第八章 春日遊覧 ー間奏曲ー(五)
嘉智子はその後、弘仁六年(八一五年)に皇后位に昇った。
彼女もまた、そんな夫の気持ちを敏感に察していた。
後宮に戻る度に妻の局が増えている、そんな状況を、
「まあ、にぎやかですこと」
と、笑ってすませる嘉智子に、姉の安万子は、
「皇后の余裕ねえ」
と苦笑いをしている。嘉智子はクスリと微笑する。
「そう仰るけど、わたくしの宿下がりも頻繁ですもの」
嘉智子は神野と同い年である。艶然と微笑する様子はまさに大輪の花を思わせるが、少し悪戯っぽい表情をして見せると、これがまた幼さとは無縁の可愛らしさを漂わせる。
「それに、主上はわたくしを立てて下さってるわ。立后のことだけでなくて―――その前から、あまり大した勢力のある方を後宮にお迎えになっておりませんもの」
確かにその点、神野の後宮は父桓武帝のそれとは違う。桓武帝も、二十人を優に越える妻を持っていたが、その多くが、各家から正式に入内という形で後宮に入っている。だが、神野の妻は、その大部分が女官だ。傍近くで世話係として仕えていて、いつの間にか関係を持ってしまった―――という成り行きである。子供が出来て初めて公けになったというケ-スも多い。
「あなたの地位は安泰というわけね」
「そうね。それに、妬くだけ何だか馬鹿みたいなんですもの。同じなのよ、主上にとって。友達づきあいも、女性とつきあうのも」
事もなげに嘉智子が言うと、安万子は首を傾げる。
「そういうのって―――あるのかしら?」
「そう思うしかないみたいよ」
神野は、先帝である安殿のように、誰かにのめりこむという性分ではない。多くの友を持つように、多くの女性と語らい、ごく自然に関係を持ってしまう。独占しようとして叶う相手ではないことを、嘉智子はほどなく納得させられていた。自分なりの関係を、築いていくより他ないのである。
そして、それだけでなく―――
ふと姉の顔を見る。
「ねえ、お姉さま。―――主上は………時々ひどくうなされるのよ。それは、ずっと昔―――わたくしがお傍に上がった頃から」
「………」
「でも、その理由は仰らないの。最初、わたくしはそれを尋ねたわ。そうしたらあの方はいつもちらと笑って、そのままわたくしを抱いて、目を閉じておしまいになるのよ。眠っていないのは判るの。でも、話したくはないのだわ」
「―――あなた、昔はそれを不安がっていたじゃないの」
「ええ。確かにそうよ。でも………今は、それでいいのだと思うの。わたくしが、不安なことなど何もない、と自信を持ってさえいれば、主上は安心して、わたくしのところへくつろぎに来られるのだわ」
「―――」
夫の中に、踏み込むことの出来ない、強い拒絶の気配があることを、嘉智子は既に受け容れている。そうせざるをえなかった。彼の中には、苦しみを人並み以上に感じとる鋭敏さと、自らに言い訳を許さず、一切の重荷をひとりで背負っていこうとする毅さとがある。
そして嘉智子もまた、ひとりの戦士だった。妻として、そして母として。己れの道を切り開く強さを持つ女である。そして高津と正妃の座を争い、それに勝利した今、嘉智子は神野のもつ拒絶の一端をうっすらと理解しえたような気がしている。高津内親王の痛みに満ちた眸を、高志内親王の非難の眸を感じながら。
人を追い落とし、葬り去る闘いの酷さを。
その闇を胸に抱くことの重さを。
それを打ち明けることもせず、ただ嘉智子の身体の温もりを確かめようとするように身体に頬を寄せ、神野はその眼を閉じる。
「ああ、この人は四歳で生母を失っているのだ―――」
そんなことを改めて思い出させるほどに、嘉智子の膝枕で寝入ってしまうその表情は、普段が大人びている分ひどく可愛らしく、起こすのが惜しくなってしまうのである。端正な容貌や優れた感性だけでなく、その落差もまた、多くの女性を惹きつける魅力のひとつなのかもしれなかった。
夫婦というよりも、ふたりはひとりひとり歩みながら寄り添う、いわば「同士」だった。
地位よりも、むしろそのせいなのよ、お姉さま。
胸の内で、嘉智子はそっと呟いていた。