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慈愛を罪する 1

 代々の月魄げっぱくが住居とし、そのうえ政務を執り行う邸宅を『光寒宮こうかんきゅう』という。

 かつて里の始祖が夫でもある弟とともに暮らした場所に、民の心のり所として建てた宮殿である。とはいえ外観はきわめて質素。中の造りも欄間や柱にわずかな彫刻を施すといった最低限の装飾があるだけで豪奢とは程遠い。

 だが、民にとって月魄は始祖の遺志を体現する象徴であり、光寒宮は精神的に格別の場所であった。

 瀬納せのうは夫である比詩木ひしきに連れられ、月魄の座する光寒宮に赴いていた。

 突然の召喚に、不吉な予感が瀬納の胸に渦巻く。

「ここまで虚偽を突き通すとは……見上げたものよの」

 牀蓐ねどこにかかった御簾みすの向こうで老環ろうかんは云った。瀬納は予感の的中を心で嘆いた。

「何のことにございましょう」

 瀬納の首筋に冷たいものが走る。その傍らで比詩木は妻を疑うような目をしていた。

 老環はかすれた声で笑う。

「比詩木がこどものような顔をしておるぞ」

 瀬納はちらと夫に目を遣った。しかし視線がかみ合うことはない。

わしはのう、瀬納よ――人よりも夜目がきくのが取り柄での。比詩木、よく聞け」

 名を呼ばれた比詩木は小さく返事をした。

「そうだな……瀬納のやりようを見習うならば――比詩木よ、お前の妻は密通をしておったのだ。わかるな?」

 瀬納は目を見開いた。月魄はすべてを知っている。凡てを知ったうえでこのような『嘘』を吐いている――。

 瀬納はこの時、妻からも信頼する月魄からも嘘を吐かれた夫を哀れに思った。

「ま、誠でございますか……」

 比詩木の声は萎み、震えた。その震えが怒りから来るものなのか、驚きから来るものなのか瀬納にはわからない。咲方士が生まれてからは長らく母子ともども遠ざけられていた。愛情などとうに尽きていたはずだ。それなのに、何を。

「当人に訊くのが早かろう。なあ、瀬納よ」

 凡てを知りながら、息子の髪とひとみの色について云う素振りはない。

 月魄は飽く迄も自分を不義の者として処罰するつもりだ。せめてもの恩情か、或いは黒い睛の言い伝えを同じく危惧したものか。どちらとはわからないが、息子の命までは取られることはないのではないか。

 瀬納は両膝を突いたまま拳を握り、唇を噛み、押し殺した声でこう云った。

「不義の……子にございます」

 比詩木は醜い物でも見たような目で瀬納を見つめた。貞淑な妻だとばかり思っていたものが突き崩されたのだ。不運ではあったが、好い妻であった。

「さてもさても……お前達の夫婦仲は広く知れ渡っていたというにな。――瀬納、何故このことが明るみに出たか……わかるか?」

 嘘は続く。

「いいえ」

 真実、姦通でも行っていれば相手から漏れたとも考えられよう。しかし心当たりがない瀬納には到底思いつかぬ。

 老環が、入れ、と云うと側近の亜麻呼あまこが部屋の扉を開けた。

 そこにはかつて息子を取り上げた産婆が立っていた。産婆は怯えた表情で立ち尽くしていたが、瀬納の顔を認めるや否やその場に泣き崩れた。

「瀬納様……」

 声もなく笑うと老環は云った。

「脆いものよのう――そう思わぬか」

 老環は御簾の向こうで体勢を変えると、事態を呑み込めていない比詩木に云った。

「さて比詩木よ、瀬納の不義の相手をその手で殺したいところであろうが……わざわざお前の手を汚れた血で濡らすのは忍びない。瀬納とその者との処分、儂に任せぬか?」

「は、はい……」

「うむ。しかして比詩木、これから朔の血には跡継ぎが望みにくいよのう。そこで儂に案があるのだが、これも任せてみぬか? お前のもう一人の妻は身体が弱い。次を産もうにもやや心許ない。新たに妻をめとろうにも……のう?」

 老環は瀬納に目を遣った。比詩木は老環につられて妻を見た。その目はすでに拒絶の色をした目だった。

 比詩木は黙って頷く。もはや考える力すら残っていない。

 ――ああ。瀬納は嘆く。

「そして……不義の子の処分であるが」

 瀬納は、これだけは譲れぬと顔を上げた。

「それは何卒っ」

「不義の者が、この期に及んで何を云う?」

 瀬納は立ち上がって老環の牀蓐に駆け寄ろうとしたが、すぐさま亜麻呼に取り押さえられた。髪を振り乱し、それでもなお瀬納は続けた。

「なりませぬっ、親の罪を子に背負わせるような真似は!」

「控えよ」

「いいえ、引きませぬ。あの子はっ、あの子だけは!」

 暴れる瀬納を亜麻呼は力ずくで床に押さえつけた。比詩木の顔には絶望の色が浮かび上がっていた。それ程、不義の子が大事か――と。

「瀬納よ、悪いようにはせぬ。死に場所を与えてやるだけだ。醜く朽ちて鳥に死肉をついばまれるよりはよかろう。そしてお前の云うように、親の罪は親の代で終わらせねばならん――そうであろう?」

 瀬納の身体からふっと力が抜けた。瀬納は床に突っ伏したまま嗚咽の声を漏らした。

「……脆い」

 老環が小声でそう云った時である。

 伏せていた瀬納が突如として起き上がり、扉を打ち破らんばかりに部屋を飛び出した。着物の裾を捲し上げ、白い太腿もあらわに、なりふり構わず息子のいる屋敷に向って走った。瀬納が逃げ出した後、老環は叫んだ。

「恥をも恐れぬか――――亜麻呼っ!!」

 亜麻呼は老環の命を察知した。

「ははっ、直ちに」

              ※

「お義母かあ様が……罪の疑いを?」

 家人の口から告げられた言葉を聴いて咲野さきのは耳を疑った。

 義母が罪など犯すとは思えない。だとすればこの騒ぎは一体何なのだ。

 もしや――あのことか。あの日の嘘のことか。咲野はただ一つだけ思い当たる瀬納の罪に背筋が凍りついた。

 咲方士の手を握る咲野の手に思わず力がこもった時、屋敷の奥から実母の伊於いおが現れた。

「咲野っ、今まで何処に行っていたのです」

「お母様……」咲野は咲方士を抱き寄せ、伊於に問うた。「瀬納お義母様は……?」

 伊於は着物の裾で口を押さえた。咲野にぴったりと寄り添う咲方士さくほうしの姿を認めたのである。目隠しをしたまま、ただならぬ気配だけを感じて怯えている血の繋がらぬ息子を。

「咲方士、お義姉様は……今……」

 その時、屋敷の扉を乱暴に開ける音が響いた。そして、聴きなれた、しかしそれまでに一度も聴いたことのないような荒ぶる声で子供を呼ぶ母の声がこだました。

「咲方士! 咲方士!!」

「ははうえだ」

 咲方士は母の呼ぶ声を聞きつけ部屋を駆け出した。目隠しをしたままであったが、まるで目隠しなど初めからないかのように正確に扉を開け、廊下の真ん中を走った。

 伊於は、暗闇の中に長く身を置くことの意味を見たような気がした。

「咲野はここにいなさい」

 しかし咲野も咲方士を追って部屋を飛び出す。瀬納が子供を呼ぶ声が途絶える。

 広い屋敷の中で咲方士は違えることなく母のもとに辿り着いた。

 伊於が壊れそうな程子供を抱きしめている瀬納を発見したのは厨房でのことだった。伊於は目を疑った。静淑だった義姉が胸をはだけ、髪を振り乱した姿で息を切らしていたからである。

「お義姉ねえ様、そのような恰好で……一体何があったのです」

 瀬納は伊於に気付いて咲方士を離した。

「伊於殿……咲野と……後のことは頼みます。私はこの子と生きていく」

「お義姉様、説明を」

「時間がないのです。私はもう、ここでは生きられない。伊於殿、兄弟のいない私が、短い間であっても貴女あなたと姉妹のように過ごせたことを嬉しく思います」

 瀬納は伊於に軽く抱擁すると咲方士を抱き上げ屋敷を出た。

 伊於は厨房で呆然と立ち尽くしたまま、義姉が走り去っていった廊下を見つめていた。

「私にも……お礼を云わせてくださいな……お義姉様」

              ※

 冷たく降り注ぐ月光を頼りに、瀬納は咲方士を抱きかかえて暗い山道を走った。

 あかりがあればと思うが、それでは追手に見つかってしまう。

 光寒宮から草履のまま駆け出した瀬納の足は、慣れぬ山道で血だらけになっていた。走ったのはどれぐらいぶりだろうか。激しい動悸と足の痛みを堪えながら何も言葉を発しない子のことを思う。

「ははうえ……目隠し取っていいかな」

 瀬納の耳元で咲方士は云った。瀬納は背後を確かめ、立ち止まって咲方士を降ろす。悲鳴を上げる脚に無理を聞かせ、その場にしゃがみ込んだ。

 体力はうに限界を超えている。咲方士はするすると目隠しを外した。

「よくわからぬが、あねうえや伊於義母かあさまとはもう……会えないのか」

 咲方士はじっと瀬納の足元を見ている。瀬納は、うん、と小声で頷いた。

「母と二人きりの暮らしになる――嫌い?」

「ずるいぞ、ははうえ。おれが嫌いと云うはずが……でも、さびしいとは思う。ちゃんとお別れを……もう一度、あねうえと」

「ごめんなさい……」

 月魄に云い放った言葉が瀬納の脳裡に去来する。

 罪――罪か――。この子を産んだことが親としての罪ならば、この親から生まれたことが子の罪なのだろうか。何と無慈悲な世か。こんなことが許される道理があっていいものか。

 瀬納は満天に輝く星を睨み、唇を噛んだ。

「それでも星は、月は美しいまま……何と憎いことか……」

 瀬納の脚から力が抜け、その場に崩れた。今、子と二人、何処にいるのかすらわからない。まともに里を出たことのない瀬納に行く当てがあるはずもなかった。走らなければ、子を連れて何処かに逃げなければ。それだけが瀬納の脚を動かしていた。

 ――でも何処に?

 何も知らぬ。何も出来ぬ。湧き上がる気持ちだけで闇雲に走ってきた自分が子に何かしてやれようはずはない。

 この子と生きていく――そのような言葉がただ虚しい。

 罪――。この子に何の罪があろう。

 瀬納は腰帯に差し挟んでいた黒い小柄こづかに触れた。

 せめて苦しまなければ、この子は幸せだろうか。瀬納はそう思った。そして我が子の頭を抱き寄せ、首に手を――。

「気になっていたのだがははうえ」

「……なあに?」

「前に、ははうえとあねうえとおれの三人で文目洞あやめどうに行ったって」

「咲野に聞いたのね」

「うん。それで、どうしてそこで飯を食べるのがいいことなの? あねうえに訊いてもわからぬし、今日はずっとそのことをははうえに訊こうと思っておったのだ」

「文目洞に命の神様がいることは知っている?」

「うん。それはあねうえは憶えていた」

「そう、その命の神様は食べ物の神様でもあるの。食べることは生きること。生きることは命を繋ぐこと。それは続いていくこと。みんなにとってとても大切なこと。わかる?」

「うん」

「だから命の神様の前で日頃のありがとうの気持ちを込めて食べ物をいただくの。でもそれだけじゃない。命を繋ぐには他の命が必要なの。命は命を食べて続いていくのよ。鳥が虫を食べるように、虫が葉を食べるように」

「いのちを?」

 瀬納は頷いて見せた。

「あそこに鎌があったでしょう」

「あやめの指か」

「そう、あの鎌は命の神様の指の骨。私達が黄金の実をつけた稲を刈り取る物と同じ……命のしるし」

「そっかあ……だからなんだな」

「どうしたの?」

「実は今日、文目洞に行って飯を食った。そんで、ははうえの作ってくれた握り飯がいつもよりももっと美味かったんだ――きっとあやめのおかげで握り飯が美味くなったんだな。食べ物の神様だもんな。でも残念ながらおれの好きな黒蕨は入ってなかったからさ、ははうえ、今度は黒蕨の入った握り飯を作ってよ」

「――っ」

 瀬納は言葉を失った。どうして気付かなかったのだろう――。

 あるはずもない――あるわけがない。この子の食べる権利を奪うことなど、親にすら、否、神にすらあるはずがないのだ。

 瀬納は思った。ああ――この子は、どうして私から生まれてきてしまったのだろうか。

 それでもなお――いとおしいのは――どうして。

 瀬納はこの日初めて涙を流した。

「作ってあげる……お前が望むなら、いくつでも」

 そう云いながら抱き寄せた咲方士の黒い後ろ髪を撫でた。

「すっかり髪が長くなったわね。前に切ってあげたのはいつだったかしら」

「ん、そうかな」

 咲方士は己の前髪を引っ張った。瀬納は咲方士を離すと、自分の身に着けていた銀の髪留めをその頭に着けてやった。月の光を受けて髪留めはきらりと輝いた。

「お前にあげよう。今はそれで我慢して頂戴」

「いいの?」

 瀬納は頷く。そして腰帯から黒い小柄を抜き取った――これもお前に。

 咲方士は瀬納の手から小柄を受け取った――これは?

「お前の身を守る大切な物よ。でも、これを使う時は強い心でいてちょうだい」

 瀬納は複雑な思いで、珍しそうに小柄を眺める咲方士を見つめた。いたずらに命を奪える物を心の弱い者が持つべきではない――そう思った。

「いきましょう」

 瀬納は立ち上がった。夜明けはまだ遠い。この暗闇に乗じて可能な限り里から離れておきたい。

 しかし何処へ行けばいいのか瀬納には見当もつかなかった。こんなことなら幼い時分に里の子らと外で遊んでおけばよかったと思った。少なくとも今よりは里の外での歩き方がわかっていただろう。

 瀬納が思案していると、咲方士はある方向を指差して云った。

「ははうえ、噂をすればなんとやらだ。もう少し行ったところに文目洞があるぞ」

「わかるの?」

「あねうえに口止めされてるんだけど……今日、目隠しを外したから憶えてる。あっ、でも明るいうちはちゃんと洞穴の中にいたし、外で外したのは今みたいに暗くなってからだから……その……ごめん」

 瀬納は申し訳なさそうにしている子の頭を撫ぜた。

「いいの、いいのよ。お前の目は大丈夫。今日は母と一緒に夜明けを見ましょう」

「いいの!? でも、ごめんなさい……約束を破ってしまった」

「謝るのは私……本当に……ごめんなさい」

 咲方士は瀬納の云っている意味がわからなかったが、とにかく自分を許してくれたようだったので安心した。そして母の手を取り、文目洞まで歩き出した。

 瀬納は小さな手に引かれ、文目洞のことを思い起こした。

 以前訪れたのは咲方士が生まれたばかりの頃。今こうして再び訪れようとしていることに奇妙な感慨を持った。

 文目洞に行くことがこの暗闇の中での光明になるとは思えない。しかし行かねばならぬという気がするのだった。呼ばれているような、不思議な感覚が。

 まるで長年歩きなれた道のように咲方士は進んだ。自分の手を引き、闇夜を進む我が子に瀬納は言葉では云い表せぬ気持ちが湧き上がってきた。

 いつのまに――こんなに。

 そうして少しばかり歩いたところで咲方士は立ち止まる。

 どうしたの、と訊こうとした瀬納は声が喉元まで出かかった瞬間、その理由に気づいた――何かがいる。

 咲方士は前方の脇にある木の陰を見据えている。

 瀬納は最初、獰猛な狼だと思った。たしかにそのような気配がしていたのである。しかし狼にしては気配が一つしか感じられない。それとは別に、明らかに狼とは思えないぐらい気配が強烈だった。虎かとも思ったが、この辺りに虎が出るとは聞いたことがない。

 では何なのか。それは闇に潜む気配の主が月明かりの下にその身体をさらしたことですぐに知れた。

こども……?」

 瀬納にはそう見えた。頭まで覆い隠す真っ黒の外套がいとうを纏ってはいるものの、咲方士と変わらない背丈が明らかに童のそれだったのである。

「お前か、あのとき樹の向こうで見ていたヤツは」

 咲方士は目の前の童の影にそう云った。

 童の影はおもむろに外套の頭巾を外した。

 瀬納はたしかに見た。黒の頭巾の中から現れた銀糸のような髪を。

 そして眼の中にあやしく揺らめく金色の炎を――。

金睛眼きんせいがん……まさか」

「お前、誰だ」咲方士は金の睛の童に一歩近づいた。それを止める瀬納。

「どうしたははうえ」

「わからない……でも、ダメ」

 昔話には聞いていた。始祖の弟の睛の色。獣の王と呼ばれた偉大な始祖の夫の睛。

 どうしてだかわからないが、瀬納はその妖しい金色に身体の底から震えあがった。

「あいつの眼も銀じゃないな。おい、おれは咲方士という、お前は何ていうんだ?」

 金の睛の童は虚ろな眼で咲方士を見つめ、答えた。

「――司望しぼう

「知らんな。と云ってもおれには友達いないしなあ」

「知らなくていい」

 司望と名乗った童は外套の中から短刀を取り出し、構えた。

 その時、瀬納は悟った――これが追手か。

 司望と名乗った見知らぬ童。金色の睛を持つ子が生まれたのなら里には知れ渡っているはずである。この狭い里において一人の人間の存在を隠し通すことなど出来ないことは身に染みていることだ。

 しかし、唯一それすらも可能な人物がいる。

 嘘は昔から、同時に、続いていたのだ。

 司望は構えた短刀を手に音もなく走り出した。童とは思えない程、迷いのない老練な動きだった。

「いけないっ!」

 瀬納は咲方士に覆いかぶさった。目をつむり、頭を強く抱き、後は鋭い痛みが背中に走る。子に降りかかる刃をただ受け止める。

 そのはずだったのだが――。

 鋭い痛みは一向に現れなかった。すると咲方士が驚いたような声で呟いた。

「あねうえ……」

 瀬納は咲方士を離し、後ろを振り返った。

 そこには司望を抱き止める咲野の姿があった。繰り出された短刀は空で静止し、地の部分を紅く染めている。じわじわと咲野の肩口から血が広がっていくのがこの夜の闇の中でもはっきりと知れた。

 いつのまにか月が真上に来ていた。

 司望は何故か咲野の腕に封じられたまま動きを失くしている。

 咲野は声を上げた。

「早く行ってお義母様! 咲方士!」

 瀬納は我に返った。咲方士は姉を呼び続け、駆け寄ろうとしたが咲野は激しく拒絶する。

「早く行かぬか咲方士! そして戻ってくるな!」

「でも」

「姉の云うことが聞けぬのか!」

 咲方士は怯んだ。姉に怒られるのはこれが初めてだったのだ。瀬納は、まごついている咲方士の腕を強引に引っ張ると咲野と司望の横を走り抜けた。

「咲野――」

 瀬納はすれ違いざまに名を呼ぶのが精一杯だった。

 咲方士は後ろを振り返りながら、大声で叫んだ。

「あねうえっ、また会うぞ! いいな! 約束じゃ!」

 咲方士の幼い声が夜の闇に吸い込まれる。やがて咲野の視界から義母と弟の姿が消えた。

「よかった……最後に会えた……」

 全身から力の抜けた咲野は司望から離れ、血の流れる肩を押さえた。思い出したように鋭い痛みが走る。かつて体験したことのない痛み。自分の血を掌一杯に触るのは初めてだった。

「お前、私を殺すのか?」

 咲野は額に汗を浮かべ、震える呼吸で絞り出すように言った。

 司望は短刀をゆるりと下ろしたままじっと俯いていた。

「どうしたのじゃ……殺すのであろう? でもむざむざとはやられぬぞ。私は弟ともう一度会わねば――」

「――ん」

「……何を云うておる」

「――らん――――――わからん」

 司望は血のついた短刀を投げ捨てた。そして苦痛に歪む咲野の顔を見、血が溢れ出る肩口を見、何かに怯えたようにして走り去った。

 咲野は肩を押さえながらよろよろと傍の木までって移動し、寄り掛かる。

 助けが来ればいい。が、助けはつまり義母と弟への追手と同じである。ならばこのまま眠りにつくのもいい。咲野はそう思った。

 身体が震えだした。今夜はそんなに寒い夜ではなかったはずである。

 すると身体が重いような軽いような不思議な感覚に捉われた。自然と目蓋が下がってゆく。

 どれだけの時間が過ぎたのか。ぼやける視界の中で咲野は灯火の橙色の光を目にした。

「ああ……来るでない」すぐに咲野は気を失った。

 その間際に金色の睛を見たような気もするが、弟の顔ばかりが浮かんできた。


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