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雪中君子 2

「何か……」

 梅鴉ばいあは庵の戸にもたれかかりながら云った。試すように挑戦的な目つきである。淡然はすべてを見透かすようなその黒い睛に完全に呑まれていた。

 不思議な女である。見目は二十歳を過ぎたばかりのようであるが、落ち着きと深みを湛えた雰囲気は老人の持つそれだった。

 二国間の争いを収めた迎春の会が十五年前であるから、少なくとも四十は超えているはずなのだが、如何せん実像が掴めない。

 淡然は足元に深々と突き刺さった刀をあらためて見、言葉に詰まりながら用件を云おうとした。すると梅鴉は長い指で手招きした。

「どうぞ」そう云ってひらりと庵の奥に消えていく。

「どういうことだろう、撫子」

 いつになく落ち着きを失っている淡然は傍らの撫子に訊ねた。

「どうと云われても……行くしかないかと」

「そ、そうだね」

 淡然は煩雑になっていく思考を振り払い、意を決して庵の中に足を踏み入れた。

 そこは取り立てて何もない質素な室であったが、淡然が想像していたような隠遁者が住むようなものとはまた趣が違っていた。中は思いのほか広く、間仕切りに使われている屏風には水墨画が描かれており、壁掛けの一輪挿しには見知らぬ水色の花がたおやかに咲いている。不思議に心奪われる花だった。離れに炊事場があり、敷地だけで見るとなかなかに贅沢である。

 そして、淡然は初めて見るが、床に敷かれているのは畳というものである。東洋の国には藁と藺草いぐさで編んだ床が存在すると聞いたことがあるが、まさに今踏んでいる床がそうだった。

「どうぞ、お座りになってくださいませ」

 所在無くきょろきょろと目を動かしていると、梅鴉が何やら盆を持って現れた。そこには杯と大きな瓢箪が並んでいる。これは間違いなく酒だった。しかも瓢箪には金糸の紐が結ばれている。色は等級を表し、金は最上級である。

 梅鴉は淡然らの向かいに座った。淡然はすかさず口を開くが、それは虚しく制されてしまった。梅鴉は艶やかに微笑わらう。

「ご用件をお伺いする前に、一つ私と呑み比べをいたしましょう」

「呑み比べ!? いや、それがしは――」

「あ、そ。ならば私はもう寝ますね。今朝から来客を追っ払うのに必死で、朝寝が出来なかったもので……」

 淡然はこの女に対する居心地の悪さの理由に気付いた。苦手だったのだ。これまで政務の上で嫌な人間とも多く付き合ってきた淡然だったが、この種の人間は初めてだった。

 美しさには言葉もないが――。

 撫子は肘で淡然を小突いた。彼女は冷静なものである。それどころか、今までに見せたことのない険しい表情をしていた。

「……受けないと」

「あ、ああ――仕方ない」

 淡然はおもむろに杯を手に取った。梅鴉は嬉しそうに口の端を上げ、瓢箪に頬ずりすると栓を抜いて酒を注ぐ。とくとくと柔らかい音を立てて注がれる酒は濁酒だった。

「さあさ、ぐいっと」

「は、はい」

 酒の呑めぬ淡然は思い切って口をつけた。なるほど、最初の一口は美味いものである。花が薫るような深い甘味は、舌を丸く転がるようだった。

 これなら呑める――そう思った。

 が、食道を流れ落ちた途端に胃がかっと熱くなり、淡然は思わず目を剥いた。

「ゲホッゲホッ……こ、これは!?」

 梅鴉は玩具を見つけた童のように微笑った。

「美味しいでしょう? 私が手ずから作ったのです」

 そして梅鴉は返杯を無言で要求し、杯に並々と注がれると一気に飲み干してしまった。

 淡然はそこに魔物を見た気がした。

              ※

「――ここは」

 淡然が目を醒ますと、そこは想女そうじょで取った宿だった。

 周章あわてて起き上がるが、その瞬間、脳髄に鋭い痛みが走った。何ということはない、二日酔いである。痛みと気持ちの悪さに負けた淡然はすぐに牀蓐に倒れ込んだ。

 昨日のことを思い出すが、途中で記憶が抜け落ちている。結局、用件を切り出すことなく追い返されたのである。剣でも突きつけられたならばそれなりに対処の仕方はあったが、まさかこのような形で丸め込まれるとは思わなかった。

「撫子……撫子は――?」淡然は撫子を探した。

 どこにも姿はなかった。あるのは卓子つくえに置かれた書置きだけである。

 そこには一言――ちょっと行ってきます、とだけ書かれてあった。

 さて、そのころ件の撫子は想女の賈市こし(市場)にいた。鎮の住民で賑わう賈市は様々な露店が立ち並び、その中で撫子は果物を物色していた。

「その奥のもの、いいですか?」

 彼女が店の主人に指差したのは桃である。太った中年女性の主人は、はいよ、と景気のいい声で桃を手渡した。撫子は念入りに品定めをする。

「……毛並みがいまいちだわ。これじゃ後味にしつこさが」

 などと桃を撫でてはぶつぶつと独り言を云った。結局、方々を廻って納得のいく桃を手に入れたのは五軒目のことだった。

 撫子は他にも食材を買い込み、背中に大きな籠を背負うと、その足で梅鴉の庵に向かった。

「ごめんください」

 恐る恐る庵の中に呼びかけると、しばらくして梅鴉はゆらりと現れた。風呂上りらしく、上気した頬は微かに赤らみ、芳香が漂う。その後ろから下女が礼をしてそそくさと姿を隠した。

「あなたは……前に何処かで」

「昨日です」

 梅鴉は、昨日、と噛み締めるように呟く。

「そう……昨日の素敵な殿方と一緒にいた――お嬢さん」

「撫子と申します。今日は臥せっている養父、淡然の代理で参りました」

「淡然――昨日の方があの淡然殿ですね。やはり私の見立てどおり、剣で屈するような方ではなさそうでしたもの。お酒を出して正解だったわ。それにしても、娘がいたとは」

「養女です。少し前に」

「なるほど。どおりでこの私が知らないわけだ。それで、父の仇を討ちに来た、と?」

「いえ、梅鴉様にご用件をお伝えしたくて」

 梅鴉は、ふうん、と云って撫子の背中の籠に目を遣った。

「それは?」

 撫子は籠を下ろす。

「手土産です。もしお食事がまだだったらと思いまして、いくらか食材を」

 梅鴉はほんの一瞬だけ鬼のような形相を見せ、僅かに眉を上げた。

「ほう……貴女が作るというの?」

「厨房を貸してもらえるのなら、より腕をかけてお作りします」

 梅鴉は華奢な顎に人差し指を当て、考える素振りをした。

「よろしい。ちょうどお腹が空いていたところです。少し早いですが昼餉しましょう。出来によっては話を聞いてあげないこともない……ま、内容はわかってるのだけど」

 撫子は深く一礼して足早に炊事場に向かった。

 それからしばらく――。

「……ふうん」

 梅鴉は出来上がった料理にそれぞれ一口ずつ箸をつけた。その料理は云ってみれば田舎の料理である。王都の高級飯店などで出てくるような豪奢な料理とはまったく方向性が違う。

「い、如何でしょう?」

 着物の袖をたすきで捲くったまま、撫子は梅鴉の言葉を待った。ちなみに今は頭巾ではなく大きめの三角巾を頭に巻いている。

 この時ばかりは緊張するものである。やがて梅鴉はゆっくり口を開いた。

「悪くない。料理は愛情と云いますけれど、それは手間を惜しまぬ心――。貴女の料理にはそれが感じられますわね。そう……とても懐かしい味。後は口直しにもう一品――」

 撫子の目が耀く。それ来た、と云わんばかりに彼女は炊事場に戻ると、剥きたての桃を一口大に切り分けて持ってきた。

 小皿に盛られた綺麗な桃を見て梅鴉の片眉が上がる。

「あなた、私の好みを――?」

「いいえ。でも今は桃が美味しい時期ですし、桃が嫌いな人なんてこの国には――」

 そこまで云って撫子は、淡然が桃を苦手としているのを思い出した。

「なに?」

「いえ、何でも。どうぞ、お召し上がりになってください。私が選びました」

 梅鴉は訝しげに撫子の顔を一瞥し、竹で作った小さな挿し物でゆっくり桃を口に運んだ。すると梅鴉は咄嗟に口を押さえた。そして肩を落とし、ふるふると震える。

 撫子は周章て駆け寄った。

「ど、どうしました!?」

「まさか……桃にしてやられるとは」

              ※

 宿屋の主人に薄めた粥を作ってもらい、何とか落ち着きを取り戻した淡然は、平服から官服に着替えて馬で梅鴉の庵に向かった。撫子がいるとすればここしかない。

 馬を立ち木に繋ぎ、淡然は急いで庵の門をくぐった。

「梅鴉殿――失礼つかまつる」

 呼びかけるも返答は無い。不在かと思ったその矢先、下女がやって来て淡然を中に招き入れた。すると中には畳の間で上機嫌に濁酒を呷る梅鴉の姿があった。

 その向かいには端座して談笑している撫子がいる。何と頭巾を脱いでいる。

「これは」

 予期せぬ光景に淡然が唖然としていると、梅鴉がにじり寄って来てこう云った。

「淡然殿、しばらく御厄介になりますからね」

「はあ……?」

「その間、わたくしを妻のように愛でて下さいましね」

 淡然には何がどうなったのか一切わからなかった。


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