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第九章 春雨水紋(一)

 暖かい雨がやわらかに降る朝、良峰安世は、四条にある一軒の屋敷の門をくぐった。

 弘仁十三年(八二二年)、三月初旬のことである。神野の治世は、既に十三年に及んでいる。安世も、三十八歳。今や冬嗣、緒嗣、そして綿麻呂に次ぐ位置、従三位中納言の地位にまで昇っている。だが、その眸は若い頃と少しも変わらず生き生きした輝きを保っていた。もともと色白の彼だが、今その顔はかなり浅黒く日に焼けている。

「―――や、これはこれは」

 突然の訪問客を驚いて迎えたのは、屋敷の主人で、参議に序列されたばかりの小野岑守である。安世はにこりと笑った。

「久しぶりですね」

「一年ぶりですよ。帰京されたのは伺っておりましたが」

 岑守も笑みを浮かべ、自ら彼を寝殿に案内した。向きあって腰を降ろし、酒の支度を命じてからいそいそと岑守は尋ねる。

「陸奥は如何でした。よく日に焼けてこられましたね」

「我ながら、全くよく焼けたものですよ。実に雪深いところですね。山々も、とても深い―――」

 こう話すのは、安世は、陸奥出羽按察使(出羽国はほぼ今日の秋田・山形県に相当)に任じられ、昨年四月に下ったからである。岑守もまた、二年前まで陸奥守として四年間を任地で過ごしている。今ではすっかり元通りだが、彼もまた、戻ってきた当初は安世同様真っ黒だった。

「時々、わたしは彼の地が恋しくなるんですよ」

「ああ、そうかもしれない」

 安世は頷いた。

「坂上将軍も一度そのようなことを言っておいででした。どこか懐が深くて、熱い土地―――」

 言いかけたとき、廊下が俄かに騒がしくなる。気づいた岑守はそちらへ目をやった。それとほぼ同時に、梁に頭をぶつけそうな大男がにゅっと顔をのぞかせる。安世を見て、顔をほころばせた。

「良峰中納言どの!」

「控えなさい、篁!」

 普段温厚な口調に似あわぬ厳しい声で、岑守は叱りつける。安世は笑顔を向けた。

「相変わらず、元気そうだな」

 一年ぶりの再会であるにも関わらず、「相変わらず」という言葉を強調して、安世は言った。

 今年二十一歳になる岑守の息子、篁である。父親にたしなめられ、あ、と声を上げ、六尺二寸(一八七センチ)の長身を屈めてその場で一瞬だけ礼をした。だが、それで十分だと思ったのかずかずかと部屋に入り込むと、安世の傍らにすとんと腰を降ろす。

「やはり、随分焼けて帰られましたね」

「わたしはともかく―――君こそ、京にいるのにどうしてそんなに焼けているんだ」

 安世は笑って尋ねた。

「何でも、聞いた話では先月文章試に通ったそうじゃないか。てっきりもっと生っ白くなってるだろうと思ってきたのに」

「詩なんぞ、屋敷の中でひねるものじゃありませんよ」

 篁は口を尖らせる。

「必要な本を一式背負って、洛外へ出るんです」

 安世は吹き出す。

「そりゃ、焼けもするな」

 笑いを含んだ表情のまま、岑守を見やった。

「ちっとも変わっておりませんね、この男は。―――一昨年、猪が一頭文章試に挑戦すると聞いたときは、たちの悪い冗談かと思いましたがね」

「まったく、にわかじこみの一夜漬けで、よく通ったものですよ」

 と言うのは、篁がまともに文章試の勉強をしたのは、本当に二年間だけだからである。

 確かにその文才を評価され、『凌雲集』の編者に抜擢されるほどの詩人、岑守の子であるから、断片的にはそういった方面の知識も入っていたはずではある。しかし、父について十四歳で陸奥へ下ったせいなのか、それとも単に性格なのか、篁は真面目に勉学に励むということをしなかった。むしろ京に戻ってからも日々弓矢を背負って馬にまたがり、山野を駆け回っていたほどなのである。もっとも、京にいた頃は、安世も仕事の合間をぬってしばしば共に出かけていたのであるが。

 その篁が、突然奮起して勉学に励むようになったのは二年前のことである。

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