異端の者 1
静寂は、ここにはない。
夜の山が、話よりも遥かに恐ろしいところだと知ったのは、一体いつのことだったか。無数の小鳥がさえずり、小鹿や穴兎がゆるゆると闊歩できる昼間とはまったく違う。
暗闇に潜む息遣いはすべて己の命を狙っているように聴こえ、近くの音と遠くの音が混ざり合い、正常な感覚を失う。
唯一信じられるはずのこの心音すら、まるで誰かに操られているかのように、狂い、うごめく。
絶え間なく襲い来る孤独と恐怖、さらには空腹。やがて自分の名前すらおぼろげになり、人であることを忘れそうになった。
そのたびに、すっかり手に馴染んだあやめの指を握り締め、名を唱えた。
夜の間、山は一つの生き物となり、人を拒む。
おい、おうい――。誰かの呼ぶ声が聴こえる。
しかし、それが山の幻であると咲方士は知っている。一夜の間に何度となく繰り返される呼び声に狂わされることは今ではもうなくなった。
一体いくつの朝陽をこの睛に収めてきたか。初めは数えていたが、いつしかそれもやめてしまった。
少なくともわかることは、生きているということだ――。
小川で魚を狙っていた咲方士が、獣以外の襲撃を受けたのはまさに青天の霹靂だった。
目に飛び込んできたのは黒い矢尻。耳の横をかすめ、矢は深々と川原に突き刺さった。
大きな戸惑いを覚えつつも、咲方士の判断は早く、瞬時に木の陰に身を隠した。色濃くなった本能がそうさせた。
川の向こうに腕の太い巨躯の男と、それに比べて背の低い男の二人が見える。巨躯の男は次の矢を番えようとしていた。
二人は共に鉈を佩いている。山に慣れた者だろう。
咲方士は川岸に刺したままのあやめの指を気にした。
二人の男はゆっくりと川原に出て行き、逆さに刺さっているあやめの指に近づいた。
男達は興味深そうに眺めている。
咲方士は我慢出来ずに躍り出た。男達が振り返った。
「やっぱり出てきなすった」
巨躯の男は嬉しそうにそう云うと、弓を構えた。するともう一人の男がそれを制した。
「よせ多糧衛――これは狩りではない」深みのある声だった。
「へぇ」
多糧衛と呼ばれた巨躯の男はあっさりと引き下がる。
「この鎌は君の大切なモノかね?」
「あやめの指だ」咲方士は呼びかけに応えた。
「指……? それより、やはり君は言葉を解すようだね。行商が我々の集落に来る度に手持ちの書物が少なくなっているとぼやいていたが――それは君か?」
「字は……人の使うものだ」
男はわかったというふうに頷いた。
「安心したよ。君は我々と何ら変わりがない。もっと君について訊きたいところだが、ここでは場所が悪い。どうだろうか、私達の集落に来ないか?」
咲方士は地面に食い込んだ矢を一瞥し、云った。
「矢で人をもてなすとは書物にはなかった。これは俺の無知か?」
男は咲方士の言葉に目を見開いた。そして深々と頭を垂れる。
「すまない。正直なところ、君という人間を量っていた。否、君が人かどうかを確かめようとしていたんだ。本当にすまない」
咲方士はじっと男達を窺う。多糧衛は不機嫌な顔で何かを堪えているようだった。
あやめの指は二人の男のちょうど間にある。
警戒しながら川を渡り、鎌を取り戻そうと二人の前まで歩み寄った。
「信じられんな」
そう云って手を伸ばした時、多糧衛の太い腕が咲方士の腕を横から掴んだ。
咲方士はすぐさま敵意を顔に表し、咄嗟に、草臥れた着物の帯に手を掛けた。
「多糧衛っ」もう一人の男が叫ぶも多糧衛は止まらない。
「何を云っても無駄ですぜ。力ずくで教えなきゃァ」
多糧衛は咲方士の胸倉を掴み、川に放り投げた。大きな水飛沫と音がこだまする。浅い川だったので咲方士はすぐに立ち上がり、今にも飛び掛らんとして腰を深く落とした。
その反応に多糧衛は低い声で笑った――それでなくちゃあな。
「我々は彼を捕獲しに来たわけではない。話をしに来たのだ」男は云った。
「無駄ですぜ。少なくとも向こうはそう思ってない。がつんと一発お見舞いして、引っ張ってくらァいいんですよ。そっから後はお任せしますがね」
「誰のせいでこうなったと思っている……ええい、仕方ない。後の面倒は私が見よう。今は彼を集落まで連れて行くことが先だ。行商が来なくなっては困るからな」
「へへ、最初は都会くせえ嫌な野郎だったが、今のおめえさんはいい匂いになってますよ」
「……丁重にな」
「へい」
多糧衛は上着を脱いだ。鍛え抜かれた腕や胸は矢を弾きそうなほど分厚く、自信に満ちたその表情は咲方士に山の獣との違いを思わせる。
逃げるべきだと思ったが、あやめの指を男達に触られるのは我慢ならない。
咲方士は腰帯に当てた手を離し、素手で構えた。不敵に笑う多糧衛を睨みつける。
「悪いが手加減は出来ん。受身はしっかり取れよ?」
多糧衛は豪快に飛沫を立てながら川の中を駆け、咲方士目がけて拳を放った。拳が虚しく空を切る。咲方士は真横に逃れていた。多糧衛が立て直す間もなく、咲方士はその背中に飛び掛った。しかし多糧衛は上半身を反転させて肘で迎撃する。
衝撃を右腕で受け、直撃は免れたものの咲方士は遠くに吹き飛ばされた。危うく肩が外れそうになっていた。
――紅い熊ほどではないが厄介だ。そう思った。
そこで咲方士は標的を変え、もう一人の男目がけて走り出す。
群れをなしている狼に遭遇した時も、その頭目だけを殺して難を逃れた。見立てでは小さい男が頭目だろう。そうだとすれば、この群れを破るのは容易い。
そうして男に迫った時、目の前を鋭い音が走った。
「おい、相手を間違えるな」
見ると多糧衛が石を持って立っていた。咲方士はさっきの音が投石だと気付く。
「同じことだ」
咲方士は構わず男に掴みかかる。男を倒した後、鎌を取り戻して逃げればよい。
しかし、次の瞬間には喉元に冷たい刃を突きつけられていた。男の鉈であった。
「すまない。どうしても君と話がしたくてね。私を直接狙うのはよかったが、何故その武器を取らなかったんだ?」
男は咲方士の腰帯に目を落とした。
「これは使わぬ」
「そうか……。そうだ、自己紹介がまだだったね。私の名は――淡然だ」
そう云って、男が微笑んだ後、咲方士の視界は衝撃と共に真っ暗になった。
※
あまりの眩しさで目が醒めた。窓から降り注ぐ陽光が最初に飛び込む。
右肩が少し痛むが目立った傷はないようである。が、首に妙な違和感を覚えた。気を失う前の場景を思い出すと、素早く打たれたのだとわかった。
身体にかかる薄布を払いのけ、身体を起こしてみるとそこは見慣れぬ部屋だった。
牀蓐以外にいくつかの調度品しかない質素な部屋である。
立ち上がり、今まで自分が寝ていた牀蓐を見る。思えば平らな場所で寝たのは久し振りのことだった。
窓に近づき、外を見ようとすると戸を叩く音が聴こえた。咲方士は身構える。
戸が開き、顔を覗かせたのは女だった。声から察するに若い。
「あっ……気付きましたか」
少女は布の頭巾を被っており、顔は影になっていてよく見えない。
咲方士は腰帯に手を掛けた――が、憶い出したようにすぐに離した。
女からは敵意を感じられない。しかもその手に持った盆には濃い湯気の立つ粥が載っていた。
「何者か。いや、ここは――」
咲方士は警戒するも、つい粥に目が行く。忘れていた空腹が襲ってきた。
女は古びた卓子に盆を置いた。
「どうぞ、まずはお食べになってください。食事を邪魔したみたいですから……その後は風呂に。ちゃんとしたお話は……それから」
咲方士は思わず身体の匂いを嗅いだ。鼻はかなり利くつもりだが、今頃自分の体臭と云うものを意識した。血の匂いと汗や土の匂いが混じっている。慥かに臭いかもしれない。水浴びはするが、一月に一度ほどだった。
「何故だ。俺に何を」
「貴方とお話がしたいそうです。私には、とりあえず仲良くなって貴方の名前を聞き出して来い……と」
「意味がわからぬ」
「私にも……わかりません。でも、貴方のことは知っています。山の中に人の形をした獣が棲んでいる、と。その獣の好物は書物だってことも。お粥は……嫌いですか?」
咲方士は恐る恐る女に近づき、粥を覗いた。湯気が食欲をそそる。
そうではない――そう云って碗を引き寄せた。しかし箸を手に取ると固まってしまった。
「毒なんて……入ってませんから。私が作ったので保証はします」
「いや、箸の使い方を少し考えてしまった」
「あっ、うっかりしてました。匙を持ってくればよかった。私今から」
「いい。思い出した」
「でも食べにくいでしょう?」
「目を瞑っていても食える」
咲方士は粥を腹にかき込む。妙に懐かしい味である。
山菜が入っているようでつい黒蕨を探してしまったが、碗の中にはなかった。
粥をすっかり食べ終わると、女は咲方士の向かいに座した。両手を卓上に置き、頭巾の陰に隠れて表情は窺えないがどこか楽しそうだった。
「馳走になった……が、おぬしは何者だ。あの男達は」
「申し遅れました――私、撫子と云います。お花の撫子と同じです。ここでは淡然様の身の回りのお世話をしてます。若いですけど、ここでは長いんですよ――」
「何故顔を隠している」
「これは……」女は頭巾に手を当てた。
「見せられぬのか。招こうとしている者に矢を放つことといい、おぬしといい、俺が書物で知ったことはまったく役に立たぬと云うことか」
云い終わるが早いか、咲方士は突然盆を払いのけ、卓上に乗り上げるとそのまま撫子の着物の衿に手を掛けた。
乱暴に掴まれ、白く華奢な肩があらわになる。
碗がからんと音を立てて床に転がった。静かだった。
「離して……ください」撫子は身を固くする。
咲方士は手を伸ばし、素早く頭巾を剥ぎ取った。
撫子は顔を伏せ、両手で頭を押さえる。
美しい少女であった――濡れたような光沢を放つ深い銀をした髪であった。
放り投げられた頭巾はひらひらと舞い落ちる。咲方士は嫌がる撫子の腕を掴み、そのまま押し倒した。小さな抵抗はあったものの、馬乗りになった咲方士を跳ね除けるには至らない。撫子は両目を固く瞑っている。
「目を開けよ」
「嫌です……どうしてこんなこと」
「今のおぬしに拒む力はない。牙も爪も角も持たずに俺の視界に飛び込んだ愚かさを知ることだ。目を開けよ」
「嫌……」
咲方士は撫子から手を離した。撫子は乱れた衿元を引き寄せる。
「俺も昔はおぬしのように頭巾を被っていた」
「それは……どういう」
撫子の顔は伏せられ、目は変わらず結ばれたまま。小さな手が頭巾を探して床を滑る。
「言葉のとおりだ。何を恐れているのかは知らないが、綺麗な髪だ」
ゆっくりと顔を上げ、撫子は初めて物を見る赤子のように目蓋を開いた。
幼さと奥深さを同時に湛えた切れ長の目に、透き通るような銀色の睛が納まっていた。
咲方士は思わず優しい口調で云った。
「やはりな。美しい睛だ。姉上の睛も美しかったが、おぬしの睛も負けておらん。どうして隠す必要がある。わからぬことだ」
撫子は微かに震える指で髪に触れ、次に目に触れる素振りをした。
咲方士は床に落ちた頭巾を拾い上げると埃を払い、恭しく手渡した。
「申し訳ないことをした。すまぬ」
咲方士はその場に膝をつき、深く頭を下げた。悪いことをしたら頭を下げて謝れと、咲野から口やかましく云われていた。しばらくの間があった後、撫子は云った。
「この髪と目……おかしくはないの?」
「ない。そのような色は珍しくも何ともない。俺以外には……いや、そういえば――」
途中で言葉を失った。見ると撫子ははらはらと涙を流していた。
周章てた咲方士は記憶をたぐり、それと同じように撫子の髪を撫でた。誰かの泣き顔はあの夜以来のことだ。
わけもわからず泣き続ける撫子に咲方士はどうしていいか困惑した。
「噫、すまぬ、すまぬ……ううん、そうだ、名前だったな。いくらでも教えてやろう。と云っても一つしかないが。いいか? 俺の名は咲方士だ」
これでいいか? と訊ねたが、撫子は静かに涙をこぼすだけだった。
途方に暮れた咲方士はやがて碗を片付け始めた。