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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

短編集

奇遇ですね

作者: 白鳥加寿彦

 ミツハルと離婚したのは一年半前だけど、半年ほど前から毎週、こうして「たまたま」出会う。

 相手を見つけたときの挨拶は必ずこうだ。

「お、奇遇だね」

「あら、奇遇ね」

 そうして、前回「来週行ってみようかなと思って」と言った場所へ、「せっかくだからごいっしょに」となる。場所はジャンルも予算も毎回バラバラで、先週は絵画展、先々週はカラオケ、その前はミュージカル。ほかにもイチゴ狩りだったり遊園地だったり、給料日前で懐が心許ないときは、花が有名な公園を散歩するだけ、海を見に行くだけなんてこともある。

 今日はお食事。ミツハルの親友さんが最近オープンさせたフレンチレストラン。あいつがついに夢を叶えたんだよ、あらじゃあ行ってみようかしら、日曜のお昼はやってるのかしらね、どこそこ駅の近くだよ、今度からランチも開けるってさ――何時にどことは口にしない。それは約束になってしまうから。

 わたしたちは約束をしない。あくまでも、「たまたま」「偶然」会うのだ。


「あいつにも心配かけたからなあ。いっしょに顔を出したら、きっと安心すると思う」

「だといいね」

 電車のなかで「たまたま」会って、下車、駅を出て、おしゃべりしながら道を行く。各駅停車しか止まらない駅だけに、駅前は静かで建物も低い。道路はいちおう三車線だけど、車の通りが少なくて、だだっ広く見える。

 空が広い。いい天気だ。カレーの匂い、ラーメンの匂い、ピザの匂い、お好み焼きソースの匂い、すれ違った女性の香水の匂い。そよと冷たい風が吹いて紅葉した街路樹が揺れる。

 小春日和。気持ちがいい。

 ちゃんとしたコートはまだ早いような気がしたけれど、さすがにニットコートではもう寒い。右手は肩にかけた鞄を抑え、左手は暖を求めてポケットへ。ミツハルの手は大きくて温かそうだなあ。ちらちらと視線を送るが気づかれない。

 気づいてくれないほうが、都合はいいのだけど。わたしたちはもう、触れ合うことをしない。

「お、ここだ、ここ」

 顔を上げると、新規オープンとは思えないくらい、古ぼけた外装のお店。茶色く汚れた板張りの壁にはツタが這って、窓はすすけているように見える。ドアもなんだか汚い――ノブだけが妙にきれいだ。そっとなかをうかがうも、賑わっているようなかんじはない。

 ミツハルがドアを開ける。ぎい、とレトロな音がした。

「いらっしゃいませ‥‥なんだ、おまえか!」

「よお」

「久しぶり久しぶり、元気そうだな、と――どうも、お久しぶりです」

 人なつこい笑顔で歓迎されて、会釈を返す。男性としては小柄な体躯に、白いコックコート。木田トウゴさん。ミツハルとは二十年来の親友。

 わたしたちが夫婦だったとき、ふた月に一度は我が家を訪ねてきた。そういう縁はミツハルと離婚すれば同時に切れる、トウゴさんとはたっぷり二年ぶりだ。

 離婚した時期とタイムラグがあるのは、半年ほどの別居期間のせいだ。

 一人で切り盛りしているようだ。トウゴさんみずから席へ案内してくれた。ちらと見渡せば――見渡すというほど広くもない、店に入ってすぐすべてが視認できた、ほかに客はいない。

 察してか、トウゴさんが苦笑しつつ、言う。

「外見が、これでしょう。夜はそれでも明かりがつくから『なにかやってる感』が出るんだけど、昼間は、準廃墟みたいなかんじですよ。それにランチはまだ始めたばかりで、あまり知られていない。よかったらお友だちに紹介してください、サービスしますから」

 差し出された名刺を受け取る。ベージュ地に赤みを帯びたグレーの丸っこい書体で「pomme et chariot」と印字されている。オーナーシェフ・木田桐伍。へえ、こんな字を書くのね。今さら知る。

 テーブルに置かれたメニューをミツハルが手に取って見る。わたしはつい、その右手に注目した。一本足りない。

「ランチコースでいい?」

「うん。飲みものは、アイスティーで」

「かしこまりました」

 トウゴさんが会釈して厨房へ引っこむ。姿が見えなくなってから、ミツハルはテーブルに身を乗り出して、わたしに耳打ちした。

「昼も始めたっていうから繁盛してるかと思ったけど、ぜんぜんだな」

「これからでしょ」

 つっこみたい気持ちをこらえて受け流す。夜だけじゃお客が入りきらないほど人気が出たから昼も始めた、とでも勘違いしているのだろう。逆よ、逆。夜だけじゃ苦しいから昼を始めるのよ、こういうのは。

 いいほうに勘違いしちゃうのは、ミツハルのいいところでもあり、悪いところでもあり。ポジティブと言えば聞こえはいいけど、単に脳天気。

 だから彼が好きになったし、だからわたしたちはだめになった。

 厨房がバタバタとせわしなくなる。そういえばなにが出てくるのだろう? メニューを見ていなかった。ミツハルが手持ちぶさたに閉じたり開いたりするそれを、スッと取り上げる。

 ランチコース。三色のテリーヌ。シェフの気まぐれサラダ。季節のスープ。パンもしくはライス。肉もしくは魚料理。デザート。コーヒーもしくは紅茶、もしくはオレンジジュース。

「季節のスープってなにかしら」

「カボチャだってさ」

 塗りむらのある白い窓をぼんやりと眺めながらミツハルが答える。ああ、もう、台無し。あらかじめ訊いちゃだめでしょう、約束はしないって約束じゃない。ミツハルってば、ミスに気づきもしないで、テーブルに肘なんかついちゃって。

 約束。

 右手で頬杖をつくと、そこだけ、よく目を引いた。人間の体ってすごいな。傷口はすっかり癒えて、つぎはぎのないまあるい皮膚がそこを覆っている。もとは左と同じように、小指があった場所だ。

 一年半前。わたしたちが離婚する直前。彼は仕事中の事故で、小指を失った。

 そしてそれをわたしが知ったのは、それから半年も経ってからだった。


 離婚してからの半年で、わたしは二度、転居した。

 一度目は、仮住まいしていたマンスリーマンションから、いったん実家へ。ちょっとした額になった慰謝料でちょっとした旅をすることにした、荷物置き場としての家がほしかった。最長で一ヶ月と約束して、わたしは一人旅立った。

 旅は、なかなかいいものだった。北は北海道、南は沖縄まで、日本全国。海外へも行った、憧れのフランス。子どものころにアニメの「ベルサイユのばら」を見て、いつか言ってみたいと夢見ていた。できれば、大好きな人と。

 ミツハルにも夢を話したことがある。じゃあいっしょに行こう、と約束したが、結局果たされないまま終わりになった。

 仕方のない部分もあった。働いているときはまとまった休みを取ることが難しかったし、結婚と同時に退職したあとも、ミツハルを置いてはいけない。

 フランスは、まあまあ、楽しかった。わからない言葉を話す人波を縫うように歩く。マリー・アントワネットにはなれなかったが、パリジェンヌにはなれた気がした。

 帰国して二度目の引越。今のアパートへ。

 なんの変哲もない、築二十四年、ちょっと古めの、キッチンと和室一間のアパートだ。財産分与と、慰謝料の残り、それから両親に少しお金を借りて、五年ぶりの一人暮らしを始めた。

 無職の部屋探しは大変だと思っていたし、周りからもそう言われたけれど、たいしたことはなかった。それより仕事を見つけるほうが難航した。

 事務職がいいと思ったのだけど、正社員では思うような仕事はなくって、なにがどうなったやら、派遣社員として携帯電話販売の仕事をすることになった。愛想がないことは自覚している、接客なんか向かないと思っていたけれど、やってみれば案外楽しいものだ。こっちの方面で正社員の道を探そうかな、なんて考え始めたころ、たまたま、元姑が見せに現れた。

 外聞を大事にする人だから、騒ぎ立てるようなことはしないでくれた。ただ気分は最悪だった。わたしが離婚を決めたのは、この人が原因みたいなものだったから。

 姑は購入を辞め、黙ってわたしを睨みつつ、ぼそりと言い捨てた。

「あんた、亭主が大変なときに、ひどい女だ」

 どういう意味かは、わからなかった。光治の指のことを人づてに聞いたのは、そのすぐあとだ。

 それで、察した。ああ、だから離婚してくれたのか。


 もう少しさかのぼる。


 わたしの孫を返して、とわめく姑の声が、今も耳から離れない。

 五ヶ月で流産したときだ。病院のベッドの上で放心しているわたしを、姑は罵った。そのときはなんとも思わなかった、今もなんとも思っていないのに、ときどき不意に声がして、あのときの景色がよみがえる。

 白い部屋。白いベッド、白いシーツ。白い窓枠の向こうに、若葉色の春。

 ベッドわきで、顔を真っ赤にして怒る姑と、そんな実母を呆然と眺める夫――ミツハル。

「なに言ってるんだよ、母さん、なにを言ってるんだよ」

 声は震えていた。言葉が見つからなかったのか、そればかりを繰り返す。でも姑の口は止まらない。シーツの端を握りしめ、今にも引きちぎらんと振り回す。

 ああ、ついに化けの皮がはがれたな、と思った。

「なに言ってるんだよ‥‥なに言ってるんだよ‥‥」

 ミツハルの声には徐々に涙が混じり始める。実母の鬼のような言動を目の当たりにした彼のうろたえぶりがおかしくて、わたしはつい、笑った。

 しん、と静まる病室。四つの目がわたしを見ていた。なんだか急にしらけてしまって、わたしはこう、申し出たのだった。

「ミッちゃん、離婚しよう?」


 ミツハルは拒んだが、わたしは退院後、そのまま実家へ帰った。すぐにマンスリーを借りた、実家の場所は当然知られている、ミツハルに訪ねてこられたらほだされてしまいそうで怖かった。弁護士を立て、直接会うことも話をすることもなく半年が過ぎたある日、離婚が成立したことを知った。


 ‥‥さらにさかのぼろう。


 ミツハルとの結婚は、思い描いていたほど楽しいものではなかった。

 結婚するまでの姑は、気のいいおばちゃん、といったふうだった。だのに結婚したとたんに口うるさくなり、料理の味付け、掃除の仕方、洗濯の手順なんかに、いちいちけちをつけた。

 わたしに対してだけだ。ミツハルはずっと知らなかった。正確には、相談はしていたのだけど、いまいち真面目に聞いてはくれなかった。彼のなかでは、姑は変わらず、気のいいお母さんだった。

「心配してくれているんだよ。ああ見えて、けっこう心配性なんだ。短命な家系だしね、おれらは大丈夫だよって姿を見せて、安心させてやろうよ」

 ミツハルはこんなふうなことを、いつも言った。

 はじめこそ、そうね、なんて肯定的に構えていたわたしも、一年経ち、二年経ちで、さすがに嫁いびりだと確信した。別居なのに毎日訪ねてくる。留守にしていると電話で呼び戻され、家に上げればあら探し。

 小言でも一貫していれば直しようがあるが、言い分がころころ変わってはついていけない。窓なんて毎日拭かなくてもいいじゃないの、と言った翌週に、窓のさんを指でつつー。漫画みたいなこと、本当にやるんだなあ、と妙に感心したのを覚えている。

 三年目で、孫はまだなの、と言われた。それをミツハルに告げると、ああ、そろそろ考えるか、なんてにこやかに返された。

 ミツハルは明るい、楽しい人だと思っていた。実のところ、深く考えられない人だった、とようやく気づいた。

 トウゴさんのこともそうだ。ふた月に一度というと多くなさそうだけれど、ただの友人が定期的に家に来るというのは、なかなかストレスだった。子どものときからそうだったとミツハルは言うけれど、ここはわたしたち夫婦の家で、わたしもいるのだ。わたしの知らない時代の話で盛り上がられるのはしんどい。

 料理の腕を比べられることもあった。フレンチレストランで修行するトウゴさんに、ただの主婦のわたしが敵うはずがない。だのにミツハルは、食べ比べてはこう、軽口を叩くのだ。

「おまえもまだまだだなぁ、憧れのフランスが泣いてるぞ」


 憎らしかった。だって言ったじゃない。結婚するとき。プロポーズしてくれたとき。

「必ず幸せにするから」

 約束。そう、小指を突き出して、指切りげんまん、って――強烈な皮肉。


 トウゴさんが厨房から出てきた。人なつこい笑顔を浮かべながら、わたしたちの前にシルバーを並べていく。ありがとうございます、と会釈すると、ミツハルがニヤニヤした。

「他人行儀だな」

「ふつうよ」

「友だちだろ」

 わたしの友だちではない。のどまで出たそれを飲みこむ。

「親しき仲にも礼儀あり、でしょ」

「‥‥そうだな」

 やや間を置いて、うなずく。

 流産のときの一件で、ミツハルのなかにあった母親像は跡形もなく崩壊したらしい。わたしの訴えを聞き流していたことを繰り返し謝られたし、反省しているようすも見られた――こういう演技ができる人ではない。泣きそうにうなだれる、初めて見る情けない顔を見せられたら、心はぐらついた。

 だけどやり直せるかといえば、否だ。わたしはもういやだった。彼と夫婦でいることが。恋人にもならない。友人にも。わたしたちはきっと、近づきすぎたらだめになる。二度目はきっと取り返しがつかなくなる。

 知人。お知り合いからやり直しましょう。もし道ばたで偶然出会ったら、ちょっとおつきあいするくらいの。

「あのさ、」

「あのね」

 彼がいつになく真面目な顔で切り出そうとしたのをわざと遮って、視線を窓へ投げる。ああ、今は秋なのね――知っていたけれど。


 来週も、奇遇ですねと会いましょう。

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