第十二章 五月闇(十一)
「主上は、正子さまをお許しにはなれないのでしょうね」
安世からいきさつを聞き、伊那はため息をついた。
夜のことである。
どこからともなく虫の声が微かに聞こえてくる中、承香殿の外でひっそりと話している。
「息子と妻の―――密通ですもの……」
「いや、そうではないよ」
安世も深い息を吐き出した。
妻を寝取られたとか、夫としての、あるいは父としての面子とか、いわんや嫉妬とか、そういったものが絡むような状況ではない。
大伴は、ただ絶望している。絶望という言葉が不適切なら―――諦めているのだ。
「主上は本気で思っておられるのだろう。自分に出来ることは何もない、とね」
「この世に並ぶ者なきお方ですのに―――」
「………」
『ならば、恒世を遣わせ』
苦い表情で言い捨てた大伴。
本気で恒世と正子の逢瀬を自ら推奨しかねない主上を思い、安世は嘆息する。
それでは駄目なのだ―――と、どう説得すれば判ってもらえるのだろうか。それでは何の解決にもならぬ、と。今なさねばならないことは、密通・懐妊という出来事を、夫婦そろって乗り越えてゆくことだというのに。
大伴には、正子を直視する勇気すらないのだ。妻と息子が、もともと想いあっていて。心ならずもそれを引き裂いてしまったことを悔やみ続け、密通を知って更に後悔の念は強まるばかり。嫉妬もなく、怒りもない。ただ、二人の密通を非難しないことだけが、己れの出来る唯一全てのことと考えて―――
かつて高津内親王が密通の噂により妃を廃されたときと違い、離縁する訳にはいかないのである。帝の妻との密通など―――そんな事実が明るみにでれば、恒世親王の身が危ない。
そのなかで、帝の妻でしかありえない正子は、一体どうすればよいというのか。
「………仕方がない、もう一度、折を見て主上に申し上げてみるよ」
額を押さえ、安世は呟く。伊那は安世を見た。
「良峰さまには、お礼の申し上げようもございませんわ………。これほどに、お心を砕いて頂いて」
「まあ、乗り掛かった船だしね………。だが、夫婦の問題にここまで他人が口を出すなど、冷静に考えればいささか滑稽でもあるな」
「良峰さま―――」
伊那は苦しげに眉根を寄せる。安世は苦笑し、ゆっくりと、身体を柱にもたせかけた。
「だが、今の状況を、とてもわたしはじっと見てはいられないのだよ」
大伴も正子も、そして恒世や神野も、皆が辛いばかりの今の状況を。このままでは、ひょっとしたら正子は気が触れてしまうかもしれないではないか。
それにしても、何故、この件から手を引くことが出来ないのか。何故、引いてはならぬという気がしているのか―――
神野に言われてから、安世は考えていた。
しばし、沈黙が降りる。
「―――わたしの母は、右大臣―――冬嗣どのの母でもあってね」
沈黙をもてあまし、安世はふとそんなことを伊那に向かって話し始めていた。
「………桓武帝の眼にとまって、後宮へ入り、わたしを産んだ。だからわたしは異父兄が二人と、異母の兄弟姉妹が、えーと―――一、二、三、四……と、まあざっと三十人ほどはいる訳だ」
「ああ、そのような話は、ちらりと伺ったことがありますわ」
伊那は突然の身の上話にさほど戸惑う風もない。それに励まされて、安世は話し続けた。
「母は、どこかはかなげな女性でね。後宮に入ってからは、わたし以外に子を持たなかったし、いつも淋しそうな表情をしていた。子供心に、まつりごとの都合というか、大人たちの身勝手というか―――何を非難すればいいのか判らなかったけれど、いささか理不尽な思いをしたものだった。無論、わたしは父桓武帝も好きだったし、誰かこのひと、というひとに怨みを持った訳ではなかったのだけれどね」
伊那は安世を見る。安世は掌を組み合わせ、それに視線を落とした。
「本人のあずかりり知らぬ思惑に流されて苦しむなど、出来ることならないほうがいい。中納言などという大袈裟な地位についてはいるが、わたしは自分が流されるのも、誰かを流すのも嫌だったから、そういう政治のことからは逃げてきたと思うよ。正直言ってね。―――でも、出来ることなら、ないほうがいい………」
「………」
だから―――なのかもしれないな、と安世は、ふと思う。
何故、手を引いてはいけないと思ったのか。
おそらく、正子は、永継なのだ。そしてお腹の子は、ひょっとすると安世自身かもしれない。
安世は、もちろん「不義の子」ではない。桓武は、それなりにきちんと永継を遇したし、安世のことも大切にしてくれた。だが、それでもやはり、永継はいつもどこか淋しそうだった。
あんな表情を、正子内親王にさせてはならないのだ。―――産まれてくる子のためにも。
だが―――何が出来るのだろうか。部外者に過ぎない自分に、一体何が―――
「―――良峰さま」
不意に、安世の掌に、伊那のそれが重ねられた。安世は眼を上げる。
「良峰さまも、きっと辛い想いをなさいましたのね」
「わたしが?」
思いもよらない指摘を受けて、安世は笑った。照れ臭いような気分で、少し小首を傾げる。
「いや、それがわたしは、そういうことを感じるにはどうも鈍い方らしくて―――」
視線が出会う。ややあって、組み合わせていた掌を、安世は解いた。ふわりと伊那の身体を抱きしめる。
香の匂いがした。自分でもそれと気づかぬまま、抱きしめる腕に僅かに力がこもる。
遠くから聞こえてくるこおろぎの声に耳を澄ますように、安世は静かに両眼を閉じ、伊那の身体の暖かさを感じていた。




