喪失センチメンタル
とある企画で「喪失センチメンタル」というタイトルだけいただいて、そこからインスピレーションを受けて2015年に執筆したものです。
そちらを、このたび加筆修正し、再アップ致しました。
「海辺の灯台って、悲しいわよね」
窓から海を眺めつつ、キャンバスに筆を走らせている先輩がそう言った。
道路を一つ挟んで建つ高校の美術室からは、砂浜に打ち付ける白波がよく見えた。窓に入り込む風には、潮の匂いを感じない日はない。
先輩は、美術室の後ろの方で窓を全開にし、イーゼルにキャンバスを乗せて油絵を描くのがお気に入りだった。潮風を受けてなびく薄い色の長い髪が、彼女を幻想的な物語の主人公へと仕立てる。
一方、僕はいつも先輩の三歩後ろで椅子にもたれかかって、彼女の背中を眺めているのが好きだった。
先輩は美術部員であり、それは僕も同じなのだが――僕は絵を描かない。というよりも、描きたくても描けない。つい最近まではたくさん描いていた気もするのだが、いつの間にか何を描いていいのか分からなくなってしまったのだ。
今の僕にとっては、先輩の描く姿をこうして見ているのが唯一の部活動なのである。
ぼーっと考え事をしてしまったが、僕は先の彼女の発言を思い出して反応した。
「海辺の灯台が悲しい……ですか。僕にはその気持ちは分かりませんね。実際、海外じゃ日本とは違って、灯台っていうと安心できるイメージらしいですよ?」
僕がそう言うと、先輩はキャンバスに向き合ったまま喋った。
「そう、そうね。けれど、やっぱり私には、あの姿が悲しく見えて仕方ないの」
風が止み、先輩の髪がふわりと彼女の背中に落ち着いた。
灯台の姿が悲しい。これはよく、日本人特有の考え方だという。
海外では、灯台はかつて漁師たちが帰るための目印となったため、それを見るとほっとするなんて話をよく聞く。しかし日本では、暗くて荒れた海の中、ぽつりと建つ孤独な姿を思い浮かべてしまい、寂しいと思う人が多いのだという。ようは、感情移入する場所が違うのだ。日本は、八百万の神の思想が根付くように、昔から物に対して感情移入する人が多かったのだろう。
と、すると、先輩も灯台に対して感情移入しているということなのだろうか。
僕は先輩を見た。凛々しくて綺麗な先輩。それこそ、絵画から飛び出してきたといっても過言ではないくらいだ。雪解けの湖面を彷彿とさせるような瞳は、美しいがどこか冷たさが感じられる。実際、僕と話している限り、彼女は素っ気ない態度を取ることが多い。そのためか、彼女が他の誰かと会話しているところは、一度も見たことがなかった。
その先輩が灯台なんかに感情移入する理由は、わからない。孤独な灯台を自分の姿に投影したのだろうか。どうやら僕には、彼女の知らない一面がまだまだあるようだ。
「それはそうと、あなたは絵を描かないの?」
またそれか、と僕は思った。先輩はいつも訊いてくる。僕が描かないと知ってもなお、毎日だ。
「毎日同じこと質問して、飽きないですか?」
「ええ。だって、そのときのあなたの顔とっても酷くて楽しいから」
先輩は筆を持つ手を口に当てて、クスクスと笑った。
他人の嫌な顔を見て楽しむとは、先輩も趣味が悪い。でも、先輩が楽しいのなら、不思議と悪い気はしなかった。僕は先輩に仕返しをするように問う。
「そういう先輩は、毎日同じ絵を描いていて飽きませんか?」
「私が絵を描くのを飽きるなんてあり得ないわ。それに、完成しないのだもの。毎日同じ絵を描くのは当然でしょ?」
先輩は美術室の窓から見える白波に目を向けては、それを写すようにしてキャンバスに絵具を乗せている。潮の満ち引きや波の往復の動きに合わせて、だ。そんなもの、追いつくわけがない。ただの終わりなき反復作業になってしまっている。
「そうは言っても、僕には先輩の絵の完成が見えないんですよ」
すると先輩はくすりと笑って言った。
「でしょうね」
普通の人には分からない。そう言いたげな声だった。僕は先輩に上に立たれたような気がして悔しい気持ちになった。だからその悔しさを皮肉に変えて返す。
「完成するの、楽しみにしていますよ」
「ええ、待っていてちょうだい」
先輩にはそれが皮肉だということは理解できたと思う。しかし、彼女はそれを真正面からの言葉として受け取った。その言葉には、彼女がきちんと絵を完成させる自信がこもっているような感じがした。
不毛な会話を交わしながら、今日も二人だけの部活動の時間は過ぎていく。
◇◇◇
天野霞という先輩は、氷柱のような人だ。
見る者には清純な透明感を覚えさせ、触れる者には刃を立てて冷たさを味わわせる。すっと芯が通っていて、生半可なことでは折れようとはしない。
だが、氷柱は氷柱でも、真っ暗な洞窟に一本だけ生えてしまった氷柱だ。
周りには他に一本も氷柱はなく、彼女を照らす光さえも見当たらない。つまり何が言いたいのかというと、彼女は非常に孤独な存在だったのである。
かくいう僕も同じだった。差し詰め洞窟の氷柱にまとわりつくコウモリと言ったところだろう。獣にも鳥にも見放された僕は、独り氷柱と会話をしているのだ。
僕が氷柱と会話をするのは、何も部活動の時間だけではなかった。帰る方角が同じということで、下校の帰路もいっしょに帰っているのである。
「先輩、灯台が悲しいって言いましたよね?」
海辺の防波堤沿いの道。漁で栄えている町だけあって、夕方のこの時間帯は静かだ。漁船の身体に、風で踊る縄がカンカンと打ち付けられる音が聞こえる。
隣を歩く先輩に僕が声を掛けると、彼女は目だけ向けて応答した。僕は独りごとのように呟く。
「やっぱり僕には分からないです」
灯台が悲しいって気持ちが分からない。というよりもむしろ、いったい僕は何に対して悲しいと思うのだろうか。考えてみると、それすらも分からなくなってきた。
「先輩。そもそも、僕には悲しいって気持ちが分からないかもしれません」
「なによそれっ」
先輩が肩を小刻みに震わせた。手は口元に当てて、目を細めている。そう、天野霞先輩は珍しくも笑っているのだった。それはいつもの意地悪な笑みでも静かな微笑みでもなく、心から楽しいと感じている笑いだ。
あまりにもおかしかったのか、息継ぎをして何度も笑い続け、気が済んだところで目から零れた一滴の涙を拭って言った。
「じゃあ、ゲームをしましょう」
何が、じゃあ、なのか分からない。が、そのことについて先輩に問い詰めても意味がないことをよく熟知している僕は、とりあえず訊ねてみる。
「どんなゲームです?」
「あなたが悲しいと思ったら、あなたの負け。罰として、あなたは絵を描かなければならない」
先輩はそこまで僕の描く絵が見たいのか、と驚いた。いや、単に僕をイジメたいだけなのかもしれない。
ここは断るべきだろうが、それは先輩に負けるような気がしたので僕はゲームを引き受けることにした。
「いいですよ。それで、期限は?」
「さあ、私の絵が完成するまででいいんじゃない?」
先輩は軽い声音で返した。適当にも聞こえるが、明日にも僕を悲しませられる自信を感じることもできる。勝つことが確定しているような先輩の態度を見て、僕の心に荒波が立った。
「じゃあ、それまで僕が悲しいと思わなかったら、僕の勝ちってことですね。で、僕が勝ったら先輩は何をしてくれるんですか?」
僕も負けじと強気に出た。けれども先輩は余裕の笑みを浮かべてもっと上手に返してきた。
「何でもしてあげるわよ」
「え、今何でもって……」
よからぬ要求をされるのではないかと悟った先輩がぞっとした顔になって慌てて付け足す。
「18禁方面は駄目よ」
「なーんだ」
「なーんだって……まさかあなた、私にそういうの求めて……」
天野先輩は呆れたような目を僕に向けた。こうなったらとことん困らせてやりたいと思った僕は言う。
「そりゃ求めるでしょ。相手が天野霞先輩なんだから」
「ちょっと、それどういう意味?」
「言わせないでくださいよ」
そういうわけで、曖昧ながらも僕らはゲームをすることとなった。きっと、先輩が絵を完成させる頃にはこのゲームの契約をしたことも忘れているだろう。そう思いながら。
その後も他愛もない会話を交わしながら港町を歩いていき、住宅街に入り込むと、間もなく僕の家の表札が見えた。
空は濃い紫色に染まっている。それが黒に変わるまではあっという間に違いない。
「送りましょうか?」
先輩の家はもう少し先だ。そんなに遠くはない距離とはいえ、こんな綺麗な先輩が一人で歩くというのはよくない。だから僕は申し出たのだが、先輩は首を横に振って断った。
「いいえ、遠慮するわ。変なことされたら困るし」
先輩は微かな笑みを浮かべてそう言った。きっと冗談だ。
「じゃあ、また明日」
「はい、先輩。また」
僕はせめてと思い、先輩をできる限り見送った。その姿が角の向こうへ消える瞬間まで背中を見つめ続けたのだ。彼女の揺れる髪がすっと見えなくなった時、僕は想像以上に時間が過ぎてしまったことに気が付いた。
もう空は真っ暗だ。星がよく見える。
僕は一つ大きな息を吐いてから、家の中に入った。
◇◇◆
翌日は雨だった。
耳を塞ぐような雨音が朝から絶えない。そのせいで、美術室から見えるいつもは穏やかな波が豹変したように荒々しいものとなっていた。
美術室も、いつもとは違った。
静かな波が描かれたキャンバスの前には誰の姿もない。放課後の美術室において、一際視線を引く存在が、今日はいなかったのである。
「先輩、今日はいないのか……」
先輩と知り会ってから、彼女が部活を休んだのは初めてだった。
僕はしんと静まり返った美術室を見渡す。
絶対的な存在感を放つ彼女の姿がない美術室は、未完成のキャンバスとどこか似ているような気がした。
けれども、雨はいつか止む。明日になればきっと先輩も来るだろう。
楽観的思考を胸に、その日の僕は早々に美術室を後にした。
けれども、次の日も雨は降り続いた。
窓に打ち付ける雨音を聞く限り、昨日よりもその勢いは増しているようである。
美術室には、先輩の姿が現れることはなかった。連日部活を休んだとなると、僕は急に心配になってきた。あの日、あの夜、最後に別れたあの後、先輩の身に何かがあったのではないか、と。
それだから僕は、次の日に三年生の教室に行ってみた。
「あの、天野霞先輩の教室はどこですか?」
手近にいた男子の先輩に声を掛けるが、彼は怪訝そうな顔をして首を傾げた。
「天野霞? 聞いたことないな」
天野先輩は孤独な氷柱だ。その存在を知らない生徒がいても仕方ない。僕はそう思って引き下がることにした。
「え、っと、そうですか、失礼しました」
僕は隣の教室へ行き、ドアの近くに立っていた女子生徒に声を掛けた。
「あの、天野霞という先輩の教室はどこですか?」
すると、その先輩も先の先輩と同じような反応を見せた。それから、にこりと笑って言う。
「天野っていう苗字の子は三年生にはいないよ? 他の学年じゃないかな?」
「そんなはずは……」
しかし、その先輩の表情に嘘は感じられなかった。これ以上問い詰めても仕方がない。きっと、偶然にもまた天野先輩のことを知らない生徒に当たってしまったのだろう。
僕は違う教室の生徒に訊いてみることにした。けれども、どういうわけか、どの三年生の教室を回っても、天野霞の友人は愚か、彼女について知っている生徒はいなかった。もちろん、二年生や一年生の教室も訊いて回った。が、皆、彼女の名前を聞いても眉を顰めるばかりだった。まるで、この世界から天野霞という人物が消えて、忘れてしまったかのようだった。
「……僕だけが覚えている。僕だけが存在を知っている……」
放課後の美術室。僕はいつものように椅子にもたれかかってキャンバスを眺めていた。
窓から入ってきた潮風に髪をなびかせ、行き来する波を筆で追う先輩の背中は、そこにはない。僕の目に映る絵画の中心人物が、消えてしまったのだ。まるで、氷柱が溶けてしまったかのように、姿かたちをなくしてしまったのである。
「先輩……天野霞先輩……あなたは一体どこに行ってしまったんですか……」
あの先輩のことだ。冗談だと言って今にも出てきてくれるのではないか。あるはずのない光景に期待をしてしまう自分がいた。
――ふと、頬に違和感を覚えた。手で触って確かめると、水滴が付いていた。
雨漏りでもしたのだろうか。上を見るが、そこには乾いた白塗りの天井があった。と、顔を上げた時、突然視界が滲んだ。目が沁みる。熱い。
慌てて頭をもとに戻すと、今度は頬の違和感が強まった。次から次へと顔を伝って何かが零れ落ちて行く。足元に水たまりができ始め、ようやく気が付いた。
「……先輩、僕の負けです」
僕は今、悲しいと思っている。先輩を失って、僕は悲しいと思っているのだ。
先輩の絵は、まだ完成していない。つまり、先輩とのゲームは僕の負けだ。負けたのだから、絵を描かなくてはいけない。
僕は筆を持ち、先輩の未完成の絵の間に座り、絵具を乗せていった。――この波の絵の中心に、主人公を描くために。
ふと窓の外を見ると、月が出ていた。墨汁のような海が広がっている。美術室の中は明かりも点けていないので薄暗い。雨はいつの間にか止んでいたようだ。
僕は先輩と同じように、窓を開けて制作に取り組んだ。
嵐の後の潮風が僕の顔を強く撫でてくる。乾いた涙がそれを浴びて、思い出したかのように存在を主張した。
先輩の姿を思い出し、先輩の匂いを思い出し、先輩の声を思い出し――僕はその悲しみをすべて筆に乗せた。
「さあ、この一筆で完成だ」
そしてついに、終わる。浜辺に描かれた先輩の絵が、完成する。
僕は先輩の髪にすっと白を流して、筆を置いた。
絵を眺めて一息つくと、また激しい悲しみが込み上げてきた。
「……っ」
けれども、込み上げてきたものはそれだけではなかった。先輩との思い出、先輩との記憶、そして――先輩と出会う前の自分。
僕は、思い出した。
先輩という存在の真実を。
「……そうか、天野霞先輩なんて、本当は最初からいなかったじゃないか」
天野霞は、ただの幻。最初からこの学校にも、この世界にも存在しない人間だ。氷柱は、氷柱になる前はただの水にすぎない。洞窟の中のコウモリは、最初から一人だったのだ。
「あら、できたのね」
不意に背後から声がかかった。若い女性の声だが、もちろん先輩のものではない。
月灯りだけが光源の美術室の中、僕は声の主に振り向いた。
そこに立っていたのは、この学校の美術教師だった。教師になって三年目の彼女は、熱心にもこんな暗くなる時間まで学校に残っていたようである。
「はい、なんとか次の展覧会までには間に合わせることができました」
僕が言うと、先生がにこっと笑って歩み寄ってきた。そして、僕の描いた絵を見て、その顔を凍り付かせる。視覚以外の情報がシャットアウトしてしまったかのように、力を抜いて僕の絵に見入っていた。まるで、絵画の中に魂を取り込まれてしまったようにも見える。僕の絵を見た人は皆決まってこんな反応をするのだ。
「今回も……なんというか、本当に素晴らしいわね」
絵画の中から意識が帰ってきた先生が、怖いくらいの喜ばしい笑みを浮かべて言った。
「ありがとうございます」
「また、誰かと過ごしていたの?」
先生は、僕がここ何週間か『誰か』と過ごしていたことを知っている。――毎回、毎回、先生は知っている。
「はい、今回は天野霞先輩という人です」
「そう」
具体的に誰と過ごしていたかには興味がないようで、先生は絵画を観ながら簡単にそう答えた。しばらく棒立ちになって、呼吸もせずに僕の作品を見つめた先生は、ふと気が付いたように時計を見て言った。
「仕事があるからもう行くわね。またこの世界に宝が生まれる瞬間に立ち会えて嬉しいわ。天才芸術家――音無透くん」
「僕も先生に認められて光栄ですよ」
先生の背中を見送った僕は、絵画に描かれた先輩の姿を見た。
先生の言った通り、僕は天才芸術家なんていって世間からもてはやされている。僕の描いた絵には、心を奪う不思議な力があるようだ。しかし、その作品を仕上げるためには、制作のための原動力――悲しみが必要なのである。
僕は人と感情の歯車がずれているのか、普通に過ごしていて悲しいとは思わない。悲しい、が分からないのだ。だが、唯一人間らしく、僕は誰か大切な人を失った時に悲しいと感じるらしい。ゆえに僕は――頭の中で一人の人間を作り出し、その人と親しくなり、そして消す。そうすることで、この上ない悲しみを味わい、それを制作にぶつけることができるのである。
そもそも美術部員はこの僕一人だけだ。つまり、美術室も通学路も、ずっと僕は独りだったのである。
暗い教室の中、窓辺に立つ僕の姿は、あの先輩が言っていた灯台の姿に似ているかもしれない。でも――
「――灯台なんて、悲しくない。だって、僕は絵を描いてこんなにも楽しいのだから」
絵を描く喜び。誰かの心を絵画の中に閉じ込める高揚感。それらは、誰かを失う悲しみにもまさった感情だった。
なら、なぜ、僕は今、こんなにも涙を流しているのだろう。
「まあ、いいや。次はどんな絵画を描こうか」
様々な構想に想いを馳せていると、またも背後から声がかかった。
「どうしたんですか、こんな時間に?」
意外そうな少女の声だった。この少女の名前は何だっただろうか。あ、そうか。
「君こそどうしたんだ? 結城雫さん」
大事な美術部の後輩の名前を忘れるなんてどうかしている。
僕は彼女を美術室の中に迎え入れた。
『喪失センチメンタル』fin
今の私からは考えられないくらい大人しめの作品だったと思います。
いつかまた、このような雰囲気に帰ってこられたらな、と思っておりますが、しばらくは変態系を極めたいですね(笑)(2017年1月)
最近の私では珍しい作風です。「放課後のピアニスト」と少し作風が似ていますかね。
本当はいないはずの女の子という属性は、もろくて儚くて、そして何よりも美しくて大好きです。(2015年)