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慈愛を罪する 2

 後ろ髪を強く引かれる想いだった。

 どうなったのであろうか。司望しぼうと名乗った小さな追手の短刀は、咲野さきのの肩を深く切り裂いていた。じわりと白い着物を侵食していく赤黒い血の影が瀬納せのうには強く残った。

 あのままではおそらく――。

「咲野は……」

「ははうえ、文目洞あやめどうだ」

 咲方士さくほうしは瀬納の不安の声を吹き飛ばすように云った。

 子が指差す方向には暗がりの中にぽっかりと大きな口を開けた洞穴がある。そこはたしかに文目洞だった。瀬納の記憶にある十年近く前のそれと何ら変わりがなかった。

 あの日のままのようでもある。

「着いたのね」

 瀬納は覚束ない足元に気をつけながら、咲方士を連れて文目洞の中に入った。

 文目洞の中は昼間の光が取り残されたようにかすかなかな明るさに満ちていた。入り口へ続く道は月の光が生い茂る樹々によって遮られ、墨汁に足を浸すような心地であったが、この明るさは何なのであろう。

 目の前にある石で組まれた祠は一層明るいように感じられた。

「やっぱり聴こえる……水の音と風の音だ」

 咲方士は耳に手を当てながら云った。

「どうしたの?」

 きょろきょろと首を動かす咲方士に問うた。するとその目線がある一点に留まった。石の祠のちょうど真上、陰になっていて何も見えぬ部分である。

 瀬納は目を凝らすもそこにあるのは影。しかし咲方士は祠の前に駆け寄って祠の上を見上げて指差した。

「ははうえ、あすこ、道だ。抜け道になっておる。きっと外につながってるぞ。あすこから風の音が聴こえるんだ」

「道……?」

「ううん、見えぬか。火でもあれば。あ、ちょっと待って、おれが登って見せれば早い」

 咲方士はそう云うと注連縄しめなわを飛び越して石の祠に足を掛けた。

 いけません、と瀬納は言葉が喉元まで出掛かったが、もし本当に抜け道があるのなら、神威しんいも甘んじて受けようという気になった。

 瀬納は祠の下まで行き、命の神に許しを請いながら咲方士の足が滑らぬよう見守った。

 ――願わくば、この子に幸多からんことを。

 咲方士は祠の上まで登りきった。

 穴は大人が十分に通り抜けられるだけの幅がある。

「ははうえ、ほら、ここから奥に道が続いて――」

 その時、文目洞の外から男達の声が聴こえてきた。

 咲方士に身を隠すように云い含め、忍んで外を窺うと、追手と思われる者達の灯りの色が樹々を照らしていた。

 灯りは徐々にこちらに近付いて来る。

 瀬納は決断しなければならなかった。

「咲方士、聴こえる?」

「ははうえ……」

 外にいる追手には咲方士も気付いており、怯えた声はか細い。

 瀬納は幼いわが子の行く末を案じ、胸を抉られるような想いだったが、気を抜けば八つ裂きになりそうな心を繋ぎとめ、引き絞るような声で云った。

「――お別れです」

「なっ……ははうえ!」

「お前はその道から逃げ延びなさい。私はここに残ります」

「なんでっ、ははうえっ、早くこっちに」

 瀬納は頭上の息子に優しく微笑みかけた。

「もう、この足では登れないの――」

 痛みを堪え、瀬納は血で貼り付いた草履を剥した。血まみれの足があらわになった時、咲方士は言葉を失った。

「わかるでしょう? だから咲方士――いきなさい」

 瀬納は湿った草履を傍らに丁寧に並べると、祠の前で跪いた。

 額を地面につけて瀬納は祈った――まだやるべきことが残っている。その為にどうか一人の母の愚かな願いを聞き届けてはくれますまいか。

 祠の上で咲方士は母を呼び続ける。立ち上がった瀬納は降りようとする咲方士を叱咤し、制止した。

 そして祠に安置されていた朽ちた鎌を抜き取った。

 掌に鋭い痛みが走るが、不思議とすぐに手に馴染んだ。

 鎌――あやめの指を握ると何故か心が太くなってゆく。神の骨とわれるのは、確かな真実のように思える。

「来てはいけない……咲方士、母の云うことが聞けぬのなら――」

「聞けぬっ」

 瀬納は目を見開いた。

「――怒りますよ」

 咲方士は威圧され、わんわん泣き出した。なんで、なんで――とその場で泣き崩れる。

 瀬納は慈しみ、それでいて詫びる声で、そっと咲方士に呼びかけた。

「許してちょうだい……お前と朝陽あさひを見る約束も、守れそうにない」

 洞穴の外で、追手の声が大きくなる。火の灯りが洞穴内にまで入り込んできた。

 冷たい鎌を握り締め、瀬納は云った。

「いきなさい咲方士、早くっ」

 咲方士は眼下で屹立する母の色が少し薄くなったように感じた。着物の袖で涙を拭い、背後に続く空洞を見据える。微かな水の匂いと風の音が聴こえてくる。

 咲方士は母をもう一度振り返った。しかし背を向けた瀬納の顔を窺い知ることはできなかった。

 ――約束じゃ、ははうえ。

 そう云おうとして言葉が出なかったのは、幼い心が、残酷であると感じていたからだ。

 母の命はもう――。

 咲方士は母の後姿を見、そして背を向けた。一つとして光のない暗闇の中を、わからぬままに小さな手足で掻き分けた。

 瀬納は子の泣き声が遠ざかっていくのを感じると、鎌を右手に携えたまま文目洞の外までゆるりと歩き始めた。後には血の足跡が残った。

 周囲をすっかり取り囲まれている。すでに追手は自分の存在に気付いているということだろう。

 瀬納は鎌を斜めに構え、灯火に照らされた追手の顔を認められるまで歩を進めた。

 ざわざわとどよめく追手は見知った顔の里の男達であった。数十人はいる。

 その中央に一人――側近の亜麻呼あまこの姿がある。

「瀬納様、よくぞここまで逃げ延びたものです。感服致しました」

 左右を守られている亜麻呼は云った。追手の各々の手には斧や鍬といった農具が握られている。どの顔にも困惑の色が浮かんでいた。

 瀬納は険しい表情で知った顔を見たが、一様に目を背けるばかりだった。

「罪状を、読み上げましょうか? いいえ、衆目の前でいらぬ恥をかくことはありますまい。温和おとなしく縄については如何か。これ以上は醜くなるばかりです。私としても、その方が望ましい――騒擾そうじょうの罪は重うございますよ……隠匿いんとくの罪よりも」

「……」

「さあ、武器をお下げください。その鎌がどのようなモノかわからぬはずは」

「――わからぬでしょうね、わたしでなければ」

「この場においてそのような戯言を……捕らえよ」

 里の男達は瀬納ににじり寄った。斧や鍬を得物に瀬納を威嚇する――が、男達は口々に声にならぬ声で瀬納に向けて詫びの言葉を漏らしていた。

 許してくだされ瀬納様、許してくだされ瀬納様、許してくだされ瀬納様――。

 瀬能は水平に鎌を振るった。

「下がりなさい! そのような神聖な道具を我が血で汚すことはならぬ!」

 亜麻呼は怯んだ男達に向って大喝する。

「何をしている!」

 しかし男達は動こうとしなかった。瀬納は静かに歩き始める。里の男達は悠然と前に進む瀬納に道を譲るしかなかった。

 やがて瀬納は亜麻呼の前に辿り着いた。亜麻呼は役に立たぬ男達に一瞥をくれると怯むことなく瀬納に対峙した。

「お強うございますな、瀬納様。ところで、お子はどうなされた」

「亜麻呼殿、子が罪は親が罪――そうでしょう?」

「何を云ってか、瀬納様」

 瀬納は亜麻呼に朽ちた鎌を見せた。

「このあやめの指は、上古じょうこ、海と大地を創り給うた上帝三樹神じょうていさんじゅしんの一柱、命の神の骨と云われております。この鎌は命を刈ると共に、後に命を紡いでゆく――。私は……あまりいい母ではなかった。それでも、あの子の親で――よかった」

「ここにきて神話ですか。それが何だというのです」

 瀬納は朽ちて毀れている鎌の刃をその細い首に当てた。

「何をなさるっ」

 瀬納は微笑む。が、指は密やかに恐れを刻む。

「詫びねばなりません。どうか、あの子を嫌わないでやってくれと――そして、私の血で汚してしまうことを」

 篝火かがりびに照らされ、多くの影を含んだ血が夜空に向って噴き出した。身体から力が抜け、落とした鎌の上にゆっくり倒れこむ瀬納。

 途切れる意識の中、空気が混じってかすれてしまった声で何度も息子の名を呼び続けた。そして最期の最後に思った。

 ――世界中の子供が悪夢を見続けてもいいから、どうかあの子にはいい夢を見せてあげて欲しい。――消え去る心のうちで苦笑した。

 血溜まりになったその場所からやや離れたところで、司望は彼女の最期を見届けていた。

 そして司望はたしかに見た。倒れた瀬納の下にあったあやめの指が、まるで息を吹き返したかのように輝きを取り戻したことを。

 さらに再び朽ちていき、最後には土にかえってしまったことを。

 司望は凡てをひとみに焼き付けた後、夜に消えた。

              ※

 何も見えぬ、何も感じぬ。

 ひたすら暗闇の中を掻き分け進んでいく。一向に出口らしきものは見えてこない。自分の手すらも見えない暗黒の中、咲方士が信じられるものは己の感覚のみ。

 視界はきかぬ。むき出しの肌で以って壁を掴み、土を踏みしめ、進むだけである。

 どこまで行っても闇。どれだけ進んだのか、どれ程の時間が経過したのか。

 何もわからぬ。ただ独り、己の鼓動を聞くのみだった。

 そんな中、自分のモノとは別の鼓動が聴こえてきた。

 ――ドクン、ドクン、ドクン。

 聞き憶えのある鼓動。懐かしい響き。その心音に導かれるように咲方士は手を伸ばした。

 目が覚めた。気付くと伸ばした手の中に温かな感触があった。

 何故か咲方士は姉の手だと思った。

 それはすぐに姿を露にした。

 手にしたモノの向こう、夜の端が徐々に白み始めていたのである。山の端から僅かにこぼれる白い光が掌に伝わる温かなモノの輪郭を描き出した。

「あやめの指……何故ここに――うっ」

 咲方士は昇る陽の光に目を細める。顔を朝日の熱が撫でる。

 ふと気付けば見たこともない大樹に寄りかかっていた。

 ――ああ、これが夜明けか。


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