春奈との出会い
レッスン場所が進学予定の音大に移ってから半年が過ぎた。
既に十月、史が助教授のレッスンを終えて帰るころには、既に夕闇である。
「あれ・・・」
人気の少なくなった史の耳にピアノの音が飛び込んできた。
「ショパンの雨だれだ」
史は、レッスンでは、ドイツものだけを練習している。
師である助教授が厳格に、練習方針を変えないためである。
ただ、史自身は、ドイツもの以外も好きである。
出来れば弾いてみたいと、いつも思っている。
「雨だれは、母さんが好きだったな」
史は廊下を曲がった。
校舎の玄関とは違う方向である。
「廊下だったら聴いていてもいいかな」
おそらく、音大生が練習で弾いていると思った。
久しぶりにショパンを耳にしたこともあって、無性に聴きたくなってしまった。
史は、音のする方角、音が大きくなる方角に向かって歩いていく。
「あっ・・・あそこか」
ほとんど灯りが消えたレッスン室が多い中、少し灯りが漏れている部屋が見えてきた。
ショパンの音も、そこから聞こえてくることを確信した。
史の足も灯りと音を目指して速くなった。
「うん、あたりだ」
史はレッスン室の前の椅子に座った。
誰かはわからないが、髪の長い女性が弾いていることはわかった。
雨だれは、そろそろ終盤に入っている。
「少しでも聴ければいいかな」
「本当にしっとりとしたショパンだなあ・・・」
「自分の音楽で、こんな、しっとり感出せないな」
史は、自分の練習しているドイツ音楽では、なかなかショパンのようなしっとり感が少ないと思っている。
しかし、師匠である助教授は、史の演奏を批判することはない。
少し「固め」で「重み」のある史の演奏スタイルが、助教授の演奏スタイルに似通っているし、今の史のスタイルで進んだ方が、特にドイツでコンクールに出た場合、良い結果をもたらすと確信しているからである。
「あっ・・・まずいかな」
史は、少し慌てた。
ショパンの雨だれが終わってしまい、ピアノを弾く女性が立ち上がった。
何も言わず、ここで聴いていたことを見られたら、どうリアクションをしたらいいのか、わからない。
これから廊下を走って姿を消すには、廊下は長すぎる。
それに、廊下の曲がり角も当分ない。
しかし史は、慌てている時間は、全くなかった。
ショパンを弾いていた女性が、そのままドアを開けて出てきてしまった。
「あれ・・・史君?」
髪の長い女性から、ドアを出た瞬間に声をかけられた。
何故か史の名前を知っていた。
「あ・・・はい・・・史です」
「ごめんなさい、黙って聴いていました」
史は、ドギマギとするがその女性が誰なのかわからない。
それに、何故、目の前の女性が自分の名前を知っているのかわからない。
「いえいえ、聴いてくれていて、ありがとう」
「部屋に入って聴いてくれればよかったのに」
「それから、私は春奈って名前、史君と同じ高校だった」
「史君が一年生の頃、三年生、今は、この音大の一年生」
春奈は簡単に自己紹介をした。
とても上品で優しい、美人である。
どうやら史の高校も知っている。
ただ、史は春奈については全く知らなかった。
「うん、史君の先生と私の先生は同じだよ」
「先生から聞いていたし」
「それにね、時々私も史君のレッスン、廊下で聴いていたの」
「味のあるバッハ弾くから、好きなの」
春奈は、にっこりと笑った。
その瞬間、史の心臓はときめいた。
何しろ、両親が亡くなってから、人に笑顔で接してもらったことはない。
特に女性、春奈のような品の良い美人の女性に微笑まれたなんてことは、全く無かった。
史の顔は真っ赤になってしまった。
もともと、色白な顔である。
そして童顔、高校の同級生からは、「少女漫画チック」と言われている。
その「少女漫画チック顔」が真っ赤になっていることも、すぐに見られてしまった。
その焦りが、ますます史の顔を赤く染めた。
「あはは・・・私を見て顔赤くしてどうするの?」
春奈は微笑んでいる。
「でも、まだ、いいか・・・」
春奈は不思議なことを言った。
不思議そうな顔をする史を、春奈は手招きした。
「もう少し練習するから、部屋に入って」
それから以降は、史は練習終了後、必ず春奈のショパンを聴くようになった。
しかし、春奈の言葉の意味は、大学入学まで当分謎のままとなった。