水色の花 4
咲野は短く返事をすると、音もなく室に入ってきた。
蘭の金睛眼は咲野を捉えた瞬間、瞳孔を極限まで引き絞る。蘭と視線を交わすことなく咲野は亜麻呼の傍まで歩み寄った。俯き気味の視線は床の上で漂っている。
変わってしまった――蘭にはそのように映った。
陰の気はかつての咲野にも満ちていたが、今の彼女は前とはまったく違った陰鬱さを帯びている。まるで、漆黒の闇に蝕まれたかのような。
これは生ける屍か――蘭は驚きを隠せなかった。
「司望、会いたかったであろう? 我が妻――咲野だ」
亜麻呼は云いながら咲野の肩を抱いた。咲野はされるがままである。
蘭はただ咲野だけを見つめていた。遠い過去に置き去りにした風景を見るような目で。亜麻呼の妻になったことはすなわち、老環の妻になったに等しい。そう思うと、何故か熱いものが込み上げてくる。ただそれは、水底に溜まる泥のように明瞭としないものだった。
亜麻呼は咲野の首筋を撫で、ゆっくりと下唇に触れた。
「物思う二人の再会よ……実にめでたい……のう、司望」
そして意味深ににやりと笑うと、咲野の背中を押した。咲野は蘭の腕に抱きとめられた。
「咲野様ッ」
蘭の腕の中で咲野は怯えた子供のようにしがみついていた。小声で短く、ごめんなさい、と詫びるばかりである。その声はしっかりとしたものだったが、何故か蘭には悲しく聴こえた。
「お前に咲野を呉れてやろう、司望」
「老環……」
「老環は死んだ。今の私は亜麻呼だ。亜麻呼であった者は――さあ……忘れたな」
「何者だ」
「知らずともよい。それよりどうだ、お前が心から欲しておった咲野だ。嬉しかろう?」
蘭は拳を握り、怒りを露にした。全身からにじみ出る獣性は目に見えると錯覚してしまうほど濃い。かつてこれほどまでに感情に身を滾らせたことはなかった。抑えようのない衝動が下腹部から昇ってくる。それはふとした瞬間にカッと燃え上がりそうだった。
亜麻呼は凶暴な擬竜ですら畏れる蘭の怒気を前にして涼しく微笑んだ。
「情に絆されるとはまだ稚いな、司望。窓の外を見よ」
そう云って亜麻呼が視線で示した先には、何と一部の空が橙色に染まっていた。辺りはすでに夜の帳に覆われているにも関わらず、そこだけ斜陽のような光に満ちている。さらには白煙がもうもうと湧き上がっていた。
遠目にもわかる――森が燃えているのである。
「掟に縛られ、箱の中で生き続けきたこの里の民は、永らく考えることを失していた。月魄と云う絶対的な脳髄によって支配され、物云わぬ手足として自覚のないまま生まれ、そして死んでいく。その間、一切を疑うことなく、また、識ることもない。ただ、物を食い、眠り、営み――死ぬ――それだけだ」
だがそれも終わった――そう云って亜麻呼は続ける。
「今、初めてとも云える敵の侵入に里の民は武器を取った。月魄である儂の意向に逆らい、己の意志で立ち上がったのだ。永き幼年期は今日この日をもって終わりを告げた」
「……」
「それはよい……最早どうでもよいことだ。司望、お前が生まれた今、あの者達は意味を成さなくなった。父と同じ金睛眼を持つお前を、儂はずっと待っていたのだから――」
さあ来い司望――亜麻呼は前に一歩進み出た。
蘭はまななしを抜き放ち、咲野を背後で守ると亜麻呼に切っ先を向けた。今ここで怒りに任せて斬るのは容易い。されど、斬ってはならぬと理性が告げる。咲野の目の前で獣の心を剥き出しにするなど、それは望まないことである。
亜麻呼は徐々に近付いて来る。咲野は蘭の背中で小さく震えた。
と、そこで亜麻呼は足を停める。
「一つ云い忘れていた――司望、お前は知らぬであろうがその女……実にいい声で鳴く――それはもう……好かったぞ?」
その刹那、蘭の中で何かが弾けた。視界は闇が降りたように昏くなり、遠くから凄まじい鼓動が徐々に迫ってくる。それは次第に速くなり、熱を帯びる。
やがて視界が拓けると、まななしの水面のような刀身に禍々しい姿の己が映っていた。
血を浴び、肉を喰らい、喜びに喘いでいる。
その姿が好ましく思えた。これこそが本来の姿ではないか――と。
「司望……お前こそが司望だ」
亜麻呼は両腕を広げ、悦びに身を震わせ、屹立した。
「司望――司望――」
蘭は呼びかけに応じず、その身体は時を止めたように硬く、毛の一本すら風になびくことはない。咲野は蘭の異変に気づき、生気の消失したその背から視線を外すと、思わず蘭の気配を探してしまった。何処にもいない――。
「司望……ついに失われたか」
亜麻呼は長い息を吐くと怯えて後ずさる咲野を一瞥した。
「不思議か咲野。司望は失われたのだ」
「失われた……? 司望は何処に――答えなさい」
咲野のきつい眼差しに亜麻呼は微かに笑い、蘭が構えていたまななしの刀身に触れた。
「まななしだ。この神刀は持つ者を消し去る。忘れるなどという生易しいものではない。人の理からも、龍の理からも外れ、全てにわたり失われる。そして残るのは空の器。お前は司望という残照を眺めているに過ぎん」
咲野の脳裡に恐ろしい予感が走る。目の前の男――かつて亜麻呼だった男のことを思い出せない。記憶を探るほどに逃げてゆき、途端に壁に行き当たる。
「まさか、ずっとそのように……ずっと」
「ああ、どうやらそうらしい。記述にある月魄の名だけがここにはあるが、誰ひとりとて憶えていまい。いや、そもそも存在しなかったのだ。私も知らぬ」
「司望、目覚めなさい! 司望!」
咲野は蘭に懸命に呼び掛けるも、一切が空であった。
「無駄だ。まあ、見ておれよ。お前の愛した司望は何処にも行かなかったのだから」
そう言って、亜麻呼は蘭の目の前に立った。その足元に闇が濃い霧のように凝集してゆく。
その時だった。突如として蘭の金の睛がぐるりと動き、真っ直ぐ亜麻呼を見据えた。
そして深く踏み込むと、裸の拳で亜麻呼を殴り飛ばした。
弾き飛ばされた亜麻呼の身体は軽々と宙を舞い、壁に打ち付けられる。よろよろと起き上がると、信じられぬという目で蘭を見上げた。途端に悪鬼の如き形相になる。
「司望……何故お前がいる!?」
蘭はまななしを亜麻呼に向かって投げ捨てた。
「俺の名は蘭だ。他の誰でもない。二度と姿を見せるな。でなければ――この手で引き裂く」
「くっ……不愉快だ、実に不愉快だ……母さまが悲しまれよう」
それから亜麻呼はしばし沈黙し、まななしを拾い上げると壁に背を付けた。すると彼の足元から再び濃い闇が湧き上がり、その闇に埋もれるようにして姿を消した。見たこともない奇怪な光景である。が、蘭にとってはどうでもいいことだった。
突然、蘭は酷い眩暈に襲われた。身体が燃えるように熱い。いちど亀裂の入った堤防が崩壊する運命を避けられぬように、蘭もまた本能の渦に呑み込まれようとしていた。
「司望……」咲野が不安げにこちらを見ている。
蘭は苦痛を隠し、深く頷いた。
「咲野様――今、咲方士がこの里に来ております。あなたに会うために帰ってきたのです」
咲野は驚きのあまり口を押さえた。
「ま、まことに……咲方士が」
「ヤツは私に云いました――故郷に帰ると。往ってください咲野様。あの男を――咲方士を迎えてやれるのは貴女しかいない」
「司望……しかしそなた」
「早くッ! 私が司望でいられる内に……!」
蘭は怒鳴った。が、咲野は動じず、ただただ金の睛を見据えている。そして、ふっと春の風が通り抜けるように蘭を抱き締めた。深い情愛でもって傷ついた身体を包み込む。まるで、母が子にそうするかの如く――。
「司望……すまぬのう……すまぬ」
咲野はひたすら詫びた。だが、かつての司望が感じた絶望を蘭は感じなかった。遥か沖合いに引いてゆく波を惜しむような、淋しさとせつなさが入り混じった不思議な心地である。
だが、己の心の渇望がようやく満たされた心地でもある。
満足だ――蘭は心の裡で大いに笑った。
「往ってください」
咲野は頷く。
「うむ……またの、司望」
咲野が出て行くと、蘭はすぐに膝から崩れ落ちた。次第に荒くなる呼吸を整えようと大きく息を吐く。少しでも気を抜けばたちまち意識を喪ってしまいそうだった。
「……『また』か……罪なお方だ」
蘭は――嘘を吐いた。咲方士が里に来ているなどまったく知らないことである。慥かに咲方士は帰ると云っていた。が、無事に辿り着く保証もない。初めて吐いたこの嘘は咲野のためである。すべては、醜い姿を見せぬための、理性の仮面――。
その時、頭上から凄まじい崩壊音がし、屋根が崩れ落ちた。冴え冴えとした月明かりが差し込み、苦しみに悶える蘭を照らし出す。
破壊された屋根から顔を覗かせたのは白毛の大猿であった。
大猿は蘭の前にふわりと降り立つと、膝を突き深々と頭を垂れた。
「お迎えに上がりました――王よ」
「……今度は貴様か、ようやく姿を見せたな」
蘭は息も絶え絶えに大猿を見上げる。
「お許しください――『のおま』と申します」大猿は自らを名乗った。
「……それが何の用だ」
「我らは王の目醒めを待っておりました。すでに裏切り者の『申狼』を討つ準備は整っております。なれど、まだお目醒めになったばかり。まずは前哨戦と参りましょう……目の前の醜き者共を駆ってご覧に入れます――ご命令を――王よ」
「……く」
くだらぬ――そう云おうとして蘭の意識は途切れた。否、途切れたというよりも黒い隙間に吸い込まれたと云ったほうが近い。
それはとても気持ちの悪いものであった。
※
淡然はただちに警備兵を集め、橋を守らせた。今ここで橋を落とされてはすべてが水泡に帰してしまう。設営を終えた幕舎を犠牲にしてでも守り抜かねばならぬ。
原住民と思われる襲撃の規模は不明である。彼らは夜陰に紛れて巧みに森に潜んだ。まるで地下に広がる闇の中を趨るように、素早く淡然らを翻弄してゆく。枝葉を揺らす物音の方に注意を向ければすぐに背後から矢が飛んでくる。飛矢の威力は子供の放つ玩具の弓程度のものだったが、限りある篝火の中では十分に脅威となった。また、あれだけの機動力を誇る彼らの攻撃が戯れ程度に過ぎないのも不気味である。
それはまるで幻術のようだった。抵抗者の数が数百にも数千にも感じられる。
「密集隊形を崩すな! 何としても守りきるのだ!」
やりにくい――淡然はそう思った。ここで一人でも殺せばそれは大きな禍根となり、原住民との溝は決定的なものとなるだろう。数に恃んで攻勢をかけることは容易だが、それだけは絶対に避けねばならない。
「淡然さん、どうすんだ!?」
そこに多糧衛が駆けつけてきた。
「どうするも何も、守るしかないだろう」
「そうは云っても向こうは火を持ってるんだぜ? 橋を焼かれちゃお仕舞いだ」
「火を――?」
「そうさ。つってもしょぼくれた火矢だがよ、あっちの方じゃもう何本か射かけられた。ヘロヘロなくせに火が走りやがる。どうなってんだコリャ」
淡然は余裕を失った顔で沈思した。と、そうこうしているうちに淡然らの近くにあった幕舎にも数本の火矢が射掛けられる。矢はゆっくりと大きな弧を描いて幕舎の手前に落ちたが、何故か火は消えずに地面に残り、意思を持っているかのように幕舎に向かって滑走した。
「ほらっ、これです!」
多糧衛は云いながら地面の砂をかけて消火に当たる。淡然はその場に片膝を突き、火が走った跡を調べた。
「これは……木の根だ」
地面の痕跡から焼け焦げた木の根を見つけた。黒ずんだ細い根が地面を這っていたのである。
「馬鹿な、生木がそうそう燃えるもんですかい」
「生木じゃない、枯れている」
「枯れた根がここまで伸びてきたって云うのかよ。そもそも昼間にゃあそんなもの無かったじゃねェですか。ありえねェよ」
「有り得ないが、事実だ……ここは我々の与り知らぬ土地。何が起こっても不思議じゃない。――知っているか多糧衛?」
「何をです」
「先の延宗との戦いの最中、突如として戦場に巨大な猿が現れたそうだ。一軒の家屋ほどもあるその猿は人語を解したという。まるで幼い頃に読んだ奇譚だ」
「喋る猿ですかい。そりゃあオレも小さい頃にゃあいろんな御伽噺は聴きましたがね。歌う鳥女とか、霧のバケモンだとか……それこそ龍だってそうだ」
「私はその戦場にいたのだぞ。世界は我らの知らぬことばかりだよ」
そう云って淡然は立ち上がると、眼前に広がる黒い森を見据えた。森は一匹の巨大な生き物のように不気味に息づいている。土地そのものが我らを拒んでいる――そのように見えた。
「多糧衛、何としてもここを死守せよ。私は行く」
「ど、何処に行かれるんで!?」
「忘れたか多糧衛、この地は女神に守られた土地だということを――彼らと話をしてみる」
そして淡然は闇夜の支配する森に立ち向かった。




