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聖女と蟻  作者: 本宮愁
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秘儀

 首を落としてくれないかな、と静かな声で彼が告げた時、私はとうとう裁きの時が訪れたのだという安堵を抱き、そして同時に、神ならぬ身で裁きを下すことを求められる己が罪深さに慄いた。


 私を聖女と呼ばないで。


 私は女神なんかじゃない。


 私は聖人なんかじゃない。


 だって私は、


 よりにもよって、


 嗚呼。


 誰よりも私を理解する


 私の真実を唯一知ると言ってもいい


 貴方が。


 貴方が私に神の裁きを求めるの。


 私に宣告させようというの、


 神は死んだと


 貴方の神は死んだと


 私にとってさえも神々しく映った一対の戦神は


 その死をもって邪の化身を地に鎮めたとでも?


 貴方は見届けたのでしょう、


 私には立ち入ることの許されぬその場所で


 終わりを


 全てを


 見届けたのでしょう。


 あるいは


 その手で


 己が信ずる神にも等しき者を


 討ったのでしょう。


 胸の奥に去来した感情の嵐を、私は持て余し、けれど食いしばった硬い歯列の外側には決して漏らしたりしなかった。残された私たちは生きなければならない。醜く無様に地を這ってでも、遠く天の果てで、あるいは地の底で、再会を果たしているに違いない主従への追慕を抱えながら、この荒廃した終末の世を、死した大地を、……生きなければならない。


 ワタリ、と私を呼ぶ、厳しくも優しい声を覚えている。

 無言で私を手招く、仄暗い熱を宿した瞳を覚えている。


 ……覚えている。


 それが私たちの背負うべき業だ。わかっている。わかっているから。だから一人にしないで。私を一人きりの孤独な生者(聖者)にしないで。貴方の()にはなれないけれど、せめてどうか共に地を這って。フォルミーカ。ルカ=エドゥアルド。資格なくして最後の一人になってしまった哀れな英雄ひと――死を願う心は痛いほどにわかるのに、私は彼の生を狩る死神にはなれない。



「……私には無理よ」



 心にもない弱音を吐きながら、震える私の本心に、きっと彼は気づいていた。



「梏杜の剣がある。重さに任せれば、そんなに難しいことじゃないよ……あとはきみだけだから。きみが、きみの意思で俺を終わらせてくれるなら」

「甘えないで!」



 反射的に振り上げた手は、仮にも武人であるはずの彼の頬を容易く捉えた。過去、幾度となく止められた手が、調子良くからかう声に抗議する度、ゆるく笑んだまま、ときに視線さえ向けられずに捕まえられた手が、今は止められない。もはや彼の中では生きる気力も憤る気力も絶えているのだ。


 わかって、いるくせに。


 意地の悪いひと。意地の悪いお義兄様。飄々とした態度で人を食い、底を見透かしながら道化を演じる。馬鹿みたい。鏡を見ているようだった。滑稽な振る舞いも、隠しきれない爪も、認めて欲しいと願う相手に見向きもされないことも。どうか私を見てと心で泣く、みっともない姿すらも、なにもかもが私と似通いすぎていた。


 ひとりで楽になるなんて許さない。

 私をひとりにするなんて許さない。


 醜い言葉は何ひとつ漏らさずに、私はただ歯をくいしばる。意味がなくても、見てくれだけでも、せめて綺麗にいたいじゃない。きっと彼は私の内に眠る汚泥に気づいても、なぜそうまでして私が綺麗でいたいのか理解できないだろう。だって彼は目的のためなら――彼を彼たらしめる信条のためなら――いくらでも汚泥を被れる人だ。取り繕うために猫を被る私とは本質が違っていた。



「殺さないわ。死なせない……」

「そう」



 短く淡白に答えた彼は、もはや私を見てなどいなかった。……なんて、今更かしら。彼が私を見ていたのは、たまたま彼の目が追う人の側に私がいたからにすぎないとわかっている。


 ぼんやりとした目で、彼は左腕を眺めている。当人曰く“一番得意で一番嫌い”だという弓を引いていた腕は、神経が絶たれたのか、乾いた血に染まった土の上に、いささか不自然な形で投げ出されていた。動かせないのだろう、と直ぐに理解したけれど、付け焼き刃の手当ては徒労に終わることが予想できたし、なにより恐らく彼自身が望まない。


 人気の無い修練場で、無機質な標的を黙々と射抜いていた姿を思い出す。いつになく死んだ目をして、造作もなく次々と放たれる矢は、過たず標的と私の胸を穿った。振り向いた顔は、いつもの緩い微笑を貼りつけてはいたけれど、以来、鍍金のように彼を覆う安っぽい輝きが目映さを増すほど、強引に塗り潰された影の濃さが思い起こされて仕方なくなった。


 小器用な性質なのか、彼は合同訓練では見かけるたびに違う武器を扱っていた。しかし他の隊員がいる場所では、決して弓だけは握らないことに気づいた。その理由を、私は長く知らず、問うこともなかった。彼の目が追い続けた光が絶え、彼らが背負い続けた“エドゥアルド”という名の重さを身をもって知るときまで。


 もう一人の“兄”――梏杜が遺した剣を掴み上げ、胸に抱える。ひどく、重い。両腕で握っても私に振り回すことはできないだろう、ずっしりとした重量感のある塊を、梏杜は片腕で軽々と扱っていた。あの方が規格外なんですよ、と呆れたように、しかしどこか誇らしげにも見える顔で語っていた麗人を思い出す。


 この重みは、呪いだ。彼らを縛り続けた呪いの重みだ。『天の岩戸』と同じ素材――龍殻石で鍛えられたという黒剣は、梏杜以外の誰にも扱うことができないものらしい。


 この剣は、偏屈な王弟が肌身離さず側に置く数少ないものの一つだった。黒革の手袋と漆黒の剣、そして秀麗な副官。あの空恐ろしいほどに美しい男が自らの所有物として認めていたのは、そのくらいだろう。主を失くした剣がここにあるということが、無謀ともいえる戦いの結末を物語っているかのようだった。


 きっと、梏杜は早く死ぬべきだったのだ。もっと早くに、もっと無様に。そうさせたくないがために、あるいは、そうさせたくないと望むであろう人のために、定めを歪めたであろう大罪人は、私の目の前で空を見つめている。


 皮肉ね。こんな結末になるなんてわかっていたのなら、……わかっていたとしても、貴方は同じ選択をしたの、するしかないのね。可哀想なお義兄様。可哀想な私。右腕を頼りに身体を起こす彼を、私は静かに待っていた。大丈夫、彼に選択肢はないのだから。こんなにしっかりと黒剣を胸に抱いていなくても、私が彼を殺さないかぎり、彼は死なない。死ねない。死ぬ機会を失ってしまった。それとも私は、心のどこかで彼を殺してあげたいと、解放してあげたいと、願っているのだろうか。



「ごめんね」



 泣きそうな顔を隠して笑う、酷い人。

 貴方が考えていることなんて、私、手に取るようにわかるのよ。


 これから貴方は私のためだけに生きて、私に縛られるけれど、それは私の鎖じゃない。

 ――あの美しい人たちが、遺した鎖だ。


 その鎖が形を成したなら、さぞかし美しいのでしょう。私たちの心はこんなにも醜いのに。私たちの想いはこんなにも捩れて、黒々とくすんでしまっているのに。


 わかっている。すべてわかっているから。

 だから気にしなくていい。なにも口にしなくていい。

 私も貴方もお互い様。エゴをぶつけ合った結果がこれだもの。



「……ごめん」



 重ねられる謝罪の理由を問うこともなく、聞き分けがよく聡明な聖女を気取って、黒剣を抱いたまま微笑んだ。そうね、貴方の望みを叶えられるのは、もう私しかいないのでしょうけれど――。



「馬鹿ね。私に生死をゆだねて、あなたの望みが叶うわけないじゃない」



 ごめんなさい。

 解放してあげられなくて。

 諦めてあげられなくて。

 ごめんなさい。


 貴方が理由を語らないなら、私は全てを黙秘する。


 私が黒剣から手を離すと、主を喪った武器は、自重で土に突き刺さった。まるで墓標のような柄に、胸中から取り出した小ぶりな花輪をひとつかけ、もうひとつを彼に差し出す。


 この枯れた大地で咲き誇りつづけた、唯一の花。かつては彼もよく知っていた真白い花を、そっと首にかける。



「ほんとうに、馬鹿……」



 用意してきた花輪は二つ。別れの覚悟は決めてきた。


 なのに、謝ったりするから。声が震える。怒りなのか悲しみなのか、あるいは絶望か、哀れみか、それともまさか歓喜なのだとしたら、私の人らしい心は鬼にでも食い散らされたのだろう。それもしかたない。只人でいさせてくれないのなら、鬼女とでも聖女とでも好きに呼べばいい。いずれにしろ芸達者なだけの私に人々を苦難から救い導く力などありはしなかった。私は彼らとは違う。特別な存在には決してなれない。


 そっと、彼の首に指をまわす。たいした力も込められなかった。形だけ添えた指の爪が、ほんのわずかに肌へ食い込む。激情に任せて切り落とそうというには、あまりに拙い刃だった。彼にも私の決意は伝わっているだろう。


 これで、首を落とせば、葬送は終わる。

 けれど私はそうしない。



「『梓勑』は死んだ。それでもいい。抜け殻でも欲しがったのは私なんだから、あなたが謝ることじゃないわ」



 ここで、貴方の心が死んだとしても、私は貴方を生かすと決めたの。


 ひとり、ふたりと、私ではない誰かにとって親しい人を、亡くすたびに花輪をかけて、首を落として火に焼べた。土に埋めれば眠れる龍に喰らわれ糧となる。されども空腹は龍を目覚めさせる。ゆえに身体は地に捧げられ、頭部だけは煙に託して天に捧げた。


 誰からともなく教えられた古い慣習を、誰よりも縁遠い私だけが守り続けていられたのは、失うことに現実感を抱けなかったからだろう。私にとってこの土地は、あまりに、遠い。


 誰よりも信頼していた恩人を失くしたことで一層広がった、埋まりようのない距離感が、私を聖女たらしめたのだとしたら、……あまりにも皮肉ね。だけど紛い物の希望でも、無いよりはずっと良い。先には同じ絶望しか待っていないのだとしても、抗わんとする姿の美しさを教えてくれた人がいた。去り際までも美しく、凛と立ちつづけた光の化身のような人。目を焼くほどに眩しい光花は、やはり宵闇の中でこそ真価を発揮するのでしょう。他の者には決して、立ち入れない。私にも、そして彼にも。



「可哀想な蟻の遺児(フォルミーカ)。それでも私にはあなたしかいないのよ。自殺するなら私を殺してからにして」



 できるわけがないことを知りながら、両腕を広げて無防備に急所を晒す。もしも貴方に殺されるのなら、それでもいい。貴方に選べるものなら、私は喜んで終わりを受け容れる。……だけど、できないのでしょう。


 凍りついたように固まった彼の頭を、包みこむように胸元に抱く。無抵抗に身を委ねる彼は、受け入れがたい唯一の選択肢を必死に飲み下そうとしている最中なのだろう。吐き戻してしまえば楽になれるのに、飲み込めてしまうばかりに苦しんで、不器用な人。


 貴方は、生きなければならないのよ。

 これから私と時を重ねるの。絶望の時を共に生きるの。

 それが私たちに課せられた罰。選ぶ者の行く末。


 貴方に私は殺せない。私が死ぬことを彼女は望まない。貴方が死ぬことを、私は望んであげない。それが貴方の望みだとしても、聞いてあげない。


 気が遠くなるほどの時間をかけて持ち上げられた彼の右腕が、獲物を絞め殺さんとする大蛇のように緩慢に私の腰に巻きつき、やがて痩せた身体に残された肉に指を食い込ませる。



「勝手な奴ばかりだ」

「あなたもね」



 されるがままに身を任せながら、私はクツリと嗤った。伝い落ちる涙には気づかないフリをして。


 私に貴方は救えないけれど、同じ罪を背負うことならばできるわ。潰れてしまいたいと願う貴方を、ぎりぎりのところで引き留めて、苦しませるだけと知りながら、生きることを強制する私は酷い女でしょう。憎んでくれても構わない。私の罪は貴方だけが知っていればいい。貴方の罪を私だけが知っているように。


 きっと心の奥底では、いっそこのまま私を絞め殺せたならと願っているに違いない男は、それでも決して私の生命を脅かすことはなく、生涯、私の側に添うつもりだろう。どちらかの命が尽きる遠くない未来まで、在りし日の光に拒まれつづけた頃のように、影に身をやつして生きるのだ。


 目に浮かぶ将来像は内実に見合わず小綺麗で、なんだか可笑しかった。私たちはこんなにも可哀想なのに、きっと後世には、悲劇的な美談として、あるいは美しい恋物語として、記し残されるのよ。演じ欺いてばかりいる、滑稽な役者わたしたちには似合いの末路かしら。


 借り物のような人生でも、ひとたび幕を開けたなら途中で舞台を降りることはできない。わがままに役を変えることも許されない。わかっている。選んだのは私だ。そう、私たちは選んだのだから、それが半ば強制された選択であろうとも、責任を持って演じつづけなければならない。覚悟なら決めてきた。数多の死を看取り生き抜く覚悟を――だけどこのまま、どうかこの一時だけは。


 絶望の片隅で、抱きあったまま泣き笑いを漏らす時間が、このまま止まればいいと思った。

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