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聖女と蟻  作者: 本宮愁
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残影 -後-

「梏杜。かつて私が貴方の暴挙を許したのは、まだ始まっていなかったからです。有事たる今、貴方が陣頭に立つことは許されない。まだその時ではないと、おわかりでしょう」

「まわりくどい。正直に言ったらどうだ、あれの望みを汲んだ特例だったと――」



 梏杜の声に半ば被せるようにして、梓勑は吠えた。



「それだけで動けたらどれだけ幸せだったろうね」



 場の空気が、途端に張り詰める。とっさに浮かせかけた腰を、ぐっとこらえて椅子に戻した。違う――今の彼は、『梓勑』ではない。ならば、同じ血の流れない私に、制する権利はない。



「わからんな。だからお前は中途半端なんだ」

「ああ、わからないだろうさ。あんたはそれでいいかもしれないが、俺は違う」



 二つの立場の間で、梓勑は苦悩してきた。背にかかる重みを気にかけることもなく我が道を行く梏杜とは違い、特殊な出自に縛られた梓勑は網の目をくぐるような窮屈な生を強いられてきた。


 様々なものを諦め、切り捨て、それでも諦めきれなかったものだけを追うために、彼我を欺く。私は彼のそんなところが嫌いだった。私という個は本来、切り捨てられる側に含まれていることを知っていたから。この世界においての私は、誰にとっての特別にもなりえない。わかっている。だからこそ受け入れたのだ、偶像とも言える今の立場を。


 彼女にとっての特別になりえないことを理解して、もうひとつの役柄に徹することを受け入れた梓勑のように。



「俺は俺のあるべき立場を一瞬たりとも忘れたことはないよ」

「ほう。では貴様はその立場(・・)の元、俺を何者と心得る?」

「っ…………」



 声に詰まった梓勑に、梏杜が口の端を吊り上げる。獲物をなぶるような獰猛な目をして、薄い笑みを浮かべて言う。



「もういいだろう。答えを聞いておこうか梓勑――ルカ=エドゥアルド。お前は俺を選んだな?」



 苦い表情を浮かべた梓勑が、グッと言葉を飲み込む素振りをした。奥歯が軋む音が、私の耳にまで届いた。嫌な予感に身体が震える。やはりおかしい。今日の彼らは、なにかが、おかしい。



「そんなの……あんたが生まれた瞬間から、あんたが選ばれることは決まっていたようなものだ」

「だが選ばれていたわけではない」

「ああそうだよ、だから俺がいる」



 梓勑が諦めたように息を吐く。決定的な瞬間が近づいているような予感に、些細な所作からも目が離せない。なぜなら私は知っている。知ってしまっているのだ。仮面を被りつづけたペテン師が、一世一代の大芝居をやり通そうとしている、そのわけを。



「俺はね、梏杜。俺にとってのあんたが単なる従兄であった頃からずっと、選ばれるためにあんたが生まれたように、あんたを選ぶために俺が生みだされたようなものだって、信じてた。……いいんだね?」

「ああ」



 梏杜は静かに答えた。



 待って――永遠のような時をかけて、梓勑が膝を折る。身を屈め、頭を垂れ――私の心臓はドクンと脈打ち、呼気が絡んで喉が詰まる――いいえ私はまだ待てる。待てるのよ、お願いまだ――絞り出すような梓勑の声が梏杜の名を呼ぶ。



「ルイス=エドゥアルド第十八王子――」



 まだ。



「我らが『王』よ。大いなる天変の先、地獄の果てへと、我らをお導きください」



 絶望的な思いで、私は崩れ落ちた。目の前が真っ暗になる。なのに身体だけは、梓勑に――エドゥアルドの名を背負う義兄に教えられた通りの礼を尽くして固まっている。もう戻れない、決して戻れない。いいえ、もうとっくに戻れなかった。わかっていたはずでしょう、なにをいまさら恐れているの。


 あの日から、私たちが振り捨ててきたものは、梏杜の頭には微塵も浮かばないであろう選択ばかりだ。梏杜を生かすと決めた時点で、道は定まったも同然だった。皮肉なことにその道は、珠光の死によって切り開かれたものだ。梏杜が選ばれるために、その時より早く、彼女は死ななくてはならなかった。すべてはこの瞬間のために。けれど。


 呆然と床を見つめる私の頭上に、喉を鳴らすような梏杜の笑い声が響いた。



「地獄の果てとは、よく言ったものだ」



 衣ずれの音がして、梓勑が顔を上げたことに気づく。それでも私は動けないままだった。この先は教えられていない。おそらく梓勑の中にも、確固たるビジョンは無い。その他の選択肢を順に削ぎ落として、残された唯一の道へ、彼らは進む気でいる。早いか遅いかの違いではあるけれど、わかってはいたけれど、だってそれはつまり私を。


 私を、置いていくってことでしょう。



「屍の上にしか道が拓けぬのなら、致し方ありません」

「無数の屍の上に築くまやかしの勝利のために、お前たちは命をかけると? 身命を賭すという言葉でも生温い。その命、俺に預けたが最後、ただ滅ぶためにのみ存在することになるぞ」

「まやかしの勝利などと、貴方こそ心にもないことを」



 頭上で続いていた二人の応酬が止まる。



「――ならば、選者よ。人は腹の代わりに幾度、背を差し出せばよい」

「背と呼べるものが存在するかぎり、幾度でも」



 梓勑は即答した。その言葉は、あまりにも軽やかに響き、裏にどれほどの実感がこもっているのか、この場にいる私たち以外には想像もつかないことだろう。


 梓勑率いる第七師団は日々戦いに明け暮れていた。梏杜とその副官が指揮をとっていた頃のまま、他の追随を許さない圧倒的な武力を遺憾なく発揮しているように見えた。その戦果は概ね上々、全隊の惨状を思えば奇跡的とも言える。けれど以前の彼らの戦いを知る者にとっては、どことなく精彩を欠いているようにも思え――梏杜らの抜けた大きな穴を差し引いた上で――わざと犠牲を出しているのではないかとの嫌疑をかけられたこともあった。


 当初、声高に陰謀論を唱えた者は既に死んでいる。その主張は当たらずとも遠からず、薄く含み笑いを浮かべて戦死の報を受けた梓勑を私は何度も見ている。温厚な彼に初めて梏杜との血縁を実感し、身震いしたものだ。それもすべて、過ぎた日のこと。もう、終わる。



「殊勝なのは結構ですが、下々の犠牲など、貴方が気にかけることではない。我々はとうに覚悟しているのですよ」



 梓勑は承知しているのだ。知った上で放置していた――黙殺することで煽ってすらいた。直接手を下さなくとも、同じこと。彼がこの選択にたどり着くためには、数多の犠牲が必要だった。たったそれだけの言葉の裏に、どれほどの執念がこもっていることか。想像するに恐ろしい。


 梏杜は恐ろしい。神をも畏れぬ闇の御子には、常人の理屈が通じない、己の欲望にのみ基づく気まぐれで超人的な力を振るう、ある種の人間離れした恐ろしさがある。


 梓勑は、違う。梓勑の恐ろしさは、人間臭さの延長線上にある。彼は罪の在り処を、その重みを承知した上で、自ら大罪を犯すことのできる人間だ。結果として己の精神を破壊することになろうとも、躊躇なく選択する。自覚的に咎を背負い、己が潰されることを厭わない。



「貴方がおっしゃったのでしょう。龍を狩りたくはないか、と――」



 ようやく持ち上げた視線の先で、梏杜によく似た秀麗な顔をして笑んだ梓勑は、まるで無上の幸せを語るような口ぶりで言った。



「抗うためにすら数多の死を積む必要があるというのに。まして狩るというのならば、我々は煉獄に堕ちて尚も赦されはしないでしょうね」

「理解した上で尚、俺に従うと」

「ええ、だからこそ」



 薄明に巣食う悪魔、という言葉が脳裏をよぎる。


 梏杜の影。裏に隠れた存在というだけではなくて、梓勑はどこまでも梏杜の影だった。私は嫌というほど思い知っている。彼らの本質は同じなのだ。特別なもの以外は歯牙にも掛けない。ぐるぐると思考が回る。ぐちゃぐちゃになった感情を絡め取りながら、とめどなく回る。回る。回る。



「それでも貴方を選ぶと、貴方についていくと、定めた心は生半可なものではありません。私も、……彼らも」



 ええ、そうね。梏杜はわかっていない。出口のない現実にもがく塵芥の命にとって、梏杜の見つめる世界が、その背中が、どんなに美しく崇高なものとして映るのか。梏杜は想像もしないでしょう。その他大勢に過ぎない虫けらの目線なんて。


 だけど梓勑、貴方もよ。



「貴方が広げる地獄絵図なら、我々はその一部となる覚悟を持っている。貴方に従い、貴方のために死すならば本望。――ただし彼女だけは」



 言葉を切った梓勑の瞳が、私を捉える。甘い甘いハチミツのような琥珀色の宝珠は、その中にしっかりと私を捕まえてから、ふたたび闇を映して瞬いた。


 梓勑、貴方もわかっていない。



「死す意味も理由もない彼女だけは、なんとか生かしたい。もとより貴方もそのつもりで私につけたのでしょう」



 殺してくれていいのよ、とは言えなかった。彼らが私に望む役割は生存者だとわかっていた。エドゥアルドの血を継ぐ者が絶えて尚も、その名を絶やさない保険――梏杜にとってはどうでもいいことだろう。私を拾ったことにも深い意味はなく、生死にも興味がないに違いない。


 決めたのは梓勑だ。彼女が私に情を残したから。それだけのために、梓勑にとって、私は野垂れ死なせてはならないものになった。私が、彼らとともに生きたいと望んだから。気まぐれに梏杜が認めたから。たったそれだけの理由なのだと、わかっている。


 結局のところ、彼らにとって私は部外者だ。彼らとともに死ぬことはできない。望ませてくれない。けれど私一人生き残ったとして、どうしろというの。生きる意味も理由もないのよ、私には。貴方たちと走ることをやめたなら。私には貴方たちと同じ、抜け殻の生が残るのよ。無謀な目的すらもなく、なお悪い、虚無的な生に取り残されるの。


 言えない。嘘つきな口を引き結んで、気まずさを装った表情を伏せるのが、せめてもの抵抗だった。心までも欺いてしまえたら、楽になれるのかもしれない。楽になりたいと思うことすらも罪深く感じるのだから、きっと無理ね。



「ああ」



 短く肯定する梏杜の声が、私にとっては死刑宣告よりも残酷な重みを伴って落ちてくる。この身を射抜く宵闇の熱に灼かれ、暁を待たず灰になって消えてしまいたいと思った。



「良いな、ワタリ」

「頼むよ、ミサトちゃん」



 俺たちの代わりに。

 暗黙的に響く言葉の裏を、肯定することも否定することもできずに、私はただ微笑する。


 私はいつまで聖女であれば許されるのだろう。死ぬまでというのなら、いつまで生きれば自ら終わりを望むことができるというのか。そんな日はきっと、来ない。私を生かした人たちの想いが、私が看取ってきた数々の死が、呪いのように私の命を縛るから。私は生き続けるのだ。私を望む人が一人残らず息絶えるまで、孤独に生き続ける他ないのだ。


 帰還する望みはとうに絶えている。奇跡的に帰る術が見つかったとしても、私の内面はすっかり書き換わってしまっている。この世界の文化に染まり、この世界の生と死を愛してしまった私は、故郷に馴染むことなど到底できない。けれど私の愛した世界は、人は、みな死にゆこうとしている。孤独に生き続けることが私にとって今以上の生き地獄だと知りながら、彼らは私に生を強制する。


 だから、私は。



「……覚悟だけは、しておくわ」



 そう言って、浮かべつづけるのだ。

 彼女に鍛え上げられた、曲芸師の笑みを。

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