天河擾乱 6
その男は、自らを蘭と名乗った。
黒龍の頭目である琉聖の無残な亡骸を投げ捨てると、敵意とも取れる冷たい眼で寿円を見据えた。金色の睛など見たことがない。まるで獣が獲物に食いつく寸前のような、荒々しい本能が渦巻いているようである。
されど寿円も武人の端くれ、腰に佩いた剣を抜き放ち、微かに定まらぬ剣先を蘭に向けた。今まで多くの戦士たちと矛を交えてきたが、これほどまでに背筋が寒くなるような相手は初めてだった。手にしている剣はかなりの業物だったが、この男を前にしては枯れ枝を持っているような心地になる。
寿円は、ともすれば震えそうになる指先に力を込め、腰を落とした。
しかし、蘭は何事もなかったように太刀を鞘に納める。
「王侯を守る兵……斬る気はない」
「何ッ……?」
蘭は地面に横たわる無数の死体を踏みつけながら立ち去ろうとした。裸の女達は蘭から身を隠すようにしてすすり泣いている。己の運命を嘆いているというよりは、身の危険を感じて徒に泣き叫んでいるようである。
すかさず寿円は呼び止めた。
「貴様、どこへ行く」
「おそらく……北」
「北だと?」
「戦があるのだろう? 不甲斐ない戦をしてもらっては困る」
そして、蘭と名乗った男は繁みの中へ消えていった。
寿円は言葉の意味がわからず、しばし呆然と立ち尽くしていたが、とにかく待機させている兵のもとに戻った。
今は少しでも時間が惜しい。一刻も早く先行している盤実本隊に追いつかねばならぬ。
幸いと云うべきか、黒龍は殲滅され、こちらは一兵も損ねていない。結果だけを見れば最上である。が、寿円の心にはわだかまりができている。
「……クソッ」
何故か納得がいかない。間近で理不尽な暴力を見たからか。それとも、琉聖をこの手で討ち取ることができなかったからか。わからない。ただ、何故だか力が抜けた。欲していたモノが目の前で潰されたような、不快な脱力である。
寿円はそれを打ち消すように部隊を強行軍に変えた。今は目の前の戦に集中せねばならない。
実に凄まじい速度で寿円の部隊は北上してゆく。
ついに三日後には合草の目と鼻の先に到着した。しかし――。
「嫌な予感がする……」
と、ここで寿円は部隊の足を停め、馬を下りて地面に這いつくばった。大地には無数の足跡が広がっている。それはいずれも盤実の本隊のものである。すると寿円は何を思ったか、馬の足跡を指で測り始めた。
「深いな……ここで速度を上げたのか。しかし何故だ」
そして立ち上がると鎧についた土を払うのも忘れ、辺りを見渡した。そこは街道の途中である。このまま往けば合草まで三日とかからない。
「合草の戦況に変化があったと見るべきか。親父殿が意味もなく急ぐはずはないが……」
寿円は盤実に絶大な信頼を寄せている。しかし、このまま盤実を追って突き進むのには気が向かなかった。心のわだかまりがそうさせるのであろうか、ここで寿円は決断を下した。
「やむをえん――我らはこれより遊撃隊となる」
それは、寿円が初めて示した盤実とは違う意思だった。
擬竜の巨大な爪が大地を抉り、困惑する二藍軍を急襲した。
延宗軍の戦場での機動力はまさに神速と云ってよく、一つの命令で右にも左にも変化する。さながら一個の生き物を見ているようである。
麻微士はまず、二藍軍に最も近い南門の前に配置させていた部隊に攻撃命令を下した。その次は西門の部隊である。最後に北門にいた本隊の兵を動かし、敵に接近させた。
多くの部隊による多段攻撃である。これは擬竜を使う延宗が最も得意とした戦法で、野戦では無類の強さを誇った。
麻微士は完全に出入り口を封じた合草を無視して軍を進めている。
戦場には、二藍と延宗の正面衝突という図式が出来上がっていた。
「城壁などという箱に満足しているのが二藍の兵よ! よもや棺桶にこもっているとは気付かなかったようだな! 一気に呑み込んでしまえい!!」
勝利を確信した麻微士は云い放った。これは、二藍と延宗二つの戦法に熟知しているからこそ実行できた戦術と云える。
ここにきて二藍は思わぬ強敵に出遭った。
満足な布陣もままならない二藍軍は、半ば恐慌状態に陥っている。ここで援軍がいとも容易く敗走すれば合草の守備兵の士気は落ち、一日と立たずに陥落するだろう。延宗は最初からこれを狙っていた。盲点というほかない。
敵の思惑を悟った盤実は、ただちに態勢を整えるべく号令を放つ。
「散り散りになるな! 堅固に守り、反撃の時を――――ぐッ」
その時、盤実は車上で血を吐いた。
「盤実様!?」
旺尖は兵車で倒れた盤実に駆け寄った。吐血の量は多く、白い髭を紅く染めている。
「お、旺尖……指揮を……」
旺尖の腕を血で汚れた盤実の手が掴む。その力はすでに弱く、往年、延宗兵を震え上がらせた猛将のものとは思えなかった。
「盤実様! お気を確かに!」
「こ、ここで負けてはならぬ……合草の民が……待っておる……」
そこで盤実は気を失った。
旺尖はただちに部下に命じて盤実を首都の観季に送らせた。
その頃、二藍の動きが固くなったと感じた麻微士は、本隊をさらに前進させるべく命令を下した。麻微士は敵を殲滅させる気でいる。敗走などは生ぬるく、敵兵の首を一つも逃すものかという衝動に駆られていた。
「すべての兵を殺し、父上の墓前に捧げてやろう」
そう云った麻微士の心中は私怨に溢れていた。
攻撃の苛烈さからそれとなく麻微士の心情を感じ取った泰弱坊は、何か気持ちの悪いものを胸中に抱えながら戦場を見ていた。
「こっちの力が大きい……これでは勝ちすぎてしまう」
そう考える泰弱坊は、戦争での勝利の度合いを常に念頭に置いていた。それは大きすぎる勝利が災いを呼び込むという考え方である。圧勝ではこちらに慢心が生まれ、辛勝では敵に付け入る隙を与える。よって七分ぐらいの勝利が最上だと思っている。
しかし。
「とはいえ、このまま指をくわえて見てもおれんな――しょうがねえ、行くぞ野郎共!」
と、泰弱坊は新しく買った槍を掲げて突撃しようとした。が、そこに咲方士の手がにゅっと伸びて泰弱坊の首根っこを掴んだ。
「おわッ」兵車の上で転ぶ泰弱坊。
「待て」
「な、何だ!?」
「あの山が気になる」
咲方士が指差したのは合草の東側にある小高い山だった。
「山!? 今はそれどころじゃ――」
「山が騒がしい。俺たちはここを動かん方がいい、状況がわからん時は下手に動かぬのが得策だ」
咲方士は云い切った。山で生きてきた自分の経験から来る言葉である。
「おい、でも目の前に手柄が転がってるんだぜ?」
「俺は今、お前の車右だ。むざむざ死の臭いのする方に往かせられん」
「ああッ、ちくしょう!」
泰弱坊は激しく頭をかいて車上で座り込んだ。友の言葉に従ったのである。
ここで進撃しないのは命令違反だったが、何故か咲方士に逆らう気になれなかった。
寿円の部隊は合草の東側にある山を迂回していた。
一刻も早く戦場に着きたいところではあるが、胸騒ぎを覚えた彼は軍頭を右に向けた。時間はかかるが直進を避けるべきだと判断した。
とにかく情報が少ない。本隊との連絡も取れない今、自分の決断が戦場の動きを左右することもありうる。
「このまま迂回し、戦場の後方に出る。遅れるな!」
かくして寿円は遊撃隊としての役割を果たすべく単独行動に出た。
一方、合草付近の戦場では擬竜の牙が二藍の肉を喰らっていた。
二藍軍の命令系統は混乱をきたしているらしく、思うように動いていない。ここぞ勝機と見た麻微士は本隊の兵も戦場に滑り込ませた。
「そのまま押し込んでしまえ」
戦場は凄絶な様相を呈している。逃げ惑う二藍兵を擬竜の強靭な足が踏みつけ、まさに蹴散らすように進軍していた。盾を構えて隊列を作るも急ごしらえの防禦では効果が薄い。
このままでは総崩れとなってしまう。
旺尖はすでに敗戦を覚悟している。勝ち目の薄い戦にのめり込んで全滅してしまうことは、合戦ではよくあることだ。即座に負けを認め、被害が拡大しないうちに速やかに撤退することも良将の証である。
されど旺尖は撤退命令を出せずにいた。盤実は合草の民を最後まで気にかけていたのだ。このまま退却してしまっていいはずがない。だが戦況は明らかに分が悪い。このままゆけば惨敗となる有様だ。
――お前は今まで何をしてきた。
ふと、梅鴉の言葉が脳裡に浮かんだ。
わからない――自分は今、何のために戦っているのだろう。
国のため、忠義のためにと兵を起こせば、それは私心であると打ち砕かれた。軍人はただ命令に従うしかなく、そこに私心を挟んではならない。故に、軍人は常に法の下にあらねばならない。
あの時、あのまま兵を起こして宮中に乱を持ち込んでいたとすれば、今ごろ忠義者の皮をかぶった不忠者がいたことだろう。それはわかる。しかし、一体どういう道を選べばよかったのか。旺尖にはまだそれがわからない。
と、その時である――。
迷う旺尖の目に、一筋の光明が射してきた。
それは、苛烈に攻撃してくる延宗軍の後方である。そこに何故か二藍の軍旗がはためいているのであった。
「まさか……寿円か!」旺尖は思わず膝を打った。
果たして、戦場の後方に突如として現れたのは寿円の部隊だった。
「迂回してきて正解だった……敵の背後を衝く。駆け抜けろ!」
寿円は車上で雄々しく叫んだ。二藍の窮地を救えるのは自分しかいない。
「敵だと――馬鹿な!?」
麻微士は脳裡にない敵の動きに当たってしばし思考が止まった。
これは完全に虚を衝かれた形になった。今や延宗は攻勢の波に乗って前線に兵を寄せていたのである。本隊の背後を守る後詰すら攻撃にまわし、すべての兵を討ち取るつもりでいた麻微士は、背中に白刃を突きつけられたも同然だった。
寿円の部隊はわずか五百である。全体から見れば寡兵と呼んで差し支えない。が、攻撃中の軍の背後を衝いて戦場をかき回すには十分な数だった。
「いかん、応戦せよ!」
麻微士は腹の底から叫ぶが、寿円の部隊は速かった。擬竜はその特性上、突撃には向くが旋回には不向きである。後方に意識を巡らせていないこともあり、優勢が一気に覆されつつあった。
一陣の風となった寿円は戦場を疾走する。勝利がどちらに転ぶかわからなくなった。死傷者の数だけを見れば圧倒的に二藍の損害が大きいものの、寿円の登場が勝利の風向きを大きく変えつつある。
しかし――。
そこに、猛進する寿円の部隊に接近する一つの集団が現れた。
規模は寿円のものと同じ五百ほどの兵団である――それは誰あろう、泰弱坊だった。
「往かせるかッ、ブチ当たれ!!」
「クッ、まだ残っていたのか」
主戦場の後方で寿円と泰弱坊は対峙した。泰弱坊隊は直進する寿円隊に併走するように駆け上がり、延宗軍の背後を貫く軌道を逸らした。
その最中、泰弱坊は部隊長と思われる寿円の兵車を発見し、御者に命じて寄せさせると、剣を抜いて即座に飛び移ってしまった。
「貴様が隊長か! 覚悟ッ!」
泰弱坊は頭上から斬りかかり、寿円は受け止める。激しく剣花が散った。
「自ら来るとはとんだ若武者だな! 名は!?」
「泰弱坊だ! そういう貴様は寿円だな! そのクビもらったァ!」
泰弱坊は寿円の首元を狙って薙いだ。が、剣は弾かれ、両腕は大きく振りあがってしまう。寿円は空いた腹部に蹴りを見舞った。
蹴られた泰弱坊は兵車から吹き飛ばされ、自分の兵車に援けられた。
「その名、憶えておくぞ」
そう云って寿円は戦線から離脱した。
かくして、寿円の奇襲が失敗に終わり、二藍と延宗の勝敗は決した。
機智を見せた泰弱坊は、この戦の活躍から名を馳せてゆくことになる。
また、寿円との因縁はこの日から始まった。
今回の合戦は、次代を担う若手の台頭という重要な意味合いを含んだ戦いとなった。
※
瀕死の盤実が帰還し、それからすぐ後に入った報告によって二藍の敗北が宮中に知れ渡った。
その一報を受け取った敬王は深いため息を吐いた。
「延宗は……図南の翼を広げてしまったか」
淡然は沈痛な面持ちを浮かべる王の心情を察し、自らも心を痛めた。この敗戦はあまりに大きな痛手となった。城塞都市合草は陥落し、兵の損害も甚大である。何より、盤実が倒れた。
淡然が廟堂を退出する際、工部卿の郭清がそっと歩み寄って来た。
「大変まずいことになりましたな……ああ、まずいまずい」
そう云って微かに口の端を上げる。淡然にはこの男の真意が手に取るようにわかる。郭清は淡然の失脚を望んでいるのである。言葉では憂慮を示しつつも、暗に元丞としての淡然の不手際を責めていた。
「元丞殿、どうなさるおつもりで? 早く次の手をこうじなければなりますまい。勝利の勢いに乗った延宗は必ずや決戦を望んでくるでしょう。違いますかな?」
悔しいがその通りである。合草が陥とされた今、延宗が平地での会戦を挑んでくるのは必至だった。その戦に負けることは、二藍が延宗に屈したと世界中に喧伝するようなものである。
勝ちに乗った延宗は今さら和議など呑まぬであろう。延宗はそういう国だ。
「力を尽くすだけです」
淡然はそう云い返すのが精一杯だった。
郭清は国が危機に瀕しているというのに随分と余裕を保っている。この男は観季に延宗の兵が迫れば真っ先に投降するであろう。いや、時機をみて国を売り飛ばすかもしれない。淡然はそう思った。
廟堂を後にした淡然は駆け足で盤実の屋敷に向かった。邸内には族人が集まっており、家人が忙しなく廊下を走り回っていた。盤実の子や孫はまだ戦場から戻ってきていない。
淡然を迎えたのは家宰である。家宰は、お待ちしておりました、と低い声で云って淡然を招き入れた。
盤実の居室は何か魄い靄がかかっているかのようだった。死に向かう人間が放つ独特の空気である。思いのほか盤実は落ち着いた様子だったが、それが逆に死期を悟った者の最後の静影のようで、淡然は居た堪れぬ気持ちになった。
「よく来た……淡然殿。このような姿ですまぬな」
盤実は牀蓐から起き上がれないらしい。表情こそ静穏そのものだったが、実際は声を出すのもつらいのであろう。心なしか肌が白い。色素が抜けているようである。
「淡然殿、ここが二藍の岐路となろう……そなたなら正しき道を選べよう。儂はそう思うて……いや、信じておるのだ」
「……は」
盤実は探るように手を動かした。淡然はすかさずその手を握った。
「もうほとんど見えぬ……噫……風は何処に吹いておるのだろう」
それから三日後、盤実はこの世を去った。
人生のほとんどを戦場に捧げてきた武人の安らかな最期である。
その日の夜、一つの星が墜ちた。




