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第十一章 遊糸繚乱(一)

 平安京は柳が芽ぶき、桃の香が薫る季節を迎えている。仁寿殿の北、皇后橘嘉智子の住む承香殿に、軽やかな笑い声が響いていた。

 笑っているのは嘉智子である。金糸の繊細な刺繍がほどこされたの緋色の背子が、白い肌によく映えて美しい。

「本当ですの? 美都子どの」

 問われた美都子も朗らかに笑って、

「ええ、どうぞこちらを御覧下さいませ」

と、一通の書状を嘉智子に差し出した。美都子は三守の六歳年長の姉で、冬嗣の正妻である。現在は内裏で尚侍として務めており、嘉智子とも親しくしていた。今日も美都子が持参した手作りの唐菓子をつまみ、御茶を飲みながら、くつろいだひとときを過ごしている。

 渡された書状を嘉智子は開いた。冒頭に、こうあった。

「學生小野篁誠惶誠恐謹言」

 学生小野篁、誠惶誠恐し、謹んで言う―――

 さっと目を通し、嘉智子は吹き出した。

「まあ、図々しい」

 篁が、三守に書いたものである。内容を言えば、三守の長女有子を是非妻に欲しい、というものだ。有子の母は、嘉智子の姉安万子であるから、嘉智子にとっては姪の話である。安万子は六年前、ふとした風邪がもとでなくなっている。

 篁の父岑守と三守は、親同士の行き来もかなりある。三守は気性が真っ直ぐで、文章生となった秀才である篁を気に入り、有子に漢詩を教えさせたりもしていたので、そのうちに恋に落ちてしまったものらしい。

 それだけならよくある恋物語なのであるが、父親である三守に出した嘆願書がすごい。

「三守の話ですと、突然単身やってきて、この書状を差し出したようですの」

「さぞ驚かれたことでしょうね。


『ひそかに以れば、仁山塵を受けて滔漢の勢い寔れ峙てり。智水露を容れて、浴日の潤、良に流る。是をもちて尼父、好みを縲紲の生に結び、呂公、嬪を駅亭の士に附く』


――――すごい書き出し」

 女官である美都子はもちろん、嘉智子もその美しさと共に、才女としても評判が高い。少し声を低め、重々しい風で嘉智子は読み上げて見せる。読み上げながら、途中で笑い声を立てた。


 思えば、山は塵が積もることで天に届くほどの勢いをもって聳え立つことができる。水は露を取り集めることで日光を浮かべてゆったりと流れる大河となる。仁者(山)も智者(水)も、その大業を成し遂げたのは、他の助け(婚姻をさす)を借りるところが大きいのであり、孔子も入獄した人と婚姻を結び、呂公は宿駅の一役人にその娘を与えた……


 この文章に始まり、男女が夫婦となるのは古い昔からの理であると説き、さらに三守の娘の徳の高いことを褒めちぎり、まさに君子の妻となるに相応しい、という。

「自分は君子の類いだと言っているということになりますわよね。―――まあ、この先もすごい」

 自身を『史記』の英雄に比べ、自分は彼らに比べれば非才ではあるが………と続いている。

 美都子は書状を受け取り、読んだ。

「『篁、才は馬卿に非ざれば、琴を弾ずること未だ能はず、身は鳳史に非ざれば、簫を吹くこと猶ほ拙し』―――中々こんなこと書けませんわよ」

 ひとしきりくすくすと笑った後、美都子は書状を元のようにたたみ、傍らに置く。それから杯を取り上げ、入っていた茶を一口飲んだ。

「失礼いたしますわ、笑い過ぎて喉がおかしくなりそうですもの」

 杯から唇を離し、微笑する。

「ああ、いい香り。本当に、いつも御馳走になるばかりで」

「美都子どのには、いつもお菓子を作って頂いてますもの。お茶は、主上がお好きなものですから、いつでもご用意できますわ」

「薬にもなるそうですわね。飲むと、不思議と、食が進むようです」

「それで、三守どのは如何なさったの?」

 嘉智子も茶を口に運びながら微笑して尋ねる。

「絶句してしばらく開いた口がふさがらなかったそうなのですけれど」

「そうでしょうね」

「三守は乗り気のようですわ。篁どのはいい青年だし、何よりも当人同士が好き合っているのだから、と。ただ、きちんと官職を得て、ひとりだちできるまで待つように、とだけ、釘を刺したそうです。それは、岑守どのも同じ御考えで。言い出した以上は、あくまでも当人同士で事に当たりなさい、と」

 嘉智子はその艶やかな眼を僅かに細める。

「いかにも実直な御二方らしい考えね。御家同士、ままごとのような婚姻が多い当節ですのに」

 美都子は苦笑した。

「実直なのはいいのですけれど、姉としては、もう少し、先々のことなど深く考えてくれればとも思いますわ」

「でも、三守どののそういう真っ直ぐな御気性が、主上の信頼を得ておられる理由ではありませんか。権中納言にまで昇られて」

「それはそうなのですけれども―――」

 そのとき、不意に部屋の外から声がした。

「母さま―――」

「正子?」

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