水色の花 5
部下の制止する声も聞かず、淡然は夜を湛える静寂の森に歩を進める。暗い風が頬をかすめると、固唾を呑んで立ち尽くしていた兵士らは背中に冷たいものを感じた。いつ淡然が殺されてもおかしくない。にも関わらず、彼らは黙って見ているしか出来なかった。
あの多糧衛ですらそうである。彼らは元丞淡然の胆力を知ると共に、あらためてこの地が異界であるのだと思い識った。捉え方によっては戦場より怖ろしい処かもしれない。
「淡然さんっ!」
多糧衛は弱腰になっている己を振り払うかのように叫んだ。が、淡然は振り返ることなく進んでいく。そうしてある場所で足を停めた。
「私は二藍の元丞――淡然と申す。突然の非礼を詫びたく参上した。我らに干戈を用うる意思はない。どうか姿を見せられたい」
淡然は丁寧に言葉を選び取った。飽く迄も交渉に持ち込みたい。撤退を選択出来ない二藍にとって、交渉の決裂は武力侵攻を意味する。それだけは避けたいところである。
「私は二藍の元丞――淡然と――」
突如として後方から爆発音がし、ほぼ同時に火の手が上がった。太った黒煙が夜空に昇ってゆく。火矢によって幕舎が燃やされたのだろう。燃料を保管しておいた幕舎らしく、飛び散った火の粉が森に降り注ぐ。早く消火しなければ燃え広がってしまう。
「まずいことになった……多糧衛、しくじるなよ」
須臾のち――周囲の繁みから物音がした。かと思うと、十数人の原住民がゆっくりと姿を現した。淡然はそれを見て思わず言葉を呑み込む。彼らの中には女や老人が混じっていたのである。さらには不安そうに大人の着物を掴む子供の姿も見える。
彼らはみな撫子と同様に銀色の髪と眼をしていた。
「な、何しに来たッ! 外の人間が!」
中央にいた若者が叫んだ。その手には粗末な弓が握られている。あの程度の弓ならば人を殺すことは出来まい。それにどうやら弓矢の扱いにも慣れていないようである。淡然は僅かに警戒を解いた。あの戯れのような攻撃は狙いでも何でもなかったようだ。
「礼を欠いたことは詫びます、私は話し合いに来ただけなのです。火は私の部下が消しておりましょう。――信じては貰えまいか」
「信じられるか! 出ていけ!」
老人が手斧を突き出して前に出る。すると淡然の背後から幾人かの守備兵が走り出てきた。槍を構え、原住民を威嚇する。淡然は叫んだ。
「よせ! 彼らは敵ではない!」
されどすでに遅く、彼らの切っ先が原住民を刺戟し、ますます興奮させた。兵士らは警戒を厚くし、淡然を庇うように取り囲む。
その時である。
突然その場に一人の女が違う方向から飛び込んできた。太腿も露に裾をたくし上げ、息を切らしながら何かを探しているように見える。原住民と守備兵の間に割り込んだ。高貴な人物らしく、原住民は周章てて女を守るために壁を作った。
その女こそまさに咲野であった。
「ここにはおらぬのか……それにしても、何が起こっておる」
咲野は鋭い目つきで原住民を睨み、そして淡然らに目を遣ると僅かに驚きの色を見せた。
「そうか……ついにここまで。おぬしら、外の人間だな?」
淡然は兵士らの囲みを押し退け、前に出た。
「如何にも――あなた方は月の里の民……ですね? 私は月魄にお会いしたいのです。すぐでなくともいい、まずはお伝え願いたい」
「何ゆえ月魄を……」咲野はハッと気付く。
「もしや、おぬし――」
咲野が言葉を継ごうとした直後、二度目の爆発が起こった。最初のものよりも大きく、夜を脅かすほど巨大だった。風が巻き起こり、炎は煽られる。
淡然は守備兵に向かい、ただちに戻って消火するよう命じた。そして咲野に向き直ると深々と頭を下げた。
「私の不手際によりこうなってしまったことは詫びますが、今は言葉を尽くす時間がない。森が燃えてはまずい。この地は我が朋友の故郷なのです」
御免――そう云って淡然は橋のほうに走り去った。
最初の爆発が起こった直後、多糧衛は橋を警護するため数十人の守備兵とともに待機していた。ほかの兵は消火に回している。
「何で破裂なんかしやがったんだ!? クソッ!」
多糧衛は槍の石突を地面に突き立て、喚き散らした。付近に設営していた幕舎は跡形も失くなり、その傍を炎が蹂躙している。木々の葉に火が燃え移り、毛虫が這うほどの速度ではあったが拡大を始めていた。
「幕舎は後回しだ! まずは森への延焼を防げ! でねえと元も子もねえ!」
そうして多糧衛が忙しなく走り回る兵に指示を与えていると、ふと桟道を渡ってくる集団が目に入った。かなりの規模らしく、列は長い。どうやら女神の爪痕の外部にいた待機部隊が異変を察知してこちらに向かっているようである。多糧衛は息を吐いた。
「救援か……有難ェが、さっきから嫌な予感がしてしょうがねェ」
やがて救援部隊は架け橋に差し掛かった。
と、その刹那――二度目の爆発が起こった。凄まじい爆音が多糧衛の耳を貫く。爆風に巻き上げられた小石を防ぐため腕で顔を覆った。
「くっ――またかッ!! でけぇぞコリャ!」
両腕の隙間から薄目を開けると、巨大な煙の柱が夜空を衝いていた。根元には轟々と燃え盛る火炎が息巻いており、容赦なく叩きつける熱風が多糧衛の鼻先を灼いた。消火にあたっていた兵士らの一部は爆発に巻き込まれたらしく、傷ついた身体を横たえている。
「おいっ、大丈夫かお前ら!?」
多糧衛は云いながら駆け出した。と、背後の異様な気配に気付く。
そこには炎に焼かれつつある架け橋があった。二度目の爆発により大きく揺さ振られ、飛び散った火の粉や焼けた木片から炎が移ったのである。ちょうど橋上にいた救援部隊はひどく動揺し、体勢を保つべくめいめいが掴み合っていた。
橋はぎしぎしと不快な音を立て、ぐらつく。よく乾いた楡の橋梁はその頭上に炎を滑らせ、瞬く間に部隊を襲った。
「お前ら! 退けッ、退け! 死ぬぞ!」前後を塞がれた多糧衛は咆えた。
そこに駆けつけたのは淡然である。焦燥を顔に浮かべ、多糧衛に仔細を問うた。
「どうもこうもありやせんぜ、早く火を消さねえと……いや、もう手遅れかもしんねェ」
すると、遅れて咲野もやって来た。どういうわけか里の民は連れておらず、ひとり毅然にも淡然の目の前に立った。
「おぬしら、何をしておるか」
「貴女は……」淡然は振り返った。
「何をしているかと問うておる。早くあの橋の火を消さぬか! おぬしらの同胞が危険な目に遭うておるのじゃぞ!?」
咲野は淡然を睨み、続いて多糧衛を睨めつける。多糧衛はその巨躯をビクリと怯ませ、まるで母に叱られたように周章てて橋の消火に向かった。
淡然は唖然として咲野を見つめた。
「あの橋はあなた方の生活を脅かすもの……それを何故」
「何をごちゃごちゃと。人が死んで喜ぶ者が何処におる!? おぬしも早う往けっ、森の方は里の者に任せておる。ここは私らで何とかする! よいな!」
咲野はそう云って自らの着物を脱ぎ、襦袢姿になった。そして消火のために用意した水桶に脱いだ着物を浸し、それを持って駆け出す。淡然はまだ理解が追いつかない。
「ボケッとするでない! 私らにも出来ることがある」
「は、はいっ」
淡然は萎縮し、素直に従った。慥かに、たとえ小さなことであろうとも、自分達に出来ることがある。否、それは自分達にしか出来ないことではないか。
一国の元丞である淡然だったが、この時は何もかもを忘れ、咲野とともに必死に濡らした着物を其処此処に点在する火に向かって振るった。
しかし――時は無情にも過ぎてゆく。
火は水のように侵食し、拡がってゆく。
咲野や淡然らの懸命な努力も虚しく、森はおぞましい紅蓮の炎に染まっていった。
救援部隊は撤退を始め、橋を放棄するほかなかった。こうなれば橋を敢えて落とし、桟道への延焼を防がねばならない。開拓事業の宿願は架橋の完成であったが、そのほとんどの労力や資材は桟道に費やされていた。桟道を失うことはこれまでの数十年、そしてこの先の数十年を失うことを意味する。
「淡然さんッ、もういけねぇ!」多糧衛は熱風に顔を歪めながら叫ぶ。
「まだだ! まだ諦めるわけには」
淡然は己に云い聞かせるかの如く声を振り絞る。炎の勢いは強く、もはや人の手ではどうすることも出来ない。そのことは淡然もわかっている。しかし、ここで諦めることが何よりも大きな裏切りだと心が感じたのである。
「火の勢いが強い! あの方はどこか……!?」
淡然は咲野を探した。風に躍らされた炎は地上に貼りついた影を変幻自在に操り、目を眩ませる。その中でやっと見つけた咲野は、何かに魅入られたように屹立していた。
咲野は何かを見ている。その目線の先には架橋があった。
「あの者は……」咲野は呟く。
淡然が咲野と同じくして視線を滑らせると、果たして、その先には撫子の姿があった。撫子は橋の真ん中でゆらゆらと陽炎のように佇み、迫り来る炎に身を委ねんとしている。沓は履いておらず、素足のままである。
突風が巻き起こり、撫子の頭巾が吹き飛んだ。風に泊された美しい銀の髪は赤い光に染められて艶かしく流れ、露になった彼女の貌は少女のそれではない。銀の瞳は仄かに濡れていた。
「撫子……」
淡然は驚きのあまり言葉を継げなかった。そこにいるのは紛うことなく撫子である。が、まるで別人のように冷たい。あまりの変貌に彼女ではないとさえ思った。
――撫子はゆっくりと右手を前に翳す。
すると信じられぬことが起こった。
撫子の立っていた橋から無数の木の根が凄まじい勢いで伸び始め、互いに絡まりあいながら炎を呑み込んでいったのである。火に焼かれながらも次々に新しい根が生み出され、そこからさらに枝葉や蔦が発生して、ついには炎を凌駕する。
撫子が一歩を踏み出すと、根や枝葉は道を造るように前方に向かって進み始めた。
そして勢いは加速度的に増してゆき、津波のように燃え盛る森に突き刺さる。されど不思議なことに、根は咲野や淡然らといった人々を避け、炎だけを殺していった。大地が揺れるほどの衝撃が森を覆いつくし、後に残ったのは絡まり合う樹木群だけであった。
中空――つまり橋の上にはひときわ大きな樹が聳え、その巨大な幹から伸びた根は焼け落ちようとしていた橋梁をすっかり呑み込み、女神の爪痕を繋いでいた。
淡然は目の前の光景に圧倒されている。その傍で咲野が声を漏らす。
「神の……加護か……」
辺りはしんと静まり返った。本来の静寂が戻ってきた。
撫子は根が張り巡らされて出来た地面を素足で踏んでいき、ある場所で立ち止まる。
そこは女神の爪痕の終わり、未開の地の始まりの位置である。
淡然は固まっていた首を動かし、撫子を見上げた。
煌々と降り注ぐ月光の中、彼女は遠くを見て泣いていた。
「もう……戻れなくなってしまった…………会えなく……なった」
そして撫子は悲哀に染まった銀の瞳を淡然に投げた。
「淡然様――これが『撫子』の、貴方様への最後の奉公でございます」
彼女の周りには濃厚な闇が満ちている。まるで夜の衣を纏うかのように、その身体を包み込んでいた。撫子はゆっくりと踵を返し、淡然から離れてゆく。
やがて闇が覆いつくし、撫子の姿は夜の中に消えた。
※
「思ったより遠いな」
咲方士は目を凝らし、森の中を彷徨っていた。幸いにも木々の間隔は広く、眩しいほどの月明かりは地面まで届いている。夜目が利くとはいえ、これほど月を有難く思ったことはない。
女神の爪痕を越えたことだけは確かである。
暖かい風に導かれ、繁みを抜けた先にあったのは洞穴でも大樹でもなく、女神の爪痕であった。気付けば気の遠くなるような絶壁の上に立っていたのである。足の下では野鳥が飛び交い鳴いている。冷たい風が垂直に吹き上がり、咲方士の鼻先を嘲笑うかのようにくすぐった。
目の眩む光景である。陽が落ちたので余計に底が知れない。思わず息を呑んだ。
恐る恐る一歩踏み出してみる。
と――咲方士の足に並ぶように何処からか木の根が生えてきた。次にしゅるしゅると蔦が絡み合い、根の隙間を結んでゆく。さながら自然の架橋である。
こうして咲方士は爪痕を越えた。
が、着いた早々に迷ってしまった。
「あの時は姉上と一緒だったな……その次は母上だ。こうなるとわかっておれば、目印をつけたものを」
咲方士が探しているのは文目洞である。脳裡に描いた地図による目算では、里よりも先に文目洞に着くはずだった。そこにさえ辿り着けば、里まではすぐであろう。もう十年以上も昔になるが、忘れられるはずがない。
ついに文目洞に辿り着いた。あの時と変わらず、不気味な大口をぽっかりと開けている。
懐かしさに駆られ、足を踏み入れると微かに光が満ちていた。これも変わらない。
「……」
咲方士は空になった祠の上を見上げた。泣きながら母を呼ぶ幼い己の姿が見える気がする。今では母の背よりも高くなってしまった。祠はもっと大きくはなかったか。
確かめるように祠に触れた。湿った岩が咲方士の指を濡らす。銀の髪留めを撫でてみる。すると注連縄の傍に古びた草履を見つけた。時が経ち、大分朽ちている。
震える息を吐きながら、その草履に両手を翳した。持ち上げればそのまま崩れ落ちてしまいそうだったのだ。
「泣くばかりであった……ありがとう、母上――」
不思議と悲しくはなかった。
今ならわかる――自分は、深く愛されていたのだと。
咲方士は文目洞を後にした。すると入り口の傍に見知らぬ人影が立っている。逆光でその姿は知れぬ。地面に届きそうなほど腕が長く、腰のあたりが不自然に括れている。前屈みになっているらしく、両肩は丸い。息遣いもどこか荒々しい。
何よりも濃い殺気と腐臭を漂わせている。
「む……」咄嗟に鉈を構える。
咲方士が腰を低く保つと、目の前の人影は瞬時に飛び掛ってくる。素早い襲撃をすんでのところで躱すと、その影が月光にうち消えた。
赤毛の猿であった。身長は咲方士を優に超え、二足で立っている。体毛は薄く、頭頂部が禿げていた。だらりと腕を引きずるようにぶら下げ、咲方士を見るとけたけたと哄笑った。
「のおま――いった――お前は誰デスか」
咲方士は人語を話す猿に目を丸くする。
「猿が喋った……お前こそ誰だ」
猿はなおも哂う。大きく裂けた口からは涎が糸を引いている。
「ワタシ、若いです。わからナイ――まだナマエ――喰えバお前わかる、イイマシタ――のおまホントですか? のおま? よくなるアタマ」
「なんだこやつは」
「ア――?」
猿はぽかんと口を空け、動きを止める。次の瞬間、だらりと力を抜いたかと思うと猿は上空に飛び上がり、咲方士の背後に降り立った。そのまま爪撃を繰り出し、背後を襲う。咲方士は咄嗟に前方に逃れるも、僅かに爪が入ってしまった。
「かっ――何だ!?」
咲方士は地面を転がり追撃を躱すが、起き上がりざまに追いつかれ、激しい殴打を浴びた。息が乱れ始め、弱々しい声が上がる。猿は目の前の獲物が弱ったのを確認すると、ゆらりと近づき咲方士の右脚に噛み付いた。
激痛に顔を歪めた咲方士は何とか歯を食いしばり、腰に差した鉈を抜くと猿の顔面目がけて振りかざす。かんっ――と骨を裂く乾いた音が響き、鉈は深々と突き刺さった。
猿はよろめき、前後を失ったようにジタバタとその場で舞った。
「図に乗るな、猿め」
「あう――あう――コレ、怒ります。怒ります――のか?」
猿は血塗れの鉈を抜き、こぼれ落ちそうになった目玉を引きちぎると残った目で咲方士を見据えた。まだ嗤っている。
咲方士は殺気が高まってゆくのを感じた。が、身動きが取れない。傷は思ったより深く、立つのがやっとであった。
猿は微笑を浮かべ、仕留めた獲物を食い尽くすべく飛び掛った。




