黙過
「梏杜も何考えてんだろうね。よりにもよって俺の籍に入れるなんて」
そう言って、閉ざされたばかりの扉を見つめる梓勑――つい先ほど私の義兄となることが定められた男は、常と変わらない涼しげな表情の奥に、ほのかな不満を燻らせていた。簡単に見て取れるということは、隠し通す気は無いらしい。試されているのだろうか。
相も変わらず面倒な男と思いながら、二度と着ることもないだろう高価なドレスの裾をさばいて部屋を横切り、挑発的な笑みを作って大法螺吹きに詰め寄った。きっとそうされたいのだろうと思ったからだ。
「あら、何か不都合でもあるのかしら」
「……どこまで知ってる?」
私のパフォーマンスじみたウォーキングを一瞥して、梓勑は髪をかきあげた。さらりとした髪には十分に手を入れられていることがわかる艶が浮かび、その佇まいには何気ない仕草が様になるだけの品がある。……これで、第七師団での再会時にはしがない平隊員などと名乗っていたのだからお笑い種だ。とてもそんな器ではないと、今ならば十二分にわかる。この男は、もっとずっと、性質が悪い。
目つきは冷ややかでも、よくよく見れば口もとは緩んでいる。お互い争うつもりはないのだ。戯れじみた皮肉の応酬をしていた頃が懐かしいけれど、今はそんなことのために顔を突き合わせているわけではないとわかっている。真面目な心持ちに切り替えて、記憶をたどるように顎を撫でた。
「そうね……梏杜が陛下の末弟なこと。貴方と梏杜が従兄弟なこと。そして私がここに呼ばれたということは、貴方の姓は“エドゥアルド”だったってことになるのかしら」
梏杜は私に言った。エドゥアルドを名乗り彼に傅くか、全てを投げ捨てて逃げ延びるか。彼は私に選ばせて、私は迷いなく膝をついた。意味を問うまでもなく、私は梏杜の計画の一部となることを選んだ。
そうして改めて引き合わされたのが、梓勑だった。つまり目の前にいる飄々とした男は、第七師団長たる梏杜と親しい縁者というだけでなく、自らも王族という高貴な立場にいたことになる。これまで何度も他愛のない会話を繰り返しながら、かたくなに身元を明かそうとしなかった男の正体が、まさかそんな貴人であろうとは思うはずもない。……あの梏杜の庇護を受けておいて、今さらと言われてしまえば何も言い返せないけれど。
私は梓勑を以前から知っていた。ただ、その頃の彼は、間違っても目の前にいるような品格のある人間では無かった。足の運び方、礼の角度、笑い方、声色、指先の繊細な仕草に至るまで、空恐ろしいほどに異なっている。
もともと、親しみやすい外面とは裏腹に、近づけば近づくほど底が知れず気味の悪い男だとは思っていた。自分の腹は明かさないまま相手の底を見透かそうとするような、それも気づかれないように巧妙に誘導したがるような、とにかく性質の悪い男なのだ。梓勑という者は。
彼の言葉は話半分に聞いていたものの、こうまでギャップがあると語られた内容は全て嘘であったのではないかと思えてくる。かろうじて同一人物だとわかるのは、蜂蜜のように甘やかな色彩や、梏杜との血縁を感じさせる切れ長の目元など、隠そうと思えば容易く隠せる特徴ばかり――そう、例えばフードでも被っていたのならば。
「正解。でも全然足りない」
梓勑は楽しげに指摘する。……足りない。なにが足りないのか。ヒントは与えず、まずは私がどこまで知っているのか、その情報からどこまで辿りつけるのか、試す気でいるらしい。そんなことをしなくても、私と彼は協力関係にあっても敵対関係にはなり得ないのに。
この国の人々は日常的にフルネームを口にしないけれど、まだ来たばかりの頃に、私は否応なく止められた王城で一通り貴人の名乗りを聞いている。当時は気にも留めなかったけれど、その中にエドゥアルドは、何人いただろうか。おそらく全員じゃない。彼女はなんと言っていただろうか。そう、たしか一度だけ、話題の端に登ったことがある。エドゥアルド。中央ではほんの数人、第七の中では梏杜ともう一人――これは梓勑のことだろう――だけが背負う名。
「エドゥアルドを名乗ることを許されるのは、王族の中でも限られた人間だけよね」
「具体的には王の直系血族から1親等以内――嫡流とその兄弟のみというのが原則かな、俺はこれに当てはまらないけど」
「私が名乗っていいものなの?」
「渡り人はあらゆる規則に守られない代わりに縛られもしない。梏杜と……まあ一応、俺が認めれば問題はないけど、知っておくべきことは色々あるだろうね。少し時間もあることだし座ってよ」
示された席に腰を下ろすと、椅子の背に梓勑の両手が添えられた。カツン、と彼の指先が金の装飾を叩く。正面の空いた椅子に座ればいいのに、わざわざ背後に回る必要があるのかしら。
胡乱な目で義兄を見上げれば、これでも重要機密だからと囁きながら微笑まれた。まるで仲睦まじい兄妹のような、空寒い演技に吐き気がする。嫌な顔をした私に、今度こそ梓勑は楽しげに笑ってみせた。なにが機密だ、病的な人嫌いの梏杜が手配した部屋で防音性が保証されていないはずがない。私の反応を見て遊んでいるにちがいない。相変わらずいい性格をしているとため息を吐いて、視線を手元に戻す。
「きみも知っての通り、俺と梏杜の父は兄弟だ。そして俺の母親は梏杜の従姉でもある」
「先代陛下と貴方のお父様が兄弟で――?」
「その姪が俺の母」
「ちょっと待って。たしか貴方、庶子って言っていたわよね」
絶句する。たしか梏杜は、先王の愛妾が生んだ年の離れた末子だという――純粋な血の繋がりを見れば、梏杜以上に高貴な生まれなのでは――。
「うん、まあ、第七師団の『梓勑』はそういうことになってる」
「他人事のような言い方をするのね……」
「残念ながら、梓勑は俺の一部であっても全てじゃないからね。俺が俺として君の前に出たときには、ちゃんと“梏杜の従弟”って名乗った気がするけど?」
「貴方自身も生まれは王子じゃないの」
「そういう見方もできるかな。継承権の有無が関係するから微妙なところだけど」
当人は涼しげな顔をして、私の狼狽する様を見下ろしているのが子憎たらしい。拾われた猫らしく頬に爪でも立ててやろうかしらと思ったけれど、ため息を吐いて一先ず溜飲を下げた。
「もう、そこはいいわ……貴方が表向き庶子として扱われているのは、近親婚のせい? あまり聞かないということは、禁忌でないにしろ一般的ではないのよね」
「ああそれは実のところ軍属志望して一度出奔してるせいってのが」
「貴方って、意外と馬鹿なの」
「はは、辛辣だなあ。いや一般的じゃないのは事実だよ。ただ俺の立場が特殊なのは、それも間違っちゃいないけど、もうすこし根が深くてさ」
わずかに目を細めた梓勑は、声のトーンを低める。
「わが国では、王族同士の近親婚における子供を、例外的に両親と同親等にみなすことがある。俺の場合は、先代がまだ在位のときに父に準じる形で“一親等以内”の条件を満たした。俺には腹違いの兄姉もいるけど、そういう理由で立場が違う――ああいいよ、挨拶しようとか考えなくて。ゴミ糞しかいない」
ゾッとするほど冷たい声で付け足しながら、梓勑は、表面上にこにこと機嫌よさげに笑っていた。貼り付けられた笑みに不自然な点は少しもない。こういうところがあるから、私は口が裂けても彼を良い人とは評せない。
「今後はフォル殿下とでもお呼びしましょうか」
皮肉たっぷりに声をかければ、梓勑はフッと笑みを消し、つい先ほどよりはいくらか素直な表情を作って目を丸めた。小器用な顔芸だこと。
「生憎、俺はエドゥアルド姓を名乗ることを認められてはいるけど、王位継承権を与えられてはいないから、そんな仰々しい呼ばれ方はされた記憶がない」
「単に貴方の身分を正しく認識している人間自体が限られているんじゃなくて?」
「さてね」
でも、これではっきりした。
城から逃げだす私に道順を囁き、梏杜のもとへと導いた男の正体が。
「ねえ、ルカ殿って、貴方のことでしょう」
――唇の動きを読むまでもなく答えはわかった。よくできましたと微笑する、あの人とそっくり同じ表情を見せられれば、嫌でも。
「あれもまた貴方であって貴方でない一部という気でしょう。いいわ、見つけたら文句の一つでも言ってやりたいと思っていただけだもの」
「厳密にはルカという人間は存在しないんだよ。エドゥアルドを名乗るものに蟻の神名は相応しくないとかで、改まった場に出席するために作られた仮の名前なんだ」
「いやに、名前にこだわるのね」
梏杜の振る舞いが許されていたことからして、王家と神官に密接な関わりがないことは明らかだけれど、生まれながらにして決まる神名にまったくの重みがないとは思えない。それを歪めることさえも厭わず、極一部の血統だけが飾ることを許された英雄の名――まるで特別な者とそうでない者を見分ける符号のようだ。
「本来、エドゥアルドという姓は、そのまま資格を表す。『王』となるに相応しい者かどうか、見定められる対象となるための資格だ」
「さっき継承権は無いって――」
「俺にはね。だから俺は特別なんだ」
ぽつりと落とされた声に、誇るような響きは微塵もなかった。
「為政者としての王位と『王』の資格は別で、長子相続を原則としてる王冠の話じゃないし、陛下とは無関係。一応、候補に数えられてはいるけど――最終的に、王の候補は一人を除いて全員死ななければならないから」
「死――!?」
不穏な台詞に私が腰を浮かせるより早く、梓勑の手が肩を押さえた。
「王が必要とされる非常時にはね」
「なぜ……?」
「生き残った一人が王となり、資格と共に全ての力を受け継ぐため。聞こえはいいけど、実情は蠱毒のようなものかな。程度の差はあれど、エドゥアルドの縁者は例外なく持ってるんだ。というより、意図的に分散させたというべきか……良いばかりのものじゃないからね」
「貴方が言う特別って」
「そうだよ、俺は数に入らない。最後の一人が定まるまで収束を見届け、時が来たら宣誓するのが役目。それまで死ぬことは許されないし、場合によってはこの手で」
その先は、言われずともわかった。――間引くのだろう。必要に応じて、相応しくないと判断された候補を。あるいは、候補ですらない、おそらく当人すらも自覚していないような末端の縁者でさえも。
くらりとした頭を押さえて、俯く。
「……そう、つまり梏杜は候補の一人なのね」
「安心していい。梏杜は死なない。必ず最後まで生き残る」
「貴方が選ぶから?」
梓勑は答えなかった。代わりにスルリと腕を滑らせて、両の肘掛けに手をついた。深い茶色の髪が私の肩、そして首元へと垂れてくる。悪魔の囁きと共に。
「王の資格を持たない『エドゥアルド』――俺の義妹になるってのがどういうことか、理解した?」
逃げ場は、ある。三方を塞がれても、まっすぐ前に――振り返らず走って、この部屋の扉を出てしまえば、私は永遠の自由を手にするのでしょう。彼はいつもそうだ。本気で捕らえるつもりなら容易く捕らえられるのに、わざと口を開けた檻を用意する。そして、戯れに逃げるフリをする私を笑いながら見送るのだ。
追ってはこない。彼も、梏杜も、私を引き止めることはない。
「ひとつ言っていいかしら」
「なあに? ミサトちゃん」
途端に馴れ馴れしく兄貴風を吹かせてきた梓勑の腕をはたき落として、距離を取らせる。そちらがそのつもりなら、こちらだって遠慮する道理はないでしょう。
生意気な小娘と下っ端隊員の仮面を被っていた頃のように、すべてがうまくいくとは思えないけれど、せめてこの関係くらいは変わらぬままで。……これ以上、どうしたって近づけやしないことなんて、わかりきっているもの。
年を重ねるごとに傷を負うことに臆病になるのだとしたら、彼から見える私の姿はどれほど脆弱なのだろう。どこまで強くなれば、同じものを同じように見つめられるだろうか。ようやく同じ場所に立てたのだから、私は彼らと共に歩みたい。最後まで、意地と虚勢を張り通してでも、同じ矜持を胸に抱きたい。
「わかってるでしょうけど、貴方、私より歳下なのよ」
「どうせここまできたら墓まで年齢詐称してくんだから、いいじゃん」
「あら、そうね、お義兄様。できれば二度と年齢の話はしないでちょうだい」
噴き出すように笑う梓勑の横顔に、私は本題の疑問をぶつけた。
「――本当に、梏杜は選ばれるべきなのかしら」
不意をついた問いに、いかに筋金入りの狂言師であろうとも尻尾を出すのではないかと、まったく期待していなかったと言えば嘘になる。
梏杜のカリスマ性も、能力も、十二分に理解しているけれど、彼はどうあっても闇の化身なのだ。いかに文化的に光色が忌避されるもので、闇色が尊ばれるものだといっても、私の感覚からすれば……贔屓目を抜きにして、私には梏杜が英雄にふさわしいとは思えなかった。民衆を導く希望、救国の士というには、梏杜の目線は高すぎる。まして今の梏杜は、現世に心を残してすらいないのに。
予想に反して梓勑は迷いなく――本当に一瞬の躊躇も動揺も見せないままに――単一的な声の調子でさらりと答えた。
「私が選ぶのは、彼以外ありえませんよ」
そのとき、完璧な仮面を前に、私は一つの真実を察せざるを得なかった。梓勑が墓まで持っていくであろう、いまだ名もなき罪の所在を……気づきながら、知らないふりをした。
そういうことなの? 珠光――あなたはああするしかなかった。彼女が生きた先の状況もまた、梏杜が許すはずがないのだ。あのプライドと独占欲が形を成したような不遜な男が、自らの所有物を勝手に扱われることを快く思うはずがない。国が珠光を利用しようとした時点で、梏杜は国を切り捨てる。そして同時に、国は梏杜を切り捨てたでしょう。だからこそ彼女は先に切り捨てた。望まぬ万が一の可能性を、自分自身の未来ごと。
でも、珠光は知らなかったはず。平民出で、重ねの光色持ちとして蔑まれつづけた彼女が、最高機密に触れられるほどの立場にいたはずがない。まして梏杜が珠光に不要な情報を知らせるとは思えない。あの二人は互いのことを熟知していた。珠光が本懐を遂げるためには、梏杜を出し抜く必要があっただろう。仮に梏杜の関心の一部が私に向いていたとしても、彼女一人では決して成しえない――それ以前におそらく思い立ちすらしなかったはずなのだから。
彼女に知らせた人間がいた。彼女が望むこと、望まないことを熟知して、情報を囁き、行動を裏から支えた人間がいた。結果、彼女を失うことになると知りながら、己が心を封じ、献身に徹する――そんなことが可能な人間は、私の知る限り一人しかいない。
「俺の話はここまで。もし王家の歴史が気になるなら地下の蔵書室にでも行けばいい。今の君なら止められないだろう」
「公用語の読み書きすらままならないのよ。古文書なんて読めないわ」
「君以前の渡り人が遺した手記だ」
勢いよく振り仰いだ私を、お優しい義兄の眼が射ぬく。
「建国の祖エドゥアルドの正体も、光色が蔑まれるようになった理由も、地龍との因縁や主従の楔の原点も、全部そこにある」
「教えていいの、私にそんなことを」
「影に葬り去られようとしている真実を、守る人間がいてもいいんじゃないかと思ってね」
彼と目を合わせるのは嫌いだった。見透かされている気分になるから。いいえ事実、見透かされているのでしょう。
欲しいでしょ、理由――妖しく煌めく琥珀色の瞳が雄弁に語るのは、私が封じ込めようとしている心。必要としてほしいと、肯定してほしいと、異国の地で存在しつづけるための理由を貪欲に求める、浅ましい姿。
だけど貴方だって、似たようなものじゃない。嘲るように口の端を吊り上げれば、底意地の悪い義兄の顔に張りつけられた緩い笑顔がピクリと震えた。彼が誰よりも羨んで、敬愛し、憎む徒兄と同じ色をした私の瞳の中には、きっと彼が覗かれたくないと思っているに違いない深淵の孤独と絶望とが映り込んでいるに違いない。
それでも見つめあうのは、他に目で追うべきものを持たないから。
……滑稽よね。私たち二人とも。
「やっぱり馬鹿よ、貴方」
「君に言われたくはないかな」
嘘を塗り重ねつづけてきた、喜劇とも悲劇ともつかない舞台の演者たちは、このときを境に共犯者になったのだろう。いつか、幕の降りる日まで。
まだ一部語られていないストーリーが残っていますが、ひとまず打ち切りとさせていただきます。
閲覧ありがとうございました。




