表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
32/79

第十一章 遊糸繚乱(五)

 だが、それより早く、あまりにも突然に状況は動いた。

 大内裏の中の執務の場、朝堂院にいた冬嗣は、清涼殿にある神野の私室に呼び出された。呼びに来た蔵人は、政務が一段落してから、とだけ伝え、それ以上は知らないという。

 清涼殿からは、澄んだ和琴の音が聞こえてきていた。安世などは、琴の音を聞けば大体その人の心の在り様が判るとまで言う。冬嗣は楽にはあまり詳しい方ではないから、そんなことを言われても首を捻ってしまうのだが、そんな彼にも、神野の音が非常に澄んだ、美しいものであることは判る。

 冬嗣が清涼殿に入ると、気配を感じたのか、ふっと音がやんだ。失礼いたします、と断り、冬嗣は部屋に入った。

 中には、神野以外誰もいなかった。人払いをしたものらしい。

 何事だろう―――

 訝しみつつも、言われるままに神野の正面に腰を降ろした冬嗣は、相手の口から発せられた言葉に驚愕した。

「何ですと!?」

 思わず大声を上げる冬嗣をじっと眼で見つめ、三十八歳になったばかりの帝は繰り返した。

「わたしは、位を降りる」

「お―――お待ち下さい」

「反対するのか」

 神野は静かに冬嗣を見た。冬嗣はその眼を真っ向から見返す。一瞬の動揺は消え去り、既に冷静さを取り戻していた。

「勿論です」

「理由は」

 問い掛けながら、神野は姿勢を崩す。

「主上が譲位されるということは、新たに東宮を立てねばなりません」

「その通りだな」

「今上帝、東宮に加え、お二人もの太上帝を支えるだけの余裕は、現在の国庫にはございません。近年の凶作を、主上もよくご存知の筈です」

 神野は脇息を引き寄せた。

「平城京の太上帝は御病気だ。御年五十……もう、それほど長いことはあるまいよ」

「御病気は伺っております。しかし、台閣を御覧下さい。五十九歳の綿麻呂、六十五歳の貞嗣、七十一歳の多治比など、五十を越えて働いている者など、いくらでも挙げることが出来るではありませんか」

 神野はしばらく黙ったままでそれを聞いていたが、やがてふ、と笑う。

「いちいち、もっともだな」

「そうです。主上はまだ御年三十八……。御譲位など、あまりにも早すぎましょう」

 ほっとして冬嗣は言った。だが、神野は浮かべた笑みはそのままに、じっと冬嗣を見据える。

「そなたの言うことは判る。国庫の窮乏も含めてな……。だが、わたしは意志を変えるつもりはない」

「主上―――」

 神野に何が起こったのか、冬嗣には皆目見当がつかなかった。今まで、このような重大事において、彼が自分の我を押し通そうとすることなどなかったのだ。

「何故―――」

 冬嗣は眉根を寄せた。

「何故、そのように譲位を急がれるのですか―――」

「……」

 神野の眸は、穏やかである。だがそれは時に他人を踏み込ませない静かな拒絶を映す。その意図が、冬嗣には今はよく読めなかった。

 だが、冬嗣の意図は、恐らく神野はお見通しなのだろう。

 財政問題もさることながら、冬嗣には、譲位を引き止める理由がもう一つあるのである。

 それは、息子たちのことだ。

 長男長良が二十一歳で内舎人として出仕するようになったばかり。次男良房はまだ出仕を果たしていない。自らは既に台閣の頂点に立っている冬嗣であるが、後継者の点ではまだ少しおぼつかない。大伴よりも、やはりもう少し神野が帝の地位にあってくれた方がやりやすい―――

 今や、藤原北家の長となった冬嗣は、どうしてもそのように考えずにいられない。

 そして神野には神野の、皇室の自律と台閣の安定という目標がある。もちつもたれつの政治的な関係もまた、二人のつながりの中に始めから、常に絡みついていたものである。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ