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第十章 旧邑対雪(一)

 弘仁十三年(八二三年)、十二月―――

 京を、骨の髄まで染み入るような寒気が包んでいる。

 高志内親王が、清涼殿にいる神野の下を訪れたのは、夕方のことだった。

「兄さま」

 書き物をしていた神野は筆を止め、妹を見る。三十七歳である。

「高志か。どうした」

 高志はもともと神野に対してあまり気遣うことなく言葉をぶつける数少ない人間の一人だったが、この日、彼女の表情はいつになく堅かった。それに気づき、神野は少し怪訝な表情をする。

「―――何かあったのか」

「お願いがあって参りました」

「願い?」

 神野は笑った。

「お前がそんな顔をするとは、余程とんでもない願い事なのかな」

「安殿兄さまに、会って差し上げて下さい」

 一瞬、沈黙があった。

「いきなり、何を言う?」

 静かに、神野は質す。感情の読みとれない、淡々とした口調だった。

「御病気なのは、ご存知でいらっしゃるのでしょう?」

「聞いているよ」

 神野は頷く。

「お前が折々、見舞いの品を届けているだろう」

「やっぱり、ご存知でらしたのね」

 神野が黙っていると、高志は訴える口調になる。

「何故、兄さまは直にお会いにならないの」

 神野は表情を変えなかった。だが、答えも返さない。

「安殿兄さまは、ずっと神野兄さまに会いたがってらっしゃるのよ。―――判っておいでなんでしょう」

「そんなことはないよ」

 幽かな笑みが、神野の口元に浮かぶ。僅かに眼を伏せた。

「―――どうしてそんなこと、兄さまにお判りになりますの? もう、十年以上会っていらっしゃらないじゃないの」

「それぐらいのことは、会わなくても判るさ」

「嘘よ!」

 高志は叫ぶ。

「どうして? そんなに、安殿兄さまを許せないの? 十年もたっているのに」

「許せない訳ではないよ」

 急に疲れが出たように、声に吐息が混じった。それでも辛抱強く、神野は宥めるように手を上げる。

「………許せないとしたら、きっと兄上の方さ」

「安殿兄さまは、神野兄さまに会いたいんだって、さっきから言っているでしょう。どうして判って下さらないの!」

 高志が食ってかかった時、ギシ、と廊下の板が鳴った。神野は息を吐き出す。

「誰か来たようだ。席を外してもらえるか」

「兄さま!」

「その話は、また今度にしよう」

 少し語調を強めて、神野は話の打ち切りを示した。高志は兄を睨みつけたが、やがてくるりと踵を返して早足に部屋を出て行く。入れ違いに、安世が入ってきた。神野はため息をつく。

「―――何だ、そなたか」

「御挨拶ですね」

 安世は肩を竦めた。神野は安世を見る。

「来た理由がなんとなく見当がつくからな。―――そなたもわたしに平城京へ行けというのか?」

 しばらく、沈黙があった。安世は胸元から、折り畳んだ紙を一枚取り出す。

「これをお読み下さい」

「―――何だ」

「太上帝が少し前に作られた詩です。東宮妃(高志)がこの程平城京から持ち帰られて、わたしに読んでほしいと」

 神野はかすかに笑う。

「高志は詩が読めぬからな」

 五言詩の走り書きだった。紙の上に、神野の眸は吸い寄せられた。

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