アンコールを前に
ホールの時計の針は八時を指している。
史のプログラムも後半に入っている。
後半の曲はパルティータの全曲演奏。
「うん・・・渋い・・・」
「渋いけれど、どこか・・・風情がある」
「これもドイツに行かせたせいかな」
「苦しませたけれど、行かせて良かった」
教授が舞台の袖口で頷いていると春奈が入って来た。
「おお・・・来てくれたか・・・」
「良かった」
教授も安心した顔を春奈に見せた。
しかし春奈の顔が蒼ざめている。
「うん、どうかしたのか・・・」
その蒼ざめた顔に教授は不安を感じた。
しかし、春奈は応えない。
黙ってPCの検索画面のプリントを教授に差し出した。
「これは・・・」
教授の顔も蒼くなった。
「涼子さんは?」
春奈が教授に尋ねた。
「いや、全然姿が見えないな」
「会場に来ているかどうかもわからない」
教授は素直に知る限りのことを応えた。
「教授・・・」
春奈は真剣な顔になった。
教授が知る限り、これ以上の春奈の真剣な顔を見たことが無い。
「うん、どうした?」
教授は出来る限り、落ち着いて答えた。
自分が落ち着くことによって、少しでも春奈の緊張をやわらげるためである。
「はい・・・史君から、さっきメールが・・・」
春奈は、緊張の表情を変えない。
「うん・・・」
教授も少し緊張して春奈の携帯画面を見た。
教授の顔には、更に緊張が走った。
「史君、アンコールでどうしてもショパンを弾きたいそうです」
「それも私と練習した雨だれ・・・」
春奈は泣き出した。
「そうか・・・でも・・・・」
教授の顔が曇った。
その顔を見て、春奈も不安になる。
「涼子が、廊下で騒いでいたそうだ」
「アンコールでショパンを弾いたら、損害賠償を求めるってな」
「どうして、そんなことで損害賠償になるのかわからないが・・・」
「何しろ、何をしでかすかわからない。親子ともどもな・・・」
教授の顔は苦渋に満ちた。
春奈も、下を向いてしまった。
バッハのパルティータも全曲弾き終えた。
ステージでは史が、また万雷の拍手を浴びている。
その拍手を何度も受け、史が舞台袖に戻って来た。
「史君!」
春奈が史に駆け寄った。
史も驚いた顔で春奈を見ている。
「うん・・・春奈君に聞いたよ、どうしても雨だれを弾くのかい?」
教授は史に尋ねた。
「はい、何があっても雨だれを弾きます」
史の表情は何も変わらない。
むしろ自信に満ちている。
「春奈さん」
史は春奈の顔を見た。
「え?なあに?」
春奈は驚いた。
今まで、ずっと一緒だった。
お互いが、話しづらくなって最近は、ちょっと・・・だけど史にここまで真正面から見られたことはない。
春奈の顔が真っ赤になった。
史は春奈の耳に口を近づけた。
春奈は本当に胸の高鳴りを覚えた。
「もし、ニュアンスが悪かったら、また毎日レッスンお願いします」
史の言葉はそれだけだった。
春奈は聞いた途端に腰を抜かしてしまって声が出ない。
既に泣き出している。
教授はステージに出ていく史を見ていた。
そしてつぶやいた。
「全く、俺の女になれぐらい言ったらどうか・・・」
教授の心にもどかしさがこみあげている。




