水色の花 3
淡然が開拓の村に到着したのは、咲方士が出て行った翌日のことだった。
昼ごろ門閭を越えた淡然はまずかつての自邸を訪ね、多糧衛と久方ぶりの再会を果たした。二人の男達の相貌には確信と懐古が混じり、初めて会った時とは違った固い握手を交わす。
「見事に宮中のヤツらを見返してやりましたなァ、淡然さん」
淡然は久々に聴く多糧衛の口の悪さに思わず微笑った。宮中にも口の悪い輩はいるが、このように真っ直ぐなものはない。今更ながら、すっかり宮仕え付いてしまったことに気付く。
「ふっ、そういう君は相変わらず……いや、立派な長になった」
「よせやい大将。おめえさんが帰ってきたってェのにデカいツラしたまんまでいるような不粋な男じゃあねェよ」
「いや、間違いなくこの村の長は多糧衛、君だよ――それはそうと、私はすぐに部隊の指揮に戻らねばならない」
「部隊? ああ」
多糧衛は見るとはなしに後ろに目を遣った。現在、村の外では調査団が待機している。
「その間、撫子を頼みたい。彼女の部屋はあるかい?」
「もちろんでさ。アイツの部屋ならそのままにしてありやす。お城暮らしに慣れちまった今じゃあ物置にも見えねェかもしれやせんがね」
「そんなことはないさ、撫子は逆に城が窮屈そうだった」
「へへ、贅沢な娘だ」
それから淡然は立ち話もそこそこに場を後にしようとした。咲方士のことを告げる機会を窺っていた多糧衛は周章てて呼び止める。多糧衛の目元に浮かぶ戸惑いには、隠せない喜びが入り混じっている。
「咲方士が昨日戻ってきやした。あのヤロウ元気でやってやがったんですよ。んが、すぐに帰ると云って……」
多糧衛の予想とは裏腹に、淡然は伏し目がちにしばし沈思するだけで言葉はなかった。
「そうか……後を頼む」
冷たくとも取れる言葉尻を残したまま淡然は邸から去った。その後は待機させておいた千人の調査団の許に戻り、幕舎の設営を行った。戦場での淡然の指揮振りを経験している多くの兵は手際よく駐屯地を完成させていく。物々しい雰囲気で訪れた調査団に対して当初は不安がった村民も、淡然の顔を見ると安心した。
その間、撫子も多糧衛に再会した。意外にも筆まめな多糧衛と手紙の遣り取りをしていたとはいえ、やはり会って話す方が早いというものである。
多糧衛は訊きにくいことを単刀直入に口にした。
「淡然さんは咲方士のことを聴いてもあんまし嬉しそうじゃなかった」
これに関しては、撫子も同じように口を閉ざす。が、やがてゆっくりとしゃべり始めた。
「おそらく……心苦しいのだと思います。たとえ国のためとはいえ、咲方士さんの生まれたところに押し入るのに変わりはないですから……」
多糧衛は咲方士と交わした約束のことを思い返し、そのことを撫子に云えずにいた。咲方士を殺すなどと云えるはずもない。
「だが、未開の地は国の宿願だ。引き返すわけにもいくめェ。あの人の双肩には億万の命が乗っかってる――まだ目の開かねぇガキや、腰の折れた老人共、男に、女に、何もかんもだ」
「……はい……わかっています」
「それならいい。アイツにゃあ悪いが、男の決断は神様にだって覆せねえ」
淡然の指揮には鬼気迫るものがあった。翌日には架橋工事の総仕上げに取り掛かることが出来、その日のうちに開通させてしまったのである。しかし工事の完遂に喜ぶこともなく、淡然は次の日の工程のため、未開の地に運び込む物資の最終確認を行っていた。
まだ淡然が到着してから二日である。
明日には開通した橋を渡り、未開の地の入り口に本格的な駐屯施設を造営せねばならない。災害によって橋が落ちる心配は少なくなったが、何らかの抵抗があると思われる。確実に未開の地を手に入れるためにも、初手を完璧にしなければならなかった。
そして――彼にとって運命の日とも呼べる日がやって来る。
その日、淡然は払暁よりも早く目醒めた。朝霧に覆われた村の中を独りで歩く。湿った空気が肺を満たし、自分の跫だけが静寂の中に飛び回っている。彼の胸に去来するのはかつてここで暮らした日々と、姿の見えぬ友のことである。
この選択が間違っているとは云わない――しかし、果たして正しいと云えるのだろうか。何か他に手立てがあったのではなかろうか。往くべき道を進んでいるつもりが、もしや大罪に向かって歩いているのでは――。
仮に罪を背負うことが元丞としての職務であるとすれば、それは厭わないつもりである。
しかし、それが自分の器を超えてしまう程、大きなものであったとすれば――。
「私は……無力だ」
淡然は朝霧の向こうに目を遣った。見えぬ、何も見えぬ。
刻兎は未開の地に依らずに国を立て直そうとした。そして、誰よりも国を想いながら誰よりも深き罪を負った。その覚悟は如何ほどのものであっただろう――想像すら出来ない。
「その覚悟が……私にあっただろうか」
淡然は急激に己を恥じたくなった。否、呪いたくなった。有史以来の大罪人がここにいるのではないか。そうとさえ思った。聖人を誅し、厚顔にも同じ元丞の椅子に座っている。国や民のためと大義を掲げ、その裏では何一つも覚悟をしていない。
罪を負わないことが罪であるなら――これほど罪深いことはない。
淡然はその場に崩れ落ち、両膝を突いた。湿った土を握り締める。
すると、前方から何者かの跫が聴こえてきた。
「ざまァねえですな、淡然さん」
「多糧衛……」
「今になってウジウジ悩んでんのかい」
「いや、私は――」
淡然は周章てて立ち上がったが、立つなり多糧衛に頬を張り飛ばされた。そのまま尻餅をつき、じわりと熱を持った左の頬に手を当てる。
「やっぱりおめえさんは都会クセェ嫌な野郎だ。ちったァあマシになったかと思ってたが、俺の勘違いだったようだな。おら、どうした。立ち上がる根性すらねェのかよ。悔しかったら殴り返してみろよ」
「……クッ」
淡然は云われたとおりに拳を握った。が、すぐにそれを解いた。虚しくなった。自分には出来ない――そんな目で多糧衛を見上げると、彼は心底悲しい瞳をしていた。
「淡然さんよォ……本当に腑抜けちまったのかよ。俺ァ学がねェから難しいこたァよくわかんなかったけど、おめえさんの気持ちは誰よりもわかってたつもりだ。心が痛ェのだって俺にはよくわかる。けどなァ、今のおめえはいくら痛くたって、痛ェって云っちゃダメなんだよ。そんなこと、口が裂けても云っちゃいけねェんだ。もし云っちまったら、おめえさんに命預けてる沢山の人間はどうなる?」
「……」
「それだけじゃねェ、おめえさんに未来を託して死んでったヤツらはどうだ!? まだ産まれてもねェ赤ん坊だっておめえに、淡然って野郎にこれからのことを託してんだ! でっけェぞ……それは途轍もなくでっけェ……そんで――重い。重くて当然だ、ンなモン。でもなぁ、何もそれを一人で背負えッつってんじゃねェんだよ。重かったらなぁ、手伝ってくれの一言ぐらいあってもいいだろうが。違うかッ!? クソったれ」
憤りを抑えられなくなった多糧衛は大地を蹴った。土は巻き上がり、後には深い穴が残る。
そこで淡然がおもむろに立ち上がった。
「多糧衛、もう一度殴れ。今度は右の頬だ」
「……へ?」多糧衛は呆気に取られる。
「早くしろ、片方だけ殴られたんじゃ格好がつかん」
多糧衛は戸惑いながらも淡然の頬を張り飛ばした。すると今度はよろめきもせず、その場に踏みとどまった。多糧衛は思わず目を瞠り、哄笑った。
「は……ははッ、いいツラ構えじゃねェですかい、大将」
「多糧衛、戻るぞ」
「あ、へい」
「まずは朝餉だ。痛くて食えるかわからんがな」
「そりゃ言いっこ無しで――あ、ちょっと待ってくださいよ!」
足早に進む淡然の後を多糧衛は周章ててついていった。
二人の影は朝霧の中に消えた。
調査団が行動を開始したのは昼前のことである。淡然はまず整然と団員の選別をし、主に女神の爪痕外部での資材の調製、物資の運搬、そして爪痕内部での造営作業、さらには外敵の警備などに振り分けた。
「橋はともかく、桟道の耐久性は問題ないのだな?」
淡然は傍らで共に指示に当たっていた多糧衛に問うた。
「へへっ、心配性だなァおめえさんも、これで何度目だい。平気だって云ったでしょう。それより撫子はどうするんですかい? あいつ、迷ってますぜ。行くか行かねーか。まあ、その気持ちはわからんでもねェが、ハッキリさせとかねェと一生後悔するに違ェねえ。もっとも、行って後悔することの方が多いかもしんねェですが」
「後悔……そうだな」淡然は云いながら作業進行の具合を計った。
「私が話してこよう」
「たのんます」
それから淡然は撫子のいる屋敷に向かった。今ごろは村の女達と昼餉の準備をしているはずである。厨房を覗くと、果たして撫子はそこにいた。中年女とおむすびを握っているところだ。厨房の入り口の影から撫子をそっと手招く。
淡然が撫子に云った言葉は実に短いものだった。
「いいのかい?」
今は場所を変え、かつての淡然の室である。撫子はおもむろに頭巾を外し、両手でそれを握り締めた。淡然が云おうとしていることに感づいている。咲方士が女神の爪痕の向こう側、すなわち彼にとっての故郷に帰ったことは撫子も知っている。
「……わかりません。どうしたらいいのか」
「咲方士は――」
淡然がその名を口にすると、撫子は伏せていた目を上げた。微かに濡れた銀の睛は訴えかけるような強い情が浮かんでいる。
淡然は口を噤んだ。誰よりも咲方士に会いたいと思っているのは撫子ではないか。我々は国家の使命を帯びてこの地に赴いているが、彼女は違う。宮中に残る選択肢もありながら、こうして帰ってきた。しかし、この選択が心を縛り傷つける茨の道であることは本人にもわかっていたはずだ。その苦しみを知りながらこの地に戻ったのは、ひとえに咲方士に会いたかったからではなかったか。
「怖いんです」撫子は云った。
「怖い?」
「はい……本当に私なんかがあの場所に行っていいのか。ううん、もしあそこに行ってしまえば私が私でなくなる……もうあの人に会えなくなる――そんな気がするんです」
淡然は言葉の意味がわからなかった。慥かに、女神の爪痕を越えることは咲方士の故郷を踏み荒らすことであり、そのことで彼と決別しなければならないかもしれない。しかし、撫子の口振りはまるで自分こそが遠く離れていくようだった。
結局、淡然はそれ以上何も云うことが出来ず、決心がついたら報せるようにと云い置いた。
撫子のことは気掛かりであったが、作業を遅らせるわけにはいかない。
午過ぎには運搬準備が完了し、いよいよ進行が開始された。まず木材などの物資を未開の地に運び込み、そこで中継基地を作る。本格的な開拓計画は十年以上の歳月をかけて行うため、これは文字通り開拓への橋頭堡と云えた。
淡然は集団の先頭に立って桟道を渡る。かねてからの懸念通り若干の老朽化は見られたが、作業の妨げにはならないようだ。すぐ足元を見れば果ての見えぬ冥い空間がぽっかり口を空けている。淡然は唾を呑み、なるべく下を見ないようにした。
こういった難所での作業を遂行させた多糧衛たちに頭が下がる。
「ついに女神の爪痕を……」
橋を渡り終えた淡然は感慨深げに後ろを振り返った。何代にも亘る悲願がついに達成されたのである。背後には続々と後続集団が桟道や橋を渡っている。このような光景が生きているうちに見られようとは思ってもみなかった。数日後にはこの吉報が観季に届き、宮中はおろか市井をも沸かせるであろう。
が、淡然はすぐに表情を閉ざした。
最初の中継基地は十棟を同時に造営することになっている。その前に工作兵や警備兵を置くために幕舎を作らなければならない。警備班に哨戒をさせ、昼餉と幕舎の設営を交替で行わせた。周囲は特に変わった様子はなく、戦闘などは起こらなかった。
実際、兵士の多くが原住民の存在に半信半疑なのである。淡然は咲方士の存在を知りこそすれ、その事実を公表してはいない。
さて、夕刻までには早くも基地の造営に着手することが出来た。陽が沈み、虫が鳴き始めてからも炬火を盛大に焚かせて淡然は作業を急がせる。ゆるりと感慨に浸っている暇などなく、のちに王都からの派遣団を迎える準備をせねばならない。露払いは急ぐに限る。
淡然は松明を掲げ、進捗状況の確認のために方々を歩き回った。
その時である――突如として淡然の足元に矢が突き刺さった。
――ついに来たか。――淡然は咄嗟にそう思った。
「襲撃だ! 備えよ!」
前方の繁みには闇に紛れた無数の人影がうごめいていた。淡然の叫び声に驚いたのか周章てて移動を始めている。闇夜の森を不気味な影が走り抜けていった。
「ここまで接近を許していたというのか……歩哨は何を――いかん――決して殺してはならん! 銀の髪、銀の眼の者は誰一人殺してはならんぞ!」
淡然は苦々しい表情で来た道を走った。




