第八章 春日遊覧 ー間奏曲ー(七)
政治面での歩みにも、少し触れておかねばならないだろう。
神野は即位当初から、桓武や安殿のように指導力を発揮して牽引してゆく、というのとは違う姿勢で政務に臨んでいた。そのやり方は終始変わらず、概ね重臣たちを信頼して仕事を任せておくことが多かった。
ただ、決して放任するというわけではなく、話はよく聞き、必要な限りで決断を下す。神野の決断は、その鋭い洞察に裏づけられていて、現実的で浮いたところがない。そして平城京遷都事件の際の指導力を知っている重臣たちはやはり神野に一目も二目も置いていた。
神野は、決して革命家でも、専制君主でもない。むしろ、そういう意味では堅実な実務家で、
「わたしがいてもいなくても、滞りなく動いていくように、国の形をきちんと整えてほしい」
と、台閣に希望を伝えている。要は、
「いちいち決断を下す部分は、少ない方がいい」
という考えである。
その命を受けて進められたのが、宮中の儀礼書と法律書の編纂で、これには冬嗣や葛野麿、秋篠安人といった人々が当たった。
もともと唐の長安を模して造られたこの都を整備するに際して、神野はやはり唐を範とした。儀式も、法律も、文化も、基本的にはその方針で整えられている。正殿・中殿・後殿・……、と呼ばれていた各殿舎を、紫宸殿・仁寿殿・承香殿・……、と名付けたり、宮城門の名を、壬生門・大伴門・的門・……、という、門を守護する氏族名から、美福門・朱雀門・郁芳門・……、と改名したりしたのも、その一環である。
それと並んで重視されたのが、京の治安維持と地方行政である。内裏を警備する六衛府の強化や、平安京内外の巡検や盗賊の追捕に当たる部署として検非違使を創設したり、かなり変質していた班田収授制度を再び施行したり、いくつかの政策が実行に移された。
もともと、政治的なことに喜びを感じる性分ではない神野である。父桓武や兄安殿の「国を率いるのだ」という強烈な自負心があるわけではない。ただ、幾多の骨肉の争いと、度重なる遷都、やがて「二所朝廷」の混乱の中で自らが苦しんできただけに、この国の形を整え、安定させることは、おそらく帝である自分の責務であろう、という認識がある。
更に言うならば、一旦引き継いだ以上、一応形ぐらいは整えてから、異母弟大伴―――自分よりも更に政治向きではなさそうな、無理やり東宮位につけられたといってもよい同い年の異母弟―――に譲るのが筋というものだろうと、己れの責任を見定めてもいた。
そしてその下には、信頼できる重臣たちがそろっている。即位して十三年―――弘仁十二年が終わるころには、台閣には、
右大臣 藤原冬嗣
大納言 藤原緒嗣
中納言 文室綿麻呂
良峰安世
藤原貞嗣(三守の叔父)
権中納言 藤原三守
……
と、ずらり並んだ。神野は彼らと協力しながら、決して性急になることなく、ゆっくりと国の形を整えていったのである。