第九章 春雨水紋(二)
秋、岑守が、自宅の屋敷で、ごく内輪の宴を開いたことがあった。共に『凌雲集』編纂に携わった文章博士菅原清公や詩人滋野貞主など、ごく気心の知れた文人たちが集まり、盃を傾けながら詩を贈りあう。皆ほんのりと酒に酔い、いい気分になっていた。
そこへ、いつも通り馬乗りに出かけていた篁が、弓を背負って戻ってきた。
「このような格好で、失礼いたします」
一応、長男の礼儀として篁は顔を出した。
「どうぞごゆっくりお楽しみ下さい」
型どおりの挨拶をし、長居は無用と立ち去りかけたその背に、清公が声をかける。
「まあ、そう急いで引き込まれることもありますまい」
年は五十を越えている。貧困の中文章生から身を起こし、地道に出世を重ねて今では神野に『文選』を講義するまでになった男である。地位は文章博士。静かな物腰の中に、学問一筋に生きてきた自負と自信がほの見える。
「そうそう。折角ですから、御子息もこちらへ入られよ」
貞主も、それに乗った。彼は清公に比べるとはるかに気さくな雰囲気で、ひょいと盃を差し出す。
「ささ、酒でも召し上がられよ」
岑守は何か言いたそうにしたが、口には出さなかった。
「―――はあ、しかし……」
篁は気乗りしなかったが、無理に退出して雰囲気を壊すのもはばかられたので、部屋に入り込んだ。差し出された盃を無造作に取り、ぐいと一気に傾ける。
篁は酒は好きである。しかも、一日中山野を駆け回っていたのだから、不味いはずはない。貞主も感心したように、
「気持ちのいい呑みぶりですな」
と言って、瓶子を差し出す。
「では、もう一杯」
と勧める。
「お受けします」
二杯目も、篁はほした。
「御子息には、少々の酒では間に合いそうにありませんね」
清公は岑守を見て笑った。岑守は苦笑して、
「篁、ほどほどにしておけよ」
と言った。
「いやいや、下戸よりも酒呑みの方がずっとよろしい。
巴陵 無限の酒
酔殺す 洞庭の秋
(ここ巴陵の地の、無限の酒を呑んで、
洞庭湖の秋景色の中に酔いつぶれよう)
李白「侍郎叔に陪して洞庭に遊ぶ 酔後」
とも申しますからね」
貞主も空いている手をひらひらと振る。
「そうそう。
但だ主人をして能く客を酔わ使むれば
知らず 何れの処か是れ他郷
(主人が客のわたしを存分に酔わせてくれさえすれば
一体何処に、他郷の寂しさなど感じられようか)
同「客中の作」
酒にまさる慰めはありませんよ」
だから嫌なのだ。
やりとりを聞きながら、篁は内心うんざりする。
いちいち唐の詩人を引っ張ってこないと、気がすまない連中。
黙って呑めんのか。酒が不味くなる。
そんな篁の気持ちには全く気づかず、貞主はにこにこと、
「御子息も、そう思われましょう?」
と問い掛ける。
「はあ」
そう答えるよりない。
しかも、これだけですめばよいが……
篁は、とっとと私室に戻りたい気分になった。そこへ、予想通りの言葉がかけられる。
「実に見事な呑みぶりと来れば、次は詩ですな。岑守どのの御子息にして、さらには主上の御寵愛も深いとか。さぞ、優れた才をお持ちであろう」
悪意のない貞主の表情。げんなりした。
篁は表情を変えず、ただ三杯目―――いや四杯目か―――の盃を口に運ぶ。
「わたしは、昨年まで陸奥の地で山野を駆け回っておりました武骨者。あいにく、そういった才は持ちあわせておりません」
「ほう」
貞主は大袈裟に眉を上げる。
「御興味がおありでない? ―――この「文章経国の時代」とまで言われる昨今に、珍しいことを仰ること」
「いや、貞主どの。興味とか、そのような問題ではございませぬぞ」
年若い学生に講義をするような口調になって、清公が口を挟んだ。
「いかに辺境の地に下ったとて、学問をおろそかにする言い訳にはならぬし、また始めるに遅すぎるということはない。「文章は経国の大業なり、不朽の盛事なり(『陵雲集』序)―――国家を支えるのは文章に他ならぬと、そう書いたのは岑守どのであろう」
「それは父の申したこと。わたしには関係ございませぬ」
「篁」
まずいことになった、と岑守は顔をしかめる。
「文章博士どのに対して、何という物言いか。即刻、謝罪しなさい」
「お言葉ですが、父上。わたしは、ただ事実を述べたのみ。筋の通らぬことを言った覚えはございません」
きっぱりと言い放つ。清公の表情が険しくなった。
「関係ない、とは本気で言っておいでなのか」