちは同時に間合いへと踏み込む


 城戸は八相から横薙ぎの斬撃を、清五郎は斜め下からの斬撃を互いに相手の急所へと繰り出した。


 ──互いの身体から紅い血の花が飛び交う


 斬り結び、男たちは交差し背を向け合った。


「ぐぅぅ……!」


 清五郎は胸から血を流し地へと手をつく。

 息を荒げながら振り返ると無表情の城戸が清五郎の背に立っていた。


「城戸……!」


 城戸は無精髭に笑みを薄く浮かべ朝日を背に最期の言葉を残す──


「見事だ。野村清五郎……

 なずなを……んだぞ」


 やがて首筋から血飛沫を吹き出しながら地へと倒れこむ。

 清五郎の刃は城戸に届いていたのだ。



「……そこまで、じゃな」


 ざんばら髪をかき上げ山本は寂しげに城戸を見つめ勝負の終わりを告げる。


 しのが抱える金色の髪の娘と城戸の遺体を見比べながら清五郎は慟哭した。


 茜色の朝空に若き侍の咆哮が響き渡った──







 ◇







 館山藩江戸屋敷のとある間で初老の男がざんばら髪の男の平伏を見つめ、嗄れた声を発する。


「そうか、その方が城戸を討ったか。大儀であった」


「ははあ、ワシャあ作法というものに疎いんでこまけえことはお見逃しくだせえの」


 はは、と笑いながらざんばら髪の山本虎徹は顔を上げ相変わらずの調子で渋沢に答えた。


 城戸を討ったという浪人がその遺髪を持ち館山藩江戸屋敷を訪ねてきたのは今朝方の事だ。

 江戸家老たるもの、浪人風情に目どおりすることなど滅多にないがことが事である。

 渋沢自ら話を聞くに及んだ。

 山本虎徹と名乗るその男は先だって上意を伝えた野村清五郎から仔細を聞きおよび彼と協力して城戸道久を討ち果たしたと申し出ていた。

 男によれば野村はその際に城戸と相討ちになったという。

 藩の秘密を漏らした野村を忌々しく思いながらも渋沢はその朗報に心の中の靄が晴れるような気持ちであった。

 そしてもう1つの懸念を男に伝える。


「……城戸が連れていた娘だが

 どうなったか知らぬか」


 渋沢としては何としても娘の素性を隠し通し始末せねばならぬ。

 近頃、渋沢は幕府と関係を深くしこのままいけば幕閣入りの目もあるのだ。

 山本は笑みを深めながらその問いに答える。


「……どうも身体を壊したようで先日病死しました。まことに残念なことで」


「そうか」


 あっさりと答える山本のその答えに渋沢は内心で胸をなで下ろす。

 何しろ城戸が死んだ上に娘を始末する手間が省けたのだ。

 しかし2人の遺体がない、というのはどうにも気にかかるので裏取りする必要はある。


「その方には充分な褒美をとらせる。しばし待たれよ」


 取り敢えず男には褒美を渡すことにする。

 渋沢は上機嫌で横に控える側近に目で合図を送るが山本は手を広げそれを制止した。


「いえいえ、ワシが欲しいのは金子じゃあないんですわ」


 渋沢はその言葉に眉をひそめる。

 男は浪人だ。

 大方、仕官させて欲しいという話だろう。

 男の身元が分からない以上、雇用するには危険がある。


「聞くだけきこう」


 山本は手を振りながら頭を掻き返答する。


「いやあ、御家老の御手を煩わせるような難問じゃござんせん。欲しいもんがあるだけじゃあ」


「なんだ……?」


 訝しげに首を傾げる家老に山本は満面の笑みを見せる。

 ……その目は笑ってはいないが


「いやあ、ワシが欲しいのはなあ……

 異国の女を孕ませ用済みになったと思えば始末し、更にはその娘を始末しようとした外道の首じゃあ」


 懐から一瞬で短銃を取り出すと銃口が火を吹いた。


「があっ⁉︎」


 銃弾は渋沢の胸を捉え老人は血を流しながら倒れこむ。


「そしてその企てを阻止せんと立ち上がった素晴らしい侍でありワシの友を殺した外道の首じゃ……」


 更に山本はもう1発渋沢の頭へと銃弾を撃ち込み止めを刺した。


 やがて一瞬の出来事に固まっていた側近が慌てて抜刀し大声を発する。


「渋沢さま⁉︎

 ……おのれぇ!であえ!であえぃ‼︎」


 ぞろぞろと大勢の警護の者たちが集い山本を取り囲む。

 しかしそれにも関わらず山本はぼうっと渋沢の遺体と銃口を見比べ気の抜けた表情で佇んでいた。


「はぁ、ガタガタとうるさいのお……

 ワシは友の仇討ちの余韻に浸っとるんじゃ……

 邪魔せんでくれるかの」


 急な事態と男の異様な反応に戸惑う藩士たちに山本は一瞥をくれると冷たい声で告げる。


「退がれや。さがらんと」


 山本はただ一度指をぱちり、と鳴らした。


「死ぬぜよ、おまんら」


 すると突然藩士たちの半数が残りの半数に斬りかかりあっという間に事は終わった。

 山本による工作はすでに終わり今現在渋沢を警護する士の半数は維新の志士へと成り代り打倒渋沢へと動いたのだった。

 血の海に立ち山本は志士たちに目で合図すると各々が逃げるように屋敷を後にする。


「終わったな……」


 山本は部屋に出来た血の海と渋沢の遺体をぼうっと眺める。


「清五郎よ、おまんはこげなやり方を嫌っとったのう。許せや

 せめてこれからはこんな外道が政務を担うことはない世の中ちゅうのを創るからのう」


 やがて懐から水筒を取り出すとどぼどぼと渋沢の頭へとかけた。

 城戸の好きだった酒である。


「城戸さん、仇は討ったど。

 なずなは清五郎と異国の安全な地へと旅立つことになったぜよ。

 ……あんたに勝ったあいつなら上手くやれるじゃろうよ。良ければあの世で見守ってやってくれや」


 そうして寂しそうな笑みを浮かべると山本は屋敷を後にした。






 ◇






 渋沢が討たれ、館山藩の中では秘密裏に処理されたという報せを受け満足した清五郎はなずなと異国の地へと旅立った。

 船上の甲板で海風を受けながら清五郎はなずなに問いかける。


「なずな、腹は減らんか」


「大丈夫」


 清五郎が城戸を討ってから三ヶ月は経つ。

 なずなは暫くは城戸の姿を求めていたがここ最近は清五郎にも心を開いてくれつつはある。


「ねえ、お父さんはいつ追いついてくるの」


「……もうすぐだ

 もうすぐ追いついてくるから」


 ……城戸は既に亡く彼を討ったのが自分であるという事実は未だ言えずにいる

 嘘を言うたびに胸はきりきりと痛みを感じる。

 いずれは言わなくてはならない、と清五郎は考えていた。


「次に住む街ではお前も隠れて住む必要もない。

 ……城戸さんが来るまでは俺がお前の父代わりになるから

 辛抱してくれ」


 不満そうな顔でなずなは小さく頷く。

 やがて旅の終わりを告げる陸地が見え清五郎はなずなに指差し説明する。


「見よ、なずな。

 街が見えてきたな」


「わぁ……」


 青く光る大海の向こうに白い石造りの建物が見える。

 この街は日本人によって拓かれ、多くの異国の者同士が互いの文化を尊重しながら暮らしているという。


 その後の彼らがどう暮らしたのか詳細は分からない。

 しかし野村清五郎という士がこの地で幾人もの剣客を育て、その娘であるなずなと言う女教師が幾人もの優秀な学者を育てたという記録が後世には残る。

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