天河擾乱 5
「咲方士、お前、好きな女はいるか?」
泰弱坊は幕舎の中でふと訊ねた。
今、延宗軍は合草に到着したばかりで、城の包囲に取り掛かっていた。軍容は陸刀佗、麻微士の二軍で、兵数にすれば二万を越える大軍である。しかし、その半数近くは工作兵や輜重隊で構成されていた。つまり、戦闘に参加できる兵は半分の一万程度だった。
それはさて置き、どの部隊よりも統制のとれていた泰弱坊の部隊は、いち早く所定の位置に待機し、あとは命令を待つばかりであった。
泰弱坊の部隊は麻微士の指揮下にあり、現在布陣している場所は北門の前である。合草の東には小高い山があり、東部は天険に守られていると考えていい。延宗軍は北、南、そして西を覆うように布陣していた。
「何だそれは」
咲方士は質問の意味がわからなかった。
「好きな女だ。その歳なら一人や二人はいるだろう。妻にしたい女だ」
「妻……ふむ」
咲方士は姉の咲野を憶った。幼い頃、咲方士は咲野と結婚したいと漠然と想っていた。が、本人の手前、何となく恥ずかしい気持ちがあったのでそのことは隠しておいた。
されど、やはり姉は姉である。いくら月の里の始祖である夜織が、弟の夜交と夫婦であったとはいえ、それは伝説の中の出来事。実際に妻にしたいなど、もう考えてはいない。
では、撫子はどうか。それがよくわからない。
「おらんな」咲方士はそう答えた。
「そうか……俺はいるぞ。でも云えねェな。とにかく、そのために俺は戦場で手柄を挙げなくちゃならねえ。とりあえず旅長にはなった。だが、こっからは時間がかかるだろう」
「何故だ?」
「若すぎるからだ。いくら戦功を積んだって、若いヤツがポッと壇上に上がることはできん。やはりそれなりの年齢と経験がいるわけだ――が、やっぱり戦功があったほうが出世は早い」
「なるほど。ってことは、相手は高貴な身分の人だな? ははあ」
泰弱坊は心を見透かされた思いがして赤くなった。彼は武勇に優れてはいたが、人心の裏を読んで謀をなすような性質は持っていない。すなわち、馬鹿正直なのである。
「うるさい、とにかくこの戦じゃ一番槍を目指す。そのつもりでいろよ」
「うへへ」咲方士はこの頃、泰弱坊の前では笑うようになっていた。
さて、泰弱坊の出世への望みはそれほど大それたものではない。現に延宗には二藍人でありながら将軍職に就いている麻微士がおり、その地位は実力で勝ち取ったものである。もともと狩猟民族であった延宗には実力主義の風潮があり、他国に比べて力のある者の出世は早かった。
実際、泰弱坊は異例の早さで頭角を現してゆき、八百年後に皇沙という天才が現れるまで、烈火将軍の威名で史上最強の武将として延宗で親しまれる。
が、この時点ではまだ猪武者に過ぎない。
麻微士からの命令が下されたのは、まもなくのことだった。
「なに、まだ攻めるなだと!?」
泰弱坊は飛び上がらんばかりに驚いた。それもそのはず、今か今かと進撃命令を待っていたにもかかわらず、下った命令が待機命令だったのだ。肩透かしを食らったも同然である。
「どういうことだ? 敵は目の前にいるんだぞ。早く陥とさねば敵の援軍が到着する」
泰弱坊は軍吏に詰め寄った。
「し、しかし……麻微士様からのご下命ですので」
「もういい、直接確かめてくる」
そう云って威勢よく莫舎を飛び出した。麻微士の本陣も北門近くにあったので、泰弱坊は駆け足のまま帷幄に飛び込んだ。
「将軍! なにゆえ攻撃なさらないのです!?」
麻微士は将几に腰掛けたまま、眼だけを動かして泰弱坊を見た。
「身分をわきまえぬ輩と思えば、姫君の気に入りか……それがどうした」
「なぜ城攻めをなさらないのです!」
麻微士は侮蔑するような目で吐き捨てるように云った。
「兵法を知らぬのか、孺子め――」
孺子とは青二才の意味である。麻微士は面倒くさそうに続けた。
「――通常、城攻めには守備兵の十倍の兵を要するという……合草の守備兵は二千五百。たしかに、我々の戦力は敵に十倍する。しかし合草は難攻不落。これまで幾度も攻め損なっていることを思えばこれでも足りぬ」
「……」泰弱坊は唾を飲んだ。
「さすれば、まともに相手をするのは下策であろう」
「な、ならば」
と、そこに軍吏が入ってきた。麻微士は泰弱坊を無視して命令を下す。
「攻城兵器の作製を急がせろ――それから前線の部隊には敵の矢頃で退くように云え。退いたらまた寄せるのだ。陸刀佗殿には兵器の完成と同時に速やかに帰還されたしとの伝令を」
命令が終わると、まだいたのか、という目つきで泰弱坊を見た。泰弱坊自身はたった今下された命令に耳を疑っている。陸刀佗の軍を帰還させることは兵を半分減らすことに他ならない。
「まあ見ておれよ、城攻めはもう始まっておるのだ」
すべては麻微士の脳裡に描かれている。
泰弱坊は目の前の男が、何故この場所にいるのか識った思いがした。
一方――盤実は合草まであと二日というところまで軍を進めていた。戻ってきた斥候の情報から、現在、延宗軍は攻城兵器を合草の城に進めている、ということがわかった。
「然様か」
盤実は大きく息を吐いた。この調子ならば今回の戦は容易く勝てそうである。このままでいけば明日には兵器を使った本格的な城攻めが始まり、そこに乱入すれば敵軍を打ち破るのはそう難しいことではない。
合草は鉄壁の要塞である。一日で陥落することはまずなかろう。盤実はそう考えている。
「行軍を、急がせましょうか」
佐将である旺尖は云った。今回の戦では体調のすぐれない盤実に代わって彼が主な指揮を執っている。
「ふむ……敵との呼吸を計れ。あまりに急いでこちらが息切れしてはかなわん」
「御意」
旺尖は行軍速度を少しばかり速めた。
それから二日後の朝、盤実率いる二藍の援軍は合草の郊外に到着した。
そこで、盤実は信じられぬ光景を目にした。なんと、城攻めがまだ始まっていないのである。衝車や攻城櫓といった兵器は依然として城の周囲に配置されたままで運用されていない。さらには延宗軍の大部分が戦闘に参加せずに、ただ城を囲んでいるだけだった。
「こ、これは……」
長年の経験で磨いた勘が告げるまでもなく、盤実の胸中には暗雲が垂れ込めた。
その時、延宗軍の本陣では擬竜の上で麻微士が号令を放っていた。
「来たか、怨敵二藍! 兵器を前に出せ! 城門を閉じるのだ!」
そして命令とともに、各城門の前に待機していた攻城兵器――に似せた封鎖用専用兵器が続々と前進し始めた。これには二藍の援軍はおろか合草の守備兵も眼を丸くした。攻城戦の主戦場は往々にして城門になる。敵は門を攻め、味方は門を守る。
しかし、その城門を敵が塞ごうというのである。
「まさか……いかん!」
盤実はようやく敵の真意に辿り着いた。
麻微士は手槍を掲げ、高らかに叫ぶ。
「敵は盤実である! 合草は封じ込めた、野戦で負けることは許されぬぞ! かかれ!」
延宗軍は一斉に盤実の軍に向かって進撃を始める。その勢いは凄まじく、騎竜兵の生み出す衝撃はまるで波濤のようであった。
待ちに待った進撃命令を受けた泰弱坊は舌を巻いた。
「すげえ……これが戦術というものか。城攻め自体を逆手に取りやがった」
麻微士の策はこうである。まず城を包囲し、攻城兵器を造るように見せて敵にこちらの攻城の意図を見せておく。さらに寄せては退くという方法で実際に城を攻め、交戦しているという事実を敵に示す。無論これは、迫り来る援軍に対してのものである。
そしていざ敵援軍が到着すると、接近させておいた攻城兵器に模した封鎖用の兵器で門を塞ぎ、守備兵の出陣を防ぐ。
最後は、ここまで休みなしで行軍してきた二藍軍を野戦で打ち破るだけである。
延宗兵の鋭気は十分みなぎっている。
怒れる龍が豊穣の大地を砕くときが来た――。




