第八章 春日遊覧 ー間奏曲ー(一)
弘仁二年(八一一年)、春―――
桜の花が咲きこぼれる下、神泉苑では、盛大な宴が催されていた。
一段高くしつらえられた座に神野はゆったりと腰を降ろしている。その傍には、東宮となった大伴親王、内麿、園人、緒嗣といった人々に加え、蔵人頭から参議に昇進した冬嗣と野足、参議に返り咲いた秋篠安人といった重臣がずらりと並ぶ。冬嗣の後を受けて蔵人頭となったのは安世と三守だ。三守は少し下がった位置で控えている。
楽の音が、ゆるやかに空気に融けてゆく。曲は、春鴬囀。前庭につくられた舞台の上で、六人の舞人が舞う。その中の一人が、安世だった。
かれの舞は、遠目にもすぐそれと判る。その腕がゆっくりと大気の中を動くごとに、その流れにあわせるがごとくに桜が舞う。花弁の舞人をしたがわせ、はらりはらりと、袖が翻る。兜の黄金色が、麗らかな春の陽光に眩しい。
再遷都の事件から、半年が過ぎた。
今や、神野に並ぶものはいない。二十年におよぶ、生死を賭けた闘いからようやく自由になり、今初めて、神野は目の前に広がる世界の明るさを全身に感じていた。
安殿との袂別は、ときに飛び去る鳥が一瞬地に落とす翼の影にも似て、神野の眸に暗い色を投げかけはしても。
「………いい顔をしておられる」
そんな神野の姿に、冬嗣は感慨を込めて呟く。
今年でやっと二十五歳の若き天皇。
どこかひやりとした、磁器のような印象だった顔に、溌剌とした年相応の若々しさがのぞいている。安殿の挙兵の一件が片付いてから、また少しごたごたがあり、さすがに昨年一杯ぐらいまで、その表情は曇りがちだった。だが、昨年中止した元旦の儀式をこなし、梅の花がほころび始めた頃から、ゆっくりと神野は落ち着きを取り戻していった。
以前の観梅の宴では、こんな詩を披露した。
梅花落
鴬鳴きて梅院暖けく
花落りて春風に舞ふ
歴乱飄りて地に鋪き
徘徊颺りて空に満つ
狂香枕席に燻り
散る影房櫳を度る
傷離の苦を験まく欲せば
應に聞くべし羌笛の中
(文華秀麗集)
狂香枕席に燻り、とは、あちこちにうかれ漂う香りが女性の寝床にくゆり―――という意味である。ごく内輪の集まりではあったが、ほんのりと酒に酔い、こんな詩をひょいと作って見せるようになったのも、今だからこそである。
これには、最年少で文章生となり、遣唐使として七年ほど前に唐に渡った経歴の持ち主である菅原清公が和した。
春風物を吹きて暖けく
朝夕庭梅を蕩がす
花は點く紅羅の帳
香は縈る玉鏡の臺
楡關消息断え
蘭戸歳年を催す
未だ度らず征人の意
空しく労く錦字を廻らすことに
「春ですなあ………」
誰に聞かせるともなく呟くと、隣の緒嗣が、普段の仏頂面をやや緩めて応じた。
「佳い日だ」
「まことに」
舞はまだ続いている。春鴬囀は、半刻(一時間)に及ぶ大曲である。
「確か安世どのは、あなたの異父弟であられたな」
「ええ」
「実に、見事な舞だ。―――あなたは、舞われぬのか」
冬嗣は苦笑する。
「わたしはそういったことには、どうも」
「では、桓武帝のお血筋なのだろうかな」
「そうですね。―――楽については、主上がまた、当代一の名手であられるし」
「―――冬嗣どの」
背後から三守に声を掛けられ、冬嗣は振り向く。
「どうかしたのか?」
「主上より、御伝言です」
三守は笑いを含んだ声で言った。
「内緒話の間に、『春』という題で詩を作っておけ、とのことです」