第九章 春雨水紋(五)
「いや、良峰どの、わたしは冷や汗のかきどおしでしたよ」
文章試を受けることになった経緯を、安世は岑守から耳にしている。そのとき彼は安世にそう言って頭をかいた。
「文章博士に文章の何たるかについて喧嘩を売るとは、いや、やるものですねえ」
感心したように安世が呟くと、岑守は顔をしかめた。
「そんな、良峰どのまでそのようなことを」
「で、篁はどうしているんです」
「自室にこもって書を漁っています」
「本気のようですね」
「あれはいつも本気ですよ」
岑守の表情に、苦笑が浮かぶ。
「しかしまあ、大きく出たものです。ああなると、もう引っ込みもつきませんでしょうが……」
止める気はないようだった。
「まあ、大恥をかくことになるんでしょうがね。親子共々、しばらく肩身の狭いことになりそうですよ」
はは、と笑って、冗談めかして肩を縮めてみせる。止めても聞かぬ気性は判っているし、言った以上はその落とし前は自分でつけさせる。たとえそれで、岑守自身の面目がつぶれることになろうとも。
岑守のそんな厳しさと優しさが、安世は好きだった。
「いやいや、ひょっとすると篁ならやるかもしれませんよ」
「止して下さい。尊敬する良峰どのがそのようなことを言っていたと聞いたら、あれがますます天狗になりましょう」
「尊敬などとんでもない。篁はよい弓馬仲間ですからね。―――でも、冗談ではなく、本当に彼ならやるのではという気がしますよ。彼には、確かにひらめきがある」
「親の欲目か、ひらめきについては、わたしもそう思わないでもないですけれども……。しかし、ひらめきでは文章試は乗りきれませんよ」
「確かに、それはそうですね」
笑って、話はそれきりになった。
そのあと篁が文学科に入学したということを聞いてすぐ、陸奥へ下った安世である。任期を終えて京に戻り、宮中へ参内した安世は、神野から労いの言葉と共にこう言葉をかけられた。
「猪が、文章試に通ったぞ」
「え!?」
さすがに仰天した。
猪、とは、もちろん篁のことである。
「もうですか?」
「ああ。先月の話だ。文句のつけようのない、素晴らしい成績だったと、清公が申していた」
「はあ、清公どのが……」
試験の採点の責任者は、文章博士清公である。篁とは一悶着あったとは言え、優れたものは優れたもの、ときっちり認める分別は持ちあわせているようだ。
「岑守のところへも、いつか行くであろう? また、折を見てわたしのところへ来るように言っておいてくれ。このところ、会う暇がなかったのでな」
「かしこまりました」
そんな理由もあって、安世は岑守邸を訪れたのである。
「篁」
親子喧嘩、というほどのものでもないが、やりあいが一段落したのを見計らって、安世はその件を切り出すことにした。
「はい」
篁は安世に向き直る。
「主上が、君に会いたいと仰っていた。よかったら一緒に行かないか」
「今日ですか?」
「昨日嵯峨の山荘から戻られたらしいし、別に今日でもいいと思うが―――でも、とりあえず御意向を伺わなければな」
台閣が安定していることもあり、神野は時間的にゆとりがある。重臣をひきつれて、花見や納涼、鷹狩りなど、様々な口実をもうけては内裏を離れ、嵯峨や交野、紫野など、各地へ行幸する機会も多い。
「わたしの方は、いつでも構いませんが」
「それなら、今からとりあえず遣いを送ってみよう。―――岑守どの、雨の中申し訳ございませんが、一人、お貸し願えませんか」
「ええ、お安い御用ですよ」
岑守は微笑して、すぐに手配してくれた。




