残影 -前-
※時間軸逆行します
「術ならば有る」
無いはずがない、と梏杜は断じた。宵闇の静謐を閉じこめた玉が、私ともう一人、『天の岩戸』の奥に入ることを許された人間の立ち姿を映して煌めく。いつになっても慣れない、向きあう相手にひどく緊張を強いる眼差しだ。己が意志を阻むもの、仇なすものを決して許さない――それが例え神に等しき獣であっても――まさしく覇気と呼ぶべき圧倒的な存在感を放つ王弟は、硬質な無表情を崩さぬまま器用に口元を歪めて言った。
「そも、地龍というものは、この地に眠る龍だ。眠りから目覚めている期間こそが異常とも言える」
詭弁だ、と吐き捨てるように答えたのは私ではない。もう一人――第五師団の隊服を肩にかけ、まさしく正面の先代から引き継いだ階級章を胸に飾る、私の上官だ。いつしか階級章に触れるほどの長さまで伸びた髪の色は、故郷の琥珀や蜂蜜を想起させるような、とろみのある深い茶。同色の瞳に常に甘やかな笑みを絶やさない彼の印象は『柔和』に尽きるのだけれど、その実こうした瞬間にふつと表情を消した顔立ちは『冷徹』と評される梏杜によく似ていた。
「あれは不定期に目覚めと眠りを繰り返してきたものだ。どちらが常態かなんて俺たちの預かり知ることじゃない」
コントロールされ尽くされた発声だった。余計な力の入らない自然な語り。重くなりすぎず、軽くなりすぎず、固すぎても柔らかすぎてもいけない、絶妙な力加減。緊張感を孕んだまま、されど飽くまでも穏やかに語る声は、人々を熱狂に駆り立てる梏杜のそれとは対照的に、聴く者の精神を宥めるように寄り添う。それとなく、さりげなく、したたかに酔わせて操る。どちらが教師かは知らないが、珠光の十八番の話法をこれ見よがしに使う上官は、どうやら虫の居所が悪いらしい。わざわざ梏杜の精神を逆撫でするようなことをして、困った人。
「――我々が直面している現実の厳しさは、貴方もご存知のはずでしょう」
思い出したように表面だけを取り繕う敬語はいつものこと。その気になれば完全な猫を被ることもできるのに、わざと当てこするように丁重な物言いをするのだから、私の上官は性格が悪い。腹が黒いとか、意地が悪いとか、そういう次元ではなく、性根からして捻じ曲がっている。一見した人当たりこそ柔らかいものの、詐欺レベルに著しく内面が伴っていない。誰に対しても当たりが強く、直情径行な梏杜とは、あらゆる面で対照的だ。
通名を梓勑という青年将校は、国中の希望を一身に背負う王弟・梏杜に対し、忌憚なく物を言える希少な存在だった。何を隠そう彼自身もまた王家に連なる――それどころか梏杜とは複雑な血縁関係にある――要人であったことを私が知ったのは、国土の八割が混沌と恐怖に支配され、王侯貴族という肩書きが半ば意味をなさなくなった後のことだけれど。かの血族のうち、いまや何人が命を繋いでいるか。
宵の口の瞳を有する梏杜が闇の御子と称される一方、皮肉なことに他の誰よりも梏杜に近しい資質を備えた梓勑は、故に食らわれ、その真価を正しく計られていない、薄明のように掴み所のない存在だった。まさしく梏杜という存在が生んだ影――あるいは梏杜の手中の花を光源として生み落とされた影――というのが、私の持つ梓勑という男の印象であり、また広くは知られていない本質なのだろう。
壁際の書棚にもたれる梏杜の影は、ランプの灯りに照らしだされ、最奥に置かれた黒石の机の側で踊っている。今は名義上、梓勑のものとなった執務机だけれど、団長就任後も梓勑にはこの部屋を使おうとする様子がない。室内に声を届けられる人間が限られすぎているという、非常時の情報共有には致命的な欠点を抱えているためだ。梏杜ですらも、こうした密談の場として以外は利用しなくなっていた。
うすらと埃の積もった執務机の上には、意味をなくした書類の山が、それを置いた几帳面な副官の仕事を留めたまま時に置き去りにされていた。
梏杜は、机上のものには一切触れず、触れさせない。梓勑もまたそれに倣うように奥の一帯には近づかず、今日も議論が白熱する前まで私たちは揃って応接セットに身体を預けていた。ローテーブル一面に雑多に広げられた報告書や地勢図の下には、私の運んだティーカップが三客、ほとんど手つかずのまま埋もれていることだろう。
皮肉なことのようだけれど、各種資源が底をつきつつある今も、嗜好品は有り余っている。市井に出回る嗜好品の多くは非常食を兼ねていたことを知った。彼らのいう「平和ボケした」時代にあってさえも、この国は文化レベルで厄災に備えつづけていた。いつか来る終わりを、誰もが口に出さずとも悟り、こうして耐え忍ぶ日々を覚悟していた――そんなことに気づいて、なんともいえない感慨を覚えた。
水源は枯れ、土地は痩せ、他国の援助など期待できようはずもない。我々が生きるのはそういう国なのです、と苦笑する麗人の姿が目に浮かぶようだった。諸外国から隔絶された陸の孤島は、その地に眠れる脅威が目覚めた途端、沈みゆく泥舟と化す。そこに差し伸べられる救助の手は、無い。ここはそういう世界なのだ。彼らはそういう民なのだ。いずれ来る終末を逃れえぬ宿命として、なおも生きようと足掻く、その生を文化としている、民なのだ。
「そうだ、常態など人は知らぬ。しかし、あれがいつか眠るものであることは疑いもしない。目覚めの終わりを肌を知るわけでもないというのに」
沈黙を破った梏杜の指先が、傍に立て掛けられた愛剣の柄を撫でる。
「――あれは眠る。次も必ず」
短い一言に、ぞくりとするような重みを感じた。
このペースで食い扶持が減り続ければ、全滅を免れた先で民が飢えることはないだろう。そういう試算は出ている。相応の苦労はあるだろうが、枯れた大地が再び命を育むまでの間、耐え忍ぶことは十分にできるはずだった。……そう、全滅を免れさえすれば、道はあるのだ。私たちの勝利条件は、生き残ること。龍を廃することではなく。ただ、生き延びるだけでいい。
けれど彼は、それでは納得しない。
形だけは梓勑に向けられた梏杜の瞳は、しかし私や梓勑のことなど眼中に入れていなかった。宵闇の瞳がわずかに色を変えて漆黒に落ちる、この瞬間の温度差は、幾度体験しても慣れることがない。
神をも畏れぬ男――祖国諸共すべてを破壊し尽くすことに何のためらいも持たぬ者。
「なあ、梓勑」
梏杜の薄い唇から紡がれる言葉は、今も昔も麻薬のようだ。私に向けられた語りではないというのに、一言一句が形を成すたびに頭の芯がグォングォンと揺すられる。
地龍は約束された勝者である。それが疑いようもない事実である一方、見方を変えれば全体としての人間の勝利もまた約束されていた。あらかた食い尽くされた後の話ではあるけれど。多大な犠牲を払い、地龍の気まぐれによってのみ齎される終幕を、仮にも勝利だと定義するならば、この地において人間は勝者で在り続けてきた。
「俺たちの血は、その証明に他ならない」
建国からの永い歳月、今尚死に絶えることなく脈々と血を継いできた英雄の末裔の存在こそ、数々の誇ることを許されぬ勝利の証に違いない――梏杜はそう言いたいのだ。多くを語らずとも、これまでの彼の生き様、人柄を思えば、その本心は容易く知れた。
折に触れて、思う。私たちは勝てるだろうか。弱者らしく、負けない戦いをすればよいところを、誇りに拘泥するあまり、道を踏み外そうとしているのではないか。私は、思う。より正しい選択はおそらくあった、けれど私たちは選ばなかった。そのことに後悔は無い。ただ今日に至るまでに辿った過程を、思わずにはいられない。
梓勑は答えない。黙したまま、じっと梏杜の言葉にじっと耳を傾けている。二人の視線の交点で散り落ちる火花が見えるかのようだった。
「英雄の名にかけて、此度こそ永劫の眠りに沈めてくれよう」
梏杜は憤っていた。闇色に燃え盛る至高の玉は、お目こぼしの勝利など認めはしないと、雄弁に物語っていた。まるで稀有壮大な演説を聞かされているかのような錯覚を起こす。
正常な思考よ、戻ってこい。この熱はいけない。梏杜の熱は魂を燃やし尽くす。彼を取り巻く全てを塵に還して、なお燃え盛る。闇の底に息づく炎は、喪うことを恐れない。どんな代償も躊躇わない。他の選択肢を焼き尽くしてでも、破滅の道を行かんとする。だからだめだ。だめなのだ。彼を一人で行かせては。彼を無為に逝かせては。
英雄には相応しい舞台と散りざまがある。そこには微かな希望の芽が欠かせない。私は、私たちは、新たな英雄譚を刻むためにここにいる。いまだ生きている。彼女亡き世界で。――たとえ、梏杜自身が望まずとも。
「……だけど、梏杜」
異様な圧力を感じながら、声を上げる。ここで口を挟めなければ、私に価値はない。自分自身を追い込んで鼓舞する。私に生きる術を教えてくれた恩人ほど、もう一人の恩人は優しくない。食らいつかなければ切り捨てられる。私を切り捨てて、そのまま修羅の道を行ってしまうだろう。
「貴方も同意していたじゃない。人は地龍を利用できないって」
「利用はな。たしかに目覚めていたところで災厄にしかならぬだろう。だが、人の手でしずめることができぬと、誰が決めた」
「いいえそれは――」
「ああ、事実いたね」
不遜に笑う梏杜に、ピクリと眉を動かした梓勑は、私を制するように前に出ながら、終始穏やかな口調を崩さずに答えた。
「たった一人だけ、龍の声を聞き、龍の腹を満たす代償に力を借りる――そんな交渉ができた稀有な存在が誰だったか、言わずとも知れるだろうけど」
穏やかに、毒を吐く。常といえば常だけれど、梏杜を相手に彼が常を見せたことに驚いた。梓勑とはそれなりに付き合いがあるけれど、私の前で彼が苛立ちもあらわに梏杜を批判することなんて一度もなかったのに。
梓勑には、自ら望んで梏杜の影に徹しているような節があった。彼の擬態の巧妙なところは、凡庸を装うのではなく、頭抜けはしないほど適当に優れた者を装う点だ。現在の立場上、かつてひた隠していた爪の多くは晒け出さざるを得なくなったようではあったけれど、それでも全てを見せてはいない。見せることはないだろうとも、思う。
梏杜を睨めつけた梓勑は、小さく鼻で笑った。
「他でもない貴方の存在が故に、彼女が切り捨てた選択肢を、いまさら拾い上げようとでも?」
「地龍を鎮めることができたのは、なるほどあれだけだろう。だが沈めることならば――改めて地の底へ落とすことならば」
「貴方にもできると? いや、できた、ですか」
曲がりなりにも貴方は既に実行していましたね、と呆れた口調で付け足した梓勑は、深々と息を吐いて呼吸を整える。伏せた瞼の下で、彼もまた忘れもしないあの日を思い出しているのだろう。
「無理だとは言わない……貴方には資格がある……だが早すぎる」
ひとりごとのように呟かれた梓勑の言葉に、唾を飲む。
「遅かれ早かれ同じことだろう」
「自ら手にかけるおつもりですか」
「ならばお前が殺すか?」
「――ッ梏杜!」
たまらず声を上げた私を、不気味なほどに凪いだ黒珠が映す。
「……っ」
たったそれだけで、気圧された。なにも言えない。言う資格などない。そんな選択を彼女は望まない? 私にわかっていることが、梏杜にわからないはずがないのに?
わかりきっていた、ことじゃない。梏杜には、龍を廃した先の未来に生きる気がないのだから、手段なんて選ぶはずがない。そもそも梏杜はそういう人間だ。多くの民に慕われる賢王よりも、骸の上に君臨する覇王の方がよほど似合う――もしもこの世界が何の脅威もない平和な世界だったとしたら、幼少のうちに殺されていたとしてもおかしくないような危険因子なのだから。
「ワタリにあたっても状況は変わらない。可愛い義妹を脅かさないでくれるかな」
「心にもないことを」
「陛下が貴方を城に繋ぎたがった気持ちが察せられますね」
師団長の座を譲って以来、半ば軟禁状態におかれている梏杜を皮肉った梓勑は、淡々とした口調で続ける。
「お望みとあらば殺しましょう。百人でも千人でも。龍を狩ることに比べれば非常にたやすい。だがそれだけではまだ足りない」
「術はあると言ったはずだが。大方察しているからこそ、俺に賭けたのだろう」
「……あえて内容は訊きませんが、賭けの勝率はギリギリまで上げるに越したことはない。いずれ眠るというのなら、それまで待つべきだ――違いますか?」
「それまで? 持つと思うのか」
地龍の食事は続いている。本体が動かない日であっても、その影や魔獣は絶え間なく狩りをしている。決して満たされることのない業を背負う獣だからこそ、目覚めている間、行動範囲内のあらゆる生を際限なく貪り続けるのだという。一日待つということは、一日分の犠牲者を見殺すということに等しい。