今と昔のオタク
もやもやとしていたものが解けた気がする。文学の読者とオタクは似ていつつ真逆である矛盾について。まず今のオタクと昔のオタクは全く違う。昔のオタクは文学の読者と類似性がある。物語のマニア的な部分があって、過去のアニメ評論家の大半は古典文学をたしなんでる人が多い。インテリ系のオタクが多かった。京大出身のアニメ監督の山本寛監督がその典型例だと考えている。
じゃ何故今のオタクが変わってしまったのか?と言うと、漫画アニメ、ラノベも含めて共通する軽い娯楽こういった部分の絶対視の部分が大きい。娯楽と言うのは本人が楽しければ娯楽であり、学問や科学芸術も当然本人の興味娯楽になりうる。そこに軽く楽しめるって絶対条件が動かせなくなった。これが現代のオタクがマニア的なのに過去のオタクと異質な部分で文学などの読者などとずれる部分。
オタクのすべてではないが、先鋭化された漫画アニメ表現を好む人が多い。これは一般的な芸術の発展による受け手の変化と全く同じで、だから一般とマニアが別れてしまう原因になる。ある程度先端の表現に対する慣れが無いと面白さが良く分からない。アニメ漫画をただ楽しむだけじゃオタクといわないし、言われない。それは昔と違って大人も子供のアニメ漫画全般は誰でも見るからになる。
そういった中でオタクとは何なのか?となると先鋭化した面白さを当たり前に面白さと捉えられる人間になる。または、面白さが一般的であって、その刺激が先端であるが故により刺激的に感じ取れる人間達になる。オタクとマニアはほぼ同義で、そこに漫画アニメ特有の物語全般に対する軽さへの絶対条件が付加されるからになる。
ただし漫画になるとこれが中々絶対的ではない。もっとぼんやりと漫画は軽いものが多い程度に感じ取っておいたほうが良い。そこから、漫画っぽいってイメージ=軽い気楽ってのがきちんと誰にでも連想できる。アニメはこれが徹底してる。その理由として、アニメを見る層の問題になる。通常枠は子供基準なので、気楽さは絶対条件になる。
中高生以上対象になると、実写ドラマの中にある面倒な部分をなるべく排除した作品を選択してみるような深夜アニメが対象になる。それゆえにアニメは全般的に気楽さが絶対条件になっている。アニメはより漫画らしいといえる。どうしてそういった違いが生まれるか?でビジネスモデルの違いだと思われる。
それゆえネット配信に移行する今、未来はどうなっていくか?までは私は分からない。内容に対して商売の仕方が強く関わってるため、未来も同様であるか?が分からないとだけ注意点として書いておきたい。だが現段階では、人気の配信アニメはBDの売上げが高いアニメになりやすい。微妙にズレがあるので、このズレが広がっていくか?がポイントで、アニメと漫画の違いが顕著でなくなる可能性は未来には持ってる。
それでも変わらないのは、傾向としては絶対的ではなくても気楽である傾向が高いのは間違いない。ここより過去のオタクは重視するものがあって、それが文学作品などと良く似ていた点となる。この違いは何度も書いてるが、頭を使わない受け手によって変わったのだと書いてる。頭を使わないで楽しめる、これが気楽さと密接に繋がってるから。一生懸命楽しまなくて良い。これが気楽さの分かり易い定義の一つだと思う。
何かおかしいじゃないか?マニアとはその道では一生懸命になるんじゃないのか?なら、そこが今のオタクが抱える矛盾点と分かりにくさの部分。先鋭的な刺激を楽しんでるのに、動かせない部分として気楽な物語って軸がしっかりしている。こうじゃないとオタクと呼べない。ただのマニアだとなる。
私から見て過去のオタクはアニメ漫画の大衆が重視した重要な部分を分かってなかった。アニメ漫画は大衆的であり、今のオタクは大衆的な部分をそのまま残した専門家だと言える。これは間違いなく矛盾している。この2つの両立できない矛盾をそのまま受け入れないと、なろうの奥底にあるものも多分理解できないと私は思っている。
良く言われる、最近のアニメの批判で、2次創作的、1次のソースが漫画アニメからしかもって来ないって批判がある。手塚がわかりやすいが、ファウストは古典文学をモチーフにした代表的な作品といえる。手塚の多くのネタ元は小説、映画、雑学的なものである事が多い。これによって今と昔を較べて、先細りと批判される。
だがそうだろうか?気軽さと言う大衆的な部分を傾向としてしっかり持つようになった現代、気軽さを損なうネタ元は排除される傾向にある。この極めて狭い条件下で背一杯やった結果が今の時代のクリエイター達の努力の結果と見ている。気軽さのネタ元は気軽な物語から持って来るのが一番簡単なんだ。
アニメ漫画を元にアニメ漫画を創るのが一番手堅いやり方で、利口で合理的だといえる。逆に批判してるだけの人たちは、それを知らない無知である事が多い。過去の作品はそれらを知らない非合理な生産体制で生産されたもので、より洗練された生産体制を批判するとは的外れな批判ではないだろうか?
長い歴史の中で、漫画アニメに特化した大衆が求めるものを選び出してきた。ある意味コレは作物の好みに対する品種改良の結果と良く似ているんだ。雑穀などに較べて、糖分が高く雑味が排除された小麦や米などの穀物が辿ってきた道とよく似ている。大体の人間は悪化したと見るだろう。私はそう単純には見てない。逆にコレは選び出すのに掛かった時間に過ぎないと見ている。
根本的には今も昔もオタクはその他のジャンルのマニアや芸術愛好家と全く変わらない。ただ今のオタクはここに大衆的な気軽に楽しむって部分を先鋭化された刺激よりも重視してる点だと見ている。そしてオタク以外の人たちは、アニメ漫画の気軽さを楽しんでいて、先鋭化した刺激をオタクよりも感じ取れないから、今の深夜アニメを強いて選ぶ結果になってないため、オタクという層が作られていると見ている。
ただし若い頃からこれに直接触れた若者は別。彼らはその他をあまり詳しくないので、中年のオタク層とはまた違った感性を持ってるかもしれないが、その点は私はあまり重視して居ない。今回の話は中年のオタク層に限った話しになる。最初から深夜アニメが当たり前すぎた世代には当てはまれないとは考えている。
今の若い世代はそもそもオタクと言えるのか?と私は大きく疑問を持ってるから。私は将来的に好みが当たり前になりすぎてオタクは絶滅すると見ているから。