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過ぎた薬 1

 十年近く前の出来事である。

「国家――ということをどう思うね? 淡然たんぜん君」

 重そうに実をつける果樹や、色とりどりの花の豊かな庭園の中、朱で彩られた四阿あずまやに席を設けている男が二人。

 質素であるが作りの丁寧な藍色の着物を纏っている男は、その佇まいや口振りから高貴な趣を放っている。

 この者、名を刻兎こくとといい、よわい三十を越えたばかりで二藍ふたあい国の元丞げんじょう(宰相の意。最上位)という地位に就いている。これは古今例を見ない早さであった。

「はあ……その、私のような身分にはとても考えの及ばぬことで……」

 一方、淡然と呼ばれた男は、着物のえりも頼りなく、裾はほつれたままで、およそ場違いという言葉がこれ程似合うものも珍しいという様相。

 刻兎と同じ席上にありながら、淡然は師の叱責に身を縮める小僧のように手足を固くしていた。

 刻兎は未だ警戒を解かぬ淡然を前に卓上で指を組んだ。

 事の始めはこうである――身分を隠し、城下を視察していた刻兎は、酒場で淡々と国の政について語る淡然に出くわした。

 初めは酔漢よっぱらいの戯言であろうと高を括っていたが、淡然の口から出る言葉はおよそ一庶民の発するものではなかった。

 刻兎はすぐさま淡然の素性を調べさせ、この庭園に招いた。

「私は君を高く買っている。失礼などとは思わぬ、気兼ねなく話してくれ」

「こうして元丞様のご尊顔を拝するだけでも恐れ多く……」

「では、私は目を閉じていよう。今から聴こえるのは微風の音か龍の吐息だろうよ」

 刻兎は俯き、目を瞑った。淡然は狼狽えたものの、やがて口を開いた。

愚管ぐかんではありますが……毒が過ぎるかと存じます」

「ほう――いや、これは風か」

 刻兎は瞑目したまま口の端を上げる。腹を据えた淡然は続ける。

たしかに、国家を人の身体と捉えるならば、多少の毒は必要でございます。すべてにおいて健全で健康であること、一個人ならば在り得ましょうが、国家のこと、無理をすることも、生活を立ち行かせるためには否とすべきではありますまい。しかし、毒はやはり毒なのです。薬とは微量の毒で出来ている物であります。よって些少な毒ならば薬効にもなりましょうが、量を違えれば身体を蝕むのは必至――恐れながら、これが私めの思うところでございます」

 刻兎は静かに目蓋を上げた。

「然るに、私が若いと云っているのかね?」

「それは……」

「若い時分は殊更毒を好む。それが苛烈で鮮烈ならば尚好い――わかりやすいからな。本質は目に見えにくい、そして伝えにくい。だからこそ手っ取り早く本質を掴もうとする若者は毒を用いたがる。君の云うとおりだ、淡然君。しかしだ、これならばどうだ? ――もし、薬も効かぬ程に身体が麻痺しきっていたら」

「麻痺」

「然様。はっきり云ってやろうか? 愚昧ぐまいな民ではこうでもしなければ理解することなど出来ぬのだ。これでもかと濃厚な毒を盛ってやらなければ民は気付かない……ところで、私の歳を知っているかね?」

「ええ、存じ上げております」

 刻兎は卓上に置かれていた桃を切り分け、皿に盛って淡然に差し出した。

「そうか……これでも市井しせいでは人気があってね。この桃もあるご婦人から戴いたものだ。どうだね、甘いだろう?」

 淡然は桃を一切れ口に放り込んだ。慥かに芳醇な甘味が口に広がった。

「はい」

「それと同じだよ。淡然君、毒は時に甘いものだ。無論、甘く見せる必要があるがね。政治とはすなわち如何にして毒を甘く見せるかだ。わかるね?」

「しかし……甘い物が嫌いな者もおりましょう」

 刻兎は自嘲するように笑った。

「私が君を此処に呼んだ理由――もうわかっているはずだ。仮にも一国の元丞が市井の如きに時を割いているのだから。君の言葉を借りるならば……私の薬にならぬか?」

「私が……元丞様の薬にですか」

「そうだ。それは君にしかなりえぬ。かつて荒廃していたこの地を黄金の大地に変えた建国の雄『岱王慈たいおうじ』の末裔である君にしかな」

「偽りやも知れません。何分、遠い昔の話ですので子孫の数も知れますまい」

「偽りだという証拠もなかろう? いぬが狼を名乗る時代だ。それに岱王慈は好色というわけでもなかった。建国の英雄が女王蟻であるようなこともないだろう。風説は国を動かす上で重要な力だ。風説によって首を持っていかれた者達を私は多く知っている――もっとも、名前までは憶えていないがね……ちなみに私の祖先も岱王慈の血を引いている」

「毒の風……ですか。元丞様は風を操るのがお上手なようで」

「いよいよ地が見えてきたな、淡然君。それは返事と受け取ってもいいのだな?」

 淡然は椅子から降りると地面に膝をついた。

「承知致しました。その旨、謹んでお受け致します」

 刻兎は目に喜びの色を浮かべた。

「さあ、残りの桃も食べてくれ」

「刻兎様」

「何だ?」

「私は……甘い物が苦手なのです」

              ※

 膨大な資料で埋め尽くされた自室の中、淡然は窓から見えた月を見ながら、ふと昔を思い返していた。

 市井の徒が、元丞付げんじょうつきという属官としては最高位の役職に大抜擢されてから幾星霜。高官の噂話から孤児の童歌まであらゆる波紋をこの国に生み出した人事の一石であった。

 黒い風聞は絶えなかった。何処の馬の骨とも狗の骨とも知れぬ輩が、一昼夜にして百官の上に立ったのである。

 民からは大出世ともて囃されてはいたものの、宮廷内では淡然の姿を見て指をささぬものは殆どいなかった。それは十年近く経った今でこそようやく静まりを見せた程であった。

 建国の英雄の威名は、宮廷内ではなんら力を持たぬ画餅がべいだったのである。

 目映い実績で周囲を黙らせることが出来ればどんなに爽快だろうと思ったこともあったが、刻兎との契約は飽く迄も陰中での政務である。

 刻兎が陽の者――日ならば、淡然はまさしく陰の者――月だった。

 淡然は実務をよくこなした。淡然を知る者は一様に役職とは裏腹な現在の不遇を嘆いた。

 刻兎の名が輝けば耀かがやく程、淡然の名は陰に埋もれていく――。

 淡然が宮廷の不穏な空気を察したのが誰より早かったのは必然だった。

 それまで淡然への誹謗を責務としているかのような熱心な文官らが、淡然を歯牙にもかけぬようになったのである。

 ある種の飽和を迎え、国家として成熟に達しつつあった二藍の骨にあたる部分ががらりとその性質を変えたと云ってもいい。

 淡然はこう認識していた――異変である。

 成り行きによっては、国家が足元から崩れ去ることになりうる。或いは政変への前触れかもしれない――淡然はそこまで考えを巡らせていた。

 文官らの態度が急変した理由はすぐに知れた。

 二藍のおもだった武功派が版図拡大を提言し始めたのである。

 それまで、領土の保全を第一の方針と定めてきた二藍にとって異例の事態であった。

 率先して戦わず――二藍の政治方針は建国以来不変のものだった。文官らは宮廷内での身の振り方を決めあぐねていた。

 無論、武功派らの主張には根拠があった。

 それは、二藍の北隣に位置する『延宗えんしゅう』国による先年の武力侵攻である。

 の国とは昔から様々な衝突があった。

 延宗の祖は、矢をも弾く硬い鱗で覆われた馬のような生物『擬竜ぎりゅう』を糧としていた遊牧民族である。

 定まった領土を持たず、すでに国家として形成されていた二藍の国境を脅かすことは歴史の常だった。

 またの名を騎竜民族としていた延宗の祖は、延宗建国の後、平原を縦横無尽に駆ける機動力と容易に倒れぬ生命力を持った擬竜で軍隊を構成し、独自の飼育法で騎竜隊を精強にしていった。

 二藍はこの擬竜に永年苦しめられている。

 建国時は北方まで広がっていた二藍の版図も、延宗が誕生してからは大きく南に追いやられてしまった。

 以来、歴史の例に漏れず二国は紛争を繰り返し、大きな禍根を残したまま現在に至る。

 二藍は屈強な延宗の兵に対する防備に常に心を砕かねばならなかった。その為、二藍の歴史は守戦の歴史と云っても過言ではない。

 しかし、それが先年の延宗による武力侵攻の際に大きく変わることとなったのである。

 その原因は大きすぎる勝利であった。これまで、防備一辺倒であった戦が二藍優勢のまま終わったのである。これには二藍、延宗両国に衝撃が走った。

 騎竜兵敗れる――そのことが二藍に転機をもたらした。

 淡然は手を尽くして調べ上げ、おおよその状況を把握した。元丞付である己の耳に届いていないことが何よりも異常であった。

 今朝のことである。異変は朝より始まった。

 月初めに一度行われる評定ひょうじょうの後、淡然は意外な人物から呼び出しを受けた。公式だったものでなく、飽く迄私事の呼び出しだった。

 その相手は時の元帥げんすい(軍事の長。元丞よりも下位)盤実ばんじつであった。元丞付とはいえ、一介の文官に過ぎない淡然が元帥に名指しで召喚されるなど例にないことである。

 不穏な空気を感じ取っていた淡然はすぐに呼び出された理由を察知した。

 扉を開け、忍ぶように盤実の居室に入った。重苦しい空気がすぐに肺を満たした。

 盤実は卓子つくえに肘を突いたままの恰好で淡然を出迎えた。

 この男、齢七十を過ぎ、深い皺と傷を身体に刻み込んでいる。威厳に満ちた雰囲気は平服であっても鎧を着込んでいるかのようだった。戦場で功を上げ、叩き上げで元帥にまで登りつめた生粋の武辺者ぶへんものである。

 淡然は評定でしか顔を合わせたことのなかった盤実を前に、背筋が強張るのを感じた。十年近く刻兎に付いて、おおよその修羅場をくぐって来たつもりではあったが、さすがに刃の上に身を置き続けてきた男の放つ空気に圧倒される。

「よく来た、淡然殿」

 歳にそぐわない張りのある声である。戦場で叫ぶ盤実の姿が淡然には想起された。淡然は居室に入ってすぐにその場で一礼した。

「……御用件は」

「老人を急かすものではない。耳が遠いのだ。もっと近くに来てはもらえまいか」

 淡然には冗談に聴こえなかった。暗にこの顔合わせが重大だと示している。

 淡然は卓子の前に立った。椅子の傍に片刃かたなが掛けられているのが見えた。盤実が抜き身を抱いて寝ているという噂の真偽を目の当たりにした気がした。

「……して、御用件は」

 盤実は太い眉毛の下に隠れた目を見開いた。

わしは回りくどいのが得意だが、実は苦手でな。真っ直ぐにしか走れぬ擬竜相手に頭の痛い思いをしてきたものだ。単刀直入に云おう――淡然殿、主を裏切らぬか?」

「主とは……我が君のことでしょうか」

「ふふ、言葉に長けた男だと聞いていたが、その通りであったか。面白い。何故今まで表に出てこなかった」

「性に合わぬ故」

「嘘は下手なようだな……さて、戯れはここまでだ。その忠義、何処いずこに向いておる?」

 淡然は盤実の底を計りかね、観念せざるを得なかった。ただ戦が強いだけでこの椅子に座っているのではないことをった。

「用件は存じております。しかし……未だそのお心を知らざれば」

「慥かにそうだな。凡そ戦とは、兵だけでもまらず、将だけでも極まらぬもの。貴殿は今、将を欲しておるのであろう? 敵の将は見えておるが、敵の兵が見えぬ。迂闊に動かせば命取り。敵を知ることは大事である。貴殿から視た今の二藍を述べてみよ」

「……なれど」

「貴殿はいい将になれそうだ。兵法にも通じておるようだしな。案ずるな、儂は刃を好まぬ。それに、もとよりその覚悟はあったのであろう。でなければ此処には来まい。淡然殿、儂は一度たりとて我が君と二藍を思わなかった戦はないぞ」

 淡然は心を見透かされた思いだった。

「しからば……二藍は今、疲れております。度重なる戦の波に民はいておりましょう。昨今の消費の早さは尋常ではありません。一度でも兵を動かせば、民ひいては国家の寿命が縮まります。禁忌の地の開拓は進められておりますが、飽く迄も民の感情の矛先を避けるが名分。少ない予算では不足は現地調達という有様。先祖の遺産があればこそ、こうして立ち行くものだと思えば、永くは続くまいと……しかし、そのことは方々は十分承知でございましょう」

「目指すところは同じ。故に内憂とは呼びたくないものだな」

「領土の拡大、敵国の排除――まさに理想ではありますが、時機を見誤れば」

「尚早と見るか、否か、であるな。延宗には敵が多い。今は挨拶のようなものだが、いずれは本気で矛を交えねばならぬやもしれぬ。あの者には勝算があると見ゆる。それはどのようなモノと貴殿はお考えか?」

「一つ――唐城とうぎ美丈みたけ楽粕らくかすとの連合――でしょう。延宗に国境を侵されているのは二藍に限ったことではございません。先の大勝を機に、周辺諸国と足並みを揃えての包囲だと思われます。慥かに、延宗を討つには好機ですが、兵を動かすには……」

「捨て身になりかねんな。この老体一つならば惜しくはないが、国一つを賭けるとなると話は別――たとえ延宗を討てたとしても、根絶やしにでもしない限り禍根を遺すは必至か。そのうえ他国を巻き込むとなると、再び新たな争いの火が生まれような――つまり淡然殿、貴殿は二藍の力のみで延宗を討てと?」

「そのようになればそのように。決して他国に借りを作ってはならぬと思っております故。それに……諸国が必ずしも盟約に乗ってくるとは思えません。それが、私が最も恐れることでございます。擬竜の名は今や生まれたばかりの子でも知っている程です。国境付近の村落では擬竜の名で子が泣き止むと云います。ましてや擬竜を目の当たりにした者ならば慎重にならざるを得ないかと……」

 淡然は、盤実の傷だらけの手を見た。

「うむ。二藍は勝ち戦をあまりに知らな過ぎた……これは儂の罪かもしれんな。勝利の後にこそ最も慎重にならねばならぬ。大きな勝利は外患を滅するも、内憂を育てる。これを叩き込んでおくべきだった。淡然殿、気持ちは決まっておるのだな?」

「……はっ」

「おぬしと話してよかった。凡その調べはついてあるのだろうが、あの者のことをもう一度洗いなおしてはくれぬか? 何か見えるやもしれん」

「御意――しかし元帥、この事を我が君は……」

「御主君は聡明なお方だ。それにこのお方も儂に賛同しておられる」

 盤実は居室の柱に目を遣った。するとその陰から一人の中年の男が現れた。ふくよかな恰幅に気品を備えた髭を蓄えており、その佇まいには高貴な風がある。

「か、夏楠かなん様っ」

 淡然は恐縮しきって、すぐさま跪拝した。

 夏楠と呼ばれた中年の男は二藍の王の実弟である。さしもの淡然もこれには肝を冷やした。夏楠は品のある口調で喋りだした。

「淡然よ、楽にしていい。そなたの言葉を盗み聞いたことを申し訳なく思う。畏まらねばならんのは寧ろ私の方だ」

「ははっ」

「堅い男だな。しかし、盤実の申すとおり忠にあついようだ。そなたの考えは聞かせてもらった。どうだろう、力を貸してはもらえないだろうか?」

「無論でございます。しかし――」淡然は躊躇いの色を見せた。

「何だ? 申してみよ」

「夏楠様、まもなく御息女の婚儀でございましょう。そのような時節に火の粉を被るような真似はお控えなされるべきかと存じます」

 淡然の云うとおり、夏楠の娘は婚儀を控える身であった。相手は若くして高位の将軍職に就任した名家出の有能な男である。この男は盤実がよく目をかけていた者だった。夏楠は淡然の憂慮を聞いて一度頷いた後、笑ってみせた。

「だからこそよ、淡然。私の娘は一人きりだ。自分で云うのも何だがとても可愛がっておる。故に娘の大事な時期に敢えて兵を動かすこともないだろうというのだ。親心かな。妻のいないお前にはまだ早いか――」

「は……」淡然は独り身である。

「存外、事は容易く済むかもしれん。盤実が武官を抑え、そなたがあの者の首を押さえる――なあに、どうということはない。私がついておる。案ずるな」

「……承知」

 淡然は盤実の居室を後にした。何故か敗北に似た心境が淡然の胸の内に踊っていた。しかし恨めしく思う気持ちはない。むしろ二藍に人在りと知らされた心地よさがあった。

 あの者――淡然はすぐに刻兎を思い浮かべた。


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