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王を殺す毒 4

 刻兎は小間使の女官に茶だけ淹れさせると、私から離れていた方がいい、と云ってへやを去らせた。

 書類や書物が堆く積み上げられた刻兎の卓子からは、騒擾そうじょうとは無縁の茶の湯気が立ち上っている。熱い茶をすすり、異様とも云える静けさを堪能した。

 室だけではなく、外の廻廊もまた静かだった。

 宮中はどうなったであろうか――。大体の予想はついている。自身に与してきた多くの官吏は無関係を決め込むか、被害者の顔をするか、または郭清のように逃げ出したであろう。この静けさの中にはただの静寂と、人が作り出した不自然な静寂が含まれている。

「まったく、うまくやったものだな……」

 刻兎は見事と云える計略を生み出した者について思いを馳せた。

 人は、真実に対して無力なものである。また、真実はそれだけで絶大な強さを持っている。もしこれが、騒乱を呼び起こす力を恃みとしたものであれば、容易に握り潰せたであろう。

 しかし、彼らは裸であった。裸であるが故に強かった。

 徐々に迫り来る夏澄という真実に対し、自分の過去に含みのある人間は恐れ戦いた。

 彼らは真実に負けたのではなく、真実に怯える己に負けたのだ。

「失礼します」

 今になってこの居室を訪ねてくる者がいる。それは一人しかいない。

「入れ――淡然」

 かくして、毒と薬は再び交わった。

              ※

 淡然はかつて刻兎の許で実務に就いていた頃のように、一度だけ揖して中に進んでいった。

 数年前と変わらぬ光景がここにはある。書棚の並びも、書類や書簡の配置場所もまったく変わっていない。

 しかし、何かが決定的に変わってしまった。

 それは一体何だろう。刻兎か、己か、それとも――。

「何故、お逃げにならなかったのです」淡然は静かに訊ねた。

「背を向ける者にはそれだけの疚しさがある。これでは答えにならんかね?」

「……いえ」

「それに生まれ育った国を捨てることなど出来んよ。私は二藍の民であり、臣である。それより淡然、これを見よ」

 そう云って刻兎が差し出したのは、新たな政策を書き記した書類である。

 淡然は恭しくその書類を手に取った。

「これは……新たな学制を――?」

「そうだ。学堂の数を増やそうと思っていた。二藍には中央と方にそれぞれ官院があるが、新たに十の官院を設立しようと思う。お前のようなあぶれ者にも機会を与えるために、受験資格を取り払うつもりだ」

「……」

「それだけではない。私学や寺院でしか学べなかった者に等しく学べる機会を与えるために、各郷に『郷学ごうがく』を置こうと思う。そうすれば民に広く知識が行き渡り、農村出の官吏も珍しくなくなる。ゆくゆくは民に法を学ばせ、民が国を先導してゆくことになろう」

「貴方は――」

 淡然は詰まりそうな言葉を懸命に吐き出した。

「――国を愛しておいでだ」

「それがどうした?」

「なのに……何故なのです。国を愛しているならば」

「夏楠様のことか?」

 淡然は無言で刻兎の目を見据えた。

 刻兎は、処刑の日のことだ、と云ってゆっくり語り始めた。

「あの日、私は夏楠かなん様とお話する機会を得た。さすがに公であらせられる、淀みの無い、毅然とした表情をしておいでだった――」

 王宮の敷地内の地下にある牢獄に夏楠は繋がれていた。高貴な身体には荒縄が食い込んでおり、血が滲み始めていた。

 謀反人だとされたものの、拷問があった様子はない。それもそのはず、すべての罪状は刻兎が決めるのである。

 刻兎は夏楠の牢に赴き、獄吏を下がらせて二人きりになった。

――おいたわしい限りでございます……夏楠様。

――刻兎か……何故、涙を流しておる。

――それがしは、大きな罪を背負ってしまいます。償っても償いきれませぬ。

――私は死ぬのか。

――然様でございます。すべては私の不徳の致すところ。私めが二藍をうまく導いていれば、このようなことには……。

――そなたは、忠の者か。

――いいえ。夏楠様に白刃を振るわねばならぬ者がどうして忠と云えましょう。

――では。

――それがしは、ただの民でございます。東景方とうけいほう箔翠郷はくすいごうに生まれ、爾来じらい、二藍の民として生きて参りました。それは一時たりとも忘れたことはございませぬ。

――然様か……刻兎よ。

――は、ははあっ。

――そなたに出来るであろうか……古の王 占泣せんなき岱王慈たいおうじの成した偉業が。二藍を再び黄金の海に変えることが出来ようや。

――微力なれど、二藍が為にお尽くし致します。

――刻兎……よしなに。

 刻兎は机上の書類に印章を捺しながら、決して手を止めることなく語った。

「淡然、一つ訊こう――国とは何だ?」

 突然の問いに淡然はしばし固まった。

「国は……国は王を頂点とした――」

「本当にそう思うか?」

「はっ――」

「そうか……だが、私はそうは思わん。国は王で、王は国ではない。別のものだと私は考えている。民は国の為に租賦そふを差し出し、国は民に法を与える。しかし、本当にそうだろうか。民は民の為に田を耕し、国は王のために法を巡らせているのではないか」

 淡然はここにきて初めて刻兎の真意がわずかに見えた気がした。

「まさか、学制の改革というのは」

「これは手始めに過ぎん。まずは知識を授けること、そして、その先に私の想像する国家がある。ゆくゆくはこの国から王はいなくなり、民が治める事となるだろう。私の生きているうちにそれが成るは思っていなかったが、果たしてそうであった」

 淡然は語る言葉を喪った。あまりに大きすぎる。百年の大計どころではない、千年の大計を刻兎は描いていたのだ。

 印章を捺し終えた刻兎はすっかり冷めてしまった茶を飲み干した。

「十日ほど前に、初めて別邸と云うものを買ったよ。郊外にあるのどかな場所だ。朝には小鳥がさえずり、狸や兎がひょっこりと顔を出す。しかし、慣れぬことはしないものだな。相場の倍の値段で買ってしまった。長く宮中にいるとどんどん世間知らずになっていく。こう見えても若い頃は畑を耕していたのだ。何もかも終わったら、妻と二人で、細々と生きていくつもりだった。しかし、それも叶わぬ……」

「奥方様はどうなされるのです」

「心残りはそれよ。淡然、いささかとうが立っておるが、お前が貰ってやってくれぬか?」

「お戯れを」

「ふっ、そうか。お前ならばと思うたのだがな。さて、お前が駄目だとなるといよいよ困ったことになった」

「貴方は――」

 淡然は拳を握る手に力を込め、吐き出すように云った。抑えていた言葉が一気に溢れる。

 刻兎と初めて逢ったその日から抱いていた気持ちがある。

 淡然は刻兎を敬愛していた。

「貴方は奥方様と逃げるべきだった!」

 刻兎はその言葉を吟味するように眉をひそめ、微笑った。

「それも悪くない……しかし、二藍は私の母だ。母を捨てることなど、誰が出来よう」

 そして椅子を引いて音もなく立ち上がると、ゆっくりと室の戸に向かって歩いていった。

「淡然、知っているか。南西の海に百以上の島々で出来た国があるそうだ。そこでは王というものは存在せず、すべてを民が決めているらしい。議会を作り、公正な抽選のもとに総督というものを選ぶという。総督は民意をまとめ、国の方針を定める……王とはまったく違う発想である」

「……奥方様は、私が命を賭けてお守りします」

「かたじけない。やはり、お前を選んでよかった」

「刻兎様、お聞かせください」

「何だ」

「何故私を――選んだのです」

 背を向けた刻兎は振り返ることなく云った。

「私がお前に興味を持ったのは、酒場にいながら素面で理想と批判を語っていたからだ。途方も無い大馬鹿か、そうでなければ偉大な賢者だろう。だがどのみち、その痛烈な言葉に私は頭が痛くなった」

「……」

「お前を拾い上げて正解だったよ。初めに云ったであろう? 私の薬にならぬか――と。どうやら、私の見る目は間違っていなかったようだな……満足だ」

 そう云って刻兎は室を去っていく。

 淡然は、ただただ頭を垂れるだけだった。

              ※

 こうして刻兎は宮中から姿を消した。王族を手に掛けた卑劣な宰相として歴史に名を残すことになる。一方の淡然は刻兎を誅伐した英雄となる。

 しかし、はるか後の時代に、刻兎は『清風派』と呼ばれる革命的な思想家達によって神とまで崇められることになる。彼らは皮肉にも毒の風を操った刻兎に対して、清き風を謳った。彼らによって刻兎は再評価され、超先進的な思考を持った賢人と呼ばれるのである。

 思想家達は口々に、生まれてくるのが早すぎた、と云った。

 揺るぎなき王権主義に異を唱え、主権の下降を説いた刻兎は、国家というものを根底から覆す思想を生み出すことになったのである。

 歴史を変えたと云ってもいい。

 だが、この時はまだ王の時代であった。


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