表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/79

第九章 春雨水紋(二)

 秋、岑守が、自宅の屋敷で、ごく内輪の宴を開いたことがあった。共に『凌雲集』編纂に携わった文章博士菅原清公や詩人滋野貞主など、ごく気心の知れた文人たちが集まり、盃を傾けながら詩を贈りあう。皆ほんのりと酒に酔い、いい気分になっていた。

 そこへ、いつも通り馬乗りに出かけていた篁が、弓を背負って戻ってきた。

「このような格好で、失礼いたします」

 一応、長男の礼儀として篁は顔を出した。

「どうぞごゆっくりお楽しみ下さい」

 型どおりの挨拶をし、長居は無用と立ち去りかけたその背に、清公が声をかける。

「まあ、そう急いで引き込まれることもありますまい」

 年は五十を越えている。貧困の中文章生から身を起こし、地道に出世を重ねて今では神野に『文選』を講義するまでになった男である。地位は文章博士。静かな物腰の中に、学問一筋に生きてきた自負と自信がほの見える。

「そうそう。折角ですから、御子息もこちらへ入られよ」

 貞主も、それに乗った。彼は清公に比べるとはるかに気さくな雰囲気で、ひょいと盃を差し出す。

「ささ、酒でも召し上がられよ」

 岑守は何か言いたそうにしたが、口には出さなかった。

「―――はあ、しかし……」

 篁は気乗りしなかったが、無理に退出して雰囲気を壊すのもはばかられたので、部屋に入り込んだ。差し出された盃を無造作に取り、ぐいと一気に傾ける。

 篁は酒は好きである。しかも、一日中山野を駆け回っていたのだから、不味いはずはない。貞主も感心したように、

「気持ちのいい呑みぶりですな」

と言って、瓶子を差し出す。

「では、もう一杯」

と勧める。

「お受けします」

 二杯目も、篁はほした。

「御子息には、少々の酒では間に合いそうにありませんね」

 清公は岑守を見て笑った。岑守は苦笑して、

「篁、ほどほどにしておけよ」

と言った。

「いやいや、下戸よりも酒呑みの方がずっとよろしい。


     巴陵 無限の酒

     酔殺す 洞庭の秋


    (ここ巴陵の地の、無限の酒を呑んで、

     洞庭湖の秋景色の中に酔いつぶれよう)

                             李白「侍郎叔に陪して洞庭に遊ぶ 酔後」


とも申しますからね」

 貞主も空いている手をひらひらと振る。

「そうそう。


     但だ主人をして能く客を酔わ使むれば

     知らず 何れの処か是れ他郷


    (主人が客のわたしを存分に酔わせてくれさえすれば

     一体何処に、他郷の寂しさなど感じられようか)

                             同「客中の作」


酒にまさる慰めはありませんよ」

 だから嫌なのだ。

 やりとりを聞きながら、篁は内心うんざりする。

 いちいち唐の詩人を引っ張ってこないと、気がすまない連中。

 黙って呑めんのか。酒が不味くなる。

 そんな篁の気持ちには全く気づかず、貞主はにこにこと、

「御子息も、そう思われましょう?」

と問い掛ける。

「はあ」

 そう答えるよりない。

 しかも、これだけですめばよいが……

 篁は、とっとと私室に戻りたい気分になった。そこへ、予想通りの言葉がかけられる。

「実に見事な呑みぶりと来れば、次は詩ですな。岑守どのの御子息にして、さらには主上の御寵愛も深いとか。さぞ、優れた才をお持ちであろう」

 悪意のない貞主の表情。げんなりした。

 篁は表情を変えず、ただ三杯目―――いや四杯目か―――の盃を口に運ぶ。

「わたしは、昨年まで陸奥の地で山野を駆け回っておりました武骨者。あいにく、そういった才は持ちあわせておりません」

「ほう」

 貞主は大袈裟に眉を上げる。

「御興味がおありでない? ―――この「文章経国の時代」とまで言われる昨今に、珍しいことを仰ること」

「いや、貞主どの。興味とか、そのような問題ではございませぬぞ」

 年若い学生に講義をするような口調になって、清公が口を挟んだ。

「いかに辺境の地に下ったとて、学問をおろそかにする言い訳にはならぬし、また始めるに遅すぎるということはない。「文章は経国の大業なり、不朽の盛事なり(『陵雲集』序)―――国家を支えるのは文章に他ならぬと、そう書いたのは岑守どのであろう」

「それは父の申したこと。わたしには関係ございませぬ」

「篁」

 まずいことになった、と岑守は顔をしかめる。

「文章博士どのに対して、何という物言いか。即刻、謝罪しなさい」

「お言葉ですが、父上。わたしは、ただ事実を述べたのみ。筋の通らぬことを言った覚えはございません」

 きっぱりと言い放つ。清公の表情が険しくなった。

「関係ない、とは本気で言っておいでなのか」

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ