過ぎた薬 2
盤実の指摘通り、主戦を唱える武功派の陰にある刻兎の暗躍を、淡然はすでに知っていた。
が、その暗躍を淡然自身は知らされていなかった。
側近として宮廷に招かれ、爾来、刻兎のすべての政務を枝葉末節まで把握し、時に賛同を、時に批判をしてきたというのに。
淡然は思う。恐らく、この密談に関しては盤実にとって賭けだったのであろう。
見え隠れしている刻兎の影のその中心に淡然自身がいるとも限らない。元丞に対する元丞付とは単なる側近でないことを盤実もよく理解しているはずである。
にも関わらず、こうして接触を図ったことは、偏に盤実の類稀なる慧眼とでも云うほかない。刻兎と淡然の関係が、かつての形式に当てはまらぬ一種の均衡を保つ機能だと見抜いていたのだ。
盤実と夏楠の間に交わされたであろう言葉を想像すると、淡然は震えた。刻兎に取り入って今の地位に昇ったと誹謗され続けていた中で、まさか元帥たる人物が正しく評していたとは――。
淡然は額に薄らと浮かんだ汗を拭った。その中には不安が混じっている。
事は容易に運ばぬやもしれぬ――否、運ばぬと見ていいだろう。
胸騒ぎを覚えた淡然は自室に走った。
一刻も早く刻兎の張った根を白日に晒さねばならぬ。
そもそも刻兎の経歴に関しては、淡然が宮廷に入った直後に調べていたことだった。
若くして元丞になり得た事実には何かしらの背景があることは想像に難くなく、元丞付に就任したばかりの淡然の最初の仕事は刻兎について調べることだった。
しかし、刻兎の経歴はとても華やいだものではなかった。
一言で云うなれば、冠を被った泥人形、と形容するのが相応しい。
栄華を絵に描いたような出世街道をひと飛びで駆け抜けたわけではなく、決して高くはない官職から不自然に元丞に抜擢されていたのである。
当時、この人事について疑問視する声がまったくと云っていい程上がらなかったのも疑惑に輪をかけた。
が、若い淡然にとってそれはあまり関係のないことであった。深く云えば、そこまで手が廻らなかったということである。刻兎に付いてから、淡然は時には間諜のようなこともやり、使者も多くこなした。
単純な仕事量だけならばあらゆる重臣、諸官のそれを優に超えている。
その為、妻の一人もまともに娶ることができず、そのことについて刻兎から揶揄されることもしばしばだった。
最近、こういうやりとりがあった。
刻兎の妻の誕生日を祝うささやかな酒宴。
近しい者しか呼ばれない小さな宴でのこと。
「淡然、いい加減に所帯を持ったらどうだ」
軽く酒に酔った刻兎は上機嫌に云った。
「そのような暇があればよいのですが、生憎、上司が私を離してくれませんもので」
淡然の冗談に刻兎は顔をしかめ、妻は微笑った。
「けしからん上司だ。まあ、お前程の男を離しておく道理はないがな。淡然、お前はどのような女を好む?」
「私を縛らぬ者ならばそれ以上は望みません。上司もきっとお喜びになるでしょう。その点、奥方様は私の理想と云えます。刻兎様は何者にも縛られておりません」
「云うわこやつ、心にもないことを。ならば我が妻をお前に――と云いたいところだが、いま少し若い方がよかろう。そうだ淡然、延宗の末の姫はどうだ?」
話の飛躍に淡然は戸惑った。
「は、延宗の」
「年頃ではあるが誰の嫁にもならぬと云って聞かんそうだ。とても美しい容貌で求婚者は後を絶たぬようだが、何ともお転婆でな。父より強い者でなければ、などと条件を出したらしい。それはかなわぬと男共は逃げ出したそうだ。延宗の王は素手で岩を砕くというからな」
延宗とはそういう国か――淡然は敵国としてではない延宗を垣間見た気がした。
「どうだ?」
「どう、と云われましても」
「例えばの話だ。酒の席よ」
そして刻兎は妻の目を気にしながら淡然の傍に行き、耳打ちした。
「ああ見えて気が強くてな。見目は然程ではないが、その強さが美しいのだ」
「はあ」
「殿方だけで何の話をしていらっしゃるのです。わたくしも混ぜてくださいませ」
刻兎の妻が耳聡く聞きつけた。刻兎はからから笑いながら席に戻った。
その時は単なる冗談だと淡然は思ったのだが、今にして思えば、刻兎はすでに何かしらの未来図を描いていたのかもしれない。
延宗の姫が、二藍の文官にすぎぬ淡然の妻となるような未来図が――。
淡然は時間の許す限り刻兎について調べた。すると以前は見えてこなかったモノが徐々に姿を現した。
元丞に抜擢される前の刻兎は天官(宮中事務を司る)の一人だった。その中で数年人事に携わっていたのだが、ある日唐突に元丞就任の辞令が下る。
記録の上だけで見れば刻兎の元丞就任は唐突に見えるが、調査を進めるうちにそれが周到に計画されたものだと知った。
刻兎が天官に就いてからの宮廷内の人事を見ると、その殆どに刻兎が介入していたことがわかったのだ。
結果だけを抜き取ると、刻兎は人脈を駆使して元丞に登りつめた、ということになる。要するに刻兎に与する派閥を作り上げてしまったのである。言葉にしてしまえば簡単だが、数多の天官の一人に過ぎない刻兎が要した力は並大抵のものではないはずである。
現に、刻兎がどのようにして与党を作り上げたのか淡然には想像すらつかない。
刻兎という人物の底の知れぬ恐ろしさを改めて知った思いだった。
それ故、この事態を楽観視するわけにもいかず、淡然は官吏としての生命どころか個人としての命を覚悟した。
刻兎の張った根は静かにこの国に食い込んでいる。
凡てが敵、と云っても有り得ない話ではなかった。
主戦派は確実に力を増している。
ひとたび人の意志が加速してしまえばその勢いを止めることは容易ではない。
歴史を鑑みると、人の意志が行き処を誤ってしまったばかりに滅びてしまった国は少なくない。
淡然は二藍がまさにその状況にあるのだと危惧していた。
翌朝、淡然がいつものように刻兎の居室を訪れると、刻兎の第一声はこうであった。
「薬も過ぎれば毒になる――そのことがわからぬお前ではあるまい」
「は……」
流れてもいない汗を首筋に感じた。刃を突きつけられているような心地である。
刻兎はそれから言葉をついだ。
「不老長寿の霊薬を気取らぬことだ。薬にはそれぞれ特化した効能がある。わかるな?」
淡然は無言で揖した。それから刻兎は普段と何ら変わらぬ様子で政務を果たした。
――刻兎は知っている。
その上での忠告、否、脅迫であったのだろう。
それでもなお、やらねばならなかった。薬として宮中に招かれた。ならば薬としての義務を果たすのみ。淡然にはそういう思いがある。刻兎に迎合するだけでは薬にはなれぬ。しばしば苛烈に過ぎる刻兎を抑える薬でなければならぬ。
それは刻兎自身と契約したことである。
しかし、刻兎の毒が己の力を越えて二藍に浸透しつつあることは明らかだ。
淡然は大きな焦りを感じていた。
※
焦りは予感となり、予感は確信となる。
その日、淡然が刻兎の派閥の切り崩しについて思案している最中に、それは起こった。
国主の実弟、夏楠による謀反――の未遂である。
宮中を揺さ振る大事件となったこの出来事が、淡然の耳に入ったのはすべてが終わった後だった。この事件に関して淡然はまったくの蚊帳の外である。
入ってきた情報によると、夏楠が盤実と結託して、武力政変を起こそうとしていたというものだった。夏楠がひそかに私兵を蓄えていたのを刻兎が不審に思い、調査したところ計画が発露したというのである。
無論、これは刻兎による捏造であろう。
しかし淡然が弁護する余地もなく、すぐに夏楠は刑に処され、夏楠の家族は兄でもある国主の恩情として国外追放となった。
元帥である盤実はこれまでの功に免じて蟄居処分になったという。
あまりに早すぎる事件の終幕である。淡然は戦慄した。
刻兎は王族までその手にかけたのだ。
――毒は時に甘い。
おそらく刻兎は対外に、主に民に対して平和を脅かす賊徒を討ったと触れ回るであろう。逆賊を撃滅した賢相としての名声を欲したはずである。
そしてその名声の先に――未来図がある。
一体何になろうというのか。淡然は刻兎の底が見えなかった。
淡然が刻兎の呼び出しを受けたのは事件から一ヵ月後のことだった。
その間、盤実の安否を秘密裏に探ってはみたが成果は得られなかった。同時に夏楠の家族の様子も探ったところ、何と配流先への移送中に、賊に襲われてしまったという。
妻子の生死は不明だが、ほぼ絶望的だろうと使者は云った。
己の無力を感じつつ、暗鬱たる面持ちで刻兎の居室に淡然は向った。
「淡然、何故呼ばれたかわかるか?」
刻兎は云った。この期に及んで問答とは、と淡然は内心思ったが、あえて表には出さなかった。
死を賜るならばせめて堂々と迎えてやろう――。
「罪であるとすれば――それは御意志を全うできなかった私の罪と存じます。受け入れるのは当然の理。天の神は人を裁きません。人を裁くのはやはり人。されど、それは一個人の思惑でもって為されていいものではない。もしも私を裁くというならば、その方は二つの罪を抱くことになりましょう」
「ほう」興味深そうに刻兎は微笑った。
「一つは罪なき者に罪を与えた罪――もう一つは罪なき者を裁いた罪――」
と、そこで刻兎は手を翳して淡然の言を止めた。
「そう急くな、淡然。お前の高説はもっともだが、熱くなられては誰も耳を貸さぬぞ? 頭を冷やせ。そこで、ここに呼んだ理由だが……お前には探し物をしてもらおうと思ってな」
「探し物……」
「天仙と呼ばれる者たちを知っているな?」
「……数多の国の史書に時おり現れ、不思議な力を見せるという」
「うむ。極北の王もまた天仙と言われている。その姿は何百年と変わらぬそうだ」
刻兎は嘲笑を含ませて言った。毛ほども信じていないらしい。
「それで、私に何を」
「天仙になるための秘薬。つまり不老長寿の霊薬をお前に見つけてもらいたい」
淡然は初めその意図が汲めなかった。
が、すぐに事実上の追放命令だと悟った。刻兎の含んだ哂いからもそれが窺える。
「本邦の古い伝承によると、以前は化外の地にあった不老長寿の霊薬が、現在の未開の地に持ち去られたという。それを探して欲しいのだ」
ここで刻兎が云った古い伝承が、二藍に伝わる神話の一部であると淡然は気付いた。
敢えて神話を伝承と言い換えたのだ。
『化外の地』とは神話にある創世の時代の後、神々と龍が暮らしたという伝説の浮島のことである。無論、国中の何処を探しても存在しない。
そのようなモノを一国の元丞が本気で論じるわけがない。
「遅々として進まぬ開拓をお前に監督してもらおうと思う……どうだ?」
淡然は唇を噛み、己に課せられた命運を呑みこんだ。




