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序章

 雲が満月を隠した。

 咲方士さくほうしは群れ立つ樹下に身を潜めながら、山中の闇が一層濃くなっていくのを感じた。

鼻腔を通り抜ける土の匂いが際立つ。空気が湿っている。雨が近い証拠である。

 頭から被っている血の臭いの漂う獣の皮を内側に引き寄せ、春先の冷気が降りている地面に耳を当てた。

 何処から来る。右か。左か。それとも――。

 髪の毛の先にまで行き届くほど神経を尖らせ、月のない暗闇に乗じて迫り来るであろう『てき』の存在を感じ取る。

 風はない。葉が擦れる音すらなく、夜の獣が落ちた枝を踏み折る音もない。決して音の絶えない山中であるにもかかわらず、辺りは異様なぐらいに静まり返っていた。

 不気味な静寂だった。ただ独り、自分の息遣いだけがこの闇の中で命の証だった。

 『てき』という存在が昼も夜も奪ったのだ。

 横になって眠ることも、裸身になって水を浴びることもかなわない。

 水滴が木の葉を打った。冷たい雨粒だ。咲方士は地面から耳を離し、眉をひそめた。

 雨音はすべての音消し去る。それは夜の森にあっては目を潰されるに等しい。次第に雨脚は激しくなる。咲方士の周りから一切が消えた。脈打つ鼓動すら体内から消えたようだった。

 『てき』はこの雨を待っていたのだ――。

 咲方士は右手の中にある石を握り締める。昼の間に手頃な石をいくつか選んで携帯していた。

 手にすっぽりと馴染む石の温度は咲方士の手とほぼ同じになっていた。

 石を握った右手をわずかに構える。せめて夜が明ければ――。

 水が獣の皮頭巾を伝い、目に容赦なく入り込む。しかし咲方士は目蓋を一切動かさない。耳に入ってくるのは雨が地と葉を打つ音のみ。それでも目と耳とに頼らざるを得ないのは、咲方士にとって『てき』が尋常でない脅威だったからだ。

 じりじりと時が過ぎる。精神は今にもはち切れてしまいそうなほど膨張している。常人ならばとうに発狂してしまいそうな空気がここにはあった。

 見えない『てき』は確実に狙いを定めているはずである。

 迂闊が命取りになるのはこれまでの経験から十分に判断できた。

 しかし――。

 咲方士は見極めかねていた。この状況下で『てき』は、どういう時機を見て襲い来るのか。時機を外し、迂闊になれば容易に死地に陥るのは『てき』も同じである。

 さて――。

 咲方士は思考を払い除けた。本能の命ずるままに任せなければ生き延びられない。

 それでも――。

 はたと気付いた。時機、それは――。

 その瞬間、激しい閃光が眼前に広がり、山々が真白になった。

 それは――それは雷光だった。

 目映い光の中で、咲方士の眼はたしかに雷とは別の煌めく光を捉えていた。

 この時ばかりは思考の速さが光を上回っていたというほかない。

 咲方士は『てき』の振りかざす刃を文字通り紙一重ですり抜けた。

 樹下から跳び退き、黒い人影としか判別出来ぬ『てき』の更なる追い撃ちを避ける。

 同時に、同方向に、二人は跳んだ。

 『てき』の得物は小太刀。重なり合う樹木の中では十分脅威となる長さ。

 『てき』は刹那の間に咲方士の首を捉えた。

 すると鈍い音が雨音を物ともせずに山中を走った。咲方士は掌中に隠していた石を投げたのだ。『てき』は顔面目がけて向ってくる尖った石を、今まさに首を落とそうと振るっていた小太刀で撃ち払った。素早い切り返しだった。

 咲方士は石が通じなかったのを認める間も惜しんで次々に石を投げたが、ことごとく弾き返される。いつしか二人の間には間合いが出来ていた。

 耳をつんざく雷鳴が響き渡った。その合間の出来事だった。

 雨がやんだ。雲の切れ間から一条の月光が降り注ぐ。

 咲方士は、漆黒の闇に溶けたような黒衣を纏っていた。獣の皮頭巾を脱ぐと、濡れた髪の毛が夜に染まってより黒く、同じく睛も夜を切り取ったようだった。咲方士は頭につけていた銀の髪留めを指でひと撫でした。

 『てき』は、その身にまとった襤褸ぼろの外套についている頭巾を空いた手で外した。中から現れたのは月の光を受けて銀色に輝く髪の男だった。妖しさを含んだ金色のひとみで真っ直ぐ咲方士を見据えている。

 咲方士は静かに口を開いた。

「終わりが見えんな。いつまで続く、あららぎよ」

 蘭と呼ばれた『てき』は云った。

「得物はどうした、咲方士」

「アレは持たん」

「その代わりがこれか」

「効いただろう?」

 蘭は低い姿勢で音もなく小太刀を構えた。その刃には先刻まで存在しなかった小さな刃こぼれが生じていた。

「十分だ」

 咲方士は呆れたような顔をした。

 小さい息を一つ吐くと、咲方士はゆっくり腰を落とし身構えた。

「丸腰か」

「如何にも」

 蘭は笑った――ように咲方士には見えた。そういう自分も今まさに、無意識のうちに笑っているかもしれない。そう思った

 そして再び静寂が訪れた。二人の時が止まったようだった。

 風が吹く。濡れた葉が一斉に身震いして多くの雫を撒き散らし、細かな霧となって二人を包んだ。地面の窪みに生まれた小さな水溜りに月が綺麗に収まった。葉に残った雫が一滴、その小さな水溜りへと落下した。

 歪む満月――蘭は大きく踏み出し、咲方士の喉元目がけて小太刀を繰り出した。

 二人の時が動き出す。

 咲方士は突き出された切っ先を皮一枚でかわすと、手に持っていた獣の革を翻して小太刀に巻きつけた。そしてそのまま蘭の手から小太刀を巻き取ってしまい、遠くへ放り投げる。

「その片刃かたなでは容易に切れまい」

 しかし蘭は何ら動じる様子もなく、外套の中から三日月の紋様の入った掌ほどの黒い小柄こづかを取り出し、迷うことなく再び咲方士に斬りかかった。

 ひゅっ、ひゅっ――と小さな音を立てて小柄が空を切る。

 二度三度とかわした咲方士だったが四度目はかわしきれぬと判断して、ついに腰帯から小柄を抜いた。それは蘭の用いた小柄と同様の装飾がなされてあった。

 きんっ――と鋭い音を立て、刃同士が打ち合った瞬間、火花が散っては消えた。

 十字に重なった刀身を挟んで二人は睨み合った。

「俺はお前が憎い――蘭」

「ならば殺せばいい」

「そうしてやりたいところだか」

「舌を噛むぞ」

 二人は同時に後方へ跳んだ。そして小柄を構えなおし、互いが互いに向って駆けると激しく切り結んだ。

 寂莫と暗闇の山中において、小さな金属音と火花が数知れず生まれた。

 そして夜が明けた。

 二人の姿はすでになかった。


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