ヨーロッパへの挑戦と春奈
その後の三回のコンクール出場も全て良い成績を収めた。
調子が少し悪い時でも三位、他の二回は一位の成績となった。
そして教授の言う通り、三年生の後半からヨーロッパのコンクールに出ることが、音大の方針で決定されたのである。
「うん、史君の努力が、認められたのさ」
「いつかはヨーロッパのコンクールでも賞を取るだろう」
「そうなると活動拠点をヨーロッパにするか、日本にするか決めなければならないね」
「それにスポンサーも見つけなければならない」
教授の口からは、早くも史のプロ化を意識した言葉も出始めている。
しかし、その言葉を聞く史の表情が、あまり浮かない。
何しろ教授が、その類の話をするだけで、史は顔を下に向けてしまうのである。
この表情の変化は、すぐに教授の気の付くところとなった。
「そうか・・・」
「浮かない顔になるのは・・・」
教授には容易に史の気持ちがわかってしまう。
「史君、春奈君のことかい?」
教授には、春奈が史にとって「心の支え」であることは、わかっている。
それ故、長期間春奈と別れる不安が、史の心を暗くしていると判断した。
また、既に大学四年生となった春奈は、史に今後のことを何も告げていなかったのである。
「大丈夫だよ、心配はない」
教授は史の肩を叩いた。
教授は笑っている。
史には教授の言葉も笑いの意味も理解できない。
「史君、直接、春奈君に聞いたらどうかね」
教授は自分から直接は言わないようである。
あくまでも、春奈の今後と、史の将来に関係することであるから、直接本人同士で話せばいいと言うのである。
「わかりました」
史も、教授に聞くことはやめた。
教授の言う通り、本人に聞くのが一番だと思った。
ただ、自分の前から春奈がいなくなるという結論だけが、怖かった。
一か月も、眠れない夜が続いた。
史として、直接聞き出すのが正解とはわかっていた。
しかし、もともと引っ込み思案の史には、なかなか切り出すことが出来なく、夜も眠れなくなってしまったのである。
既に十二月になった。
史にとって何も聞きだせないままである。
それでも、このまま眠れない夜を過ごし続けるわけにはいかない。
ショパンの練習の後、本当に震えながら春奈に聞いてみた。
最初のコンクール前より、緊張してしまった。
「・・・春奈さんは・・・これから・・・」
史自身が恥ずかしいと思うほど、声が震えてしまった。
そして史自身が顔を上げることが出来ない。
「どうして下向いているの?史君」
震える史を前にして、春奈は不思議そうな顔になる。
「よくわからないけれど、史君が震えていると、私も緊張しちゃうしさ」
「お願い、顔あげて、史君の顔も好きなの」
春奈の声は柔らかい。
史は、本当に震えながら顔をあげる。
もし、春奈がどこかに就職などして、自分の前からいなくなる、そんな話になったら、この場で立ち上がれなくなる。
そうなると、ヨーロッパのコンクールなんかどうでもいい。
春奈は「憧れ」であって、恋をする相手ではないと思う。
それでも、いなくなることは、自分にとって死刑宣告に近いことなのである。
「ねえ、そんな自信がない顔しないで」
春奈は笑った。
「それに先生にも言われなかった?」
「それとも、何も聞いていないの?」
春奈は不思議そうな顔をする。
「うん、自分で聞きなさいって、一か月前に言われました」
春奈のあまりの不思議そうな顔に、思わず事実を言ってしまった。
これには春奈も黙り込んでしまった。
「もう・・・全く・・・」
しきりに同じことをつぶやいている。
しかし、春奈の考えている内容がわからない。
史にとっては、未だに断頭台の上に心があるのである。
「そうか・・・それで悩んだ顔をしていたのか」
「ごめんね、しっかり言わなくて」
「悪かったね、謝るよ」
突然、春奈は史に謝った。
史としては、全く内容がわからない。
謝られる理由もわからないのである。
「あのね・・・」
春奈は笑っている。
「はい・・・」
笑う春奈を前に、まだ史は緊張が解けない。
「心配しないでいいよ、ずっと一緒だから」
春奈は不思議なことを言った。
「え?」
史は、理解が出来ない。
「あのね、私来年から、ここの音大の職員になるの」
「それから史君、来年からヨーロッパに行くでしょ」
「史君、英語の成績が悪いから、私が付き添うの」
「だから何も心配しなくていいよ」
「わあ、史君についてヨーロッパなんて、最高だなあ」
春奈はそう言って笑っている。
「・・・」
史は何も返すことが出来なかった。
そして、緊張感からの突然の解放と、「憧れ」の春奈と一緒にヨーロッパに行ける、そのことの幸せに包まれていた。