サーラレリット・リツヴァ・ランベルグ
自己を認識する、というこの意識は一体何時ごろ生まれるのだろうか。
顕在が確認され始める頃に、彼女は反抗期というものが来るのだと考えていた。
己が自らであると、何時気付いたのか。捜し求めても答えは一向に見つからない。
少なくとも彼女を、この体の本当の持ち主であるサーラレリット・リツヴァ・ランベルグを、芽生えるはずの自我を乗っ取ってしまったと気付くまでにそう時間はかからなかった。
赤と金に輝く月光が、豪奢な窓枠通りに影を落とし続けている。
いつもであれば月が綺麗に重なっているわね、明日はきっと良い天気になるに違いないわ。
そうだ、お昼頃にでもジル様のところへ行き、チェスの手合わせをしてあげましょう。どうせ日がな一日、難しいお勉強ばかりされているのでしょうし。息抜きさせてあげるのも婚約者としての役目よね。お好きなチョコレートのお菓子も持って行きましょうか。どこのお店のがいいかしら。うふふ、朝から忙しくなるわ。皆に言いつけないと。
そう心躍らせて眠りについたであろう。
小さな手のひらがふるふると震えていた。
ベッドから上半身を起し、思いつめたような表情で両手を見つめているのはこの部屋の主である。彼女は柔らかな上等な衣で作られた寝衣に身を包んでいた。
「私が? そんなことって……」
動悸がおさまらない。ここがとある物語の世界であると理解してしまったからだ。
なぜなのか。理由は簡単だ。彼女が横たわっていたベッドの彼方此方にとまる、蝶の囁きによって覚醒したのだ。
蝶の色は様々だった。しかし淡く輝く緑が最も多い。
眉を寄せこめかみを押し何度も考えたが物語の名前は思い出せなかった。
しかし目を閉じれば光景が浮かんでくる。本屋に行けば必ずその本が平積みされ可愛らしい文字で紹介文が書かれていた。漫画をよむ人の数は平行線を辿っているというのに、小説を紙という媒体で購入してまで読むという人口が減り続ける中で空前の大ヒットとなった小説である。店員のお勧めとして、どの本屋でも取り上げられていたくらいだ。ネットで検索すれば必ず、この商品を購入した方は……の欄にはその派生である漫画が載っていた。そしてゲーム化されてからは、さらにファンが増えたのだろう。
二次作も多く発信された。
検索で最も多く上にあがってきたのは夢小説という分類である。
この世界にもし『あなた』が存在していたとしたら。名前を入力すれば、主人公がその名前となり、読み進めることが出来た。
『彼女』の救済が全く無かったか、といわれれば、そうでもなかっただろう。
だが少なかったのは確かだ。
光り輝く蝶が肩や頭に止まった。
それらが少女を慰めるようにゆっくりと羽を開閉させる。
カチカチとなる歯を強く噛み締め、少女は両手を握り締めていた。
転生とはこんなに恐ろしいものなのか。前世という名の記憶がぶり返るとはこんなに気持ち悪いものなのか。ぐにゃりと世界が歪にゆがむ。
思い出すため、否、乗っ取るまで見てきた、見ていた景色はなんと綺麗に装飾されていたのだろう。
少女は両目をきつく閉じた。瞼の奥から水滴がぽろぽろと落ちてゆく。
頭がおかしくなったのかと思いたい。だが違うと囁く声がある。助けたいのだと、助けて欲しいのだとようやく届いた声に、喜ぶ多くが重なっていた。
「いやよ、元の私に戻してぇ…」
小さな声が静かに響く。
蝶たちがひらひらと羽をはばたかせ、少女の周りを舞った。
未来を思うと、今すぐにでもここから逃げ出したくなる。
なぜなら彼女は、彼女の役目は主人公を徹底的に追い詰めること、であるからだ。
おこなわなければいい。だが彼女の立場で許されるのだろうか。ぐるぐるといやな思考が巡る。知らなければ出来ていただろう。だが未来を、その結末を知っているのである。出来るわけが無かった。
事なかれ主義といわれてしまえばそれまでだが、彼女は争いごとに首を突っ込まず、揉め事があっても口を挟まずに生きてきた。自主性が無いと言われ続けていたが、そもそも口答えするな、子供は親の言うことをきいていればいいのだと言葉と行動で示し続けたのは顔も忘れてしまった両親であった。
だからそれに従ってきた。痛いのも、おなかがすいたままであるのも嫌だったから。
そして彼女、サーラレリットは数年後に入学する、貴族だけではなく才を持つ多くを受け入れるとある学園にて女王として君臨するのである。そして次の年入学してくる、とある女生徒に対し非道までなる仕打ちを行なうのだ。
多くの人が、否、この少女が恵まれた立場を上手く使い、出来るだろう全てをつぎ込むサーラレリットに読者が憤慨した。
シリーズが佳境に入り、いよいよその真意が明かされようとされていたそのときに、彼女となってしまうなどなんという不運であろう。
彼女、サーラがなぜ、女生徒にそんなことをしでかしたのか。
それは一言で言い表すのはとても難しい。
女生徒とはヒロイン(主人公)である。そのヒロインをこれでもかとありとあらゆる手段を用い貶め、苛め倒すことに理由があったのか、現段階では想像することしか出来ない。いくつもの予想は出ているものの、読者の裏をかくのが上手かった作者である。どう返してくるか、多くが楽しみにしていた。
思い返してみてもその過程をふくめ、ヒロインへの陵辱は凄惨という言葉では言い表せられ無いほど酷いものであった。この巻が並んだ当初、今までに無く余りにも現実じみた行為と言葉の数々に批判が殺到したくらいだ。出版社には多くの誹謗中傷が送られたとあちこちの情報サイトが取り上げていた。
しかし作者は自身のブログでこう記している。
次の巻が発売されるまでもうしばらくお待ちください、と。
下巻の発売日が出版社から下りてきた。実は本編に入れられなかった中篇がある。その話は下巻の中に挟まれている引き換え券をはがきに貼って郵送してもらうことによって郵送される手筈になっているのだと。
それを読んでもらえば、彼女がどうして主人公をあそこまで追い詰めたのか。分かってもらえる。
これだけは外せなかった。作者のわがままだが、付き合って欲しい。
そう綴られていた。
下巻の発売日が十日と迫り、予約し忘れていないかメールの確認をしたところだったのだ。
トリップなり、憑依なり、成り代わるならそれを読んでからにして欲しかった、とサーラの中の心が叫ぶ。
落ち着きを取り戻し、サーラの中の人となった存在が深呼吸した。気付いてしまったからには現実逃避など出来はしない。生きたいと願うのは本能だ。最低限の目標を掲げるとしても、生き延びなくてはならない。死ぬなど考えたくも無かった。
物語の内容はさておき、このまま何の修正も加えず未来へとただ進むだけでは、ヒロインを苛め抜いたサーラレリット・リツヴァ・ランベルグは国外追放の後にこっそりと処刑される。直接的な表現は無かったものの、読み取れる雰囲気はまさしく終焉であった。
高すぎた身分と主人公の心情、そして国民の意思を汲み取った結果とはいえ、余りにも無残すぎた。不完全燃焼との意見もあり、やはりここは下巻の購入後に送られてくる中巻を待たねばならないだろう。という意見が多数出ていた。
なぜそこまでしなければならなかったのか。本を手に入れられなくなった今となっては想像しか出来ないが、何か理由があったのではないだろうか、と彼女の体に入ってしまった、思考するものが思い至る。
彼女はこの物語が好きだった。主人公はもちろんのこと出てくる個性的な登場人物たちは綺麗に書き分けられていて、悪役にしろ、敵役にすら何らかの過去と未来にまつわる関連性がしっかりと付けられていたからだ。何度も読み返さなければ見つからない、伏線の多さとその回収率も物語を上手く盛り上げていた。wiki等で見なければこんなところに回収があったのか、と読み飛ばしているものもありそれでも冒険パートでは心踊る戦闘シーンが、学園パートでは現実との類似に胃痛を感じつつ。恋愛などが絡んでくればどきどきしながら先を読み進む楽しさがあった。
庶子出の主人公が上級貴族の再三にわたる嫌がらせを突破し、一人の女性として、またこの世界の柱として成長してゆく様は見ていて楽しかったのだ。その周りに集う仲間達の魅力も然ることながら、主人の健気さと勇気、そして迷いながら下すその決断に何度、自身を重ねてもう一度頑張ってみようと思えたか。
もっと深く読んでおけばよかったと振り返っても後の祭りであった。既に成り代わりは完了してしまっている。
過去を振り返ることは出来ても、戻るなどどうすればよいのか分からなかった。彼女はこの体で生きていかなくてはならない。手元にはもう、愛読していた小説は無いのだ。内容を覚えているといっても、満遍なく原因と結果、全てを網羅しているわけではない。
例えるならば寝坊して目覚ましを止めながら起きた後、パンを口に挟み母にこけるわよー、と定番の台詞を背に受けながら走れば曲がり角のところで幼馴染と盛大にぶつかる、という大まかな話の流れを思い出せるに過ぎないのである。故に会話文を事細かに思い出せなどしはしない。大好きだった、何度も読み返していた場面ならいざ知らず、ぱらぱらと流し読みしていた部分など曖昧にもほどがあった。
何度も繰り返すが、もっと小説をしっかり読んでおくのだった。と後悔しても遅い。
彼女はサーラレリットに心寄せる。
なぜ悪役としてあらねばならなかったのか。物語を文字で書き起こした作者が何を思ってその役割を当てたのか。
悪役のパタンとして多いのは、当て馬であろう。
主人公と比べるための対象として、である。そして実社会でも居る、鼻持ちなら無い高飛車な人物として、これが普通だろう、おかしいだろうと思われる思考に対し対比するための尺度だ。
だがサーラレリットの、ヒロインへ向ける制裁は狂気じみていた。なぜならば気力も体力も充実した大人が、生まれたての赤子へと拳を振りかざすのと変わりなかったからである。
はっきり言って、貴族である彼女が一般市民へ行なう行為ではない。上流社会に生きるものたちの言と意志と行動に市民出の彼女が敵うわけが無いのだ。しかも周囲がそれを止めていたか、と振り返ろうとしても思い出せなかった。流し読みしていたツケのようだ。
冷や汗が背に流れる。首筋にいたってはふつふつと湧き出る泉のごとく水泡が出来ていた。
都市に暮らす貴族と農村に暮らす市民の意識と日常は異なる。そしてとある現代常識を持つ己と中世ヨーロッパ---と言ってしまうととてつもなく広義になってしまうが、絶対王政が敷かれていた時代周辺---っぽい雰囲気を持つ今の常識を比べれば、まさしく天と地ほども在る差に愕然としてしまうだろう。サーラレリットが見ている情報など貴族社会のごく一部だろうが、彼女からすれば体験したことも無い雲の上の想像でしかなかったのだ。
深呼吸し、高ぶった精神に落ち着きをぶつけた。乱心し騒いだところで事態は好転などしないのである。
このルーンセント王国での立場を最初に認識したほうが手っ取り早いだろう。
サーラレリットの父は公爵であった。しかも現国王の兄である。
ルーンセントの王族には地脈を整える、大地の神から与えられた恩恵が血の中に脈々と繋い息づき繋がれてきた。
サーラレリットの父はその力が微弱過ぎたため、王位にはつけなかった人物である。だが弟である王と仲が険悪であるか、と言われればそうでもない、と返すことが出来た。なぜなら王の傍らで腹心として重用されているからだ。
ではなぜサーラレリットが悪役となってしまったのか。現状でははっきりと分からない、が彼女の本音である。
たぶん、これだな。と思える原因は、母の喪失であろうか。死んでは居ないのだから、喪失というには語弊があるかもしれない。しかし母であるひとは、サーラレリットを産んだ人は、全く娘に干渉してこないのである。
では父はどうであるかと思い返せば、存命しているものの屋敷に帰ってくることは稀であり、多くの日々を王城で寝泊りしているという。元々暮らしていた勝手知ったる我が家であった場所だ。居つくのも分からなくはない。ただ母は父の目が無いことを良いことに、なにやら好き放題、やりたい放題の放蕩を続けている。
娘の目には好きなことを好きなだけ出来る母は凄い、と映っていたようだが、これからはそうではない。
成熟した近代社会から来た精神が、中世っぽい世界にやってきたのだ。時代錯誤も良いところだろうが、折角持ち得る、価値ある意識なのだ。友好に活用するほうが良いだろう。
(まずは居住まいを正すことから始めましょうか)
サーラレリットはお姫様であった。語弊でもなんでもない。もし父が王の称号を継いでいたなら、城で暮らしていただろう。
人は育った環境によりその性格や資質、性質を変える。急に変わることなどありはしない、とよく言われるが、何気なしに手にした本を読み、共感すれば自身にとっても嫌だと思う部分を変えようとと決意することもある、だろう。
サーラレリットには人としてやってはならぬ事を、いさめてくれる人が居なかった。
それを不運だと思うのは、価値観の違いであろう。なぜならば彼女の生まれた立場とは、人の上に立って当たり前とする家であるからだ。貴族に爵位という階級がある時点で察せよ、である。王に近い貴族が平民問わず誰にでも気安く安易に話しかけては家の格にも差しさわりがあるし、話しかけられる平民も大いに困るだろう。
(高飛車にならないこと。世界は自分を中心に回っているのだと思わないこと)
彼女は思う。
サーラレリットとして思い返せばここの生活は蝶よ花よ、とすることなすことにすばらしいわ、さすがお嬢様でいらっしゃいますね、などと声かけされ続けていた。これは悪いことではない。人間は褒められると嬉しく、もっと頑張ろうとするからだ。ただ時には頭を打つことも必要であろう。やってはいけないこと、評価はされないがし続ければ何かしらの役になること。それを教えられずに物語のサーラレリットは、年齢を重ねたのだろう。
(もしかすれば、の世界なのかしら)
原因の無い始まりなど無い。
何かが無ければ始まらないのである。
彼女は、はっきり言ってサーラレリットが嫌いであった。どうしてここまで非情になれるのかと、作者に抗議したかったくらいだ。
読むのを辞めれば良かったのだろう。だがどうしても続きが気になった。主人公の頑張る姿に、己を投影していたのだと気付き苦笑する。
失敗し、挫けていた。何度やっても出来ない。
主人公は流行の乙女ゲームのような、ステータス依存のスーパーガールではなかった。
失敗しながら、失敗の中から学び、もう一度挑んでゆく。その姿に、その物語に出てくる多くが主人公を助けたいと願い、集っていくのだ。むろん反発もあった。しかしその反発も積み重なる努力に跡形も無く消し飛んでゆくのだ。
サーラレリットはそれを良しとしなかった。
努力は無駄なのだと、もって生まれた枠の中で生きなさいと主人公に詰め寄っていた。
主人公は特待生ではない。どちらかと言えば、落ちこぼれだ。
物の舞台となる学園に入学するテストを受ける、些少の代金も支払うことの出来ない孤児だ。
しかしやる気は半端なくあり、お金を貯めていつかは夜学に入りたいと願う庶民であった。
神の悪戯か、それとも門を守っていた衛兵のサボりか。物語でも語られていなかったが、なぜか入り込むことの出来た実技の試験会場において、万物を癒す七色の光を発現させたのだ。
その光はそれ一回きりであり、物語が進む章ごとにひとつずつ色を集めてゆく過程を経なければ、見られない最終形である。
しかしその光を発現させたことで主人公は学園へ入学することとなった。そして世界を巡る旅に出るのだ。
授業は主人公にとってちんぷんかんぷんの状態から始まる。それはそうだろう。孤児であった彼女には最低限の教育しか施されていなかったのだから。文字の読み書きすらも危うく、ひとり図書館にて夜の帳が下りるまで学び続けるのだ。
近頃の物語にありがちなチート、というものは主人公に存在しない。小さな努力の積み重ねが、後々に大爆発するだけである。
視線を変え、悪役側に移せばこの件がどう映るのか。
話の筋として、世界はゆっくりと坂道を転げ落ちる球の如く、滅亡へと近づいている設定であった。
世界中で飢饉が起こり、人々が次第に弱ってゆく。豊かな実りが取れる土地を巡って戦争も彼方此方で行われていた。
多少の争いは人間同士である。あってしかるべきであるが、行きすぎた行為は正されるべきである。
主人公はこの国の王が待ち望んでいた、救世主であったのだ。
サーラレリットの叔父は地脈を支え続けていた。その手伝い、微力ながら覚醒遺伝した能力を使い補助をしていたのが彼女である。
その七色の光は、サーラレリットが欲しくて仕方の無かったものだった。一色でも力を持てたならばあそこまで、卑屈にならなかったのかもしれない。
努力をしても手に入れられなかった。次第に打ち止めとなっていった力は、最盛期には王をも凌いだが、主人公ほどではない。
才能、というのだろう。
欲しくて仕方が無かったものを持つ人物に、嫉妬しまうのも、分かった。
彼女の力は自ら望んだこととはいえ、薬物によってもたらされていたものであった。自然に備わった力ではなかったのだ。
主人公は得るものはあっても、失くすものなどひとつも無かった。
だから次々といろいろな、良いことも悪いこともひっくるめて彼女にやってくる物事に対し、全力でぶつかっていけた。
きっとサーラレリットは脱しきれなかったのだ。生まれてきた場所からの恩恵の多さと大きさ故に捨てられず、自身が生んだ嫉妬に取り込まれてしまった。得るものより、失い物が多かったのだ。
(悔しかったのね)
---ならば、足掻きましょうか。きっと出来ると思うのよ。
同族嫌悪も重なったのかもしれない。しかし彼女がサーラレリットと重なることによって、回避出来る未来も作っていけるだろう。そう思った。
サーラレリットに宿った彼女もまた、努力を積み重ねることでしか物事を成せない人物であった。挫折を知っているのである。どんなに落とされたとしても、這い上がってくることも出来るだろう。
心の奥底に、もしかすればサーラレリットが眠っている可能性もある。サーラレリットを上書きした彼女であるが、少なくとも害なそうとはまったく思っていなかった。それよりも稀有な経験になるだろうこれからに、楽しみを見出し始めていた。
(それにね、すでに…物語とは違う、展開に…なっているわ)
人工の、薬に頼らずともサーラには緑の力が既に備わっていた。ひらひらと舞う蝶がその証だ。
未来は変わる。変えられるのだ。
数多の分岐を選ぶのは、自身であるのだから。
(出来…れば、避けたい、のは……)
彼女が学園を追放されると同時に、家は没落する。
父は幽閉され、母は狂い実家に引き取られ儚く散るのだ。そんな未来は回避するに限る。
それにサーラレリットの生家は、彼女が思う以上に裕福なのである。母によって湯水の如く散財されているが、父にそれとなく伝えても良いかもしれない。
没落しなければいいのだ。そうすれば、今まで指を加えて半値シールが張られるのを待っていた、月に一度の贅沢、高級和牛肉を毎日食べられるわけである。
現金だといわれても構わない。
そんなことを思いながら、彼女は、サーラレリットは瞼の重みに耐え切れず、ベッドへと横たわり眠りへと落ちて行く。聞いて欲しいと囁く声に応えられぬまま、深い真白に包まれた。
△▽△▽△▽△▽△▽△▽
(……あー、うん、これはないわー)
現実とはかくもむなしいものである。上手く進むほうが少ない、とはよく言ったものだ。
広く豪奢な屋敷にひとり。
頂に座らされているのは、齢8歳の少女であった。
心の中を探しても自身以外見つからない。絶えず身の回りに漂う緑の使者も、サーラをサーラとして認識しているらしく、私の前に居た私はどうしたのかと尋ねても無言しかかえって来なかった。
彼女は腹を括る。女は最終的に度胸なのだ。
広い屋敷に子供がひとり、両親は無く残された子供の心はすさむ。
いくら貴族社会とはいえ気心が知れた乳母や執事が居てもいいはずだが、サーラの周りにはとんと、存在していない。
周囲には表情を笑顔から変えない使用人たちだけが居り、有意義な話し相手など全く存在しなかった。
サーラはにこにことした仮面を被る彼女たちに向かい、日々を語っていたのだろう。言い返すことなく、ただにこやかに聞いてくれる周囲だ。天狗になるなというほうが難しかったに違いない。
父は多忙であった。故に屋敷に戻ってくるのは月に一度あるかないか。そして母もそんな父の忙しさを知ってか、家にほとんど在してはいなかった。
出される食、その素材は良いものであったが、量は少なく育ち盛りの体には少ないくらいである。サーラレリットはモデルのような良い形の体を持っていた。故にもしかして本人が、体型維持のために食べる量を抑えていたのかと思い、こっそりとせずとも入れた厨房を覗き見れば、料理人たちが好き好きに自分達の作ったものを使用人たちと共に食していたのである。実質、出されていたのはその残り、であった。
この屋敷の行儀見習いは天国であるのだとも言う。なぜならば『お可哀想なお嬢様』に代わり優秀な教師の教えを受けられるから、である。また、『お可哀想なお嬢様』に代わりその生活を代行することも可能である、と。
もしこの屋敷の全体像を第三者的に見ることが出来たならば、横たわるサーラレリットの上に立ち成り代わって教育を受けている、という風にも見えるに違いない。
屋敷全体を見ればどことなしか薄汚れているようにも映ったのも偽りではなかった。掃除はされているが、毎日ではない。
出される給金が幾らであるのか、サーラレリットには分からない。が、それを任されているはずの上級使用人が多くを着服していたのを知ってからは、どうしたものかと考えるようになっていた。
言うなれば砂の城であるのだ。
父の立場は危うく、母もそれを直視するのが恐ろしいのかあらぬ方向ばかりを向く。
国王である叔父に傾倒したわけはこのあたりにあるのだと、薄々ながらに感じ取り始めていた。
サーラレリットは子供の振りを、現状を把握してからも続けている。急に大人びた態度を取り、警戒されたくなかったからだ。
とはいえ熟した、とはいえないがある程度の人生経験を積んだ心と記憶がある現在のサーラがいつまで使用人たちをごまかしていけるのか、が問題になりつつあったのだ。
サーラは王の姪である。故に毎日ではないものの今までは頻繁に、国王が住まう城に登っていた。登城するにはある程度の身分が必要となる。
王城での出来事はランベルグ家で行儀見習いとして入っている令嬢たちにとって、喉から手が出るほど欲する情報でもあったのだ。王系の血筋を引いているサーラレリットは誰からも邪険にはされない。どんな場所へも入り込める。ただで手に入れられる情報源としては美味しすぎるのであった。
ただ、おしゃべり大好きであったサーラレリットが口を噤むようになり、使用人たちは大いに焦った。垂れ流されていた情報を聞き出そうと言葉巧みに誘導してくるがしかし。
舐めるな。
と、ここぞとばかりにここ数年で培ってきた高飛車な態度で追い払い続けていた、のが良くなかったのだろう。
サーラとして意識を覚醒してから、はっきりいって胃が痛かった。当主とその婦人が留守であることを言い訳に、風紀がすっかりと乱れているのを、見て見ぬ振りをしなければならなかった。日本人という生真面目な民族であったのも災いしたのだろう。規則正しい生活をしてきた身としては、非情に居心地が悪かった。
習い事も『本日はお嬢様のお加減がよろしゅうございますので』と振り分けられた数少ない最低限の行儀作法と礼節だけだ。これで終わりなのかとサーラの方から尋ねるほど短い。体感としては30分あるか無いか、であった。その後を引き継ぐのは、行儀見習いの誰かである。先生が帰られた後、お嬢様にお伝えする、という大役のためだ。
今までがそうであったのだ。まだ出来るからと言い出すのもはばかられた。そもそも子供の集中力など30分ほどで切れるものだ。息切れをするまで、30分もいらない。
(学校って凄いわ。個人の集中力と忍耐力を鍛える場としては、一級よね)
と思わず拍手を送りたくなる。
しかしその礼儀作法も十日に一度となったときは、この使用人たちは一体何を考えているのかと声に出してしまった。主人は彼女の父であり、留守にしているとはいえ、本来ならばサーラを立てねばならないはずである。だがサーラの言は全て冷笑とともに流されていた。なんともいえぬ悔しさと言葉の通じぬ使用人達に愕然としたが、それをひっくり返せる手段が分からなかったのだ。子供のわがままとして、懇願は聞き流され。部屋に閉じ込められる事態と発展する。
唯一の救いとして、サーラの肉体は、その数回の練習でどこを歩いてもさぞ名のある家の令嬢であろう、と言われるほどの体捌きを習得したことだろうか。
おかしいことが、おかしいままに進んでゆく。
「……おなか空いたな」
最近はこの屋敷の使用人にも忘れられてきたらしい。
今日など朝食にバターが薄く塗られたパンと野菜だけしか口にしていない。良く噛み飲み込んだが、空腹は増すばかりだ。
使用人に反抗してから、目に見えて食べものが減っているようにも感じていた。
わがまま放題で傲慢なサーラであれば量を元に戻してくれるのであろうか。
(それは、ないだろうなぁ)
さすがに子供ではこれを見抜くのは難しい。
見抜けるほうがおかしいだろう。10歳にも満たない少年少女があれこれと物事を指示するなど、末恐ろしくてかなわない。人間は自身が理解できるものしか認識できないからだ。
なのでサーラは考えに考えた末、緑の使者を使い父に接触することにした。
使用人を使えば手紙の内容を見られる可能性もある。従兄弟であるジル様の所にやっかいになるのも、人の目が在る。
しかもべったりと、私はあなたのことが好きなのよ。分かりなさい。あなたと私は許婚なの。ゆくゆくはケッコンするのだから、私の言うことをよく聞きなさい。
などと色々なことを強要し続け、やもすれば嫌われている域に達している可能性もある。そんな相手に助けて欲しいと手紙を書いたところで、中身を見られず捨てられるのがオチである。
もし許されるならば、時間が取れ次第、挨拶には行かねばならないだろう。
(お父様に手紙、届いていますように)
サーラは昨夜、月光の下で手紙を書いたのだ。使用人たちが使っていた筆ペンやインク、紙をこっそりと蝶たちに持ち出してもらい、部屋に隠してようやく事に及んだ。
彼女の部屋は広い。広いが手入れが行き届いているとは言えなかった。ベットメイクだけはきっちりとされていたが、窓枠にはほこりがつもり、指先でツー、と拭き、悪女の如く見せ付けてやる場面だと何度思った事か。
緑の使者は端末だ。片言しか言葉を話せない。
この世界には七色の力がある。
それぞれ色にちなんだ力を有しており、全ての色が順に巡って世界を織り成している。
ちなみにサーラレリットが持つ緑は、植物育成系だ。
水があり、木が生える条件が整っていれば、サーラが在する場所には緑豊かな森が数年で形成されるのである。
この屋敷の周囲にも豊かな緑がある。
小さくはあるがふたつある庭園にも影響がそろそろ出始める頃だろう。
緑の使者曰く、サーラの側は心地が良いらしい。なので通常より強く力を発しているような事を舞いながら楽しそうに言っていた。
サーラは待った。
朝食が砂糖ひとつと水、そして夜がパン一枚になるまで待ち続けた。
気力と体力を支えたのは緑の使者がもたらす、森の密だ。庭の花や森から集められた甘味を凝縮した滴を毎日貰えなければベッドの中から動けなくなっていただろう。
手紙は確かに父の元へ届けられている。
緑の使者が確かに、その窓際に置いてきたと繰り返すからだ。この蝶たちが嘘をつくとは思えない。
ならばなぜ、父がこの屋敷に戻ってこないのか。
(想像するのも疲れてきたわ)
サーラは窓際で今日の密を得てからふと、部屋と廊下を隔てるドアを見る。
サーラレリットの護衛と称し、二人の使用人が椅子に座し部屋の主を監視していた。
母が帰ってくるのはいつか。
父に連絡が付くのはいつだろうか。
小説にはこのような、サーラレリットの幼少など描かれてはいなかった。
もしかすれば、本に入りきらなかったという郵送されてくる冊子にあるのかもしれない。
だが現実、今この現実にその小説は無い。夢の向こう側にある、かつて己であった記憶にだけ残っている。
サーラは待った。
ただの子供であれば、この現状を受け入れ死の淵に立たねばならぬだろう。
父と母が居り、少人数の大人たちにちやほやとされ家という名の小さな世界に生きるのが子供だ。
しかしサーラは、この状態を打破できる手段を持っている。使えばどうなるか、わからない。ひとつだけ確かであるのは、今よりはきっと良いだろう、ということである。
(脱出、しよう)
サーラは決断する。
空は晴れ渡り、月がふたつ綺麗に見えていた。夜の散歩にうってつけである。
待つ間、サーラが何も行わなかったわけが無い。
緑の使者だけがサーラの周囲に居た、のではないからだ。全色とはいかないが、蝶の種類は日に日に増えていった。
物理で殴りあうなどしてはいない。すれば使用人たちに訝られてしまう。
サーラが日々鍛錬したのは、蝶たちとの意思疎通だ。蝶はこの世界を織り成す七色の力の末端である。辿り、元にたどり着けば世界の根幹として在る7つの柱に行き着くのだ。
なぜ蝶という末端が世界に溢れているのか。それは柱がこの世界に具現化できるほど、世界が強くないからだ。もし現れたとしたならば、巨大な足が現れ腐った床を踏み抜くが如く大地を割るだろう。だから軽い蝶が世界に満ちているのだ。蝶の特性としては数が多く世界のありとあらゆる、いたる場所でも目にすることが出来た。
木々が青々と茂り、森を形成しているならばその場には緑と橙の蝶が舞っているだろう。サーラ自身は見たことはないが、海には青の蝶が群れをつくり、水色と混ざりながら空を巡っていると聞いている。
赤は炎の側に居た。火が絶えず灯されている暖炉ではこの蝶を見ることが出来るだろう。
(……頃合ね)
とサーラは双眸を伏せる。
自身は人間だ。羽ばたかせば飛べる鳥のような翼など持ってはいない。鳥のように空を自由に飛びまわる翼を持たず、大地を俊敏に走る獣のように強靭な肉体などない。
能力とて物語のなかの人であった時よりかはあれど、主人公を上回るほどの力を望むのは無茶である。
だが末端とはいえ蝶が、こんなにも集まっているのだ。かなりの力場になっていると予想できる。もし蝶を見ることが出来る者が居たならば。この屋敷の、異様な濃さを感知出来ただろう。
窓をゆっくり開け放ち、枠に乗る。空には雲ひとつ無く、絶好の脱走日和だ。
ドアの向こう側で『お嬢様』を見張る者たちも音を艤装した蝶たちには敵わなかったようである。
とん、とサーラはその身を投げた。瞬間、ふわりとその身が持ち上がる。
驚きと楽しさで思わず黄色い声を上げそうになったのを飲み込みながら、蝶たちが導く方向へと舞い往く。
同時刻。
ルーセント王国、その城の広間では驚愕の声が満ちていた。
春から初夏にかけて王国に所属する貴族たちが首都に集い、滞在し社交を行なうのだ。
今日という日、この王城の広間に集ったものたちは選ばれたものであった。高位の階級のみが出席でき、またその爵位に無くともこの場に参賀出来れば出世間違いなしとひそやかれる特別な晩餐会である。
そこにこの世界を支える七柱のひとつである、緑を司る存在が薄く降臨したのだ。遠くからこの城を見れば、薄緑色に輝いているだろう。
緑は豊穣をもたらす。しかも司るものが降り立つなど、前例のない話であった。遠く、遠く忘れぬようにと先人が書き記した書物の中だけにある奇跡ですらある。
もしや緑の祝福を持つ存在が生まれた、もしくは生まれるのかと喜びの声を高くする。
王が司るものに礼を尽くしながら近づけば、緑がふわりと笑みを濃くする。
新緑の、澄んだ香りが各々を包む。
『愛し子は確かに貰い受けた』
たった一言であった。
王の目が見開かれる。
「今、なんと」
授ける、ではなかった。
貰い受けると、司るものは云ったのだ。
緑を司るものがその姿を薄ませてゆく。
朝もやが太陽の光により消えてゆくように、緑もまた最初からその場に無かったかのごとく消え失せた。