天河擾乱 3
淡然が元丞に就任するのに、実に十日もかかった。
礼を重んじる二藍では、高位の職に就くためにはいちど君命を断り、然るのちにあらためて拝命するという形を取る。これは高位に就く者が清廉な人格であることを示す。ただし儀礼的なものであって、任命の段取りに過ぎない。
しかし淡然の場合は本心から断り、十日目にしてようやく首を縦に振った。
二藍の王『夏顔』(のちの諡を敬王。以下敬王)は頭を垂れる淡然にこう云った。
「刻兎に劣らぬ働きを期待している」
「ハッ、微力なれど、仰せのとおりに」
刻兎の名前が出たこの時、廟堂では一気に空気が張り詰めた。しかし敬王は涼しい顔をしている。この王は刻兎の功績と罪状とを別に考える柔軟な思考を持っており、刻兎、淡然と続く名宰相の威光で目立たぬが、のちに隠れた名君として知られる。
ちなみに諡号には『文』を頂点とした順列があり、決して低くない敬の文字が使われていることからも生前の敬王の人徳が知れた。
さて、淡然が元丞となってひと月、延宗との国境にある夕山方に延宗の兵が侵入した。
延宗の攻撃は素早く、宮中の人事再編に手間取っていたこともあって対応が遅れ、方師が出動した頃には延宗軍は撤退していた。本格的な侵攻の前の挨拶のようなものだと、淡然らはあらかじめわかっていたが、体制の立て直しを急がねばならないのは明白である。
「刻兎は見事なものだな」
盤実は刻兎の遺産とも云える諸制度や施設を見て、しみじみと云った。
二藍の急務は農産の向上である。刻兎はその下準備を綿密に行っていた。勤倹政策で蓄えを作り、地力を回復させ、農政改革を行う。そして二藍を復活させる。
「我々は……正しかったのでしょうか」淡然は呟いた。
「迷っておいでか、淡然殿」
そう応えたのは梅鴉である。彼女は盤実の計らいで宮中の一室を借りることになった。
性質から云って、先日の夏澄帰還の一件が終われば、またふらりと諸国漫遊の旅に出発すると思われたが、予想外にも彼女は残った。
「梅鴉殿……」
「わたくしのことは梅鴉と」
「は? あ、ああ――梅様……さん」
「……まあいいでしょう――それより、事の正否は後世の歴史家が決めてくれます。あの男は少しばかり急ぎすぎた……それでいいではありませんか」
盤実は頷く。
「然様、今は外患に目を向けねばならん」
※
延宗の醍斗王が二度目の軍旅を催したのは、前回から三ヵ月後のことである。
この時点で泰弱坊は軍の統制力を認められて旅団長になっていた。一旅は五百人の兵団のことであり、五旅で一師、五師で一軍、つまりは一万二千五百人となる。上限の差こそあったが、大抵の国は上中下の三軍を持っていた。
通常、王が中軍を率いるが、そうでない場合は元帥が率いる。
「合草は俺が攻める――陸刀佗、麻微士、お前達も続け。敬王に思い知らせてやろう」
醍斗王は高らかに号令を放った。この男は齢五十を過ぎてなお隆々たる肉体を持った豪傑である。岩をも砕くという膂力を誇り、その子らも人並みならぬ強さを持ったことから強血王と呼ばれることもある。
醍斗王がいざ玉座を立ったその時、廟堂に涼やかな声が響き渡った。
「お父さま、それはいけません」
瑛である。瑛は姫将軍とばかりにその身に鱗の鎧を纏っていた。剣を佩き、脇には兜を抱えている。鎧の紐を美しい桃色に染めているのは彼女の乙女心であろうか。
瑛は肩で風を切るように颯爽と醍斗王の前に歩み出た。娘の武芸好みは今に始まったことではないので、醍斗王は慣れたものである。
「瑛、何事だ」
「何事だ、じゃありません。大きな合戦がしたいのはわかりますが、この戦、わざわざお父様が出るほどのものでしょうか」
「何?」
「合草など地方の一砦に過ぎぬではありませんか。あのような小さな城、お父様が出るまでもないでしょ」
瑛は云い切った。しかし、合草は決して小さな城ではない。小高い山に脇を固められた守りの要衝である。過去にはこの合草を落とそうとし、何ヶ月も攻めあぐねたことがあった。延宗兵が城攻めを苦手としていることも敗因の一つである。
「ううむ……」
醍斗王は娘たちに、特に瑛に弱かった。
かつてこんなことがあった。ある年、醍斗王は南征の兵を起こした。そこで二つの支城を落とし、勢いに任せて三つ目を獲ろうとしたときである。麻微士の陣にくっついて戦場に出ていた十三歳の瑛は父に進軍するべきでないと云い出した。
勝ち戦に乗って兵の士気も高い今、むざむざ落とせる城を見逃す手はない。醍斗王は如何に愛する娘の進言だとしても聞かなかった。そもそも瑛は武将ではない。王族の立場に任せて図に乗るな、と醍斗は鋭い剣幕で叱り飛ばした。
しかし瑛は引き下がらなかった。
「お父さまは刻兎を見くびってます。アイツは、戦はまずくありません」
そう云ってなおも食い下がるが、結局、醍斗王は進軍した。すると、城攻めを開始した直後に後方から襲われた。その時、二藍の中軍を指揮していた刻兎は軍をわけてひそかに迂回させていたのである。支城を軽々と落とせたのはすべて餌だった。
結局、瑛が麻微士に無理を云って後方を警戒させていたのが功を奏し、延宗軍は大打撃を免れた。
以来、醍斗王は瑛にますます頭が上がらなくなった。
「恐れながら、姫君の云うとおりかと。二藍には威を見せ付けねばなりますまい。合草など、王の手を煩わせるまでもないことを示すべきです。我らにお命じ戴ければ、必ずや落として参ります」
中年の将麻微士は云った。攻めの陸刀佗、守りの麻微士として名高い。実は、この男は二藍の人間である。幼い頃に親が虜囚となり、延宗で生まれた。攻めが巧く、守りが下手だと云われる延宗兵で、巧みに守備を行う技術は二藍の血と云っていい。
「よかろう。陸刀佗、麻微士、お前たちに任せる。それから瑛――お前は往ってはならん」
「えっ」
「えっ、じゃない。当たり前だ。少しは淑やかになれ。嫁にいけぬぞ」
「だったらお嫁になんかいかなくていいです。男として生きていくから」
「や、や、それは困る」
そんな父娘のやりとりに、廟堂は笑いに包まれた。定住地を持たなかった延宗では昔から絆を大事にしてきた。狩りでも生活でもうまく助け合わなければ生きていけなかったのである。延宗は今でも祖先の性質を色濃く受け継いでいた。
ところで、そのころ咲方士は、屋敷で泰弱坊の鎧姿を眺めながらのんびり呟いていた。
「出世したなあ」
「出世したぜえ」
泰弱坊は加増した俸禄で新たに買った槍と鎧で格好をつける。
「その槍、高かったのだろう?」
「おうよ。業物だから槍のくせに十両もした。鎧とほとんど変わらねェ。それよりお前、本当に鎧はいいのか?」
「ああ、動きにくくてかなわん。あんなもの無くても車右の仕事はきちっと果たす。無駄飯食らいと呼ばれたくないからな」
「それならいいんだが」
咲方士は泰弱坊の車右になっていた。車右は御者と将とともに兵車に乗る役目のことで、将の右側に乗ることからその名がついた。各部隊で最も強い者が選ばれる。すなわち王の車右こそ国で一番強いことになるのだが、延宗の場合は王自身が最も強いので、今の車右は二番目に強かった。
軍吏が出陣の報告をしにやって来た。
「よし、我ら旅団の初陣となる。合草一番乗りを目指すぞ」
その矢先、今度は瑛が泰弱坊の屋敷に現れた。
「瑛!? じゃなかった、姫様、何ゆえここに?」
泰弱坊は咲方士の目をはばかって言葉を継いだ。
「城にお戻りなさいませ、我々は直に出発します」
「わかってます。ちょっと……渡したいものがあって」
瑛は咲方士に目配せする。咲方士は瑛の表情を読み取ろうと目を細め、しばらくして何度も縦に首を振った。
「――おお、おお、なるほど」
合点がいった咲方士は気を利かせて黙って外に出る。邪魔者がいなくなったのを見届けた瑛は姫の顔から乙女の顔になった。
「渡したいものとは?」
瑛はもじもじと髪をいじった。
「その、あの夜からずっと渡そうと思ってたんだけど……大きな戦が始まるって云うし……だから……その……」
「はあ……」
「あの……やっぱりいいや。戦、頑張ってきてね――一緒に往ってあげたかったけど、お父様がダメだと云うから」
「あ、ああ――ありがと」
泰弱坊はわけがわからなかった。




