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あの、忘れえぬ憶い 1

 ――あるひと柱の神が根龍こんりゅうとともにこの世のことわりを創り給うた。

 ――その神は妹神である三柱の女神に後を託すとすぐにお隠れになった。

 ――三柱の女神ははじめに空と海と大地、そして神々の住まう島を天空にお創りになり、多くの神々と識龍しきりゅうと、それに列なる神官と龍とを住まわせた。

 ――ある時、想いを寄せ合う姉と弟が島を降り、地上で暮らし始めた。

 ――神々はたいそうお怒りになり、神官を遣わしになった。

 ――姉と弟を不憫に思うた命の神は爪で大地を引き裂き、世界と世界を隔ててしまわれた。

 ――女神の爪痕とは、ここに由来す。


 淡然は馬上で、咲方士にそのように云って聞かせた。

 二藍ふたあいに伝わる神話の一部である。古典を紐解かずとも、およそ二藍に暮らす者ならば誰でも知っているようなことだった。未開の地の存在は、もはや数ある伝説の中に埋没してしまっていたが、巷間の大きな関心事の一つには違いなかった。

「我々の知っていることはこれぐらいだ。化外けがいの地を降りた姉と弟がその後どうなったのかはどの文献にも誌されていない。女神もこれ以降記述には出てこない」

 この日、淡然は咲方士と撫子を連れて遠駆けに出ていた。

 馬に乗ったことのない咲方士のために乗り方を教えてやったのである。すぐに慣れはしたものの、腕前のほうは並と云わざるを得なかった。同じ乗りたての頃を見れば、撫子の方が何倍も上手だった。

 淡然と撫子のやや前方を行っていた咲方士は、馬首を巡らせ向き直った。背後には肥沃とは云えない土地が広がっている。

 今でこそ一大農業国として知られる二藍だったが、元来は辺境に広がる不毛の土地だった。それを建国の雄『岱王慈たいおうじ』が黄金の実の垂れる豊かな地に変えた。二藍の初代王はその友人の占泣せんなきだったが、国民は農事に精を尽くした岱王慈の偉業を称えて建国の雄と呼んでいる。

「龍も女神も知らぬが、その姉弟のことなら知っている。俺のいた月の里の始祖だ。姉の名を夜織やおり、弟の名を夜交やこう――そして命の神の名は――あやめ」

 あやめの指を肌身離さず持ち歩く咲方士は、この日も馬の背に括り付けていた。長物は馬を怯えさせるはずだったが、不思議と馬は嫌がらなかった。

「そうだったのか。その鎌は命の神のものだと?」

「さあ……どうだろ。そのようには云われていたし、命の神は里の民を守っているとも聞いたが詳しいことは知らぬ」

 風が真横に吹いている。馬はやせた草をもしゃもしゃと食んだ。

「では、始祖の二人はその後どうなったんだい?」

 咲方士は唸った。過去の記憶を探っているのである。母の瀬納でも姉の咲野でもなく、義母の伊於から聴いた憶えがある。

「たしか……」

 ――二人と子供たちとで仲良く暮らしていたのだけど、ある時それは起こったの。

 ――それって?

 ――それはね、一人の女の人が二人の暮らすこの場所に迷い込んできたのよ。

 ――おお、それで?

 ――それで、夜交様はその女の人と恋に落ちてしまった。姉であり、妻でもある夜織様がいるにもかかわらず。

 ――なんで結婚してんのにそんなことになるんだろ?

 ――それはまだお前には早いかもね。

 ――ううむ……。

 今にして思えば、外界から迷い込んだというその女の睛の色は黒だったのだろう。いや、そうに違いないはずだ。義母は自分の黒い睛を察して敢えて伏せていたのだ。里において呪いの睛とされていた黒の睛。それはその後の夜織と夜交を見ればわかる。

「迷い込んできたという女の名は桃花とうか……夜織はその桃花を殺そうとした。異端を嫌う月の里はそこから始まったのかもしれん」

「……それで?」

「夜交は姉の前に立ちはだかった。それほど桃花を愛していたのだろう。夜織の怒りが夜交の命を脅かした時、桃花は夜交をかばってその命を落とした。夜交は哭き、大地は揺れ、桃花を失ったことを心の底から悲しんだ」

「人間臭いものだな。いや、人間が神に似ているのか」淡然は云った。

「夜交は自ら命を絶った。生まれ変わる時は必ず夫婦になろうと誓い、死んだ。以来、月の里には銀の睛しかおらぬようになったが、何故か俺のような者が生まれた。何でだろうなあ」

「夜織は、可哀想ですね……」

 撫子がふと漏らした。咲方士はゆっくりと馬を寄せた。

「男女の機微はわからんが……姉弟でいがみ合うなど、悲しいことだ」

 咲方士は姉の咲野を思った。咲野といがみ合うことになれば、自分は耐えられぬ。

 巻雲が空に描く流動的な模様を見上げる。今頃どうしているだろうか。同じ雲を見ているのだろうか。そもそも、生きているのか死んでいるのか。

 金睛眼の男が咲野の肩を切り裂いたが――果たして無事であったろうか。

 ――司望か。

 咲方士はあの時の光景をありありと思い起こした。

 咲野の叫ぶ声、顔、そして――司望の金色の睛――。忘れることはない。

 司望もまた、今をどう生きているのか。何故か無性に気になった。

「あの、それから夜織は……?」

 咲方士は現実に引き戻された。

「ん……ああ、消えたよ。息子を里の長として、何処かへ姿を消してしまった。それからのことは知らない。伝わっているのはそこまでだ」

「そうですか……」

 撫子は残念そうに目を伏せ、馬の首を撫でた。

 咲方士ははっとした。彼女には姉弟はおろか親すらいないのである。白眼視され続けてきたその髪と睛の色に思いを巡らせば、似た立場にあった咲方士が気付かぬはずはない。

 咲方士はきわめて軽い口調で云った。

「その後の行方は知れぬのだ。存外、どこかで元気にしておるのだろう」

 撫子はくすりと微笑った。その心遣いが嬉しくてたまらなかった。

「そうですね」

 その様子を見て淡然は安堵する。このように撫子が笑うのは咲方士が来てからだった。多少手荒な真似をしても連れてきてよかったと感じた。

 しかし、真の目的はこれからである。未開の地に足を踏み入れるには咲方士の通ってきたという抜け道を探さなければならない。いつ落ちるかわからない桟道に執心していては、完成する前に国が滅びてしまう。

 そのために、咲方士を利用している。

 たとえ彼に親愛の情を抱こうとも、その事実は変わらない。

 そう自分に云い聞かせた。

              ※

 昨日のことである。

「ほんとに本当に三人だけで平気なんですかい?」

 多糧衛は大きな図体に似合わず不安げな面持ちをぶら下げていた。その弱々しい目線の先には長旅を想定した旅装に身を包んだ淡然、撫子、咲方士の姿がある。彼らの手にはそれぞれ手綱が握られており、三頭の馬を用意していた。

「もう何度目だ、多糧衛。お前まで出て行っては誰が村を守るというのだ。それに見当はついているんだ、そう長くはならんよ」

 淡然は見た目よりも繊細な大男の肩を叩いた。

「しかしですな、万がいち追剥おいはぎにでも襲われちまったら――それだけじゃねえ、山にはでっかい熊がいるんだ。アンタは知らねェだろうが、おっかねえんですぜ? 俺の腹の傷はまだ若い熊につけられたんもんだと教えてやったでがしょう」

 そう云いながら多糧衛は上着をまくって横腹にある大きな傷跡を見せた。もう何度となくその傷の話を聞いている淡然は苦笑しながら云った。

「わかっているよ。なるべく大きな音を出して歩けというのだろう? ほら、ちゃんと鈴も付けている。三つもだ」

 淡然は撫子の腰を示した。腰帯に鈴が三つ付いている。歩けば音がし、これで獣に人間がいると知らせるのである。人間も獣を恐れているが、獣もまた人間を恐れている。

「ですがよ……」

 さて、淡然らが開拓の村を出て行く理由は一つである。それは咲方士が通ってきたという謎の洞穴を捜すためであった。咲方士の話によれば、その場所の右手には山頂が三つ連なった三つ子の山があり、さらには見たこともない大樹もあったという。しかも咲方士は初めて旭日を見た証に近くの岩に傷をつけていた。

 淡然はその話と太陽の昇った位置を踏まえ、ある程度の推測を立てた。

 本来ならば、淡然と咲方士の二人だけでもよかったのだが、撫子のたっての願いとあって同行を許した。

 出発の前、撫子は淡然にこう訴えた。

「あの、きっと旅の最中は食事が質素になると思うし、私、お料理出来ますし……その、お料理って少し手を加えるだけで味も好くなるので……少しの工夫で……いえ、何というか、きっと三人なら退屈しないと思うんです。足手まといにはなりませんので、ぜひ私も連れて行ってください」

 撫子は照れ隠しに様々な理由を並べていたが、淡然にははっきりと彼女の同行の理由がわかっていた。彼女にとっては大きな問題なのだろうが、年を経た淡然からしてみれば微笑ましいものである。

 それまで同年代の友人を持たなかった撫子にとって、咲方士は初めての存在だった。まだ撫子は気付いてはいないかもしれないが、咲方士が異性であればそれは自然な心の働きといえるかもしれない。そう思った。

「いいだろう、咲方士の話し相手にでもなってやってくれ」

 淡然は頬が緩むのをこらえて平静を保った。撫子があのような歳相応の表情と行動をしたのは初めてのことだった。やはり少女なのだ。

「案ずるな多糧衛、咲方士もついているのだ。それに撫子もいる」

 そう云われた多糧衛は咲方士に目をやった。咲方士はどうとでもないという風に外方を向いていた。あの後、この二人は何度か手合わせをしている。いずれも膂力に勝る多糧衛が取ったが、この前日、ついに咲方士が多糧衛から一本を取った。気持ちのよい男である多糧衛は素直に負けを認めたものの、まだ一本だけだと云えばたしかにその通りではある。

「撫子は論外としてですな、たとい小僧がいようとも」

「多糧衛――」

 いい加減に出発したかった咲方士は、馬に括りつけていたあやめの指を手に取り、多糧衛に見せ付けるようにして云った。

「俺がいる、案ずるな。今なら紅い熊にも勝てる気がする」

「お前の見たっていう、おっかねえ熊のことか……へっ、わかったよ。淡然殿と撫子はお前に任せる。必ず帰ってこいよ。勝ち逃げされたままじゃたまらんからな」

「ああ」

 かくして、三人は村を出た。


 淡然一行はまず東に向かい、それから南に向かった。

 山際を馬で進みながら周辺の集落で夜を明かし、三つ子の山を目指した。出発から十日ほどでそれは難なく見つかり、最寄りにあった水杏すいきょうという邑に拠点を置くと、咲方士の見たという大樹を捜し始めた。

 が、捜索はここから途端に難しくなった。

 邑の人間に情報を聞き出そうとしても、誰もそんな大樹は知らないという。また、その近辺の山々に洞穴のようなものはなく、当然ながら目撃者も一人もいなかった。

「不思議なものだな、こうも見つからないとは」

 宿の一室で、淡然は二人と食事を摂りながら話し合っていた。卓子つくえ越しに窺える二人の様子はあまり冴えない。

 咲方士自身もすぐに見つかるものだと考えていた。見上げれば首が痛くなりそうなほどの大樹は慥かにあったのである。それを見間違うはずもない。

「間違いなくあの樹の近くに洞穴はあるはずだ。幻を見ていたわけではない」

 咲方士は自分に云い聞かせるように云った。

「そうなのだろう。でなければ君がここにいるはずがない」

 撫子は険しい二人の表情に胸を痛めた。


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