月の瞳 1
女神の爪痕というものがある。
その名の通り女神が大地を抉った痕と謂われ、山々の広がる地に突如として切り立った巨大な崖が現れる。
遠い昔から乳白色の濃い霧をため込んだ女神の爪痕の底を見た者はない。
東西南北に大きく跨る四つの連山と、大小様々の峻険な峰々、そして女神の爪痕にぐるりと囲まれた人跡未踏のはずの地に、一つの邑があった。
決まった名を持たないその邑は、周辺一帯を版図とする『二藍』国の地理書にすら存在を誌されていない。
それどころか、多くの書物においても神聖なる未開の地として一種の禁忌となっていた。女神の爪痕によって邑と外界は完全に隔離され、邑の者が外に出るのもなく、外の者が邑に入ることもなかった。
二藍の開拓使や調査団の多くが命を落としており、その度に禁忌の理由を知るのである。
そのようにして永き時を邑の民は人知れず平穏に過ごしてきた――。
民は自らの住む邑をいつからか『月の里』と呼んだ。
されど人の好奇心は尽きぬもの。世代が代わり、若者達が台頭してくるのは世の常。その若者達の中には禁忌や俗習を怖れぬ者が少なからずいるものである。
『月の里』の長である『月魄』は常日頃から外敵の侵入と内からの流出者を防ぐために心を砕かねばならない。気の遠くなる時間の中で、月魄という役職は人の好奇心と戦うための役職となっていた。
その日、月魄である老環の邸宅に、外敵侵入の恐れありとの報せが入った。足の不自由な老環は牀蓐で臥したままその報せを聞いていた。
「二藍め、懲りぬものだ」
「奴らはまたもや崖に桟道を通し、橋を架ける気でありましょう。如何に」
片膝を突き、重ねた両の手で顔を隠した側近の男――亜麻呼は言った。
「しばらくは捨て置け」
「よいので?」
「目の前で挫いてやればよい。完成までは十数年とかかろう。ならば歓喜の瞬間に風で崩れ落ちる様を見せてやればしばらく面倒になるまいよ――しばらくはな」
老環が顎に蓄えた髭を撫でたその時、居室の外から新たな使者の声がした。
側近の亜麻呼は老環に許しを請い、一度退室した。
老環はぼそりと独り言ちた。
「いよいよ面倒ならば焼き払えばよい――何もかも」
しばらくして亜麻呼は戻り、老環に素早く拝手した。
しかし、幼い頃より目をかけてきた亜麻呼の微妙な心情の動きを、老環はその挙動から見抜いていた。
「亜麻呼よ、貴様はいま少し言葉に依りすぎる。心の裡を老獪さで包み隠せぬうちは言葉で人を御そうとするな。でなければいずれ足を掬われることになろうよ」
亜麻呼は恭しく目を伏せた。
「……肝に」
「して、何事か」
「はい、大変祝着なる報せにございます――望の血に男児産まれ、その双眸銀にあらず――金なり――と。まことに喜ばしきこと。朔の血は比詩木の妻、瀬納の子やがて生まれますれば、『朔』『望』『晦』三つの血はますます栄えることになりましょう」
「つまらぬ美辞はいらん――金か……他にこのことを」
「はっ、児子出生に際し初めに月魄に伝うべしというしきたりに則るならば、母、産婆、そして急使をなした従者で――」
「明らかにせよ」
「は……?」
「しきたりが真実守られたかどうか明らかにするのだ。そしてこれを知る者をすべて儂の前に。急げ――耳は風と龍の次にはやい。じきに海すら飛び越えようて」
亜麻呼は急ぎ膝を突き、老環に拝した。
「恐れながら、意図が見えませぬ」
「わからぬか。過ぎたるモノはいらぬということだ。金色の睛……『金睛眼』――始祖の弟の睛である。そのことは貴様も知っておろう」
「無論。なればこそ、此度の金睛眼を持つ男児の出生は――」
「そこよ。我々は皆、始祖の持つ銀の髪、銀の睛を受け継いでおる。わかるな?」
「はっ、月魄の仰せならば異論はありませぬ」
老環は手で亜麻呼を招き寄せ、跪くその肩に手を置いた。
「亜麻呼、儂は貴様を息子のように思うておる。永久の安寧ためである。これより――貴様の目は儂の目となる。貴様の口は儂の口となる。貴様の耳は儂の耳となる――わかったな? 後の処分はお前に任せよう」
「仰せのままに……老環様」
その日の夜、民家を三軒全焼させる火事が起こった。
※
赤子が母の胎内から生まれ出でた時、産屋の中は愴然としていた。
産婆は赤子を取り上げた瞬間、死産だと思い顔を背けた。まったく身動ぎせず、泣き声一つあげなかったからである。逆さにして尻を叩いても何の反応もなかった。
赤子の母である瀬納は、産婆が首を横に振るのを見て何事か悟った。
生まれることなく逝ってしまったことを悲しむべきか、せめて母の胎内で死ねたことを慰めとすべきか。瀬納の脳裡からはあらゆる言葉が消し飛んだ。子が生まれると同時に母も生まれるはずだったのだ。
瀬納、初めての子であった。
産婆は瀬納にぐったりとした赤子を手渡した。血と羊水に濡れた赤子を瀬納は自らの衣で清めてやった。が、赤子は動かぬままである。土くれで出来た人形のようだった。
物云わぬ我が子に触れ、瀬納が母になりきれぬと思ったその時である。
すっ、と産屋の戸が開いた。
現れたのは白い衣を纏った女の幼子であった。腰まである銀の白髪を毛先で束ね、手には赤の鈴のついたでんでん太鼓を持っている。幼子は戸を開けるなり子を産み終えたばかりの瀬納の牀蓐に駆け寄った。
「咲野様っ、なりませぬ!」
産婆は幼子の名を呼び、瀬納に近寄ろうとするのを抱きとめ妨げた。しかし咲野はそれを意にも介さず、動かぬ弟を真っ直ぐ見つめていた。
「いつまで黙っておるのじゃ」
咲野の目に触れぬよう赤子を隠した瀬納は驚き、咲野の幼さゆえの無知を哀れんだ――この娘はまだ死を知らぬ。
瀬納は産婆に目配せすると、咲野に傍に来るよう云った。
咲野は瀬納の腕の中にある赤子に顔を近づけた。
「咲野、よく聞きなさい。この子はもう――」
「違うよ、お義母様。この子は生きておる」
「何と」瀬納は咲野の言葉に耳を疑った。
咲野はでんでん太鼓を傍らに置き、その真白な手で赤子の頬に触れた。瀬納には、それがとても美しいモノに見えた。赤子の頬を撫でながら、咲野は優しく諭すように云った。
「早くお前の声を聴かせておくれ、そして私のことをお姉ちゃんって呼んでおくれ」
「……噫……まさか」
赤子は呼びかけに応えるように、咲野の頬を撫でる指を右手で精一杯に握り締めた。咲野は最初からわかっていたというふうに満足そうに笑い、瀬納は茫然としていたが、すぐに我が子が生まれた喜びで胸が詰まった。
「よかった……よかった」
咲野は、泣きながら赤子を抱きしめる瀬納に微笑みかけた。この中で本当に母であったのはこの娘ではなかろうか。瀬納はそう思った。
柔らかい布でその柔肌を包んでやると、いまだ眼の開かぬ赤子は堰を切ったように泣き出した。
怖かったのか、怖かったのであろう――お前の命を信じてやれなかった母を許しておくれ――瀬納は詫びるように赤子に頬をつけた。
すると赤子の泣き声がぴたりとやみ、咲野が、わぁ、と感心した声をあげた。
「お義母様、この子の眼、私たちと違うよ」
瀬納は咲野が何を云っているのか一瞬わからなかった。しかし、目を輝かせながら赤子の顔を覗く咲野の後ろで産婆の表情が険しく硬直しているのを見た時、何かよからぬことが赤子の身に起こっているのだとわかった。
瀬納はゆっくりと、今まさに両の腕にしっかと抱いている赤子の顔を見た。
――ぞっとした。
しっかりと見開かれた二つの大きな眼のその中心に、黒い闇が淀んでいたのだ。その黒い闇には異腹の姉である咲野の顔が映りこんでいる。
咲野はきゃっきゃと弟の珍しい睛の色を楽しんでいたが、瀬納の絞り出すような一言で、産屋の中は水を打ったように静まり返った。
「不憫な……この子は盲いだまま生まれてしまった」
咲野は義母の不思議な一言に首を傾げた。
「お義母様、この子はちゃあんと見えておるよ? ほら、先刻から私のことを」
「咲野……」
瀬納は何も云わずに血の繋がらぬ娘を抱き寄せた。静かに漏れる嗚咽と、肩に食い込む義母の細い指が咲野の言葉をかき消した。