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風散の季節 1

「風散」と書いて「ふじ」と読みます。

 草の匂いを運んできた風が大地を滑った。

 撫子は澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込むと、おもむろに頭巾を外した。遅れてきた次の風が銀の髪を揺らし、指で留めるそばからすり抜けていく。目の前をつがいの鳥がじゃれ合うように舞い、自然の音を美しくあやなし始めた。

 ここは王宮の敷地内にある小さな庭園である。朱で彩られた四阿あずまやの中には実務を行う淡然の姿がある。この日は昼前から出掛け、仕事と弁当を持ち出した。人払いはしてある。撫子は気兼ねなく全身に光を浴びることが出来た。

 やがて中天に日が昇ると、昼にしよう、という淡然の声がかかった。

 木陰で本を読んでいた撫子は跳ね起きて四阿に走る。

 この日は淡然にとって休暇と云ってもよい。

 普段、廟議が終わると居室にこもって書類の山をさばき、それが終われば視察や各官の報告を聞くなどして一日を終えていた。特に敗戦間もない今は仕事が山積している。日に日に憔悴してゆく淡然を見て危ういと思った敬王が、娘と一緒に散歩でもしてこい、と柔らかい声で云ったのが昨日のことだった。

 撫子は弁当を開き、四阿のかまどで沸かした茶を淹れている。

「淡然様、今日ぐらいはゆっくり休んでも……」

 書類を脇に片付けながら淡然は微笑った。

「うん、ちょっと今日中に片付けておきたくてね。これがないと職計が困るから」

 そう云って目線で示した書類は二藍の財政に関する文書だった。淡然は撫子の前で気軽に応えたが、状況は芳しくない。合草の戦いで敗北を喫し、多くの兵を喪った。実際、二藍の現状は刻兎の遺産によって成り立っていると云っても過言ではない。

 国には最低でも三年の貯えがなければならない。今の二藍にそんな体力があるかと云えば首を横に振るしかない。軍を起こすには莫大な資金と兵糧がいる。それらを捻出するには民草に一層の負担を強いねばならない。

 延宗は再び攻めてくると予想される。合草に兵を残し、一旦帰国したものの、早ければ二月後には大軍を率いて南下してくるだろう。そうなれば応戦するより他にないが、戦うだけの力はほとんど残っていない。

 おそらく決戦となるに違いない。今の延宗王は血気に溢れると聞く。先の戦いで戦場に出られなかった鬱憤を晴らすかのように、次の戦いでは自ら軍を率いるはずだ。もしここで勝たなければ次はない。淡然はそこまで考えている。

 二藍は国中が不安の気で満ちている。王宮から発せられた焦りと混乱が、億万の民の生活に色濃い影を落としているのである。

 そんな陰気が顔に表れたのか、撫子は心配そうに淡然を見つめた。

「案ずるな撫子。私はそれよりも咲方士のことが気がかりだ」

「……はい」

 撫子は目を伏せた。ここ最近の多忙であまり言葉を交わさなかったが、淡然の目から見て撫子は常に咲方士の身を案じているようだった。

「すぐに会えるさ」

 慰めの言葉は虚しく宙に掻き消える。まだ心の底から笑えそうにない。そう思った。

 さて、事態は思わぬ方角に向かうものである。

 その日、突如として延宗から使者が訪れた。使者は延宗の元丞で、名を子良覇しらはと云った。小柄であるが鋭い眼光を持った男である。

 子良覇は敬王に拝謁を請うと、堂々と登殿し、書状を読み上げた。

夕山ゆうざん方の三市を割譲していただきたい」

 と、云うのがそれである。夕山方は延宗との国境に面している方であり、その三つの市を寄越せと云ってきた。

 この理不尽な要求にその場にいた臣から怒号が飛び交った。何故なら三つの市のうち解山かいざん市にある雨甘うかん郷は、聖祖岱王慈の生地なのである。二藍の民の原点と云っていい。これは度を越えた屈辱的な行為である。

 されど子良覇は飄々としている。怒りを交えながらも冷静に彼の所作を見た淡然は、その胆力に唖然とした。間違いなくここは敵地のど真ん中なのである。殺されに来たようなものだ。にもかかわらず子良覇は汗ひとつかいていない。

 恐ろしい男だ――淡然がこの男に抱いた感想はそれにつきた。

「そなたも手ぶらでは帰れぬであろう、いま少し時間をもらおうか」

 敬王は落ち着いた声で答える。怒りに任せて殺せと叫ぶ君主ではなかった。

 突き刺すような視線の中で、子良覇はいちど退出した。返答は後日行われる。それまで都内の宿舎で待つことになる。

 敬王はすぐに淡然を呼ぶと子良覇に護衛をつけよと云った。暴走した臣が武器を持って宿に押し込むかもしれない。そのことは淡然も危惧していたことである。

「二藍に礼無しと思われては困るからな」

 敬王はそれだけを云った。


 使者の到来が宮中に不穏な空気を生み出した。

 臣の一部から延宗の要求に応えて交誼を結ぶべしとの意見が持ち上がったのである。これは淡然にとって慮外のことだった。武功派を筆頭に、延宗討つべしとの声は日を追うごとに高まっている。その声に乗って開戦に至るだろうと思っていた。

 しかも、延宗の要求は明らかな挑発である。聖祖の生地をむざむざくれてやるはずがないことは、延宗側も承知のはずだった。

 されど宮中には挑発に屈せよとの声が上がっている。

「何を考えているのか」淡然はそう思わずにはいられない。

 一体、誰がその声を上げているのだろうか。その答えはすぐに知れた。

 工部卿郭清ほか数人の高官が、密かに子良覇の宿を訪問したというのである。

「国を売る気ですか!?」

 淡然はすぐに郭清に詰め寄った。すると郭清はあからさまに侮蔑の色を示した。

「国を売るなどと人聞きの悪い。戦わずに済む方法があればそれでよいではありませんか。それとも何ですかな、淡然殿は民に死ねと命令するのですかな?」

「……」

「こちらに敵意がないことを示せば、延宗とてむやみに攻めては来ないでしょう」

「それでは甘すぎます。緩みを見せたが最後、骨の髄まで奪われるのは目に見えている。延宗とは戦いの中で巨大になっていった国なのですよ」

 郭清は、ふん、と鼻を鳴らした。

「元丞がこのように好戦的であっては、民が哀れですな」

 堪えかねた淡然の拳に力がこもる。

「貴方は国をどのようにお考えなのか!」

「ほっほ、国などと……命あってこそでしょうに。実に本末転倒だ。淡然殿は刻兎とは違うと思っていましたがな、どうやら見込み違いだった。まったく世迷い言が好きと見える……」

 そう云い捨てて郭清は去っていった。

 淡然の憤りは収まらなかった。自分のことならまだしも、刻兎を侮辱されるのは我慢ならない。方法に難はあれど、刻兎は国のために命を賭した烈士であると淡然は思っている。刻兎に与し、果てには裏切った男が刻兎を論じ、あまつさえ国家を論じるとは――否、命を論じようなどと。

 気持ちの悪い怒りを溜め込んだまま淡然が自邸に戻ると、思わぬ客が彼を待っていた。

 子良覇である。その姿を見たとき、淡然は背中に冷たいモノを感じた。廟堂で見た時よりも背は低く感じられる。が、彼の纏う空気は氷そのもので、冷たく濡れる青の睛は本当に血が通っているのか疑いたくなった。

「何用でしょう」

 淡然は息を落ち着け、一国の宰相の仮面をかぶった。

「いえ、別に用などは……ただ噂に聞く淡然様がどのような方なのか、少しばかりお話でもと思いましてな」

「然様ですか……」

 嘘だろうことは明白である。

「なに、ここ数日で幾人か顔見知りが出来ましてな。彼らが口々に貴方の名を云うので、気になったのですよ」

「それはまた恐縮なことです。あまり好い話をお聞きにはならなかったでしょう」

「いいえ、そんなことはありません。皆さん、貴方のことを誉めていらっしゃいましたよ」

「はは……そうですか。いやしかし――本心……でしょうか?」

 淡然は言葉に二重の意味を込めた。さすがに延宗の元丞である。子良覇は淡然の意図を読み取って目を見開いた。蜥蜴のような動きだと淡然は思った。

「もちろん本心です。私は嘘を申しません」

「嘘を……なるほど」

 すると子良覇が席を立った。

「今日はどうやらお疲れのようですな。また機会を見て伺うことに致します。それでは」

 踵を返して退出しようとした子良覇の背に、淡然は声を投げかけた。

「子良覇殿――」

「何ですかな」

 子良覇は振り向かずに、僅かに首を回すだけである。

「――もし貴方が並の元丞であれば、私は彼らに心から誉められようとしたでしょう。ですが、そうではないようだ。答えは変わりません。私は誉められ慣れていないもので」

 室には湿気を含んだ沈黙が漂う。

 やがて子良覇は、そうですか、とだけ云って室を出て行った。


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