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あの、忘れえぬ憶い 3

 あの夜から霞はその身をひさぐことをやめた。

 麓のむらの男達は彼女を問い詰めたが、あららぎの姿を見ると一様に唾を吐き、こう毒づいた。

「汚ねえ雌犬がよその男をくわえ込みやがった――若けりゃ誰でもいいんだろうよ」

 それまで、邑での霞の存在は暗黙の中にあった。女達と出くわせば罵声を浴びせられ、男達と出くわせば次の逢瀬おうせの順番を訊ねることしかない。それだけの存在である。

 身体を売ることをやめた後は男女ともに霞を非難した。男は自分達が彼女を買っていたことを都合よく忘れて淫売と蔑み、女達は旦那を取られたことを根に持ち続け、霞の姿を見ると石を投げた。

 額から血を流して帰ってきた霞を見て、蘭はまななしを手に取ったが、彼女は止めた。

「お願いやめて。あの人たちの力を借りないとここでは生きていけない……」

 慥かにその通りだった。霞には少しずつ貯めた蓄えがあるものの、このままではすぐに尽きてしまう。炭を売ることも叶わなくなった今、自分達で生計を立てねばならない。どのみち山の斜面を耕して作物を作るにしても、苗を譲ってもらわなければならなかった。

 しかし蘭はあっさりと答えを出した。

「簡単なことだ」

 霞はその言葉の意味がわからなかったが、しばらく外に出て戻ってきた蘭の手に下げられていたものを見て納得した。そこには猪や野うさぎが縄で縛られていたのである。

「この辺りに肉を食う獣は少ない。これぐらいなら造作もない。二人ならば十分だ」

 すでに周辺の山を支配していると云ってもいい彼ならではの考えである。

 霞は光明を見た気がして表情を耀かがやかせた。

「ううん、それだけじゃない。必要な時には苗やお金と交換してもらえばいいのよ。すごい……すごいわ、蘭。これなら私達だけで暮らしていける」

 農閑期以外に行う獣の狩りをこちらで請け負えばそれは十分に仕事になる。霞はそう考えたのだった。あとは邑の人間に認められるだけ。そうなればこの先どうとでもなる。蘭が獣を狩り、自分が畑を耕す。子供が出来ても素直に誕生を喜ぶことが出来る。

 蘭は霞の表情が明るさを取り戻し、それとなく口元を緩めた。

 このとき初めて蘭は、未来というものを考えた。

「私が話しに行ってみるわ」

 霞は云った。蘭がそれを制した。

「いや、俺が行こう」

 その真意は単純である。霞を彼らと会わせたくなかったのだ。ともすれば和解する日も来るであろうが、今はまだ早すぎる。

 蘭は獲物だけを携えて麓の邑に向かった。

 当然の如く邑の民は蘭を敵視し、警戒した。咲野以外の人間に心から遜ることを知らず、ましてや霞を弄んだ者達に対して刃を向けずにいるのは身を焼く思いだったが、初めて意識した未来と云うものを壊すことを思えば耐えられた。

 最初は殴られ、相手にされなかったが、さすがに蘭の持ってくる獣の肉を無視することは出来ず、ついには仕事を任せるようになった。溝は決して埋まらなかったものの、これで命を繋ぐことは出来そうだった。

 蘭と霞の二人は、ふたりだけの暮らしを始めた。

 それは幸せなものだった――否、そう思うことにした。幸せを識らない蘭と、幸せを忘れてしまった霞にとって、二人の日々は戸惑いに充ちていた。

 が、二人には戸惑いさえも心地の好いものだった。

 そんな矢先のことである――。

 ある日の昼下がり、畑を耕していた霞は、麓の方から来る見知らぬ三人の影を見つけた。その一行は中年の男と青年、そして少女である。

 やがて霞の畑の前に差し掛かった一行は、彼女の前で足を停めた。

 中年の男が声をかけてきた。

「ご無事でありましたか……夏澄かちょう様――」

              ※

 蘭がその気配を感じ取った時、まさに猪の首を切り落とすところだった。

 猪は地面の浅いところに群生していた芋を短い前足で掘り起こしており、夢中なあまり蘭に気付く様子は微塵もなかった。歳若い雄の猪である。

 が、謎の気配を感じて戦慄した蘭は迂闊にも枝を踏み折り、それまで完全に殺していた気配を戻してしまった。驚いた猪は慌てて草叢くさむらの向こうに逃げ去っていく。

「この感じは……そんなことは」

 しかし蘭は猪には目もれず、遠くからやって来る謎の気配に呼応するように、自分の気配を濃厚にしていった。

 肚の底から言葉では形容しがたい衝動が湧き上がる。脈打つ心臓は胸の裡で激しく主張し続ける。肌はざわつき、それと同調するように辺りの木々が枝葉を揺らした。

 その強烈な存在感に、潜んでいた小動物や野鳥、眠っていた夜の獣までもが逃げ出す。

 蘭はまななしを鞘に納め、飛ぶように山中を駆け下りた。

              ※

「夏澄様――」

 そう云った淡然の目元には安堵の色が広がっていた。

 淡然一行が麓の邑に辿り着いたのは昼前のことである。水杏から一日とかからないその邑こそが、まさに二藍の公女『夏澄』がいると思しき地だったのである。

 思いがけなく名を呼ばれた霞は鍬を振るう手を止め、ゆっくり、ゆっくりと顔を上げた。その声には聴き憶えがある。しかし、そんなはずはない。そう思いながら。

「やはり……夏澄様――淡然にござります。淡然です。憶えておいででござりましょうや!」

 淡然は畑の真ん中で呆けたように屹立している霞に駆け寄った。

「淡然……殿……」

 その姿は紛れもなく宮中に身を置いていた淡然である。直接言葉を交わしたことはなかったが、式典や朝見の際に何度も顔を合わせている。慥か刻兎こくとの側近、元丞付だったはずだ。

 それが何故ここに――どうして今になって――。

 霞は戸惑った。かつてはあれほど求めていた救いの手のはずだったのに、素直に受け入れられなかった。否、信じることが出来なかった。

 淡然は霞の目の前まで来ると、脇目もはばからず平伏した。額を固い地面に擦りつけ、引き絞るような声で叫ぶ。

「申し訳ございません、夏澄様! ――すべては私が至らぬために。このようなっ……このような……本来ならばもっと早く――いえ、申し開きは致しませぬ。していいはずもござりませぬ。どうか、どうかこの淡然めをお打ちください。それで少しでも気が紛れようなら、この淡然、如何様な仕打ちも喜んで受ける所存でござりまする!」

 淡然の叫びは虚しく山中に響いた。霞はどうしていいかわからず、ただ黙したまま見下ろしていたのである。王族であることはとうに忘れていた。忘れようとして忘れた。あのような辱めを受ける自分が、真実、王族であるはずがないのだと。

「どうして今頃……いいえ、どうして今……」

「……申し訳ございませぬ」

「私は……私は……」

 霞は投げかける言葉があまりに多すぎて詰まってしまった。そして、何を云いたかったのか見失ってしまった。これが数年前だったなら、ありったけの感情を言葉に乗せて、凡ての思いをぶちまけたのだろう。

 しかし、それをするにはもう何もかもが遅すぎた。

 夏澄はとうに霞になってしまったのだと――。

 その時である。路傍で二人の様子を見ていた咲方士は、異様な気配を感じ取った。

 遥か上空の大気が震えているような、大地が身震いしているような、山が恐れ慄いているような――そんな気配を感じたのである。

 その感覚には何故か憶えがあった。妙な懐かしさが含まれていた。

 咲方士は体勢を低くし、杖代わりにしていたあやめの指をぐっと握り込む。

「あの……この気配は」

 同様に異変を感じていた撫子は、不安げな面持ちで云った。表情に余裕のない咲方士は、撫子と目線を交わさず、探るように左右を見るだけだった。激しく異様な感覚はこの二人にしか伝わっていない。畑の方では霞が淡然を立たせていた。

「離れろ撫子」

「えっ」

「はやく!!」

 咲方士がそう叫んだ刹那――左手の樹上から凄まじい勢いで人影が飛び出した。蘭である。

 まななしを口にくわえた蘭は四つん這いになって咲方士の手前に着地すると、柳のようにしなやかに起き上がり、その金色に耀く眼を見開いた。そして無言のまま抜刀し、それでいて咲方士だけは視界から離さず、ゆっくりと瞳孔を絞った。

 咲方士はあやめの指を構え、かつて対峙したあの光景を思い起こす。

 ――忘れようものか、この金色の睛。

 母や咲野のことを思い出さぬように努めても、この双眸だけは常に心の裡にあった。

「咲方士――」

「司望――」

 二人は同時に呼び合った。まるで遥か古から交わされた恋人達の囁きのように、互いが互いの名を呼び、その存在を確かめ合う。彼らの黒と金の睛は他の一切を映さず、その間に渦巻く情念や経験、時間を虚しく吸い込んでいった。

 二人には一切がない。それはまた、一切があるということである。

 本能が互いを惹きつけ合い、互いの存在そのものを貪ってゆく。

 獲物を狙う虎のように大地に沿ってまななしを構えた蘭は、旋風のような速さで咲方士目がけて斬りかかった。ひゅうっ、と蘭の駆けた地面には微風すら残らぬ。

 目にも留まらぬ蘭の動きを視ていたのは、鷹と雲と日と、そして咲方士だけであろう。

 音を超えて迫るまななしの透き通った刃と、あやめの指の黒い刃は重なり合い、激しく交じり合う――――はずだった。

 蘭は咲方士の首を断ち切る寸前で刃を止め、咲方士もあやめの指を振るうことなく地面の僅か上で刃を揺らしていたのである。

 霞や淡然は二人の行動に理解が追いつかず、ただ屹立していた。咲方士の無事に安堵した撫子は、やがて蘭の頭髪が自分と同じ白銀だと気付く。

「何故、お前が此処にいる――司望」咲方士は問うた。

 蘭は答えず、ただ咲方士の黒い睛を覗き見る。

「もう一度問うぞ。いや、訊きたいことが山ほどある」

「俺にはない」

 その瞬間、中空に揺れていたあやめの動きがぴたりと止まり、真上に振り上げられた。

 蘭は咄嗟に躱し、後方に飛び退いて距離を取る。二人の間に静寂が生まれた。

「姉上はどうしておる。生きておるのか」

「……死んだ」

「――何?」

「そうとでも答えれば納得がいくのか?」

「お前……」

「知りたければ戦え。その手で、その足で、俺と殺し合え――」

 そう云うと蘭はまななしを真横に構えた。斜めに吹き降りた風が抜け落ちた葉を運び、その刃の上を滑らせたが、葉は何事もなかったように二つに割れ、再びくっついて一枚に戻った。

 咲方士はあやめの指を構えなおし、まななしの切っ先を意識した。

 『てき』――敵なのか。あのとき切り伏せた、群からはぐれた狼の死骸が浮かび上がる。

 司望は敵か――。あの狼と同じ、敵なのか――。

 そしていよいよ蘭が咲方士を斬るために腰を落とした時である。

「もうやめて――蘭!」霞が悲痛な声を上げた。

 真っ直ぐ咲方士だけを狙っていた切っ先は、その祈りともつかぬ心性の叫びに揺さ振られ、ついに狙いを外した。蘭はゆっくりと鞘に納める。

「アララギだと……?」

 蘭はしばし緘黙かんもくした後、心持の窺えぬ揺らいだ目で云った。

「俺の名は蘭――。司望は死んだ。咲野様と共に死んだのだ」

「咲野……様? おいっ、何だそれは!?」

 咲方士の問いかけは届かず、蘭は霞を連れて彼らの家に戻ってしまった。

              ※

 夜半過ぎ――。

 すべてが死に絶えたような静けさが辺りの山々を覆っていた。日が昇っていたことが嘘のように、夜は深く、そして手を伸ばせば触れられそうなほど濃厚だった。

 この時ばかりは傷ついた獣を優しく隠す夜の闇も、不気味なほどに膨張し、ほんのひと針で破れて溢れそうなそうなほど張り詰めている。

 満天に連なる星々は燃え尽きる前の灯火のようにちかちか明滅し、その鋭い耀きは一切れの雲をも寄せ付けなかった。風は無く、また月もなかった。

 今宵は朔であった。

 蘭は真っ暗な部屋の中で何をするでもなく、牀蓐に横たわっている。はっきりと見開かれた金の睛は闇の只中にあってなお輝きを失っていない。傍らには親の腕に縋るように身を縮めて眠る霞の姿があった。

 咲方士――。

 声に出すことなく蘭は名を口にした。眠れぬ夜である。

 寝返りを打ってみても、霞の流れるような髪を戯れに弄んでみても、目はますます冴えるばかりで、一層に胸中がざわつくばかり。

 咲方士――何故、俺の前に現れた――。

 月の里を出たあの夜に、凡ての感情を過去の己もろとも殺したはずなのに――。

 俺は何もかもを殺して――。蘭は息を吐いた。

 ――違う。違う。違うではないか。何一つ殺せていないではないか。蘭と名を変え、一切を葬ったつもりでいただけではないのか。

 咲野を殺して自分を殺したつもりになっていただけではないのか。

 結局、咲野を殺すことは出来なかったのだ。それは己を殺せなかったことに他ならない。そうでなければ、ここまで咲方士に執着するはずがない。

 否――それはどうなのだろう。もしや、咲野のしなやかな肢体のその先に、ずっとあの男の黒い睛を覗いていたのでは――。

 蘭は音もなく身を起こした。

 そして霞を起こさぬようにゆっくり立ち上がると、牀蓐から降りて壁に立て掛けてあったまななしの前に立った。鞘を握ると、まるで時を待っていたかのように暖かく感じた。

「往くの――?」

 背中から霞の声がする。月光の差し込まない部屋ではその表情を見ることは叶わない。

 何も答えぬ蘭に霞は続けた。

「どうして往ってしまうの? どうしてまた、私の前から消えてしまうの? どうして私は安心して眠ることを許されないの? ねえ、どうして!?」

「呼んでいる」

「やっと……そう思ったのに……」

 蘭は姿の見えぬ霞を抱き寄せた。霞は蘭の鼓動を聞いていた。

 やがて、霞がすすり泣く声だけが部屋の中に響いた。静かな夜である。

「この音を忘れるな。お前が忘れさえしなければ、俺は必ず逢いに往く」

「待っています……あなただけを――」

              ※

 あの銀髪の男は――という淡然の問いに、咲方士は静かに答えた。

 へやを照らす燭台の火は、ぼやけた輪郭を建物の形に留め、隙間から這い出ては夜に溶け込んでいる。淡然一行は素性を明かし、麓の村落で里正の屋敷の一角を借りていた。

「あの男は……俺と同じく里の者だ。名を司望――いや、今は蘭か」

「君以外にも女神の爪痕を越えてきた者がいるということだね?」

 咲方士は目を伏せた。複雑な表情を隠すためである。

「そのようだが、仔細はわからぬ。あの男――蘭は……」

 淡然はそれ以上を訊ねることが出来なかった。何も問わずとも、咲方士と蘭との間に余人には計り知れない因縁があることはわかる。

 二人は出会うべくして出会った。淡然にはそのように映った。

「銀の髪……でしたね」

 不意に撫子が言葉を漏らした。三人だけの房では頭巾をしていない。柔らかい灯りを艶やかに跳ね返す彼女の銀の髪は優しい青味が差している。

 咲方士は思い出したように顔を上げた。

「そう、そのとおりだ撫子。里にはあのような者ばかりだ。俺の姉上も――」

 姉上――咲野――そして、蘭――。

 咲方士はずっと考えていた。そもそも母の瀬納と死に別れ、女神の爪痕を越えた幼い咲方士は何度も来た道を戻ろうとした。しかしそのたびに足は竦み、肩は震えた。

 戻ってきてはならぬ。咲野はそう云った。

 また会うぞ。咲方士はそう応えた。

 しかし、もし、という言葉がどうしても頭を過ぎる。母と同様、姉の命は――。

 そこに現れたのが蘭だった。蘭は咲方士にとって遠く離れた故郷の象徴だった。その象徴は告げる。咲野様は死んだ。それは真実か否か。

 いや、すでにそれらは大差ないのかもしれなかった。

「やはり往かねばならんらしい。蘭は、俺を待っている」

 そして咲方士は席を立ち、背を向けた。撫子は思わず腰を浮かせた。

 本当に行ってしまう。そう思ったからだ。

 予感はあった。咲方士が蘭と対峙したあの瞬間から、もう自分の入る余地はないのだと、漠然と思っていた。ほんの刹那のすれ違いが生み出す万里の隔たりのように、それは彼らの身体とは無関係に急速に離れていった。心が感じていた。

 まだわかい撫子に別離の覚悟など出来ようはずもない。が、そんな彼女の心などは意味を成さず、何一つ影響しない。ただ、現実がそこにある。

 二人は出逢ってしまったのだ。それはどうしようもないこと。

 撫子は咲方士の背に駆け寄っていた。淡然の目も忘れて着物の裾を掴んだ。

「また――また会えますか」

 咲方士は振り返り、撫子の手を取った。しかしかける言葉が出てこない。

 約束だ――。そう云ってやれなかった。

 すると、撫子は云った。

「約束です。必ず、また会うと」

 水が染み渡るような声だった。

 咲方士は、まるで幼い子供が遊ぶ約束でもするかのようなその声に、自然に頷いた。

「うん」

              ※

 月のない星空の中、澄んだ空気は夜更けと共にますます冴え渡る。

 咲方士はあやめの指を肩に担ぎ、瑞々しい山の空気で肺を満たしながら固い地面を踏み歩いていた。

 気付けば、獣の鳴き声が聴こえていた。ぼうぼう、とよくわからぬ太い音もし、次にはおういおういと、男の呼ぶ声が谺した。

 咲方士は久方振りに聞いたその声に微笑った。山の幻聴だ。

 このまま往けば必ず蘭と出会うという確信がある。が、何故か心は軽かった。どういうわけか、大人達に黙って咲野と文目洞に行った日のことを思い出した。その心境に似ている。

「蘭……早いな」

 かくして、木々の拓けた先に蘭はいた。僅かに垂れ落ちる星粒の光を集めたのか、その場所だけやけに耀いて見えた。

「咲方士……」

 蘭はゆるりと振り返った。濡れたような銀髪と金の睛は妖しく、美しかった。

 咲方士の黒髪と漆黒の睛は、闇夜の中にあってもなお染まることはなかった。

 遠くで狼が吠えた。

 風が吹く。

 二人の姿は闇に散った。


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