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第八章 春日遊覧 ー間奏曲ー(四)

 神野が東宮位についた時点での正妃は、桓武の皇女高津内親王だった。長男業良親王と業子内親王の母であった彼女が妃を廃され、里へ帰されるという事件が起こったのは、遷都事件から僅か一月後、十月も終わりに近づいた頃のことだった。

 臣下との密通が噂されたのである。

 長男業良を出産し、並ぶ者ない立場に立ったと思ったのも束の間、誰言うともなく囁かれ始めた。

「高津内親王が、皇后宮亮と通じているらしい」

「藤原某と聞いたが」

「いや、わたしが聞いた話では……」

 内親王として生まれ、言われるままに若くして当時一親王だった神野の正妃となり、やがて東宮妃、天皇妃となった高津は、ふっくらと肉のついた、おっとりした女性である。人と争った経験もほとんどない。父桓武が二十人からの妻を持っていたのを見ているせいもあり、神野の他の妻たちに対しても極めて寛容で、むしろ、よく彼女たちに声をかけては宴を催したりしていた。

 自分を襲った突然の醜聞に、始めのうちこそ

「根も葉もない………!」

と憤ったが、すぐに耐えられなくなった。

「わたくしに一体何の怨みがあって、皆このようなおぞましい噂を………!」

 涙ながらに訴える高津を、神野も慰めはした。

「気にすることはない。そなたの地位をやっかむ者たちの仕業だろう。毅然としておればよい」

 気休めだな。

 言いながら、神野は苦々しく思った。

 このままでは、高津の精神は保つまい。

 噂の元は、見当がついていた。高津内親王に遅れること僅か三ヵ月で、第二皇子正良を産んだばかりの嘉智子とその一派だろう。

 神野が安殿との対立で闘いを余儀なくされたように、後宮もまた、この遷都事件とは無関係でいられなかったといっていい。

 この事件で最も華やかな活躍を見せたのは、征夷大将軍坂上田村麻呂である、ということは、衆目の一致するところだ。高津内親王は母又子が田村麻呂の妹で、この田村麻呂の姪にあたる。桓武帝の血を引く皇女であり、長男を出産し、しかも事件の最大の功労者である田村麻呂を後ろ盾に持つ高津。

 時を逃さず闘わなければ、嘉智子もその子正良も、妻のひとり、親王のひとりとして埋もれるほかなかっただろう。

 そして、嘉智子はそうはしなかった―――

 高津は神野が十三歳で元服したときに、十七歳でその妻となっている。勿論当人同士の意図など全く顧慮されることなかった結婚である。愛や恋といった要素は、もともと希薄だった。とはいえ、神野は夫として、高津は妻として、極めて円満に十年という歳月を共に過ごしてきたのである。

 だが、それだからこそ、神野にはよく判った。

 高津には、闘う力はない。

「高津、そなたは里へ帰るがよい」

 やがて静かにそう告げた夫を、高津は強ばった表情で見つめた。僅か一月ほどで別人のように肉が落ち、険しい表情になってしまっていた。ややあって、無言で、高津は頷いた。密通の噂ばかりか、業良、業子の出生まで疑惑の目で見られるようになり、宮中にいることが既に耐えられないものになっていたのである。

 代わりに憤ったのは、むしろ神野の同母妹、高津の異母妹である高志(東宮大伴の妃)だった。

「あの女の仕業ですわ!」

 興奮のあまり眼に涙まで浮かべ、神野に向かって叫ぶ。

「兄さまにはお判りになりませんの!? あの女ですわ、卑しい血筋の、高慢なあの女が、あらぬ噂をばらまいて高津姉さまを陥れようとしているのよ!」

「高志」

 止めようとした神野の頬が、ぱしっと鳴った。

「兄さままで、安殿兄さまと同じようにたぶらかされておしまいになったの? 眼を覚まして、あの女は薬子と同じ、兄さまを利用しようとしているだけの、野心家の妖婦なのよっ!」

「高志」

 静かに、しかし逆らいがたい一種の威圧感さえある口調で、神野は制止した。

「止めなさい。そなたこそ、憶測でひとを誹謗してはならぬ」

「兄さまっ―――」

 憶測などと、と更に反論しかけた高志はしかし、それ以上の言葉を続けることは出来なかった。安殿との軋轢を白刃の一閃にも似た決断で乗りきった神野には、どこか触れることを許さない鋭さがあった。そのことに、高志はこの時初めて気づいたのかもしれない。

 何も言えずに足早に部屋を退出する高志の後ろ姿を見送ってから、ふと神野は吐息を洩らした。

 愛情の問題ではない。

 愛情の深さ浅さで物事を決めるには、神野は虚心でありすぎた。ただ、自ら闘う力、闘う意志のない者を、闘いの中から外す。臣下だろうが、妻だろうが、区別はない。

 優しさでもあり、厳しさでもあった。見方によっては冷酷ともあるいは日和見とも映るであろう。しかし、それが神野のやり方だった。闘うか―――否か。それを決めるのは、結局は本人でしかありえない。

 そして、嘉智子は闘い、高津は敗れたのだ。

 もともと嘉智子は美しい。神野の数多い妻、しかも美女の多い妻たちの中でも、殊に際立った美しさを備えている。だが、彼女を輝かせているのは、美しさ以上に、その闘う意志の強さだったのである。

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