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第九章 春雨水紋(六)

 ほどなく戻ってきた使者は、未申の刻(午後三時)に、常御殿である清涼殿ではなく神泉苑へ来るように、と伝えた。

 もともとの常御殿は紫宸殿の北に隣接する仁寿殿(後殿)だったが、公式の行事の場である紫宸殿に近くては何かと騒々しい、ということで、神野は仁寿殿の西に新たに清涼殿を建設し、いまではこちらを主に常御殿として使用している。神泉苑は大内裏に隣接する庭園で、帝のみが使用できる。

 雨が降り続く中、二人は指定された時刻に神泉苑へ赴いた。美しい庭園は、糸のように降る雫に濡れながらひっそりと静まり返っていた。

 女官に案内され、二人は人工池のよく見える一室に入った。やはり、しんとしている。

 神野は、まだ来ていなかった。篁はしばらく腰を降ろしていたが、やがて物珍しげに廊下に出て、外を眺める。彼は神泉苑に来るのは初めてのことである。階から庭を見下ろし、

「桃が咲いていますね」

と呟いた。

「いい匂いです。まだ、五分咲きというところですが」

「そうだな。ここまで届いてくる」

 安世は微笑する。

「君が次の宴に招かれる頃には、満開になっていると思うよ」

 篁の背に、安世は声をかけた。

「曲水の宴ですか」

「詩を献じなければならないだろうからね。出仕の話も、この後は早いだろうな」

「良峰どのまで、そんな辛気臭い話を」

 篁が渋い顔をしたので、安世は笑う。

「出仕が早い、という話を辛気臭いとは、恐れ入ったね。―――まあ、君らしくもあるが」

 膝を少し崩す。

「昔のわたしを思い出すよ。わたしは君よりは随分年少で大学寮に入ったがね。出仕が嫌で嫌で仕方なかったからな」

「そうでしょう。出来ればこのまま、弓馬と詩とを友にして、諸国を放浪したいぐらいですよ。でもそれと同時に、いたずらに時を過ごしてはならぬ、という気も、ふつふつとしてくるんです」

「ほう………」

「馬であちこち駆け回っていると、色々なものが目に入ってくる。飢えに苦しむ人々や、京の治安の乱れ………。我が身の無力さを突きつけられる思いがします。確かに、この苑は美しい。しかし、わたしが目にするものとは、あまりにも違いすぎます。別世界を見るようで落ち着かない」

「………」

 篁の言うことは、陸奥から戻ったばかりの安世には、判らないでもなかった。

 一度この京を離れて地方に下ったものは、多かれ少なかれ、「平安京」と名づけられたこの都が、その外からいかに多くのものを吸い上げることによって成り立っているかに気づかずにはいられないのだ。かつて園人や緒嗣がそうだったように(緒嗣は今もそうだが)、岑守もどちらかといえばその経歴上、地方や、「民」というものに関心が強い。

 先日聞いたところによると、岑守は今、田の一部を公営として一切の経営資金、種などを朝廷が支給し、それを農民に耕作させて税を取るという方策を実施してはどうかと考え、今色々と計画を練っているらしい。税を納めろと言っても納められない農民が増加しているからである。

 そう思いを巡らし、安世は呟いた。

「やはり岑守どのの子だな、君は」

「そうですか?」

 篁は首を傾げる。

「「あの岑守どのの子が」と言われることはよくあるんですが」

「―――そのうちのひとりは、確かわたしだな」

 いないとばかり思っていた人間が口を挟んだので、二人はギョッとした。

 屏風の背後に、神野が立っていた。背後に、二人の女官が控えている。篁は慌ててその場に膝をつき、深く頭を下げた。安世も床に手をつく。

「いつの間に来られました」

「つい先刻だ。少し遅れたな。冬嗣との話が思いのほか時間をとった」

 女官に指示を与えて下がらせながら、神野は部屋に入った。白地に霰の模様を打ち出した衣を身につけている。

「冬嗣も、御一緒されればよいのに」

「あれとは、度々宴で同席しているからな。―――それに、色々と忙しいようだ」

 ややそっけなく、神野はそう流した。

 その間に、女官たちの手で手際よく酒と料理が並べられた。野菜の炒り物、茄子の漬物、魚や昆布の干物、等々が、小さな器にちまちまと盛られている。蕨の煮物もあった。種類は、十五ほどあるだろう。

 帝位について十三年。安殿とのいさかいと高津廃妃の後、比較的平穏に時間は流れた。

 一見してすぐに判るほどに、神野は若い頃とは明らかに異なってきていた。年は三十七歳。周囲から脅かされ続けた二十代前半までの張りつめた雰囲気は、今やすっかり影をひそめている。落ち着いた静かさは変わらないが、どこか柔らかく、ゆったりとくつろいだ空気が自然に醸し出されるようになっていた。

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