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甘い渇望 1

 月の里――光寒宮こうかんきゅうの敷地の離れ――粘りのある夜の闇が沈殿した回廊の先にその室はある。

 司望しぼうは冷たく乾いた空気を両肩で切り、その闇の中を歩いていた。

 死んだように静まりかえった室の戸を二回叩き、その後に三回叩く。それは司望が訪れたことを報せる彼女との約束事である。

 しばらくしてへやから女が顔を覗かせた。

 咲野さきのである。あれから八年と少し。彼女は美しい女性に成長していた。薄く紅を垂らした綾絹のような銀の髪にはしっとりとした光沢が浮かび、透き通った肌は新雪を思わせる。潤いを湛えた銀の睛は映しこむすべてのものを浄化するかのように澄んでいた。

「司望……お入り」

 咲野は着物の袖から白い腕を出して手招いた。

 司望はいつものように畏まって室に入った。その室は広く、奥には別のへやもあり、一人が寝起きするには十分すぎるほどである。

 咲野はそのようなやしきを、月魄である老環から与えられていた。

 一年も前のことである。

 名目上、司望は咲野の身辺警護という役を授かっているが、これは話し相手として咲野が司望を指名したのだった。咲野は、金睛眼の司望という秘匿された存在を知る数少ない存在として生を許されている。

 その理由はこの室を与えられたことと同じく――亜麻呼あまことの婚礼のためであった。

 月魄という役職はこの里の三つの血、すなわち朔、望、晦の三つの血の嫡流から順番に選ばれる。現在の月魄である老環は晦の血の出なので、次の月魄は朔の血ということになる。

 が、朔の血の比詩木ひしきは病で早死にし、その後継者となるはずだった咲方士も失われ、咲野だけになってしまった。

 女性は月魄にはなれない。月の里の始祖である夜織やおりは女性であったが、その夜織自身が、女が長になることを禁じたのである。

 よって朔の血から男児を望めぬとあって、老環は亜麻呼を咲野の婿と定めた。

 このようなことは前例にない。――少なくとも、表向きはそうである。

 咲野は一年近くをこの室で過ごしていた。婚礼の儀は近い。

 司望は咲野が薄物しか纏っていないのを見て云った。

「また月を見ておいでか咲野様。お風邪を召します……」

 しかし咲野は応えず、窓から夜空ばかりを眺めていた。

 僅かに差し込む氷のような月の光が薄物を貫き、咲野の整った肢体の輪郭を浮かび上がらせた。司望は目を背けた。

「司望……何をそんなに畏まっていますか。そのような子ではなかったでしょう? もうじき婚礼です。こうして二人きりでお話できるのもあと僅か」

 わからずやの童を叱るのを諦めたように、咲野は小さく微笑んだ。

 そして司望に近づくと、窓際までその手を引いた。

「見なさい……同じ景色を見ることもなくなるのですよ? お前は淋しくないの?」

 司望は微かに顎を引き、いえ、と小さく云った。

「おいで司望……」

 咲野は両腕を開いて司望を迎え入れた。司望はいつものように膝を突いて咲野の柔らかな胸に顔をうずめた。大きな安心感がさざ波のように彼の心にゆっくり満ちていく。

 咲野の左肩を切り裂いたあの夜、司望はひどく錯乱していた。瀬納と咲方士を殺すよう亜麻呼に命じられ、そうするはずであった。しかし咲野に抱き止められてそれは叶わなかった。

 そのことが司望の心に問いの塊として残っていた。

 しかし、こうして咲野の胸に抱かれた時、初めてその疑問が氷解した。

 それは咲野の乳房だった。あの夜、司望はまだ幼い咲野のふくらみかけの乳房をたしかに感じたのだ。そこに今と同じように満たされる自分を見つけた。そのことが、まだモノを知らなかった司望には異様な感覚であった。

 司望は母を知らない。

「可哀想な司望……こうして抱きしめてあげることもなくなる」

 咲野の肩口から流れる血とその匂いを司望は憶い出す。咲野を見殺しにすることも出来た。でも出来なかった。あの夜、あの瞬間に、女を、母を感じてしまった司望にとって、咲野は大きな存在であった。

 『お前、私を殺すのか?』――咲野の言葉は今でも胸の中で鳴り響いている。そのたびに司望は首を横に振る。殺さなくてよかった。心からそう思った。

 咲野は司望をゆっくりと離し微笑みかけると、少し後ろを向いていなさい、と云った。

 云われたとおりに目を背けると、すぐに衣擦れの音が聴こえてくる。司望はハッとして振り返った。

 咲野は一糸纏わぬ姿で彼の前に立っている。少しも心の動きを見せず、ただただ優しさと憂いを混じらせた睛で司望を見つめるだけである。灯火の色がかすかに混じった薄暗い室の中にあって、咲野の真白の皮膚は月のように煌々と耀いていた。

「何をなさいますのか咲野様」

「司望……手を」

 咲野は司望の手を取り、己の柔らかな乳房に押し当てた。

 その指先が雪原に生まれた華やかなる頂に触れた瞬間、司望の身体は硬直した。温もりとともに小鳥がさえずるような咲野の鼓動が伝わってくる。ゆらゆらと揺れる白い炎に身を焼かれた心地だった。

 心の深奥で渇望していたのはこれか――否――そうだろうか。

 咲野の頬には薄らと赤味がさしている。恥じらいと恍惚とがそうさせるのか、司望にはわからない。ただ、その睛に宿った名前を持たぬ感情は、どことなく悲しみに似ていた。

 鼓動が大きくなる。そして同調するように女の蕾が固く閉じていった。

「お前に触れられることで、私の心は癒されよう」

 司望は腹底から湧き上がる衝動を覚え、うろたえた。激情とも云うべきその感情は胸の奥を打ち震わせ、咲野の鼓動と重なろうとしている。

 しかしその時、咲野の肩に惨たらしく残る傷痕を司望は見つけた。

 神が創り給うた美のきわみとも思える咲野の肢体に入ったヒビである。

「……ああ……」

 司望は乳房から手を離し、傷痕の横たわる肩に触れた。春の風のように柔らかな彼女の肌がそこだけ硬くなっている。

 司望の睛には、そのヒビがゆっくりだが確実に大きくなってゆくように映った。

 乾いた大地を浸食する深い闇。

 そのヒビを入れたのはまぎれもなく自分である。鋭い刃で咲野の肉を裂いた感触とその光景が稲光のように蘇った。その中にはまさしくあの男がいた。

 鮮血に濡れた咲野の肩の向こう、黒の睛でこちらを見つめるあの男が――。

 司望はうなだれ、震える声で云った。

「咲野様もどうか……ご自分をお殺しになるようなことは――」

 小刻みに揺れる司望の顔を咲野は許すように抱いた。

「ごめんなさい。そうですね……そのとおりです」

 それは司望の望んでいた言葉ではなかった。

 もうここにはいられぬ。少なくとも、ここではない。

 では、どこに――?


              ※


「仰せのとおり、お持ちしました――月魄」

 その日、光寒宮の老環ろうかんの居室に亜麻呼は召喚された。老環は世話役の女性二人に身体を拭かせていたが、手で合図するとすぐに退室させた。老環の病状は日に日に悪化しており、今では寝返りすら人の手がいるほどである。

「来たか亜麻呼――近う」

 亜麻呼は一度拝して老環の側に擦り寄った。御簾の向こうからぜいぜいと擦れた息が聴こえる。声は嗄れきっており、しゃべるのも苦しそうである。ここ数日の容態はすこぶる悪い。素人の亜麻呼の見立てでも長くはないとわかる。

「時間がない、見せよ」されど意識はしっかりしていた。

「はっ」亜麻呼は御簾をわずかに上げ、そろそろと老環の傍に近寄った。

 目を伏せながら恭しく差し出したのは紫紺の袋に入った一振りの太刀である。

 老環は一息で長い太刀を抜き放った。扱いには慣れている。

 豪奢な拵えは施されていない。柄も鞘も削り出した木肌が剥き出しで、紋様を彫り込んでいるだけである。反りは緩やか。刀身は長く、切っ先は鋭い。刃は冷泉のように透き通り、風に揺れる水面を湛えているかのように濡れて見えた。

 魔に魅入られそうな美しい太刀だった。

 その名を『まななし』といった。府庫の最奥に収められた里の秘宝である。

「亜麻呼……司望は如何に」老環の目はまななしの上を滑る。

「ずいぶんと懐いているようですが……」

「ふん……よいよ、いくら身を濯いでもけものの匂いは落ちはせぬ。失われたあやめの加護いまだ絶えざれば、目醒めを待つより是非もなし――噫――永かった」

 亜麻呼は言葉の意味がわからなかった。

「それは如何様な」

「知らずともよい――亜麻呼――顔を見せよ」

 亜麻呼は老環の横たわる牀蓐の前に立った。その瞬間、亜麻呼の息は詰まった。かすかに腐臭が漂っていたのである。すでに老環の足先は腐り始め、すっかり黒ずんでいた。

 ここまでとは思わなかった。

「月……老環様」亜麻呼は言葉を失う。

 老環は目を瞑り、痩せこけた胸を上下させている。

「亜麻呼――まななしを――」


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