異端の者 2
「咲方士というのか……」
淡然は神妙な顔つきになった。
名前など今まで気にしたことのない咲方士は訝る。淡然は卓上で指を組み、柔和な雰囲気を醸し出している。
どうやら言葉のとおり敵意はなさそうだが――。
今現在、部屋には淡然しかいない。多糧衛という拳を向けてきたあの巨躯の男と撫子は出払っている。咲方士は僅かな警戒を残しつつ云った。
「不老長寿の霊薬を探していると云ったか。俺の名前と霊薬とやらに何の関係がある」
「いや、関係はないんだ。そもそも霊薬なんてどうでもいい」
咲方士は言葉の意味が汲めず、ますます警戒を強める。
「君は書物を好むようだな。どれだけ学んだ? この国のことは知っているかな?」
「国か……幼い頃は国が何のことかわからなかったが、今はおおよそのことはわかる。しかし浅学は承知だ。ここは二藍と云うのだろう? それだけだ。中身はないに等しい」
「知りたいかい? 学びたい――と?」
「何が目的だ。俺と話したいなどと、知りたいのはそっちではないのか」
淡然は微笑った。想像以上に冴えている。
「そうだね。慥かにその通りだ。では単刀直入に云おう。私は不老長寿の霊薬を探している。君が霊薬の在り処を知っているのではないかと思ってね。だからこうして招いた」
「ふざけているのか?」
「ふざけてなどいないよ。霊薬を探しているのは確かだ。ただし、国にとっての霊薬だ。我々は豊かな土地が欲しい」
「土地……」
「最初はそれこそ神話のようなものだと思っていた。誰も辿り着けぬ禁忌の地――それが君という形をなして具現化した――と私は思っているが……時間がかかったよ。人の姿をした獣の存在を耳にしてから、周辺村落の戸籍を一つ一つ洗いなおした。死亡事故や行方不明者も含めていなくなった人間を照合してね。数十年を遡ってみたが、この六花山の近くで謎の獣になりうる人物はいなかった。もちろん漂泊者の可能性もあったから、獣の発見時期から考えられる地域の調査もしたよ。それだけで何年もかかった。近頃は数カ国を股にかける盗賊団もいるらしいから、これでも完全とは云えないだろうがね。こう見えてもなかなかに多忙だったりするんだよ、色々と探し物が多くて――失礼、さいきん愚痴が多いとよく言われる」
「何故土地を欲しがる。地図を見た。二藍は大きい」
「そう、慥かに大きい。が、君はいつの時代の地図を見たのだろう。これでも大分痩せてしまったんだ。まだ元気だけど、その元気もいつまで続くかわからない。一度大きな病にかかってしまったからね」
「病?」
「――戦争だ。二藍は大きな敗北を味わった。ごく最近のことだ。勝てるはずだったんだが、目論見は甘かった。擬竜は強かったというほかない……。そうだ、君は擬竜を見たことがあるかい?」
その名は書物で目にしたことがある。が、実物を見たことはない。咲方士は首を横に振る。
「そうか。いつか見せてあげたいものだ」
淡然は目線を外し、窓の外を見た。咲方士は眉間に皺を寄せた。
「……二藍、擬竜、土地……何となく、わかってきた。しかし回りくどい。まだ一つだけ訊くことがあるんじゃないか?」
淡然の組んだ指に力がこもる。咲方士は、何を躊躇っている、と云った。
「そうだね……君がもし違っていたらと思うと、どうしても恐怖は感じてしまう。でもそれは私だけだろう。まさか、このような幻に本気で国の再生を賭けているなどとは誰も思うまい。過程が目的になってしまったこの事業を成就させようなどと思うことは、遠い昔からいけないことだとされてきたというのに」
淡然は卓上の手に目を落とした。逡巡しているのか指を弄ぶ。
咲方士は淡然に、歪みきれない心の実直さを見た気がした。しかし、まだ若い咲方士には、その心の有様がどのようなもので、またどこから来るのかわかるはずもなかった。覚えた知識と想像した物事だけではとても足りない。咲方士は己の無知を識っていた。経験が足りないことも識っていた。
黙って淡然の出方を見守る。遠い記憶の中にある人々の心はどのようなものであったのか。時折、そう考えたことがある。しかしあまり意味をなさなかった。考えたところでどうにもならぬと思ったからだ。
自分は何をすべきか咲方士はまだ知らなかった。
ただ、姉との約束を守らなければと漠然と思っていただけである。
生死もわからぬ姉との約束を。
淡然は重い口を開いた。
「君は……女神の爪痕の向こうから来たのか?」
その時、戸の向こうから声が聴こえた。
声の主は多糧衛だった。体躯に似合わず細やかな戸の開け方をする。
咲方士はついに来たかという表情で中腰になり、半身に構えた。しかし多糧衛のすぐ後ろに撫子の姿を認めると大きく意気を削がれてしまった。
「今日はやる気はねえよ」多糧衛は残念そうに云った。
淡然は咲方士に目配せした――戦うつもりはない。
咲方士は無表情で外方を向いた。多糧衛が部屋に入って来たが、撫子は外で待っている。
「外出する時は事前に報告するようにと云ってあるはずだが」淡然は云った。
「あ……いや、云わずに出たのは申し訳ねえです。まぁ、仕事熱心ということで……へへへ。撫子、だからお前も入って来いって」
多糧衛が呼ぶと、撫子は遠慮がちにそろそろと入ってきた。外した頭巾が手の中にある。
「お前は家人じゃねえんだからよ、な?」
多糧衛の如何にも飽いた口振りからすると何度も交わした言葉のようである。
また、あれほど外すのを拒んでいた頭巾も二人の前では外しており、撫子自身も二人を深く信頼しているらしい。
しかし撫子の口から聞いた話では、如何にも召使いのような口振りであった。そのことを咲方士は不思議に思う。
部屋の端に控えた撫子に多糧衛はなおも云い続けるが、淡然がそれを制止した。
「撫子の思うようにさせてやれ、心を縛る道理はない」
「おめえさんがそう云うなら……まあ、しょうがねえですな」
多糧衛はばつが悪そうに頭を掻き、どっかりと胡坐をかいた。撫子は壁に背を向けたまま立っている。持ってきたのだな? と、淡然は訊ねた。
「へえ、その前に小僧にいいですか。――お前、あの鎌は何だ?」
「あれに触れたのか」咲方士は腰を浮かせ、多糧衛を睨みつけた。
「触ってねえよ、というか触れなかった。それよりオレの心遣いに感謝しろってんだ。わざわざお前の忘れ物を持ってきてやったんだからよ――まあその、淡然殿の云いつけではあったがよ。それにしてもあの鎌は一体何だ? 持つのはおろか触ることもできなかった。触ろうとしたら、こう……キュッと手が締め付けられるようによお」
「何のことだ? 意味がわからん」
それには淡然が応えた。
「最初はあの鎌を持ち帰ろうとしたんだ。君の大切な物だろう? 鎌に触れたことは謝る。すまない」
淡然は額を打ちつけるように頭を下げた。
「……それで?」
「気を失った君を多糧衛が抱えていたので鎌は私が持つことにした。大きな鎌だったが、君を抱えるよりは楽そうだったからね。これでも、ここに来て力はついたつもりだったが、元が非力なので大した変化はなかったみたいだ。それはいいとして、私は鎌を引き抜こうとした。するとまったく持ち上がらない。これ程非力なものかと悲しくなったよ。でも、もしかしたら物凄く重い鎌かもしれない。だから一応多糧衛にもやらせてみたんだ。それで――」
「重いなどと一度も思ったことはない。あれで沢山の獲物を仕留めた」
「だろうね。まさか君が怪力の持ち主だとは思えない。そのことは多糧衛がよくわかっていると思うが――」
出番とばかりにずいと前に出た多糧衛は云った。
「オレはあの鎌に触れなかったから何とも云えねェが、岩の塊ってんならともかく、いくら非力の淡然さんでもあれぐらい持てないわけがねえ。百万歩譲ってあの鎌がすんげえ重いもんだとしても、小僧の体重で扱えるような代物じゃあない。たとえ持てても振り回そうとすれば身体の方がすっ飛んじまう。握り方で下手打ちゃあ腕が千切れるぐれェだ」
「多糧衛、君は鎌をここまで持ってきたと云ったな?」
「へえ、云われたとおりに」
「しかし結局触れなかったんだろう? では誰が持ってきたんだ?」
「それは……」
多糧衛は一度目を伏せ、それから部屋の端に目を遣った。その視線を追う淡然と咲方士。三人の視線にさらされた撫子は頭巾を被りなおしてさらに俯いた。
「撫子が?」
「そです。オレが鎌に触れずにああだこうだ考えてたらこいつ、横からすっと抜きやがったんで。魂消ちまいました」
「すみません……抜けると思ったもので」
「重くはなかったのかね?」
淡然は云いながら撫子を手招きし、咲方士の横に座らせた。撫子は一礼すると軽い衣擦れの音を立てながら椅子に腰かける。
「はい」
咲方士は怪訝な顔つきで横顔を見つめるが、撫子は恥ずかしげに身をよじらせた。
「あの、早く鎌を返してあげてください……別の場所に置いてあるので」
淡然はやや思案した後、そうだな、と頷いた。
※
「ここは開拓のために集まった人達の村なんです」
撫子は歩きながら説明した。暖かな日差しの降り注ぐ昼下がりであった。
昼餉の準備で点々と立ち並ぶ家屋からは煙が立ち上っている。仕事道具を抱えた男達やそれを出迎える女や童の姿がちらほらと見られる。そのいずれもよく日に焼けた肌で、顔は生気に満ち溢れていた。
特に目立ったものはないありふれた村の光景であったが、その中にあって咲方士には懐かしくさえあった。
咲方士は申し訳程度に舗装された道を歩きながら目を細め、村の人間が撫子に会釈するのを珍しそうに見ていた。その誰もが咲方士のことなど気にも留めない。
「村が出来てからかなりの年月が経ってます。だから村で生まれた人ばかりです。あ、でも最近になって外からの人が来ました。大変だったんですよ、今では長閑な村ですけど、前は外の人と村の人とで喧嘩し合ってて……淡然様が間に入ってくれたので、こうしてみんな仲良くやってるんです」
「あの男が?」
「はい。みなさん淡然様を慕っています」
「開拓とは女神の爪痕の――」
咲方士はすぐ傍を通り過ぎた童達を見送った。仲の好い友達同士のようだった。長い木の枝を振り回しては何が面白いのかはしゃいでいる。
見るもの凡てが新しい。あの年頃は姉と母だけが話し相手だった。遊びといえば部屋で折り紙を折ったり、本を読んでもらったりすることぐらいで、たまに皆が寝静まった夜中に外の空気を吸わせてもらいに外に出ることがあったが、ほんの短い時間だった。
あれから何年経ったのだろう。身体はすっかり大きくなった。
あの日、文目洞に行けたのは、姉がこっそり連れ出してくれたからだ。部屋で食べるからと嘘をついて握り飯を用意してもらい、誰も入るなと云い含めて窓から抜け出した。後ろめたい気持ちと、何が起こるかわからぬ楽しみが混ざり合って、何とも云えぬ心地だったことを憶えている。
「そうです。でも厳密に云えば開拓なんて全然してません。二藍では昔から女神の爪痕の向こう側に行くために桟道を作り続けているんですが、いつも壊れてしまって……。橋を架けるのに適した場所はわかっているので、後は桟道の完成を祈るばかりなんですが」
「他に道はないのか?」
「ないそうです。女神の爪痕は海まで続いていますし、その場所以外は崖の幅が広くて橋を架けるのは無理だって淡然様が云ってました」
「そうか。なあ、訊いてもいいか?」
「はい、この村のことなら何でも」
「随分と詳しいようだが、おぬしはこの村の生まれなのか? 親は、兄弟はおらぬのか? 他に銀の睛の者もいないようだが……」
撫子は顔を伏せた。頭巾を被っているのでその表情はまったく読み取れない。やがて撫子は歩幅を狭めた。白い巨大な雲が日を遮った。
「私、孤児なんです。幼い頃に拾われてこの村で育ちました。たぶん両親も、髪の色も睛の色も銀だったのかもしれませんが……わかりません。ねえ、私からも訊いていいですか」
「うん」
「私の他にこんな髪や目の色をした人がいるって本当ですか。村では、この色は珍しいみたいで……その……あんまりよくないみたいで」
「そこよ」
「え?」
「俺が不思議でならんのはそこよ。何故ここではおぬしだけなのだ。姉上も母上も、俺の周りでは銀色が当たり前だった。もっとも、みなそれぞれ僅かな色味の違いがあるがな。それに、ここでは黒の髪、黒の睛の者が多い。何故だ。黒は不吉の証ではなかったのか」
「黒が不吉……? でも、この村の人――ううん、この国の人は黒い睛をしていますよ。私、ずっと見てたから間違いないです」
「里の言い伝えだという……黒の睛は呪いの睛。災いもたらし命を吸い込む――最初は嘘だと思っていた。しかし、山際から昇ってくる朝の光を見た時、嘘でないのではと思った。それが何だ、この村には、否、この国には黒の睛しかおらん。どういうことなのだ」
撫子は安堵したように微笑った。
「多分、間違いですよ。間違えたんだと思います。よくわからないけど。淡然様も多糧衛さんも、髪も睛も黒ですけどいい人ですよ。……咲方士さんだって」
「……ううむ」
「あの、あなたのお姉さんってどんな人ですか。私、自分以外にこんな髪や眼をしている人を知らなかったから気になって」
咲方士は難しい顔をしている。
「駄目ならいいんです。ごめんなさい。話を聞いてたら嬉しくなっちゃって……すみません。――あ、見えてきましたあそこです。あの小屋に鎌を置いてます。淡然様の邸宅まで持ってきてもよかったんですけど、童達が面白がって触るといけないので」
撫子は咲方士を先導するように前を歩いた。咲方士は撫子を呼び止める。
「撫子、淡然とやらに伝えてくれぬか。如何にも、女神の爪痕を越えて来た――と」
そして雲から顔を出した日を見上げた。