第十一章 遊糸繚乱(五)
だが、それより早く、あまりにも突然に状況は動いた。
大内裏の中の執務の場、朝堂院にいた冬嗣は、清涼殿にある神野の私室に呼び出された。呼びに来た蔵人は、政務が一段落してから、とだけ伝え、それ以上は知らないという。
清涼殿からは、澄んだ和琴の音が聞こえてきていた。安世などは、琴の音を聞けば大体その人の心の在り様が判るとまで言う。冬嗣は楽にはあまり詳しい方ではないから、そんなことを言われても首を捻ってしまうのだが、そんな彼にも、神野の音が非常に澄んだ、美しいものであることは判る。
冬嗣が清涼殿に入ると、気配を感じたのか、ふっと音がやんだ。失礼いたします、と断り、冬嗣は部屋に入った。
中には、神野以外誰もいなかった。人払いをしたものらしい。
何事だろう―――
訝しみつつも、言われるままに神野の正面に腰を降ろした冬嗣は、相手の口から発せられた言葉に驚愕した。
「何ですと!?」
思わず大声を上げる冬嗣をじっと眼で見つめ、三十八歳になったばかりの帝は繰り返した。
「わたしは、位を降りる」
「お―――お待ち下さい」
「反対するのか」
神野は静かに冬嗣を見た。冬嗣はその眼を真っ向から見返す。一瞬の動揺は消え去り、既に冷静さを取り戻していた。
「勿論です」
「理由は」
問い掛けながら、神野は姿勢を崩す。
「主上が譲位されるということは、新たに東宮を立てねばなりません」
「その通りだな」
「今上帝、東宮に加え、お二人もの太上帝を支えるだけの余裕は、現在の国庫にはございません。近年の凶作を、主上もよくご存知の筈です」
神野は脇息を引き寄せた。
「平城京の太上帝は御病気だ。御年五十……もう、それほど長いことはあるまいよ」
「御病気は伺っております。しかし、台閣を御覧下さい。五十九歳の綿麻呂、六十五歳の貞嗣、七十一歳の多治比など、五十を越えて働いている者など、いくらでも挙げることが出来るではありませんか」
神野はしばらく黙ったままでそれを聞いていたが、やがてふ、と笑う。
「いちいち、もっともだな」
「そうです。主上はまだ御年三十八……。御譲位など、あまりにも早すぎましょう」
ほっとして冬嗣は言った。だが、神野は浮かべた笑みはそのままに、じっと冬嗣を見据える。
「そなたの言うことは判る。国庫の窮乏も含めてな……。だが、わたしは意志を変えるつもりはない」
「主上―――」
神野に何が起こったのか、冬嗣には皆目見当がつかなかった。今まで、このような重大事において、彼が自分の我を押し通そうとすることなどなかったのだ。
「何故―――」
冬嗣は眉根を寄せた。
「何故、そのように譲位を急がれるのですか―――」
「……」
神野の眸は、穏やかである。だがそれは時に他人を踏み込ませない静かな拒絶を映す。その意図が、冬嗣には今はよく読めなかった。
だが、冬嗣の意図は、恐らく神野はお見通しなのだろう。
財政問題もさることながら、冬嗣には、譲位を引き止める理由がもう一つあるのである。
それは、息子たちのことだ。
長男長良が二十一歳で内舎人として出仕するようになったばかり。次男良房はまだ出仕を果たしていない。自らは既に台閣の頂点に立っている冬嗣であるが、後継者の点ではまだ少しおぼつかない。大伴よりも、やはりもう少し神野が帝の地位にあってくれた方がやりやすい―――
今や、藤原北家の長となった冬嗣は、どうしてもそのように考えずにいられない。
そして神野には神野の、皇室の自律と台閣の安定という目標がある。もちつもたれつの政治的な関係もまた、二人のつながりの中に始めから、常に絡みついていたものである。




