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甘い渇望 3

 全身を走る激痛で目が醒めた。

 首から下が無くなったかと思うほど体力は消耗しており、目蓋を開けるのも億劫である。肩の傷は血が固まって動かすことが出来ない。寝返りすら痛みが走る。

 見慣れぬ場所である。山中であることには間違いないが、最後に覚えている場所とは明らかに違う。記憶を巡らせても浮かぶのは暗闇に浮かぶ巨大な金の睛である。

 ――あれは何だ……。

 不思議と敵意は感じなかった。しかしわからない。と、あれこれ考えているうちに息が上がってきた。高熱を発している。傷が熱を持っている。

 とにかくここから移動しなければならない。が、脚は朽木のようである。

 前方の繁みが音を立てて揺れた。

 現れたのは人間の女。濃い紫にも見える黒髪を一つに束ね、化粧気はまったくないものの、生来の華やかさが際立っている。歳は若いようだが、そこはかとなくにじみ出る色気がその年齢に霧をかけていた。

 女は司望の姿を認めると、最初はひどく驚いたようだったが、負傷していることに気づくとすぐに駆け寄って具合を確かめた。

「しっかりして」女は司望を抱き起こす。

 触るな――と女を拒絶しようとしたが声が出なかった。

 女の肩に支えられながら、司望は再び深い眠りに落ちた。

 再び目覚めたのは牀蓐の上だった。無論、見知らぬ家である。質素な木造の家屋でほかに室はなく、寝台も一つきりだった。家の中には物がない。が、最低限暮らしていくだけの備品と鉈や鋸、そして小太刀が置かれてあった。

 かの女の家であるとわかったのはすぐに女が戻ってきたからだ。両手に持っていた籠には木の実や野菜が入っていた。

「目が醒めたのね。薬草が効くにはちょっと早いけど、よかったわ」

 司望は即座にここから立ち去ろうとしたが、身体が思うように動かなかった。されど熱は引いているようである。肩には綺麗な布が巻かれていた。

「傷は深いのよ。温和おとなしくしないとまた開いてしまうわ」

 女は籠を卓子に置き、司望の額に手を当てた。

「もう熱が引いてる……でもまだ寝てて。私はこれから仕事があるし、それが終わるころにはあなたも起きてるでしょう。それからご飯に」

「お前は――」

「失礼なヒト、命の恩人に向かってお前だなんて。まあいいわ、私はかすみ――倒れてたあなたをここまで運んだのよ。と云っても、仕事用の荷車を使ったんだけどね。あなたは?」

 司望は返答につまった。以前にも問われて名乗ったことがある。

 あの時はただ一言――司望――とだけ名乗った。黒の睛をしたあの男――咲方士に。そして司望は咲方士にこう続けた――知らなくていい。

 霞と名乗った女の睛は黒かった。偶然とは思えなかった。

「知らなくていい」

「なら今すぐ決めてちょうだい、ここでの名前を。名前がないと不便でしょう?」

「――あ」

 司望は目が醒めた思いがした。闇が降りた胸の裡に光が差し込んだようだった。

 それはほんの小さな光だったが、闇を散らすには十分である。

「そうか――そんなものか……」

 そして司望はゆっくりと室を見渡した。籠に入った蘭の赤い実が目に入った。

「俺は――あららぎだ――」

              ※

 霞の家は山道の拓けた場所にぽつんとあり、彼女は炭を焼いてそれを生計としていた。

 たしかに近辺の山々にはクヌギなどの炭に適した木々が群生している。一人きりの生活なので少量ずつ炭を作り、それを麓の村落に売り歩くのだった。

 女ひとりに出来る仕事は高が知れていたが、霞は懸命にやっているようだ。

 次の日にはもう蘭は牀蓐ねどこから動けるようになっていた。

 さらに二日後には傷も完全に塞がり、以前と変わらぬほどに回復していた。尋常ではない早さだったが、霞はそのことに関して何も口にしなかった。

 それどころか、霞は蘭の名以外に何も訊こうとしなかったのである。歳はおろか、何処から来たのかさえも口の端に見せなかった。まるで最初から二人で暮らしていたかの如く、霞は振舞ったのだった。

 蘭もまた、霞について何も訊ねなかった。二人で示し合わせたように一切の過去を話題にしなかった。蘭は言うべきでないことの何かを知っていた。

 否、蘭にしてみれば、自分と同じ匂いがした――それだけで十分だった。

 そして、それはとても心地のいいこと――。

「木なら俺が伐ってこよう」

 怪我人は寝ていろと云う霞に、蘭は手伝いを申し出た。

「いいわよそんなの、まだ寝てなさい。それに、どの木を伐ればいいか知らないでしょ? 綺麗な肌してるし、勿体ないわ」

 かく云う霞も肌理きめ細やかな肌をしていた。

「わかる――山なら慣れている」

 そう云うが早いか蘭は、まななしを手に取った。

「ちょっと、斧はいいの?」

 霞を無視して家を出た。炭を焼く窯の近くに置いてあった空の荷車を見つけ、蘭は足早に山の奥深くへと入り込んでいく道を登った。途中、具合のよさそうな場所を見つけ、荷車を置くと無造作に繁みの中へと分け入ってゆく。

 山中とはいえ、この付近に凶暴な獣の気配は感じない。自分がどこにいるのか見当もつかないが、少なくとも紅い熊のような脅威となりうる存在はいないようである。

 手ごろな木を見つけた蘭はすらりとまななしを抜いた。水面のような美しい刀身は目標の木を映しこんだかと思うと、次の瞬間にはもう真っ二つにしていた。音はない。小鳥のさえずる山中で、背の高い木がゆっくりと地面を叩く音だけがこだました。

「やりすぎたか」

 蘭は独りごちた。思えばまななしを振るったのはこれが初めてである。ここまで切れる刀だとは思わなかった。ふと刃の部分に親指の腹を当ててみた。すると触れたか触れてないかわからない程度のところでもう血が流れ出した。

 指から落ちた血の雫が薄氷の如き刃で真っ二つになり、そのまま地面に消えた。血が触れた部分にはその跡すら残っておらず、完全に綺麗な状態を保っていた。

「気に入らんな」

 切れすぎる――そのことが何故か不快だった。切れない刀は役に立たぬが、切れすぎる刀も不要である。手に余る物は持つべきではない。そのことは身体の奥底で脈打つ魂魄が知っている。叶わぬ願いはある――。

 適度に木をばらして荷車いっぱいに積み込んだ。

 蘭は幾分か軽い気持ちで霞の家に戻った。身体を動かすと心に積もった埃が払われる。

 もしかすると、霞との出会いも自分にとって切れすぎる刀と同じかもしれないが、今は考えたくない。心地よい疲れに身を委ねる快楽を邪魔したくなかった。

「こんなにたくさん――ふふっ、張り切りすぎよ、もう」

 限界まで積み上げられた木片を見て霞は驚き微笑った。

「いや……そのようなつもりでは」

「いいの。ありがとうね――蘭」

 その名で呼ばれると、心の中に涼風が吹いたように感じた。

 軽やかだ――生まれたての赤ん坊のように瑞々しくもあり、何よりまっさらな名前だった。

              ※

 何も語らぬ生活がしばらく続いたが、その日の夜、霞は何も告げずに外出した。

 無論、蘭は何も訊ねなかったが、それが三日と続くとさすがに気になる。

 心は温もりで溶ける。溶け始めた心は徐々に姿形を失い、遠慮を忘れる。

 遠慮を忘れることは他人との距離を失うことでもある。

 どろどろに溶けてしまえば相手の心を自分の物のように錯覚してしまうものだ。

 蘭は懸命に律した。しかし、彼は若かった。

 何か足りないものがあるとすれば――それは時間だった。

 霞が出て行くのを確認し、気配を消して後を追った。夜に融けることの出来る蘭には容易なことである。鼻の効く狼ですらその所在に気付かぬだろう。

 どうやら霞は麓の邑の方へ向かっている。すると、道の途中に一軒の水車小屋があった。霞は周囲に気を配り、そろそろと入っていった。

 蘭はしばし逡巡した。その間に、それまで月を覆っていた雲が流れて、冷たい光が辺りに満ち始めた。意を決して水車小屋に近づいた。

 彼の耳には、すでに獣の鼓動が聴こえていた。生々しい命の鼓動が――。

 わずかに開かれた窓から激しい息遣いが漏れている。空腹の獣が肉を貪るような雄々しい呼吸である。それに追い重なるように甲高い声の混じった小さな息が蘭の耳を突く。

 月の光は残酷にも凡てを照らし出す。

 蘭が隙間から目にしたのは、まさに霞の美しい肢体が薄汚れた男の手で弄ばれているところだった。ごつごつと節くれだった指が柔らかな乳房の上を這い、舌が首筋をねぶる。

 一定の間隔に合わせて二人は揺れ、自然の中に決まった拍子を生み出していた。やがて間隔は狭くなり、霞の艶かしい声が細く長くなった。とろみを帯びた空気は濃く、そして微かに暖かい。

 いよいよ絶頂を迎えようかというところで、霞の目は、蘭の金の睛を捉えた。

 男を体内に迎え入れながらも、彼女は生きた心地がしなかった。

 蘭は何も云わずに家に戻った。そもそもわかってはいたことだ。女が一人きりで、炭を少しばかり売ったところで食べていけるはずがない。冷静に物事を俯瞰すれば、すぐに答えは見えてくる。

 だが――この気持ちは何だろうか。

 云い知れぬ疲労感が全身に根を張る。

 走って戻ってきたのか、余韻を引きずったままなのかはわからないが、霞は荒い呼吸のまま帰ってきた。そしてそのまま蘭にすがった。

「蘭、違うの……私は――私は――」

 霞ははらはらと涙を流し、ゆっくりと、吐き出すように語り始めた――。

 もとは貴人の娘であったが、ある外出の際に野盗に襲われ、さらわれてしまったこと。一年近くも彼らの慰み者になっていたが、機会を得て逃げ出したこと。そして逃れついたこの地で食べていくだけの力がなく、身体を売らねばならなかったこと――。

 すべてを語り終えた霞は打ち捨てられた人形のようにジッと膝を突いていた。

 偽りの生活はこれで終わる。

 蘭との関係は、望んではならぬ夢の切れ端――ままごとだと彼女は知っていた。

 それでも蘭にすべてを伝えたかった。何もかもを伝えた上で軽蔑されるならそれでもいい。何も思い残すことなくこの世を恨んでいける――。

「お願い、殺して……醜く汚れたこの身体を切り裂いて……お願い」

 引き絞るような声で霞は云った。

 すると蘭は霞を抱き寄せ、その髪を撫でた。

 ――お前、私を殺すのか?

 心の奥底で声が聴こえる。すでに懐かしい、あの声が。

 ――俺はあなたを殺しませぬ。

 蘭は云った。

「霞……俺はお前を殺さない」

 霞は思わず呼吸を止めた。

「ああっ……」


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