クリスマスリサイタル当日
史の初めてのリサイタル当日となった。
ドイツの有名コンクールで一位を取った演奏家のバッハプログラムが前評判を呼び、既にチケットは完売。
ホールには、教授を初めとして史の後輩のピアノ科の学生や、評判を聞きつけたプロの演奏家も、かなり聞きに来ている。
特別招待を行ったドイツ大使や大使館員、外務省や文部科学省の高官も見えている。
しかし、本来、聴衆より先に会場入りをしなければならない涼子の姿は、まだ見えない。
しかたなく、史は教授や後輩に手伝ってもらい、全ての当日準備をこなさねばならなかった。
教授も、あまりのことに呆れるが、マネージャーが来ないことにはどうにもならない。
招待客や聴衆には迷惑をかけられないのである。
教授自身も涼子の「よからぬ噂」を最近、聴くようになった。
時折は注意をするが、そのたびごとに、「そんなことを言うのなら、今まで特別に寄付したお金を全部返してください」
「これ以上、注意されたら父の会社も寄付を止めますし、トラック十台ぐらいで乗り付けて校門の前で大騒ぎしますよ」
涼子は、その顔を真っ赤にして、怒鳴り散らす。
そして、そのまま学長室に乗り込むこともある。
また、注意を受けた日は、一日中機嫌が悪く、史の練習をことごとく邪魔をするらしい。
ピアノの前の楽譜を、ビリビリに破くなどは日常茶飯事との噂もある。
そして、その乱行ゆえ教授としてはリサイタル前に涼子に何も言うことが出来なかったのである。
春奈の姿も見えなかった。
春奈としても、史の初のリサイタルの日。
史との難しくなった関係はともかく、どうしてもリサイタルを聞きたかった。
しかし、どうしても、一歩ためらいがある。
「史君の顔見て、泣いちゃうと思う」
「史君が泣いても笑っても泣いちゃう」
「こんな泣き虫女の顔、史君だって見たくないよ」
その言葉が、春奈自身の頭を何度もかき乱し、なかなか腰を上げることが出来ない。
「でも、涼子って評判が悪いけれど、御実家の運送業者って、どんな会社だろう」
春奈は、突然涼子の実家の運送業者を調べたくなった。
「いまさら、どうにもならないけど・・・」
春奈はPCを立ち上げ、春奈の実家の運送業の検索を開始した。
途端に春奈の顔が蒼くなった。
開演五分前になった。
開場は既に満席。
しかし、涼子の姿は見えない。
史は仕方なく、教授に舞台の袖口にいてくれるよう頼んだ。
「致し方ない、残念だが・・・」
「これに気を落とさず、演奏には全力を」
教授の言葉は短かった。
史も会釈をして、ステージに登場していった。
満員の会場で史は、春奈を探した。
しかし見えなかった。
確かに最近、目が悪くなった。
そのためだろうと自分に言い聞かせた。
絶対に、春奈は来ると自分に言い聞かせた。
目を閉じると春奈の笑顔が浮かん来た。。
そこで史は落ち着きを取り戻した。
ピアノの前に座り、ゆっくりと指を鍵盤に置いた。
「うん・・・正統派のバッハだ」
「平均律クラーヴィア曲集も、ここまで正統派できっちり弾くと、いいなあ」
「心の浄化されるバッハだ」
最初は特に音大の後輩から、ブツブツと感想が漏れた。
しかし、すぐに感想は聞かれなくなった。
平均律の二曲目には、全員の口が閉じた。
目を閉じて聴き入る人も増えて来た。
そしてこの時点で、教授はリサイタルの成功と史の輝かしい未来を確信した。
教授自身も、史のバッハのあまりにも豊かな詩情性に、心を奪われ、一音も聞き逃せないと聴き入ってしまう。
春奈は検索画面にヒットした涼子の実家の運送業者の内容に顔を蒼くしている。
「何・・・これ・・・」
「過重積載、労働時間無視で居眠り運転事故?」
「脱税疑惑?」
「地域闇社会の裏幹部?」
「とにかく強引、傲慢で鼻もちならない・・・地域住民の声?」
「無保険車両で死亡事故を起こして、賠償金を値切る」
「裁判官もお手上げ?」
「まるで、涼子の親って言うのか、親があって、その娘?」
「そんな娘が史君のマネージャー?」
「ずっと史君のマネージャーをさせるの?」
「こんな親が付いていて、マネージャーが涼子なら、史君死んじゃうよ」
「史君、可愛そうだよ、きっとあの子泣いている」
「今までは、涼子の乱行が噂で我慢していたけど、もう・・・絶対だめ!」
春奈は、ここで我慢が出来なかった。
そしてバッグを肩にかけ、音大事務室を飛び出した。
PC画面には、運送業者の検索画面が、そのままである。
その画面を、残業をしている他の職員が見ていた。
そしてただちに、学長の携帯に連絡を入れた。
涼子は父と一緒にトラックに乗っていた。
もちろん、涼子としては自分が企画した最初のリサイタルを父に見せるため。
「それにしてもなあ・・・」
父親の顔がさえない。
「それにしてもって何よ」
涼子は口を尖らせた。
「演歌ならいいけどな、クラシックなんてわからねえし」
父親は本音を言う。
「だったら何で音大なんか行かせたの、わけわからない」
涼子はますます、口を尖らせる。
「ああ、それはお前に、お嬢さんになってもらうためだ、音大卒の娘なんて、かっこいいじゃねえか・・・こんな稼業の俺にも上品さが宿る」
父親は必死に涼子をなだめる。
「そんなんで行かせたの?馬鹿馬鹿しい」
「結局スキーで怪我してダメになったな」
「ああ、ちょっと飲み過ぎでね、でもあれでピアノの練習しなくなって楽になった」
「本当にあの教官嫌いだった」
「まあ、お前じゃピアノ無理さ、入学そのものが金だしな」
父親が少し笑う。
「うん、私もそんなところだと思っていたよ、まあ今更どうでもいい」
涼子も簡単に納得する。
「ああ、その本番って何時からだ、もう七時半だけど、マネージャーってものをやってんだろ、早く入らなくてもいいのか?」
父親はようやく時間を聞いた。
「あっ・・・そうだ、六時半からだよ、いいよ、いざとなったら音大の先生とか後輩が何とかするでしょ。それで文句言ったら思いっきり、どやしつければいい」
涼子は、何も気にしていない。
「それでもなあ・・・」
父親は時間を気にした。
「ここからなら、普通で三十分、ちょっと渋滞しているから五十分はかかるぞ」
父親は涼子の顔を見た。
「そうねえ・・・まあ、あちこちぶっとばしていいからさ」
涼子はそう言ってダッシュボックスを開けた。
「おいおい・・・」
父親も困惑した顔を見せる。
「いいじゃない、私の晴れの日だもん、少しぐらい飲んだって!」
涼子はダッシュボックスから冷えたハイボールを取り出した。
そして一気に飲み干してしまった。




