月の瞳 2
「こっちじゃこっちじゃ、はよう来い咲方士」
木漏れ日の射す森の小道――咲野は白い頭巾と黒い布で目隠しをした弟の周りで手を叩いた。幼い咲方士は両手を前に突き出して、空を掴んでは離し掴んでは離しを繰り返していた。
上からの日差しと葉の影が交差しながら揺れる。さえずりはどこまでも優しい。
あの日に産声をあげてから十年近い時が過ぎていた。
「あねうえどこじゃ、ずるいぞあねうえ。あ、そっちか」
咲方士は素振りも見せずにくるりと振り返って無造作に手を出した。咲野は驚き、身を翻して弟の手から逃れた。
「ひゃっ、危ない危ない。もう少しで捕まるとこだったわ」
「ぬう……目隠し取っていいかあねうえ」
「ならん」
「なんで」
「お前の髪と睛の色は呪い色のだからじゃ。里の言い伝えに黒は災いをもたらすとある。黒の睛はすべての命を吸い込んで枯らしてしまうそうじゃ」
「ほ、ほんとか!?」
「嘘じゃ」
「何だよあねうえ、おれ、ほんとに怖かったぞ」
「すまぬすまぬ。本当はの、いつも云っておるとおりじゃ。お前の睛は日の光に弱い。だから夜の間の部屋の中でしか目隠しを外してはならんし、それも私やははうえ達の前だけでじゃ。みんなその髪と目に驚くからのう。いちいち説明するのも面倒であろう?」
咲方士は立ち止まって目隠しの上から目を触った。
「つまらぬ嘘はやめてくれあねうえ……おれの眼があねうえを吸い込んでしまうんじゃねえかって本気で思っちまった」
「すまぬ、咲方士」
咲野は怖がる弟を優しく抱きしめた。しかしその表情はどこか複雑であった。
「仕方ない。少し遠いが今日は文目洞に行くとするか。あそこならお前の目隠しを取ってもいいしな」
「いいのかあねうえ、あそこは子供だけで行ってはならぬと母さまが」
「よいよい。私はもう大人じゃ。おっぱいも結構膨らんできたしのう」
「そうか、それなら安心だな」
咲野は咲方士の手を取って歩き出した。文目洞までは子供の足で四半日はかかる。その間には道と呼ぶにはお粗末な獣道があり、咲野は弟が転ばぬようにしっかりと手を握った。
大丈夫か、と時折弟の疲れ具合を見ては、おぶってやろうか、と咲方士に言った。しかし、そのたびに目隠しの顔を横に振るのだった。
咲野は道中、弟に歩くことを厭きさせないように様々な話をした――世界を創った上帝三樹神の話、月の里の始祖となった姉弟の話、多くの人間に化けすぎて自分の姿を忘れた獣の話、人間の男と恋に落ちた迦陵頻伽の話、空に浮かぶ島にあるという壮大な宮殿の話、そして、北の果ての海にある不老の王が治める国の話――。
「そんな国がほんとにあるのか、あねうえ」
歩き疲れた咲方士は小高い丘にむき出しになった岩に腰掛けた。
咲野は弟の足を気遣いながら応えた。
「さあ、私も本で読んだだけじゃから本当のことかはわからん。でも本当にあったら楽しいと思うがの。いつまでも若いままであろう。ヨボヨボにならずにすむ」
「そうだな、おれもそうだったらずっとあねうえと一緒にいられるもんな」
「お前と一緒にか?」
「イヤかあねうえ」
「イヤじゃ」
「なんで」
「お前が一緒だと結婚できんではないか」
「そうか、それは困ったな」
「じゃろう? それにお前も結婚できぬぞ」
「それはもっと困った。誰とも結婚できずにあねうえと結婚なんておれもゴメンだ」
「イヤか咲方士」
「イヤだ」
「何故か」
「あねうえはあねうえだ。およめさんにはなれぬ」
「しかし咲方士よ、我らが始祖は姉弟で夫婦になったのだぞ?」
「ソレはソレ。コレはコレだ」
「ふむ、それもそうだな。では行くか」
「うん」
文目洞――そこは子供の思い描く巨大な魔物が、大きなあくびをしたような洞窟だった。入り口を隠し守るように周辺の木々の枝が伸びている。洞窟の中から微かに冷たい風が吹いており、汗で湿った身体がゆっくりと冷えた。
二人は大きなため息を吐いた。
「着いたのか? ここは何だ? あねうえは前に一度来たことがあるのだろう?」
「ある。お前がまだ産まれて間もない時のことじゃ。あの時はお義母様と私と産まれたばかりのお前でここに参った」
「参った?」
「ここには命の神様がおる。お前がこれから健やかに生きられるように祈った」
「ところであねうえ、腹が空いた」
「そういえばそうだな。ちょうどいい、昼飯にしよっか、の」
来い、と咲野は咲方士の手を引いてぽっかりと口を開けた洞窟に入った。中までは日光が届かず暗く湿っていたが、日光とは違う仄かな薄明かりがあるように感じられた。
水気を含んだ空気は重く、肌にまとわりつくようであったが、吸い込んでみるとそれはとても瑞々しく、きわめて澄んでいた。
咲方士は鼻を動かす。
「花の匂いがする。土の匂いもだ。それから風の音……水の音も聴こえる……奥に何かあるのかな?」
咲野は予期せぬことを云い出した弟を不思議に思った。
「何を言っておる。洞はもう行き止まりじゃ。その証拠にほれ、目隠しを取ってもいいぞ」
咲方士は慣れた手付きで頭巾と目隠しを外し、何度か瞬きをした。きょろきょろと目を動かして洞窟の中を見渡す。
「これは……何だあねうえ」
咲方士は洞窟の奥を指差す。そこには岩で組まれた祠があった。その周りを古びた注連縄が囲っており、平たい床の敷石には白い顔料で何やら紋様が描かれている。
そして祠の中、その中心には長い柄の鎌のような物が蔦に絡まった状態で鎮座している。永い時間の経過によって柄も蔦も朽ちており、その刃も、金属であるにも関わらず干からびたような朽ち方をしていた。
咲野は弟の問いに思い出しながら答えた。
「これは……あやめの指じゃ。お義母様から聞いた。とにかく古い物だそうな……」
「触ってみてもいいかな」
「ダメじゃ」
「あねうえも触ってみたいのでは?」
「……少しだけじゃぞ」
「さっすがあねうえ」
咲方士は注連縄を飛び越えて祠の前で立ち止まった。その時、咲野は祠の周りが僅かに明るくなったような気がしたが、目が慣れてきたのだと思い直した。
咲方士は背伸びをしながらあやめの指を恐る恐る触っている。倒れ掛かってきやしないかと咲野が心配しながら見つめていると、咲方士は無邪気な声で言った。
「あねうえ、冷たい! これものすごく冷たいぞ!」
「それはそうであろう」
「違うんだって、そんなもんじゃねえんだ。あねうえも触ってみろ」
咲野は訝しみながら弟の云うとおりにした。たしかに冷たい――と、鋭い痛みが走って咄嗟に手を引っ込める。指先を見ると血が小さな珠のようになっていた。
「どうしたあねうえ」
「茨で指を切ったようじゃ」
「なに!」
咲方士はぐいっと咲野の手を引っ張り、指の血を舐める。その間も咲野はあやめの指から目が離せない。恐怖に引き込まれる気もするが、何故か落ち着く気もする。まるで鏡に映った自分の顔をしげしげと眺めている時のような不思議な感覚だった。
「さ、もうよいぞ。飯にしよう。前に来た時も私はここで握り飯を食べたし、お前はお義母様の乳を飲んだ。ここで飯を食べることは良いことらしい」
「そうなのか、でもなんで」
「ううん……私もよくは憶えておらん。帰ったら訊いてみよう」
咲野は今まで背負っていた縹色の風呂敷包みを広げ、いくつかの握り飯の包みを取り出した。咲方士はそわそわと姉が握り飯を取り分けてくれるのを待っている。
「どれが黒蕨だろう」
「さあ、どれかのう。お義母様は何でも握り飯にしてしまうからの。今日は黒蕨の辛味噌煮は入ってないかもしれん」
「伊於義母さまの作った味噌はうまいからなあ、あるといいなあ」
伊於とは咲野の実母であり、姉弟の父に当たる比詩木の第二夫人である。咲方士の実母瀬納は第一夫人であったが、早くに伊於が咲野を産んでしまったことによって跡継ぎを産む期待をかけられなくなってしまった経緯があり、子を産めぬ身体ではなかろうかと陰で云われることもあった。
それ故、瀬納の懐妊は朔の血脈である比詩木の跡継ぎを待望するとともに、第一夫人の立場回復という意味合いをも持っていた。
「さて、帰るかの」
ひとしきり遊んだあと、洞窟の入り口に僅かに差し込む柿色の光を見て咲野は云った。
「もう帰るのか、つまらんな」
「はようせんと夜が来てしまうでのう。お父様やおかあさまが心配するぞ」
「また目隠しすんのか。やだなぁ」
咲方士は着物の懐にしまっていた黒い目隠しを取り出すと嫌そうに巻きだした。
すると咲野が咲方士の手を掴んだ。
「今日はもうよい。このまま帰ろ」
「でもあねうえ、いいのか。陽がとっぷり暮れてからでないといけないとははうえが」
「いいのじゃ……陽は弱い。あとは誰かに見つからなければよい。勿論、お義母様にもな。でないと怒られてしまう。ただし頭巾はすること。誰かに会ったら目を瞑るのだぞ?」
「おお、やった。有難うあねうえ」
咲方士は巻きかけていた目隠しをもとの懐の中へしまった。若干の不安を含みつつ、咲野は弟の手を握って家路についた。行きよりもいくらか軽い足取りで姉弟は夕暮れの色に染まりつつある森の中を歩いた。
その道中である。太陽が全身を隠し、残り火で焦げた雲が浮いている頃、いよいよ暗くなろうかという時だった。
咲野は次第にぼやける木々の輪郭を感じていた。
「ううん……見えにくくなったのう。夕暮れ時はいつもこうじゃ」
「おれは平気だな。むしろ昼間よりもよく見えるぞ」
「それはいい。ならば私を導いておくれ」
「あいわかった」
咲方士は姉の手を引いて歩いた。そしてしばらく行ったところで急に足を停め、山道を囲む木々の奥深く、すでに夜の闇が濃く集まっている部分を見つめた。
「どうした咲方士、兎でも見つけたか」
咲方士はじっと一点を見つめたままぼそりと呟く。
「……誰かいる」
「まさか」
驚いた咲野は目を凝らして同じ方向を見てみたが、昏い陰があるだけで木の形状はおろか遠近感すらもうまく掴めなかった。
「何も見えんぞ……咲方士」
そんな姉の呼びかけを咲方士はまるでまったく聴こえていないように、ただただ闇をその睛に写し取っていた。
「こっちを見ている……あ――光った」
「何じゃ、何なのじゃ咲方士。本当に誰かいるのならまずいことだ」
「なぁ、あねうえ」
「ん?」
「おれと同じぐらいの、眼が光る子供ってこの里におるのか?」
「そんな子供がおるわけが……そもそもお前と同じ年頃の子供なぞ、里のあっち側ならまだしもこっち側にはおらんぞ。見間違いであろう」
「ううん……ま、いいか」
咲方士は再び姉の手を取って歩き出した。結局二人が帰りついたのは夜である。
咲野は二人の母から叱られるとばかり思っていたが、屋敷に戻ると様子がおかしいことに気付いた。そして慌てる家人を捕まえては仔細を問うた。
やがて咲野は絶句した。




