「わたしは、じょうずに笑ている。」
時間と言うのは目まぐるしく過ぎ、心が停滞することを揺るさない。
目まぐるしく過ぎる季節にせかされるようにして歩いた。
しかし予感していた恐怖は訪れることはなく、わたしは異国の地で静かに人生の節目を迎えた。
わたしは二十四歳になった。
そして今日、わたしは六年ぶりに生国に帰る。
(__湿っぽい、)
体に纏わりつく日本独特の空気。この国にいる時はまるで気にならなかったが…こうしていると、日本におけるわたしの時間が空白であることがわかる。長い、真っ白な時間。しかしそれは、異国の地で鮮やかに色づいた。___もう、生きることは恐くない。
(考えれば当たり前のこと、…未来はだれにも見えないし、わからない。そうして不安になりながらも選んでゆくんだ。わたしは…その不安を感じなかった。生きることにズルをしたんだ。だからこれは、その罰だったのね)
空港からタクシーに乗り、過ぎる景色をぼんやりと見つめた。六年も経つと、良くも悪くも世界は変わる。町並みにわたしが覚えている面影と同じものは少なく、町を行く人もまた覚えのない雰囲気を纏っている。世界とは人の集合体だ、世界が変わる事は人が変わるという事。わたしがそうであるように、またこの町も大きな“変革”を迎えたらしい。
(そういえば、結局“彼”は誰とむすばれたのかな…)
在学中、わたしは“彼”をみつけることはできなかった。
沢山の男の子に求められる男の子、わたしが死ぬ原因となるはずだった子。帯人と一緒にいれば、いずれは出会うこともあると思っていた子はしかし一度としてわたしの前に現れることはなかった。わたしの“知識”には、彼の名前も容姿に関する情報もない。だが、会えば“解る”と思っていた。
(三年も同じ学びやにいて会わなかったのだから、相当縁がないのね。まあ…そのほうが、わたしとしては嬉しいけれど)
火のないところに煙はたたない。…余計な火の粉は、避けるに限る。
(一先ず…母さんに会って、仕事先に挨拶しにいかないと)
わたしが就職先に日本を選んだ理由に、さした大事はない。
なんとなくと言えば聞こえは悪いが、つまるところそこなのだ。人間として生まれたからには、生まれた場所で死ぬことへの渇望は捨てきれない。まあ死より生を求める願望のほうが強いが…そういう渇求もまた、確かに在るのだ。
「お客さん、旅の帰りですか?」
「…そんなところです」
「良い日に来ましたね、ほら今日からクリスマスシーズンですよ」
人が良い笑みを浮かべる運転手に促され外を見る。すると、丁度見晴らしの良い大通りに差し掛かる頃だった。時間にして、約15秒ほど。キラキラと輝くオーナメント、雪やトナカイを模したアートの数々がわたしの目の前に飛び込んできた。
(そうか___もうすぐ、)
_____クリスマス・イヴだ。
がちゃりと、扉が開く。そこから現れた人は、感極まった様子でわたしを抱きしめた。
「おかえりなさい、紗重っ」
「うん…ただいま、お母さん」
四年ぶりに抱きしめた母は、少しやつれたように思う。そっとたおやかな背を撫でると、万力のような力で抱きしめていた母がいきなり弾かれたように起き上がった。その顔は、まるでテリトリーを警戒する動物の様で、異様な雰囲気にわたしは眉をしかめた。
「母さん、どうしたの?」
「…いえ、いいえ。なんでもない、さあ早く中へ。ほら、紗重はやく」
引きずられるようにして中に入ると、母は錠を下ろし漸く安堵したように息をついた。その様子にわたしの中の疑惑は確かな色を持ち始める。表情を固くするわたしに、母は疲れた顔で精一杯笑った。そしてわたしを家の奥へと招いた。
「ねえ、いつ…町に戻ったの?」
出されたミルクティーで掌を暖めると、沢山シュガーがまぶされたラスクをテーブルにおいた母が話し始めた。
「今年の夏よ、田舎で働いていたのだけど…この町の支社が人不足で困っているみたいでね。上司直々にお願い出されたの、だから断れなくてね」
「そう…でもそれって母さんが優秀だからってことだよね。娘として誇らしいよ、」
素直な感想だった。思わず零れた笑みに、母もまた嬉しそうに笑った。
「画面越しじゃわからないものね…。紗重、こんなに大きくなって」
母の手が頬を撫でる。
「それにまた、笑えるように。…やっぱり紗重は笑ってたほうがいいわ。とっても可愛いもの、」
「それは褒めすぎ」
「自分の娘だもの。褒めすぎということはないでしょう。ああもっと見せて、」
「笑えって? 言われてできるものじゃないよ、」
「…そうよね、笑顔は自然とこぼれるものだもの。とても尊いものだわ。それを、それをあの男は___」
「…母さん?」
言葉の端に見えた不穏な色に、思わず静止をよびかけてしまう。
母はハッとしたように息をつめると、慌てて被りを振って見せた。
「いえ、いえ。なんでもないわ、気にしないで、」
「…できないよ。ねえ、あの男って、」
「やめて紗重、もうあなたが気にかける必要なんてないの」
「帯人に会ったの?」
男の名前に、母はとうとう観念したように零した。
「…二度ね。一度は、あなたが留学してすぐよ。留学先を…でなければ、連絡先を教えろって、…」
「…教えたの?」
「まさか!なんのためにあなたを“逃がした”と思ってるの!」
感情が高ぶったのか、母の拳が机を叩いた。その衝撃でミルクティーが零れる。慌てて謝る母を制して、わたしは適当に抜いたティッシュで机を拭いた。
「…でも、あんまりにしつこいから…これ以上いうのなら、警察を呼ぶと脅したわ。正直利くとは思ってなかったけど、その後直に引いてくれて…。それからはわたしも直に田舎に越したから、」
「…そう、」
じんわりとティッシュに茶色い染みが広がる。
「それからは何事もなかったから、油断してたの。先週…買い物をしてたら、すれ違って…」
「また詰め寄られた?」
「いいえ。六年も経つんですもの、彼もわたしのことはわからなかったみたい。…でもわたしは解ったわ。まったく雰囲気が変わらないんですもの、…忌々しい限りよ、」
ぎりと拳を握る母に、わたしはなにもいえなかった。
母にとって帯人は、どこまでも愛おしい娘を苛むガンなのだ。母の穏やかな人生に、そんなしこりを残してしまったことを悲しくおもう。これもまた、わたしの残した癒えない傷跡、なのだと罪を見ているようだ。
「…母さん、あまり帯人を嫌わないであげて」
「! あなたまだそんなこと、」
「わたしは帯人に頼ってた。彼のおかげで、わたしは“生きて”いられた。迷惑をかけたのはわたしの方なんだよ」
「だから、その生きていられたってなに!あなた、なにをされたの!」
「なにも。でもそれは、帯人がいてくれたから無事で居られた。わたしは母さんの娘として、生きていれる。それはなににも代えられないことよ、」
収まりきらない憎悪が、母の中で煮えくり返っているのがわかった。今すぐに怨むのをやめてというのは酷な話なのだろう。でも少し、これから少しずつその蟠りが解けていけばよいと思う。
「愛してるわ、母さん。こうしてまた会えて、本当によかった」
「……なにを、いまさら」
母は皺くちゃの手でわたしの手を包んだ。そうして祈るように額にあわせる姿は、まるで神に感謝を示すようだ。いやまさしくそうなのだろう、わたしは神さまの“気まぐれ”で生き残ることができた。わたしの惨めな悪あがきを、神が認めてくれたのだ。
(…帯人、)
脳裏に、いつも針の筵のような空気を纏っていた人がちらついた。
…彼にも謝らなければ、償わなくてはならない。それを彼が望んでいるか否かに関わらず、…。やるべきことは、多い。